2017年9月25日月曜日

金木犀の香る季節になった 自宅近くの金木犀 2017-09-25

9月25日、はれ。
金木犀の香る季節になった。
トイレの芳香剤と悪口を言われたりするが、それは金木犀に気の毒というものだ。
自宅の近くに金木犀の並木があって、花をつけ始めている。

〈鳶色の瞳に誘惑のかげり 金木犀の咲く道を〉 
で始まるアリスの歌のこの一節をいつも思い出す。




【この解散は「国難突破解散」である → は?】 「安倍自身が国難だろ」など突っ込み多数 「#お前が国難」ができた / どう割り引いても「解散の理由」には当たらない









 (略)

そもそも安倍首相は、9月12日の日経新聞の単独インタビューで、解散について「まったく考えていない」と答えていた。

ただ、9月10日の麻生太郎副総理との会談で進言を受け、解散を決めたとの報道もある。今後の政治日程や支持率、さらには離党者が相次いだ民進党など野党の態勢を見ての判断、ということだ。

一方、臨時国会冒頭の解散には、7月の内閣支持率急落に繋がった各種疑惑の追及を避けるため、との見方もある。

いずれにしても、なぜ「まったく考えていない」はずだった解散が突如として浮上し、「国難突破解散」という名前になったのか。なぜ、任期があと1年残る今なのか。「国難」を迎えているのなら、本当に解散総選挙があって良いのか。

衆議院の総選挙には、約600億円の税金がかかるという。根本的な疑問に対する答えがないまま、総選挙が始まる。





【安倍晋三の支離滅裂「北朝鮮の脅しに左右されてはならない」】 「北朝鮮の脅かしによって民主主義が左右されてはいけない。むしろこういう時にこそ選挙を行うことによって北朝鮮問題の対応を国民の皆様に問いたい」 (は?)

神保さん「あれを会見と呼んじゃいけない。会見はやってないんですよ。あの程度の質問しか出ないのはあり得ないじゃないですか。加計学園問題の丁寧な説明とか解散しなくてもできるじゃないか、と誰も聞かない」

報ステ 加計疑惑: 獣医学部新設申請を知ったのは1月20日に間違いないか?  安倍「これは、総理大臣として述べたことでありますから1月20日ということになります」(なんで?)  最後に加計理事長と会ったのは?  安倍「それはちょっと、覚えてない」(は?)


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トランプ発言に全米のNFL選手が抗議、国歌斉唱に起立せず(CNN) / NFLの試合前の国歌斉唱をしたリコ・ラベル。歌い切った後で片膝を着いて黒人差別に抗議する象徴となったポーズをとる。 / スティーヴィー・ワンダーも "Tonight, I'm taking a knee for America"                       




東京国立近代美術館 荻原守衛《女》《文覚》のある空間 2017-09-22

9月22日、東京国立近代美術館にて。
荻原守衛《女》《文覚》のある空間。
いつも必ず足を止める場所。

写真を許されているので、今回は、戸張孤雁《曇り》側から撮ってみた(2つ目)

作品一つ一つの鑑賞も楽しいが、展示空間から出てくる雰囲気もまた楽しい。



戸張孤雁《曇り》1917大正6年

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東京 国立近代美術館で荻原守衛のブロンズ『女』に遭遇した

荻原守衛(1879-1910) 「女」 「文覚」 「女の胴」 「坑夫」、 高村光太郎(1883-1956) 「手」 (国立近代美術館常設展示MOMATコレクション) 2016-05-12





大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その5) 10月8日 第1回軍法会議(午後の尋問) 甘粕が子供の殺害を否認する

大正12年(1923)
10月8日 第1回軍法会議
(午後1時15分、審理再開)

- 大杉を殺して野枝のいる部屋に行ったのはどれくらいしてからか。
「四、五十分くらい経ってからでした。私が部屋に入っていくと、野枝は子どもと何事か話していました。私は野枝に向かって、戒厳令を出すとは君らからすれば何と馬鹿なことをするのだろうと思うだろう、軍人の行動が馬鹿馬鹿しく見えるだろうと言いますと、野枝は、でも今日この頃では兵隊さんでなければならぬよう言うではありませんかと、机に頬杖をついて冷笑しながら答えました。
その態度がいかにも人を侮蔑したように見えましたので、私の殺意はここで一段と堅くなりました。私がつづけて、君らは今より一層混乱状態に陥るのを望んでいるのだろう、それを材料にして原稿を書けば、よく売れて結構だろうと申しますと、野枝は、すで二、三の本屋から注文がありました、とにかくあなたたちとはそもそも立場が違うのですからと、むしろ混乱がつづくことを望んでいるようなことを言いました。
これにはもう我慢ができず、子どもをちょっと隣室に連れて行って部屋に戻り、壁に近い椅子に腰かけていた野枝を、大杉とほとんど同様の方法で殺しました。大杉のときより多少骨は折れましたが、やはり十分くらいで絶命しました。野枝は二、三回ウーウーうめき声を発し、私の手をひっかいたように記憶しています」

- 野枝の活動に対する被告の考えはどうだったのか。
「別に深くは考えていませんでしたが、注意すべきだとは思っておりました。すでに検察官に述べた通り、野枝は震災当時、爆弾を所持し、大杉と共に活動する計画だと聞きました。といっても、それ以上の具休的なことについては調べませんでした」

- 野枝を殺害しようとは考えていなかったのか。
「殺害しようとは考えていませんでした。同行したときもまだ決めていませんでした。ただ一緒に来たらもっけの幸いだとは思いました」

- 幸いとは殺すのに幸いということか。
「場合によってはやってもいいと思っていました」

- 場合というのは、簡単に出来ればという意味か。
「単に簡単にできるという意味ではなく、いろいろな意味を含んでいます。野枝が大杉に共鳴した社会主義者であることは承知していますが、連れてくるまでは付和雷同的な女くらいの認識しかありませんでした。しかし、外国の歴史を見ましても、女が導火線になって革命を起こした例はたくさんあります。
大杉を殺害して野枝をそのまま放っておくと、さらに乱暴になりはしまいか。そうだとすれば、むしろ殺した方がよいのではないかと考えました。そして、大杉を殺してから野枝といろいろ話しているうちに殺害の決心を固めたのです」

ー 野枝を殺害するとき、子どもはどうしていた。
「隣室で騒いでいましたが、その部屋に入って無意識に殺しました。その方法は記憶していません。たぶん大杉と野枝をヤッツケたのと同じ方法でやったと思います」
それまで堂々として雄弁だった甘粕は、この質問には伏目がちとなり、声も小さく途切れがちになった。甘粕はひたすら「無意識でやりました」で押し通そうとした。

小川判士はこう質問した。
ー その後分隊に帰って事務をとったということだが、無意識で子どもを殺した者が落ち着いて事務などとれるのか
3人を1時間足らずのうちに殺害し、その後、自分の部屋でふだん通り仕事をしたという甘粕の供述は不自然)

■続いて、共犯とされた森への尋問
森は、憲兵としての経歴から、社会主義に対する感想や、震災後特別高等課長兼務となった甘粕の命令で大杉らの言動に関する調査を行った経過を述べた。甘粕が震災後特別高等課長兼務となったというのは、森のこの供述が始めて(真偽は不明)。森は東京憲兵隊本部特別高等課係員。

大杉殺害計画について甘粕から聞かされていたかという質問
「具体的ではありませんでしたが、大尉殿からこの際、大杉をヤッツケようとは申されました」

大杉らを連行するまでの経過をは甘粕の供述と大同小異。
「隊では私が子どもの手を引き、大杉夫妻はその後に従いました。裏手からわからぬように入ったので、私たちが帰ったことは他の同僚は知らないようでした。私は特別高等室から茶を持ってきて大杉らに与え、夕食も与えましたが、夫妻は既に済んだといって手をつけず、子どもだけ食べました。
大杉は持参の梨をむいて食べたようでしたが、私は梨をむく小刀をとりに司令部の廊下に出たとき、大尉殿は私に何かの暗示を与えたようでした。大杉のいる部屋に戻って、大杉に対し、隊長殿が取り調べるがそれでよいかと聞くと、よろしいとの返事でした。大尉殿も大杉を取り調べるため、応接室に入れたと思ったからです。まさか、その部屋ですぐ殺すとは思っていませんでした」

- 予審詞書を見ると、両人打ち合わせた上で殺害に及んだようだが。
森は言下に否定。
「打ち合わせてヤッツケると決めたわけではありません。場合によったらやるかもしれぬと想像していただけです。ですから大尉殿が絞殺するときも、ボンヤリそばで見ていたくらいです。大尉殿は先ほど、大杉のもがく足を押さえたかのように申されましたが、私にはそうした記憶がありません。ただ、大尉殿が誰か見ていないかと言われたようでありましたから、廊下に出てあたりの様子は見ました。
それから部屋に戻ると、大尉殿は大杉の首に既に縄を巻いておられました。私がもう生き返りませんかと聞きますと、もう舌をだしているから大丈夫だろうと申されました。大杉はそのときロから血を吐いていました」
(山根倬三は、森の陳述を開く甘粕の顔に苦笑が浮かんだ、と書く。甘粕は自分一人で罪をかぶる覚悟をしていたが、森からそこまで言われるとは思っていなかったのか)。

判士は甘粕に森の陳述との矛盾を質問。
- 森の陳述は被告が申し立てたことと少し異なった点があるようだ。森は大杉のもがく足などは押さえていないといっているが、どちらが本当か。
「私は足を押さえよと申しましたが、森が押さえなかったというなら、或いは押さえなかったのかも知れません

甘粕の官選弁護人、塚崎直義の質問
- 被告が祖先について知っているだけのことを申し述べてもらいたい
「私の祖先は新田義貞から出たものであります。かの川中島の戦いのとき、上杉謙信の部下として戦場に武名をあげた甘粕近江守はその末裔にあたり、歴史上に現れたのはこのときからであります」

- 被告人は日頃からたいへん子どもを愛しているようですが、それはなにゆえですか。
「私は子どもを持った経験はありませんが、性来無邪気な者を愛します。従って子どももよくなついてくれます。それは悪を憎む反動として、邪気なき子どもが自然と好きになったのだと思います」

(弁護人は、誇り高き家名を汚すまいとしてきた甘粕の心情に訴えて、宗一殺しを否定させようとしていた。
塚崎が語るこの質問の狙い。
「甘粕大尉のような柔和仁慈の者が、あの可憐無邪気な少年をすげなく殺害するわけがない。もし大尉が本当に殺害したとなれば、大尉は人道の敵であり、また武士道の賊である。わが国の武士は古来このような惨酷なことをしたことがない。わが国三千年来燦爛と輝いてきた武士道の名誉のため、また日本全陸軍将校の名誉のため、天皇の名で裁かれる法廷で虚偽の証言をするはずはない」)

- 子どもに菓子を与えたとのことだが、それはどんな菓子だったのか。
「隊にあったものを私が食べずに置いてあったものです。かわいそうですから、それを与えました」

ー 誰か子どもを引き取って養育する者はいないかと聞いたことがありますか。
「そう言った事実はあります」

- かくも子どもを愛する被告が、わずか七歳になったばかりの子どもを殺害するとは、いかなる理由か。部下を庇っているのではないか。裁判は陛下の名に於いて行うものであって、神聖でなければなりません。しかも私はあなたの母上から頼まれました。あの子に限って子どもを殺すはずはない。このことだけは絶対に事実を述べるようあなたから伝えてくださいと、涙を流しての切なる御依頼です。

(傍聴席はどよめく。
甘粕はうなだれ、ロを閉ざし、目から涙があふれだした。甘粕はそれをハンカチで拭きとり、弱々しい声で答えた。)
「度々申しあげた通り、私が子どもを殺したのは事実であります。そして無意識でありました」

- 憲兵大尉という高等官にあるものが、罪なき子どもを殺害したとあっては、あなた自身の不名誉であるばかりか、帝国陸軍将校全体の名誉にかかわりますぞ。
(甘粕は佇立したまま答えなかった。弁護人は10分間の休憩を申し出た)

(再開された法廷)
- 何とか考えはついたか。
「私はすでに母を捨てております。自分一己の栄達など念頭にもかけておりません。しかし先ほどからの陛下の御名をもってされては、嘘を申しあげることはできません。大杉栄、伊藤野枝の両人を殺したのは、考えがあったからです。今は申しあげます」

(甘粕はすすり泣いて声をしぼりだした)

「部下の者に罪を負わせるのは忍びませんので、ただいままで偽りを申し立てておりました。実際は私は子どもは殺さんのであります。菰包みになったのを見て、はじめてそれを知ったのであります

(「死因鑑定書」が発見された現在、甘粕は3人の死体が菰包みになったのを見てはじめて殺害の事実を知った可能性も否定できない。)

- 然らば誰が殺したか。
「私は存じません」

- 知らぬはずはない。
「私は存じません。誰がやったか本当に知らんのであります」

判士は、森に起立を命じた。
- お前は知らんのか。
「私もまったく存じません。大尉殿に気の毒でありますが、誰が殺したのか存じないのであります」
(森のこの証言をもって、第1回軍法会議は混迷のうちに閉幕)

この公判を傍聴していた東京憲兵隊上等兵の鴨志田安五郎と本多重雄、同隊伍長の平井利一の3人が、第1回軍法会議終了後、宗一殺害に関与したとして自首するいう異常事態となった。


つづく




小池晃さん「国民にとっての希望というよりは、議員になり続けたい人にとっての希望の党。安倍政権の補完勢力ということに変わりはない」 Nスタ  ← 「勝ち馬探し」のための「希望」(つまり「自分ファースト」か)      


























長すぎる国会夏休みと「宿題未提出」解散(保坂展人)

【「首相の首相による首相のための解散」(宇野重規)】 もはや「党利党略」ですらない。なぜなら解散によって自民党が現有議席を維持できる可能性は低いからだ。モリカケ疑惑によりアベ自身が立ち往生するのを避けるための「アベによるアベのための解散」だ。 / 安倍首相によると勝敗ラインは与党で過半数。自民党で過半数!ではないんですよ。今与党で3分の2以上あるのに。保身のためにノルマを低く設定する自分への甘さが「保身解散」であることを物語っている




2017年9月24日日曜日

東京国立近代美術館 藤田嗣治《武漢進撃》をじっくり鑑賞した 2017-09-22 / (年表)昭和13年10月27日 日本軍の武漢三鎮占領 ~ 10月30日 蒋介石「全国官民に告ぐるの書」

9月22日、東京国立近代美術館。
藤田嗣治《武漢進撃》1938-40

藤田の戦争画といえば、アッツ島、サイパン島、ハルハ河の大作を連想するが、この武漢進撃はそれらの大作に比べると素っ気ない印象を持っていた。いつも大概は素通りだった。

今回、時間に余裕があったのでじっくり鑑賞させてもらったが、ぱっと見では判別できないけれど、なかなか細かいところまできっちり描かれていることがわかった。

▼よほどじっくり見ないと、揚子江対岸の建物の様子などは識別できない。
(実際にはしっかり描かれている)

▼船の配置が示されている

▼絵の中央部分。
左がヤエヤマ、右(中央)がクリ

▼クリの更に奥の戦艦、対岸の景色までもしっかり描かれている。



▼ヤエヤマの船上

【黙翁年表より】
昭和13年
10月27日
・日本軍、武漢三鎮占領。26日、漢口・武昌、27日、漢陽。
既に日本陸軍は中国戦線に23個師団(70万人)投入。日中戦争は本格的対峙の段階に入る。

漢口攻略参加日本軍30万超、戦死9500・戦傷2万6千損失。
作戦終了時の日本の兵力配置は、中国に24個師団(華北8、華中13、華南3)、満州8、朝鮮1、内地は近衛師団のみ、台湾は軍司令部があるのみで、手持の動員可能師団は皆無。
前年(昭和12年)7月、盧溝橋で戦闘が始まった時、石原参本第1部長は陸軍省に対し、「現在の動員可能師団は三十個師で、そのうち十五個師しか支部方面にあてられないから到底全面戦争は出来ない。然るにこのままでは全面戦争化の危険が大である。その結果は恰もスペイン戦争におけるナポレオン動揺、底なし沼にはまることになる」と訴えたが、事態はまさにその通り、「重慶軍はどんどん奥地へ引き揚げて日本は手のつけようがなくなってしまった」。
対ソ軍事バランスも大きく崩れ、13年末の在極東ソ連軍24個師団に対し、在満鮮日本軍は10個師団。日本にとって安心材料は、張鼓峯で「ソ連が立たないことを確かめる」ことが出来たこと。

漢口への道は苦難の道。
至るところ破壊された悪路を行く第2軍の補給が第1の問題。食糧は、最初から現地徴発の計画で、作戦が秋期に組まれたのは、現地で穀物が実っている収穫期を狙う意味があったという。次に、第2軍には大別山系、南西の第11軍方面には廬山山系があり、南山系が漢口前面の自然の防壁となっている。中国側はこの山中を要塞化して日本軍を迎えうち、日本軍は大きな損害を出す。
10月26日、揚子江北岸の第6師団が漢ロに突入、占領するが、第2軍はまだ大別山系を抜けられなく、漢ロに入った第2軍兵士は、補給のよい第11軍兵士よりみすぼらしい恰好であったという。
大本営はこの作戦で、徐州で逃げられた中国軍主力の撃滅を期したが、その目的は達せられず。
しかし、漢ロを失い、広東を占領され香港への道を塞がれた事は、四川省重慶に移った国民政府にとって、軍事約・経済的な大きな痛手であり、その上に政治的打撃を加えれば国民政府を倒せるであろうというのが、日本側の思惑。

武漢まで進撃した日本陸軍は、そこで進軍を止める
武漢の西270Kmの宜昌以遠に広がる峨峨たる山波と心細く続く「蜀の桟道」の走破は困難。一方、海軍も宜昌より上流の「長江三峡」と云われる揚子江の峡谷地帯、難所の遡航作戦もまた困難。
中支那派遣軍司令官畑俊六大将は、「国民の注意を促したいのは武漢は陥落したが、戦争は断じて終幕を告げたのではないということである。引続き敗敵を追究、残敵を殲滅しなければなら」(「東京日日」10月29日)ず、「事変の前途はなお遼遠にして、これが解決には更に挙国一致堅確なる決意を要することを切に痛感する」(「同」11月4日)と語る。
この大作戦も戦争収拾の展望を開くものではない。
兵站線は延び切り、漢口・広東が日本の軍事力の限界である。これ以降、間欠的な局地的作戦は実施されるが、大規模侵攻作戦は行われなくなる。

漢口W基地の建設。
大武漢とも武漢三鎮とも称される3地区(漢ロ、武昌、漢陽)の内、揚子江沿い漢口に現地司令部や需品供給所が次々に開設。陸海軍航空隊所属の爆撃機、戦闘機、輸送機が集まって来る。
揚子江に面した日本軍の接収地「軍事区」に倉庫群の建設が急がれ飛行場整備から慰安所づくりまで慌ただしく進む。中国人は「特区」又は「日本区」と呼ばれる軍事区に住めず、背後の難民地区に押し込められ、「安居証」なしには外へ出ることは許されない。
日本側は、武漢攻略後の戦争指導に関し、これ以遠の地上進攻は考慮外という一点では、政府・軍中央・派遣軍3者の認識は一致。行く手には大巴山脈の連峰が立ちはだかり、武漢より上流の揚子江に艦隊を進ませるのは不可能。また、陸軍はこの時迄に手持ち兵力のほぼ全力を投入し、日本本土に近衛師団を残すのみという状態で、補給線も伸びきり、新戦線を設定する弾力性はなく、武漢をもって地上部隊の攻勢終末点とする案を受け入れる。
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10月27日
・仏、【フランス人民戦線崩壊】急進社会党マルセイユ大会、共産党との絶縁決定。ダラディエ仏首相、人民戦線離脱を宣言。11月10日、人民戦線全国委に通告。人民戦線崩壊。
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10月28日
・第1期2次国民参政会。~11月6日迄、重慶。徹底抗戦強調。
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10月28日
・天皇、初めて白馬「白雪」に乗り、二重橋の正門鉄橋に現れる。
「御馬上御颯爽たる大元帥陛下の御英姿を拝し奉った民草はこの恩ひがけぬ光栄に感激その極に達し、一斉に最敬礼申上げ感泣して万歳を奉唱したのであった」(「東京朝日」29日)。
侍従の入江相政はこの模様を、「お上は御乗馬で二重橋の鉄橋へ御出ましになる。民草の旗行列を御覧になる。非常に御満足げに拝した」と記す。
この日夜、天皇は香淳皇后と共に再び提灯をもち30分間、再び正門鉄橋に現れる。
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10月28日
・近衛首相、仏印経由援蒋物資に対仏警告
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10月28日
・商工省、木炭ガスの国策乗用車5種を発表。
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10月28日
・ドイツ国内のユダヤ系ポーランド国籍所有者1万5千人に国外退去命令。ドイツ・ポーランド国境に強制移送。
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10月29日
・外相有田八郎任命(9月30日に宇垣が辞任し、近衛が兼任していた)。八田嘉明、拓務大臣に就任。
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10月29日
・大島浩駐在武官、駐独大使就任
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10月30日
・蒋介石、「全国官民に告ぐるの書」。
「わが国の抗戦の根拠は広大深長の内地にあり・・・勝敗の鍵は持久抗戦力の保持にある。保衝武漢の任務は終り、目的はすでに達せられた」<抗戦第一期の終り>

「わが抗戦根拠は、狭小な沿江、沿岸地帯ではなく広大深遠な奥地にある。武漢保衛戦の意義は、敵の西進を阻滞させ、敵の実力を消耗し、わが後方交通を準備して必要な武器を輸送し、わが南東と中部の工業を奥地に移転させ、北西、南西の交通経済の建設を進行させることであった。今や戦局の転換と長期政策の必要から武漢を放棄した。これをもって戦勢の不利とか退却と考えてはならぬ。軍事的には守勢から攻勢への転換を画するものである」

「敵は一時武漢を占領したがそれは十一カ月の月日を費やし、数十万にのぼる死傷者の犠牲を払わせられた結果なのだ。しかも敵が手に入れたのは焦土と空っぽの都市であった。敵は武漢で我が主力を撃滅して短期決戦に勝つという重要目的に失敗した。今後我々は全面的抵抗を展開するであろう。我が軍の移動は退却であろうと前進であろうと制限されない自由なものとなるであろう。主導権は我々とともにあるだろう。これに反し敵は何一つ得るところがない。敵は泥沼に深く沈んでますます増大する困難に遭遇し、ついには破滅するであろう」(董顕光「蒋介石」)

抗戦首都・重慶。
武漢陥落~重慶の根拠地建設の間、沿海・沿岸地方から1千万近くの人口が、戦火に追われ、また抗日の意気に燃え、西南・西北地方に移る。
うち700万は四川省に入り、100万以上が四川省第2の都市・重慶(武漢から、江の流れで1370Km、飛行距離780Km、人口33万9204人)とその周辺に居を定める。

①北平(北京)の故官博物院の文物2万箱は「満州事変」直後、南京博物館に移され、ここで3群に分散、うち1群が武漢~重慶に持ち込まれ、後に峨眉山のふもと楽山の村に隠される。
②日中戦争開始時の108大学・4万余の学生のうち52校が四川省などの後方地区に移り、19校が重慶に移る。抗戦前の重慶大学・四川省立教育学院2校が、中央大学(南京)・復且大学(上海)・交通大学(同)など総合大学、国立音楽学院(南京)・国立芸術専科学校(杭州)・国立江蘇医学院(鎮江)など専科大学のほか、陸軍大学・兵工学校もま移設。これら大学は、重慶の「二大文化区」と呼ばれる、市内の沙磁区と郊外の白砂鎮に集まる(沙磁区はやがて日本軍機の集中爆撃を受ける)。周恩来の学んだ天津の南開中学校も校長張伯苓と共に移って来る。
③重慶を発行地とする主要紙は、朝刊10紙・夕刊3紙で、通信社は国民党統制下の中央通訊社(中央社)に代表されるが、「大公報」(上海)、「中央日報」(南京)、「掃蕩報」(武漢)など有力紙は移入組に占められる。これら新聞のなかには中国共産党が国民党地区で発行する唯一の日刊紙「新華日報」も含まれる(1938年1月11日武漢で創刊され、同10月25日付より重慶に移転、47年2月28日、国民政府によって強制停刊させられるまで3231号、9年1ヶ月18日に亘る)。「新華日報」を指導したのは「八路軍重慶代表」「中共中央南方局書記」周恩来で、周自身たびたび社説の筆をとり蒋介石の反共政策を激しく非難、発禁措置に抗議。
④商務印書館、中華書房、生活書店など出版社も、重慶に本拠を移す。上海で抗日救国の論陣を張っていた鄒韜奮は、武漢~重慶に移り「全民抗戦」(週刊)を発行し、生活書店の支店網を全国50余ヶ所に拡大、国民党の弾圧と戦いながら、進歩的言論活動の第一線に立つ。
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10月30日
・米、H・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』をラジオ用に脚色した「火星人襲来」をオーソン・ウェルズが放送。あまりに真に迫っていたためパニック。
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高倉健さんからの言葉 「冷に耐え 苦に耐え 煩に耐え 閑に耐え 競わず 争わず 以て大事を成すべし」(俳優石倉三郎さん)(『朝日新聞』2017-09-21)

高倉健さんからの言葉
冷に耐え 苦に耐え 煩に耐え 閑に耐え
競わず 争わず 以て大事を成すべし
俳優石倉三郎さん


大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その4) 10月8日 第1回軍法会議(午前の尋問) 大杉殺害の様子が検察官調書と微妙に異なる

大正12年(1923)10月8日 
第1回軍法会議
■殺害にいたる経過についての尋問
・前日の状況
「十五日に帰隊するため自動事に乗りこもうとしたとき、淀橋警察署の署員から、明日は大杉を絶対引っ張りだしてやると言われました。大杉を呼び出すには藤田某の名前を使った方がいい、藤田は大杉のフランスへの渡航費を出してやっている、大杉には現内閣の某大臣からも金が出ているとも言っていました」

*「藤田某」
藤田勇。昭和7年の5・15事件、翌年の神兵隊事件、昭和11年の2・26事件などで黒幕といわれた男。昭和5年に桜会を結成して軍事クーデターを企てる急進派軍人の橋本欣五郎や大杉栄ともパイプをもっていた。
のち甘粕は、藤田から政治工作資金の提供を受けていた橋本欣五郎に接触して、満州の謀略工作に加担することになる。
*「現内閣の某大臣」
内務大臣後藤新平。大杉の『自我傳』によると、大杉は後藤に金の無心に行った時、大杉が「政府が僕らを困らせるんだから、政府に金を無心するのは当然」と言うと、後藤は「ようごわす。差しあげましょう」と答えたとある。金を無心にきた大杉に気前よく大枚をくれてやった話は、専門家筋の間では当時からよく知られていた。

「それで翌十六日、森曹長、本多上等兵、平井伍長を連れて、大杉の居所に出かけました。むろん大杉を殺すつもりで出かけたのです。淀橋署でも私らの目的はわかっていたようです。しかし大杉は朝出かけたようで、居所にはいませんでした。けれど大杉は近頃では自警団を非常に怖がっているので、夕方には必ず帰ってくるとのことでした」
(大杉はこの日、鶴見に避難していた弟の勇の震災見舞いをするため、新宿から日比谷行きの乗合自動車に乗り、日比谷で乗り換えてまず品川まで行った。そこから京浜電車で川崎に行き、あとは徒歩で勇の避難先に向かった。そこに預けられていた宗一少年が、東京の火事の焼け跡が見たいというので連れて帰った)

- 大杉が帰宅するのをどうやって待っていたのか。
「淀橋署で大杉の家を張り込んでいるのは困るといわれたものですから、彼の家から二丁ばかり行ったところで待っていました。そこへ井上とかいう尾行巡査がやってきて、大杉が帰ったことを知らせてきました。間もなく、七、八歳の子どもを連れた夫妻が姿を見せましたので、同行を求めたのです」

- どういう理由を言って同行を求めたのか。
「何も理由は申しません。ただ同行してくれと言っただけです」

- 野枝と子どもはどういうつもりで同行させたのか。
「別に大した理由はありません。ただ連れて行った方がよいだろうと思ったからです」

- 大杉だけを殺す目的なら、何も野枝や子どもまで同行させなくてもよかったのではないか。
「ただいま申しあげた通り、全員連れて行った方がよいだろうと思ったからです。もっとも、場合によっては野枝も片づけるかもわからん、という考えはありました。けれど、そうはっきり決めていたわけではありません」

- 最初から殺さぬつもりで同行したものを場合によったら殺す考えだとは,何だかよく意味がわからない。そもそも子どもは誰の子と思っていたのか。
「むろん大杉の子だと思っていました」
(甘粕は最初、淀橋署まで3人を連行し、淀橋署前に停めてあった自動車に乗せて運ぼうと思ったが、女子どもを淀橋署まで歩かせるのはかわいそうなので、野枝と宗一は淀橋署員と連携してそこまで尾行してきた東京憲兵隊上等兵の鴨志田安五郎の自動車に乗せ、大杉は淀橋署に徒歩で連行後、甘粕、森と一緒の車に乗せて大手町の憲兵隊本部に向かった。午後6時半頃のことだった。)

ー 三人を連行した憲兵隊ではいかなる方法で殺そうとしたのか。
「憲兵として殺すのではなく、私個人としてヤッツケるつもりでしたから、なるべくわからないようにやろうと思いました。銃器を使えば,銃声でわかってしまうので、手で絞め殺そうと思いました」

ー 殺害後の覚悟はどうだったか。
「他日必ず知れると思っていましたから,当然罪を負う覚悟でした。私は単に大杉一個を殺すだけで足りるとは思っていませんでした。堺利彦や福田狂二らの危険分子は片っ端からヤッツケるつもりでした」

(30分の休憩)

- 大杉栄を殺害したのはどこか。
「憲兵司令部の階上応接室です。そこには私が命じて、森曹長が連れて行きました」

- 森に殺害のことを話したか。
「話したかどうかはよく記憶していませんが、森は私の殺意を推知していたと思います」
「しばらくしてその部屋に行くと、森は大杉と何事か話していました。私は一言も言葉を交わさず背後に回り、大杉の喉の部分に後ろから右手をまわし、その手で左手の手首を握って、締めつけました」
(甘粕はそう言って両手をあげ、大杉を絞殺したときの仕種を再現して見せた。)
「さらに締めつけると、大杉は少しもがき椅子を半回転ほどさせて右の方から落ちました。それから右脚を折り曲げて尻の下に敷き、左膝を立てた折敷(おりしき)の姿勢とは反対の姿勢をとり、右手を大杉の背にあてる柔道の絞め手で手をゆるめずにいると、大杉は十分くらいで絶命しました」

(検察官調書では、甘粕は右膝頭を大杉の背骨にあて、柔道の絞め手で絞殺しました、と述べているが、ここでは右手を大杉の背にあて、と微妙に食い違っている。殺害した本人が、殺害方法を間違えて記憶しているとは常識的には考えられない。)

- その後、麻縄で首を絞めたのか。
「そうです。別に麻縄で絞めなくともよかったのですが、万一息を吹き返すといけないと思ったので、念のため巻きつけたのです」

- 大杉を殺害するとき、森はどうしていたのか。
「ボンヤリ立っていましたが、私が命じて大杉のもがく足を押さえさせました。そのとき私は眼鏡を落としましたが、殺してしまってから自分でとりあげてかけました。殺したのは八時二十分頃で、連行してから一時間半くらい経っていたと思います」

ー 大杉を連行してから大杉と会話をかわさなかったのはなぜか。
「会話をかわしては工合いが悪くなるだろうと思ってかわしませんでした。森に命じて部屋に入れさせたのですが、私は別室にいた子どもがかわいそうになり、子どもにやる菓子をもっていってやったりしていました。大杉や野枝にも食事を運ばせ、私も事務室に戻って食事をすまし、それから事務をとりました。
大杉に対してほ渡仏後や震災後の活動状況を開こうと思っていましたが、仕事の都合で落ち着いて聞くことができませんでした。私の代わりに森に聞かせようと思いましたが、森ではわからないだろうと思い、大杉を入れた部屋に行き、何も聞かぬまま殺害に及んだようなわけです」

(午前の尋問はここで終わる)


つづく



ワシントン・ポスト、ABCの世論調査。国民の三分のニが北朝鮮への先制攻撃に反対。四分の三が経済制裁の強化を支持。42%がトランプ大統領の北朝鮮対応能力を「全く信頼できない」。72%が軍のリーダーシップを信頼。 / Poll: 2/3 of Americans oppose preemptive strike against N. Korea. Most trust military, not Trump, to handle crisis. — Washington Post


2017年9月23日土曜日

(YouTube)Argerich - Tchaikovsky: Piano Trio in A minor Op. 50 (1998) チャイコフスキー ピアノ三重奏曲 イ短調 作品50 『偉大な芸術家の生涯』


Argerich - Tchaikovsky: Piano Trio in A minor Op. 50 (1998)
Martha Argerich, piano
Gidon Kremer, violin
Mischa Maisky, cello

【暴言マヒ、人間性の欠落(射殺が第一に来るその発想)、即罷免(クビ)を】 麻生副総理「警察か防衛出動か射殺か」 北朝鮮難民対策(朝日新聞);「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか。真剣に考えなければならない」 ← 「南京」の「便衣兵」と同じ発想だな / 「大震災」の時の「朝鮮人が攻めてくる」という発想とも         










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東京国立近代美術館(MOMAT)コレクション展の東山魁夷特集で眼福な半日を過ごした 2017-09-22

9月22日(金)、久しぶりに竹橋の近代美術館に。
外は雨だったので、4F~2Fを2往復してじっくり鑑賞した。
眼福な半日であった。

いま、コレクション展では所蔵する東山魁夷の作品全点(17点)が展示されていて、これはゼッタイ見ものだと思う。

以下、コレクション展HPより。

東山魁夷特集

 東山魁夷(1908-1999)は、皇居新宮殿の障壁画や、唐招提寺御影堂の障壁画も手掛けた国民的人気を誇る日本画家です。東京国立近代美術館では東山本人から寄贈を受けた作品を含め、本制作だけでも17点を所蔵しています。

 今回の特集展示では、その17点すべてを一挙公開します。会場は所蔵作品展「MOMATコレクション」(4階~2階)の2部屋。自身が風景に開眼した記念作だと語った《残照》(1947年)、前方へまっすぐつづく道だけを描いた《道》(1950年)、北欧旅行の印象をもとに構成した《冬華》(1964年)など、東山のエッセンスがギュッと詰まった特集展示をお楽しみください。

(略)

東山魁夷(1908-1999)について

横浜生まれ。東京美術学校日本画科(現・東京藝術大学)を卒業後、ドイツに留学して美術史を学ぶ。戦後、1947年に日展に発表した《残照》が特選を受賞し、風景画家として再出発を果たした。1950年の《道》をはじめ、構図や色を整理した平明な作風により、国民的な人気を集めた。

取材旅行に出かけては連作を描いたことでも知られる。1962年の北欧旅行では、帰国後1964年まで3年にわたって北欧主題による制作を続けた。同様の連作に京都(1965年~68年)、ドイツ・オーストリア(1969年~72年)などがある。

また、1960年に新築なった東宮御所の壁画、1968年完成の皇居新宮殿の障壁画を担当し、1970年代には約10年をかけて唐招提寺御影堂の障壁画制作に取り組んだ。

1999年に没。墓所は長野市にあり、唐招提寺にも分骨されている。

出品作品について

《残照》 1947年
《道》  1950年
《秋風行画巻》 1952年
《たにま》 1953年
《晩照》 1954年
《山かげ》 1957年
《秋翳(しゅうえい)》 1958年
《木霊》 1958年
《暮潮》 1959年
《青響》 1960年
《雪降る》 1961年
《黄耀》 1961年
《映象》1962年
《冬華》 1964年
《白夜光》 1965年
《月篁》 1967年
《白い朝》 1980年


▼《白い朝》 1980年

▼《映象(えいしょう)》1962年

▼《冬華》 1964年

▼《白夜光》 1965年

▼《たにま》 1953年

▼《雪降る》 1961年

▼《道》  1950年

▼《晩照》 1954年







大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・甥橘宗一らの虐殺(その3) 暗殺の準備(甘粕麹町憲兵分隊長を兼任する) 軍法会議(10月8日~) 甘粕非難の声と減刑嘆願運動

■甘粕、麹町憲兵分隊長となる(大杉暗殺の準備)
甘粕は、大震災当日の9月1日、渋谷憲兵分隊長でありながら抜擢されて麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。麹町憲兵分隊は、東京憲兵隊本部直轄の近衛師団的存在で、規模も大きく、分隊長には佐官クラスが就くのが通例で、その分隊長に大尉の甘粕が就くのは、2分隊の隊長を兼任することを含め、前例のない人事。甘粕の前任の麹町憲兵分隊長は、後に東京憲兵隊長から少将になる持永浅治で、麹町憲兵分隊長当時は少佐(佐官)である。
人員配置では、東京憲兵隊本部の人員が補助憲兵を含め32名、麹町憲兵分隊の人員は補助憲兵を含め190名となっており、ライン部門の麹町憲兵分隊がスタッフ部門の東京憲兵隊の実働部隊の位置付けとなっている。他に、東宮御所・秩父宮邸を警護する赤坂分隊が36名、渋谷分隊が29名など。

「治安維持の最前線部隊を自任し、社会主義者や無政府主義者、さらには「不逞鮮人」らを何とか検挙しようと手ぐすねをひいていた東京憲兵隊にとって、帝都を揺るがした関東大震災下の戒厳令は彼らを一網打尽にする千載一遇のチャンスだった。
甘粕が”東京憲兵隊の近衛師団”といわれた麹町憲兵分隊のトップを兼務したこの前例のない人事異動は、無政府主義者の巨頭の大杉栄を明らかに視野に入れた、いうなれば”大杉シフト”だった。」(佐野)

甘粕は、名古屋の陸軍幼年学校から陸軍士官学校(24期)に進むが、陸軍戸山学校在学中の大正4年(1915)、膝関節を怪我する不慮の事故に遇い、念願の歩兵への道を諦め、憲兵になることを余儀なくされている。甘粕は千葉刑務所収監中に書いた獄中記で、「私は憲兵になった時もう靖国神社に祀られることがないのかと思ったら淋しい気がした」と記している。
甘粕は、朝鮮の京畿道楊州憲兵分隊長、市川憲兵分隊長を経て、大正11年1月、渋谷憲兵分隊長になっている。この渋谷憲兵分隊長時代に甘粕は朴烈事件を摘発している。
朴烈は、豊多摩郡富ヶ谷で内妻金子文子と同棲中の大正12年8月中旬、所轄の渋谷憲兵分隊に内偵され、これが半月後の大震災下での事前検束に繋がる。

甘粕は、朴烈が大杉と接触し大陰謀を企てているとの情報をつかんだという。
大杉事件の軍法会議での甘粕の陳述。
「大震災の後九月二日の夜中 摂政宮殿下が、潜かに宮城へ御這入りになったという噂が、盛に市民の耳朶を打ったことがありまするが、夫は大杉一派が朴某なる不逞鮮人を煽動して企てた某大逆事件に基因するものであるとの確信を得たのであります」

■甘粕に対する減刑嘆願運動:
早稲田の右翼学生グループの縦横倶楽部や各地の在郷軍人会を中心に全国に広がり、その署名請願者は65万人に達する。

■軍法会議が開かれ(10月8日~)凄惨な犯行が国民の目にさらけ出されるに従って、ジャーナリズム界では、大杉を悼む一方、甘粕を非難する声が高まる。
雑誌「改造」(大正12年11月号)は特集号「大杉栄追想」、「婦人公論」(同年11月・12月合併号)は特集記事「『甘粕と云ふ人間』批判」を組んで、甘粕に非難の集中砲火を浴びせる。

三宅雪嶺「火事場人殺し」
<甘粕が職を辞し、一私人として大杉を殺したならば、己の力の及ぶ限り国家の為めに尽さうとしたものと云ひ得ぬではない。憲兵大尉の職権を以て法律に依らず逮捕して極刑に処するに至つては、単に職権を濫用するのみでなく、憲兵の信用を損じ、併せて広く軍隊に及ぶを遺憾とせねばならぬ。
甘粕は初めから一身を投げ出して居るかどうか、独断専行した処、責任を負うてゐるにしても、死骸を知れぬやうに隠さうとしたのは何の為めか。知れなければ其のまゝ問題にならぬとしたのでないか。子供を殺したのも世間に漏れるのを怖れたのでないか。
その為す処、只管(ひたすら)秘密を保たうとするのであって、秘密結社の陰険手段の最も著しいものに属せぬか。フリーメーゾンに有害の人を Cause to disappear せしむるといふ文句がある。即ち或る手段で行方不明にする事を意味する。
甘粕の行為は、憲兵大尉として、秘密結社の事を敢てするに外ならぬ>

宗教家の高島米峰は、三宅以上に手厳しく甘粕を断罪。
<甘粕大尉の行為は明に、国家の大権を干犯し、陸軍の重法を無視したもので、無政府主義を恐れて居た甘粕大尉自身が、却て無政府主義を実行した事になるのである>

■第1回軍法会議(大正12年10月8日、青山の第1師団司令部)
午前8時30分、開廷。
被告席に軍服姿の甘粕と、共犯とされた東京憲兵隊本部附曹長・森慶治郎。
法務官のうしろの特別傍聴席には、第1師団長石光真臣中将と幕僚、一般傍聴席には、甘粕兄弟や陸士24期の同期生たち。

判士長岩倉正雄(陸軍歩兵大佐)が最初に甘粕を呼ぶ。
原籍、住所、氏名、年齢、叙勲、賞罰など型通りの人定質問、検察官山田喬三郎(陸軍法務官)による公訴事実の朗読、続いて判士小川關治郎(陸軍法務官)の実質審理に移る。

軍法会議の公判記録は散逸しているが、この裁判を傍聴しその様子を書き留めた記録『問題の人甘粕正彦』(山根倬三・小西書店、大正13年出版)された記録がある。
この軍法会議ではは、甘粕は、大杉一家虐殺は自分一己の考えから出たことであり、上からの命令は一切なかったという点で首尾一貫している。
しかし、昭和51(1976)年に発見された大杉一家の「死因鑑定書」は、この甘粕の供述をことごとく覆す結果となった。

この軍法会議で最も見るべきは、殉教者意識の虜になったとしか思えない甘粕の”名演技”ぶりである。

■判士(陸軍法務官)小川關治郎に社会主義者に対する一般的感想を尋ねられた甘粕の陳述
「思想問題については、以前ちょっと研究したことがあります。この頃は特別研究しておりませんが、今日の思想界がほとんど混乱状態に陥り、刻一刻と危機に瀕していることはいまさら申しあげるまでなきことで、国家のため憂慮にたえません。かかる危機的状況を何とかして一日も早く救い、ひいては社会の改善をはかりたい希望をもっておりました。
特にわが帝国は天祐とでも申しましょうか、西洋各国が五、六百年の間に繰り返し繰り返しやっと文明をかたちづくったのに対し、わずか五、六十年の間に建設することができました。この光輝ある帝国に不純なる思想を芽生えさせようとするのは、天と倶に許さざるところであります。
社会主義の根本は、人間が肉体を離れて霊にならなければできないことですが、よしその根本は間違っていても聞くべきものもあります。しかし、無政府主義にいたっては、国家に対し、国体を蠧毒(とどく)し、大和民族の帰結を害うことの甚だしきものであります。
かかる危険思想は、国家を憂える者が決然と起って排斥すると同時に、建国の大本を無視する獅子身中の虫は、天に代わって制裁を加えなければなりません」

■判士と甘粕の応酬
- 震災後の社会主義者の言動について、何か不穏という確証でも得たのか。
「震災後、放火犯人を逮捕して調べたところ、その背後に社会主義者がいて、朝鮮人と連絡をとり、ことを起こそうとしていることを知りました。伊藤野枝が爆弾を懐に、ひそかに活動しているということも聞きました」

- それらの者に対して、いかなる方法をとろうと思っていたのか。
「震災後、人心は非常に動揺しました。私は万一のことを考えて、寝食を忘れてその警戒にあたりました。それというのも、国家が一部人心の動揺のため、危殆に瀕しはしないかと痛感したからであります。しかるに警視庁は、社会主義者の末端は片っ端から検束しているのに、大杉栄のごとき巨頭はそのまま放任していた。これは非常に遺憾なことだと思いました」

- 大杉栄の行動に関して何か確証でも握ったのか。
「一日以来、野枝と一緒に行動していると聞きました」

- 放火犯人や朝鮮人を使嗾した主義者は誰だということだったか。
「ハッキリとはわかりませんが、大杉もむろんその一人だと思いました。特に大杉は検束されていませんでしたから、かかる運動をしているのは大杉らよりほかにないだろうと思ったのです」

ー 大杉の所在を捜索しようと思ったのはいつ頃か。
「九月上旬のことです」

- 所在を知ってどうしようと思ったか。
「捕らえたら殺してやろうと最初から考えていました」
(満員の傍聴席から驚きの声)

- いかなる方法で大杉をヤッツケようとしたのか。
「九月十五日の夕方、森曹長を従え私服で淀橋署に行きますと、大杉は子どもを連れて戸山ケ原を散歩していると聞きましたので、戸山ケ原に大杉がいたら、手で絞殺しよう、万一のときは射殺しようと思い、拳銃を持って行く覚悟を決めました。しかし、大杉は自宅にいることがわかり、その日は目的を果たさず、空しく帰りました」



つづく




【調査報道】日本外交、3000億ドルのシリア復興特需に屈す(ニューズウィーク日本版);<アサド政権の勝機を見越して、インフラ再建の商機が高まるシリア。市場をにらむ日本企業、期待を膨らませる永田町、忖度する霞が関――取材で見えてきたのは、復興特需に翻弄される価値観なき日本外交の姿だった。ニューズウィーク日本版「対中国の『切り札』 インドの虚像」特集号(2017年9月26日号)掲載>

「北朝鮮と断交を」河野太郎外相、世界に要求 背景には、安倍首相の国連総会での「必要なのは行動」演説か。 / 河野外相は、米コロンビア大学で講演し、北朝鮮の核・ミサイル開発を「これまでにない重大かつ差し迫った脅威」とし、北朝鮮と国交のある160以上の国々に対して断交呼びかけ。 .....





【国会から逃げて逃げて逃げまくる首相、安倍晋三。ちゃんと横綱相撲とれよ】臨時国会:北朝鮮非難決議見送りへ 与党、不信任案を警戒 - 毎日新聞 / アメリカでさんざん北朝鮮とはもはや対話は終わったと吠えておいて、帰国したら野党が怖くなり非難決議すら投げ捨てるという逃げ恥.....内閣不信任案が怖いから北朝鮮非難決議上げられないとか、どんだけびびってんねん.....

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トランプの国連演説。「ロケットマン」と「完全に破壊」は演説原稿になかった。.....マクマスターたちに再三、金正恩をあだ名で呼ぶな、挑発するな、嘲笑するなって言われてても、あのような演説に。子供の頃からの行動様式というか、本人なりの成功の方程式と思ってるんだろうな。..... / 「アチャー! 言いやがった!」というような感じのケリー大統領首席補佐官(画像)    







米公共放送が沖縄特集 「基地撤退、住民の願い」 — 琉球新報 / (YouTube)On Okinawa, many locals want U.S. troops to leave (「沖縄では、多くの人々が米軍の撤退を望んでいる」)


そぼふる雨、新橋の夜は更けて。2017-09-22

9月22日、くもりのち雨。
久しぶりに新橋で高校からの友人と呑んだ。

この日はあいにくの雨。
昼間は竹橋の近代美術館で4時間ほど浸りきった。
東山魁夷がずら~りと、眼福な半日だった。
(MOMAT所蔵の東山作品17点が全て展示されている)

それに、写真OKなのが嬉しい。

晴れていれば日比谷公園のテニスコート脇の彼岸花を撮りたいと思ってたけど、雨止まず、これはギブアップ。
日比谷公園近くのスタバで1時間ほど携帯を充電しながら、インスタで遊んで、いざ新橋へ出陣した。

そぼふる雨、新橋。




2017年9月22日金曜日

疑問に答えず「今なら勝てる」打算だけ 前川喜平氏(毎日新聞);「消費税の引き上げ分で教育無償化というのは思いつきとしか思えない。幼稚園教諭・保育士の処遇や配置の改善、資質の向上、高等教育の質的充実など、もっとやるべきことがある。」 「その財源は消費税に限らない。特定扶養控除や教育資金一括贈与制度などの金持ち優遇税制を廃止したり、所得税や相続税の累進性を高めたりすることを考えるべきだ。」 


韓国政府、北に9億円規模の人道支援を決定 / 日米首脳“人道支援”で文大統領に強い難色 ; 会談で日米韓3か国首脳は、北朝鮮への対応をめぐって結束を強調したが、韓国政府が決めた人道支援については「今がその時なのか」と文大統領に詰め寄る場面もあったという。 ← 飢えた人々を救うことにも反対と...?



 アメリカ・ニューヨークを訪れている安倍首相は、トランプ大統領、韓国の文在寅大統領と3人で会談した。日米両首脳は文大統領に対して、北朝鮮への人道支援に強い難色を示した。

 会談で日米韓3か国首脳は、北朝鮮への対応をめぐって結束を強調したが、韓国政府が決めた人道支援については「今がその時なのか」と文大統領に詰め寄る場面もあったという。

 (略)

 首相同行筋は「トランプ大統領は相当、怒っていた」「これで人道支援は当面、実施されないのではないか」と語っている。蜜月関係の日米首脳と文大統領との距離感が露呈した形。

 (略)