2024年4月27日土曜日

「とうふ屋うかい鷺沼店」でランチ 2024-04-26

 4月26日(金)はれ

田園都市線「鷺沼」駅近くの「とうふ屋うかい鷺沼店」でランチ。

丁寧に作られた料理、こう見えて量もたっぷりで、満足レベルだった。また、それ以上に、店の調度品、飾り付け、うまく手入れされた庭など、細かいところまで行き届いたお店だった。勿論、鷺沼は初めて下車した町。横須賀線~横浜地下鉄~田園都市線と乗り継いで。










「何イチャイチャしてるの?」鈴木宗男氏を父に持つ自民女性議員(38)緊迫の委員会中に男性議員と仲良く談笑…緊張感なき姿に批判続出(女性自身) ← 鈴木貴子と宮路拓馬

消滅可能性自治体公表 丸山知事「日本全体の問題を市町村の問題にすり替えている」「東京の出生率は最低だ」人口偏在放置を批判(山陰中央新報デジタル);「日本全体の問題を自治体の問題であるかのようにすり替えている。アプローチの仕方が根本的に間違っている」

大杉栄とその時代年表(113) 1894(明治27)年7月14日~19日 『小日本』廃刊(子規、『日本』に戻る) 清国は避戦論が主流 日英通商航海条約調印 大本営御前会議。開戦やむなしと決定 一葉・桃水の交流再開 子規『文学漫言』 陸奥訓令「此の時に当り閣下は自ずから正当と認むる手段を執らるべし。、、、而して我兵を以て王宮及び漢城を固むるは、得策に非ずと思わるれば、之を決行せざる事を望む」 大鳥公使、朝鮮政府に最後通牒   

 

1894日英通商航海條約

大杉栄とその時代年表(112) 1894(明治27)年7月9日~13日 陸奥外相、「日清の衝突をうながすは今日の急務なれば、これを断行するためには何等の手段をも執るべし、一切の責任は予みずからこれに当るを以て、同公使は毫も内に顧慮するにおよばず」との訓令 より続く

1894(明治27)年

7月14日

桃水が明日来ると思うと夜更けまで眠れなかった。

「十四日 小石川稽古にゆく。榊原家よりゆかた地、中村君より帯止、はんけち到来。此夜更(ふく)るまでねぶり難し。あすの雷雨いかにや。」

7月14日

青木駐英公使、英キンバリー外相より、朝鮮における朝鮮政府雇教師・イギリス海軍コルドウェル少尉解雇要求、仁川における軍事電信線架設に関して抗議をうける。15日、陸奥外相は事実を問質すいとまもなく「事実無根」と青木公使に返電。

7月15日

徳富蘇峰のこの日付け「国民新聞」、「好機とはなんぞや。いうまでもなし、清国と開戦の好機なり。別言すれば、膨脹的日本が膨脹的活動をなすの好機なり」と述べ、開戦を決意しなければ清国の風下に立ち、朝鮮への威信を失う、と戦争を煽る。

7月15日

桃水が鶏卵の折を持って一葉を答礼に訪れる。桃水の外見を称賛する。


「十五日 はれ。早朝、芝の兄君来訪。少し物がたるほどに半井君参り給ふ。少し面やせたれども、その昔しよりは、いげんいよいよ備はりて、態度の美事なるに、一楽織(いちらくおり)のひとへに嘉平次のはかま、絽(ろ)にてはあるまじき羽織のいと美事なるをはふり給ふ。門に車をまたせ給へるは、長くあらせ給ふべきにあらじとて、しゐてはとゞめず。鶏卵の折到来。兄君は日ぐれまで遊び給ふ。夜に入りてより、西村の礼助来る。此夜の月、又なく清し。」


7月15日

『小日本』廃刊により、子規、『日本』に戻る。

7月中旬

子規、上野の山を散策。御成道から広小路を経て山内へ。彰義隊の墓を見、浅草を遠望、清水堂・摺鉢山・博物館・寛永寺(中略)東照宮・不忍池と一時間漫遊(「上野紀行」)。

7月16日

朝鮮政府、日本軍撤退・実施期限の撤回が内政改革の前提と回答。

7月16日

・李鴻章、総理衙門の要求に対して北洋陸軍3万のうち1万5千を動員する計画を示す。この日、軍機処と総理衙門の合同会議。皇帝派李鴻藻・翁同蘇は主戦論を唱えるが、多数は避戦論をとり、朝鮮に対する藩属体制が維持できるなら多少の譲歩やむなしとの結論となる。

7月16日

内村鑑三(33)、箱根での第6回基督教青年会主催の夏期学校で「後世への最大遺物」を講演。

7月16日

「●京城別信(七月八日発) 内外通信社員報」(『日本』7月16日)。

黄海・平安の両道で人々が集まり,何かを協議していることがわかる報道で,同時に「東徒は閔族の跋扈を根本より駆除し地方の施政上に一大改革を見さる間は仮令一時潜伏して平定の観あるも到底再勃の憂を免れさるべし。」とある。東学農民運動に対して反閔族の改革派としての役割を期待。記者は、清国との戦争の前の段階で,東学農民運動も改革派として動けば日本に有利になると判断している。

7月16日

ロンドン、日英通商航海条約調印。青木公使の弁解が効を奏す。条約改正成功。日本は国際社会構成国候補者の地位をえて対清開戦準備は完了

領事裁判権は撤廃、一部の輸入関税が引上げられる。重要品についての関税自主権は回復されず、完全に対等な条約とは言えないが、明治維新以来の悲願が実現した意義は大きい。新条約は5年後の明治32年から実施される。イギリスが改正に応じたのは、トルコ、アフガニスタンなどで英国と対立するロシアがシベリア鉄道建設を進め北東アジア進出を狙っており、ロシアを牽制する為にも日本を抱き込む必要がある。

イギリスは、清国に日本の要求を受入れさせる為の連合干渉を列強に提議、列強は同調せず。イギリスの東アジア政策の支点が清国から日本に移りつつある事を示す。孤立したイギリスは、日本が親英政策をとることを確認し、条約に調印。青木公使は、日本が「一躍シテFellowship of nationsノ仲間入相整フタル」を祝し、キンバリー外相も条約調印は日本の国際的地位に、「清国ノ大兵ヲ敗走セシメタルヨリモ、遥カニスグレタ結果ヲ与エタ」と指摘。

7月17日

最初の大本営御前会議。開戦はもはややむなしと決定。清国に24日、朝鮮に22日を期限とする最後通牒を送る。同日、海軍中将樺山資紀が特旨で現役復帰し軍令部長に就任。この日、大鳥公使より朝鮮王宮占領許可を求める請訓が到着。

7月17日

一葉の日記より


「十七日 平田君より書状来る。避暑として奥羽の旅にのぼりしよし。雑誌(「文学界」への寄稿)のこと申来る。」


「十九日 小説「やみ夜」の続稿いまだまとまらず。編輯の期近づきぬれば、心あわたゞし。此夜、馬場孤蝶子のもとにふみつかはし、「明日の編輯を明後日までにのはし給はらずや」と頼む。」

(「やみ夜」は「文学界」第19,20,21号に掲載される。第1回分として一葉が送った「その一・二」では短いので、つづくを依頼されていた(7月17日)が、20日の締め切りには間に合わず、21日まで待って貰うよう頼む)

(7月20日頃)一葉より桃水への手紙

この頃、桃水は病気療養の為、三崎町の店を従妹の河村千賀子に譲り、丸山福山町に近い西片町の旧宅に戻っている。一葉が越して来てからは、桃水はよく立ち寄るようになる。15日にも来訪している。この月あたりから桃水との交流が密になる

そして7月15日。たまたま次兄の虎之助が来ている時、桃水が立ち寄った、卵一折りを持参して。なぜか人力車でやって来て、外に待たせてあるとのことで、長くはいられない様子。無理に引き留められなかった。一葉は内心、拍子抜けしたのではないだろうか。この手紙は、桃水のおちつかない訪問の後に書かれたもののようである。

暑さはげしく候所いかゞいらせられ侯や御様子伺度朝鮮もやうやうけしきだつ様に承り侯間もしおぼし召立もや御ちかくながらつねに拝姿も得がたければ人のうわさのさまざまに驚かされて胸とゞろかれ申候 よは虫と笑はせ給ふな一筋に兄上様と頼み参らする身の心ぼそさ故に御坐候

もしその後の御立寄もやと待わたりまゐらせ候日数も今日はいくかに成候はん 御めにかゝらばしみじみお話も申上御をしへにもあづかりたしとはかねての願に御坐候を此ほどのやうに他人行儀の御義理合ひに御出下され候ては何事を申上らるべき

さりとは御恨みにも存じ候 御心もしらず御詞(おことば)一つをたのみに我れ一人妹気取のおろかさよしや世間のうくもつらくもお前様おはしませばと心丈夫にさだめて大海を小ぶねにて渡る様な境界み捨給はゞ波の下草にこそ候はめ

はるかに成し月日をかぞへ候へば私はお前様の御怒にふるゝ様なる事斗かさね申居候 罪は心浅き我れにあれば今更に人はうらまねど後悔のおもひにかきくらさるゝ朝夕をせめてはおもふほどのこと御聞にいれて御詫のかなはゞうれしかるぺくそれむつかしくはよそながら我心のうちにだけ兄上様とたのみ参らするを御ゆるしいたゞき度さりとて夢さらあやしき心ありてにはあらずかねての御気質をしれば何としてその様なこと申上らるべき唯々隔てなき兄弟の中ともならばとこれのみ終生の願ひに御坐侯をけふ此ごろのおぼしめし量がたさにおもひ侘申候

夕風すゞしからんほど御そゞろあるきのお序と申様な折に御はこびは願はれまじくや しゐては申がたけれどこれは欲の上の欲に御坐候

                                    かしこ

                                    夏子

師之君

    御前

*「朝鮮もやうやうけしきだつ様に」

対馬藩の藩医であった桃水の父は、版籍奉還(1869)後、釜山に渡り、倭館の医師をつとめた。倭館というのは(徳川時代、幕府から朝鮮外交を委任された対馬藩が釜山に設けていた施設。朝鮮外交を行うと同時に、藩営貿易によって収益を上げる、外交館兼商館という性質を持つもの)(上垣外憲一『ある明治人の朝鮮観 - 半井桃水と日朝関係』筑摩書房)。桃水は12歳の時、対馬から父のもとへ行き、そこで暮らし、朝鮮語を身につけた。後に東京で英学を学び、明治14年(1881)から大阪朝日新聞社の通信員として釜山に駐在。翌15年には『春香伝』を翻訳して『大阪朝日新聞』に連載した。また、この年、壬午事変(軍乱)が起こったので、同新聞に現地からの通信を連日送り評判になった。その後情勢の変化により、朝鮮問題について思うように記事が書けなくなった。しかし、明治21年(1888)から東京朝日新聞社の小説記者として『胡砂吹く風』を善くなど、つねに桃水が朝鮮の現実と動向に深い関心を抱いていたことを一葉はよく知っていた。

そこでまず、朝鮮のことを前文としたのであろう。

先日(15日)のせわしない(他人行儀)な訪問に対して残る恨めしさ、そして(その後の御立寄)を心待ちしていましたのに、と少し甘えるように、またしても(兄上様)(妹気取)〈兄弟の中)ということばを用いつつ、回想と反省をこめて、ふたたびの交際を、と迫っている。

これによって想像されるのは、3月末の復交以来一葉は屡々桃水を訪ねていることである。しかし、明治27年の「日記」は3月の後半〔3・29以降〕を欠き、4月以降は大半の記載がなく7月23日に筆をとめて、以後翌年に至る約5ヶ月間の記録を失っている。偶然の散佚か故意の破棄か、著作の多忙にまぎれたためか。

7月18日

子規『文学漫言』(『日本』連載~28日)。


「・・・・・俳句で、どのような文学表現が可能になるのか。「文学」としての「俳句」がどのようにあるべきなのかを、それまでの二項対立的認識を組み替えながら・・・・・論理化しようとした・・・・・


曰く先づ改良の第一着として和歌俳句の調和を謀らざるべからず。其調和を謀るには先づ和歌の言語に俳句の意匠を用ゐるを以て第一とす。和歌の言語とは単に雅言を用ゐ古文法を用うるの謂(い)に非ず。俳句の意匠とは固より俗情を穿(うが)つの謂に非ず。一言にして之れを云はゞ三十一文字の高尚なる俳句を作り出たさんとするに在るなり。


先に子規が主張していた「短篇」文学としての「和歌俳句」を「国粋」とし、その「調和を謀る」こと。その方法は「和歌の言語」に「俳句の意匠」を用いることだと子規は『文学漫言』 の結論として主張している。

この「和歌俳句」こそ「国粋」であるという主張の前提には、二項対立的布置によって「文学の種類」を論じた「内国と外国」における、地政学的な短詩型文学論の論理的前提がある。

子規は、まず「西洋」と「東洋」を対比し、「東洋」と言っても一元的ではないとして、「支那文学」と「本邦文学」を対比的に論じていく。「本邦文学」は、常に「外国の刺撃を受け外国文学の幾分を輸入し」たことによって大きく「変動」しており、「一概に」「本邦文学」と規定するわけにもいかないとしながらも、「支那文学」と「本邦文学」における四つの違いを抽出している。


第一彼は簡潔を尚(たつと)び我は紆余(うよ)を尚ぶ。第二彼は雄渾壮大に長じ我は優美繊柔に長ず。第三彼には言語多く我には言語少し。第四彼には長篇多く我には短篇多し。


第一の違いは、表意文字としての漢字を使用する「支那語」と、芭蕉論において子規が意識化していた「響き長くして意味少き」「国語」との違い。この二項対立的枠組で考えるなら、中岡文学は短くなり、日本文学が長くなるはずなのだが、子規は「第四」の違いとして中国文学には「長篇」が「多く」、日本文学には「短篇」が「多」いとしている。それはなぜなのか。その理由は、「第二」「第三」の違いによって説明されている。

「第三の理由」はわかりやすい。「言語」の数において「支那語」は「殆んど窮(きわま)りなし」だが、「固有の邦語」は「指を屈して」「数」えるほどしかない。

単純ではないのが、「第二」の理由だ。ここに子規の文学的地政学があらわれている。中国文学が「雄渾壮大」なのは、「言語」だけではなく「天然の国土風光」の在り方に規定されていると子規は主張する。すなわち、「支那」の国土のはばと広さは「数千里に度る」「大国」であり、「大河あり大山あり大廈(たいか)あり大都あり」と、全て「壮大」である。

それに対し日本の場合は「山水秀媚」で、「数百里の小国」であり、「山美なり海美なり家美なり街美なり」という「国土風光」だからこそ、文学も「優美繊柔」になる、と子規は強調する。「美」によって貫かれた「国土風光」を持つ「小国」にふさわしいのは、「短篇」の「韻文」としての「和歌」と「俳句」であり、この二つのジャンルの「調和」をはかりながら改革していくことこそが、「国粋を発揮」していくことになる、と子規は言う。この「小国」の文学論が、『文学漫言』の結論を導いていく。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))


7月18日

李鴻章から平壌移駐を命ぜられた葉提督、海路移動は危険な状況で、むしろ現地を固守すれば、し日本軍の京城・釜山連絡船を遮断できるので増援部隊を要請。

19日、李鴻章、天津付近の部隊2,300に出動命じる。

7月19日

大鳥公使より、朝鮮政府が日本軍の撤退を要求し内政改革の日本案を拒絶した。清韓宗属関係破棄などを実行するまで王宮諸門を占領する「乙案」実行準備着手を伝える。天皇は、外相の考えを確認するよう徳大寺侍従長に命じる。陸奥は、大鳥公使に「このときに当り、閣下は自ら正当と認むる手段を執らるべし」と訓令。但し、「我兵を持以て王宮及漢城を囲むるは得策に非ずとおもわれば、之を決行せざる事を望む」と付け加える。

「7月19日午後6時発

                    東京 陸奥大臣

 京城 大鳥公使

朝鮮国政府改革案の拒絶に対し適宜の処置をとるべき旨訓令の件、朝鮮政府は遂に我が改革案を拒絶したる件に関する貴電接受せり。此の時に当り閣下は自ずから正当と認むる手段を執らるべし。併し本大臣の51号電訓の通り他外国と紛紜(ふんうん)を生ぜざる様充分注意せらるべし。而して我兵を以て王宮及び漢城を固むるは、得策に非ずと思わるれば、之を決行せざる事を望む


19日、大鳥は旅団長大島に面会し開戦への協議を行う。

同日、大鳥公使は朝鮮政府に2つの要求を提出。

(1)京釜電線代設工事強行通告

(2)日本軍警備兵宿舎設置要求


回答の期限は7月22日、3日後である。「最後通牒」(Ultimatum)である。

7月19日

大本営、連合艦隊編成(司令長官伊東祐亨(すけゆき)海軍中将。朝鮮西岸を制圧し清国増援隊阻止派遣阻止命ずる。京城の混成旅団長(大島義昌少将)には、清軍の増加ある場合は「主力を以て眼前の敵を撃滅すべし」と命じる。この日、陸奥外相は西郷海相に対し、対清覚書の回答期限(24日)であり、25日以降の行動の自由を保障。



つづく


【パレスチナと連帯するアメリカの大学生たち】 BBCニュース - 米大学での「反ガザ攻撃デモ」、キャンパス内で何が 学生らの思いは(動画) / NY大の学生や教職員逮捕 コロンビア大の親パレスチナデモ、全米の大学に飛び火(CNN) / コロンビア大学。パレスチナ支援運動が続き、全学がリモートに。教授陣もウォークアウト / コロンビア大学は、学生が1週間、芝生の上でテントに泊まるのを許可すると発表した。 / 名門MITの有志たちも立ち上がる。MITの学生・職員らで野営地『ジェノサイドに反対する科学者の陣」を設置 / NYU(ニューヨーク大学)。大学側がガザ支援活動を行う学生の大量逮捕を通告。学生を守るために教授/教員が立ち上がった。 ⇒ NYUではプロテストする学生を囲っていた教員たち全員が逮捕された様子 / 米エール大で60人逮捕 イスラエル軍への抗議活動、米大学で過激化(朝日)←「過激化」? / カリフォルニア大学バークレー校にも「ガザ連帯キャンプ」が設営されました / ハーバード大学でもガザ連帯キャンプ設営を開始 / ジョージタウン大学でもパレスチナとの連帯、始まりました!!  / 「哲学科のオフィスに電話して、私が逮捕されたと伝えてもらえますか?…私はノエル・マカフィー、哲学部の学部長です」 / FIT(ニューヨーク州立ファッション工科大学) でもがガザ連帯キャンプが設営された!  これでニューヨーク市内5校目。もう止まらない。                     

 



 

森元首相「私を陥れる作り話」 月刊誌で反論、還流関与を否定 (共同) / 「私から電話があったことをおっしゃらないでください」森喜朗元首相が、岸田首相「事情聴取」の全容を明かした!(文春オンライン) / 岸田首相が「私の責任で聞き取り調査を行いました。記録はございません」と答弁すると、委員会室から「うわー」という声があがった。(朝日4/22) / 裏金問題 森元首相に「国会で説明求めるべきだ」84% 世論調査 | 毎日新聞 / 下村博文「森会長の時にそういうスキームを作って」「もし国会で『その通りでしょう』みたいなことを言ったら…大騒ぎになる」 / こどものおつかい以下! 〈電話で事情聴取なんてありえない 森氏は「ご機嫌伺いのような話だった」と言ってる〉 → 岸田総理 森元総理への聴取は「やりとり明らかにしない前提」で実施 裏金事件への関与は確認できずと改めて強調(TBS) / 「内容を明らかにしない事情聴取というのは事情聴取ではない」 / 岸田首相の森喜朗「電話聴取」の一問一答がヤバすぎ《茶番劇「ご指導をお願いしたい」の一部始終》          

 

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円安加速、34年ぶり158円台 米「3高」に歯止め利かず(日経) / 「もはや、ベトナム通貨のドンより日本円は弱くなっていて、この一年で対ドンで日本円は40%ほど目減りした。今後はベトナムから日本に働きに来てくれる人がいなくなるのではないか」  / 植田日銀総裁(4/26)「無視しえない影響が発生するのであれば、、、」 / 日銀 金融政策の現状維持を決定 円相場は1ドル=156円台後半 加速する円安に…植田総裁“物価上昇に大きな影響を与えていない”との認識を示す / 止まらない円安 実は「円弱」 日本は“後進国”に転落か 国力低下の現実とは【報道1930】 / 加谷珪一氏 「政府は『アメリカの景気が悪くなってくれるだろう』と楽観的な見通しで、なんとかなると踏んでたんですが、予想外に米国の景気がいいので、円安傾向は当分続く」 / 榊原英資氏は「理由のある円安なので特に介入する必要はないという判断を当局はしている」と予想。政府・日銀は、為替介入には動かないとみている / (多事奏論)異次元緩和の末 超円安、「新興国化」する日本 原真人(朝日 有料記事);〈昨今の超円安は日本を「新興国化」させた。それが腑に落ちる風景がそこかしこに…高級ホテルや人気レストランは、高額料金を割安と感じる外国人観光客に席巻されている。日本人は相対的に貧しくなった。これこそ 紙幣を刷りまくり バラまいてきた財政金融政策の末路である〉 / TSMCバブルに沸く熊本“台湾タウン”に潜入 「台湾人管理職の年収は2350万円」「残業しない日本人のシワ寄せが台湾人に」(マネーポストWEB) / 寺島実郎さん ⇒日本は、IMF予測でGDPがインドに来年抜かれると報道が。アベノミクスの10年の間に円の価値が半分に。日本が一気に途上国化してきている認識が重要。国民窮乏化政策に近い。          



 

 

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2024年4月26日金曜日

「基本貫く」と広島市長 平和式典のイスラエル招待(共同);「ダブルスタンダードに見えるとの質問に「あなたの解釈です」と声を荒らげる場面もあった。」 / 平和を訴える立場であるなら、「式典にロシアを招待しない一方、イスラエルを招待するのはダブスタにならないか?」と真っ当な質問をした女性記者に恫喝するような答え方、、、



 

カリフォルニア州政府が、同州における蓄電池の導入量が10GW(1,000万キロワット、原発10基分)を超えたと発表。同州の電力需要は概ね20GW台なので、半分弱に当たる柔軟性を供給している。驚異的なスピードで電力システムが進化している。

フジテレビがテレビ東京を下回り「視聴率最下位」に、低迷の理由は「間違いなく上層部のセンスがない」同局元アナウンサーがバッサリ「幹部は総辞職するべき」 | 週刊女性PRIME

 

大杉栄とその時代年表(112) 1894(明治27)年7月9日~13日 陸奥外相、「日清の衝突をうながすは今日の急務なれば、これを断行するためには何等の手段をも執るべし、一切の責任は予みずからこれに当るを以て、同公使は毫も内に顧慮するにおよばず」との訓令

 


大杉栄とその時代年表(111) 1894(明治27)年7月1日~8日 ラフカディオ・ハーン、五高を退職 イギリスの仲裁に清国が受け入れ難い項目を入れる(筋書き通り調停不調) 一葉、父方の従兄弟の死に衝撃を受ける 大鳥公使、朝鮮政府に改革綱領を提示 アメリカのプルマンスト鎮圧 尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止 より続く

1894(明治27)年

7月9日

天津駐在海軍武官滝川大尉(変名使い諜報活動)、華北一帯で豪雨が続き、鉄道・電線が破壊・普通、道路も泥濘で移動困難と伝える。

7月9日

井上内相、「全国同志新聞記者聨合事務所処分の件」を閣議に付すよう伊藤首相に請議。園田警視総監の意見を採用したもの。13日閣議、同盟を政社と認め、政社法で処分することを決定。法制局意見や決議付帯条件について再検討され、19日閣議で改めて決定。20日、志賀重昂・大岡育造が呼ばれ、24日解散に到る。

7月9日

一葉日記より

九日 早朝、くらを送て上野に行。上野丁の小松星といへる旅店に、知人の待合せ居りて、共に帰県をなすよしに付、同家までゆく。上野よりにはあらで、新宿の汽車にて行よしなれば、我れはこゝより帰宅。朝飯をしまひて、無沙汰み舞に伊東、田中の両家を訪ふ。日ぐれまで遊ぶ。田中ぬしのもとにありける『艶道通鑑』とて、五冊ものゝ随筆めける、小出ぬしの蔵書のよしなるをかりる。

7月10日

朝鮮、大鳥圭介公使、内政改革調査委員と会見。南山麓の老人亭。実行期限(3日以内に議決、10日以内に実行)を付した内政改革方案綱目5条27項をに提出。第3回の会談で日本の提案拒否。朝鮮政府内では内政干渉との反対論沸騰。

7月10日

一葉日記より

十日 禿木子より状(ふみ)あり。「森君のもとにて、田中ぬしの紀行よろしきよしに付、本名、宿処、報道あり度し」となり。返事つかはす。奥田君来訪。

十一日 師君のもとへ行く。田中ぬしも盆礼として来訪。雑誌の事を語るに、喜色あふるゝやう也。師君いかなるにか、衣類その他を質入して金子をとゝのへ給へるよしにて、加藤の妻より、我れは金子をうけとる。師君ははやく出稽古に趣給ひぬ。此日、日ぐれ前より雷雨、中々に晴がたし。夜に入りてより帰宅。佐藤、盆礼に来たりしよし。

(先生はどういうわけか、衣数などを質入れなさってお金を準備なさったとのことで、私はそのお金を加藤の未亡人から受け取る。)

7月12日

清国、文廷式の上疎。北洋海軍の無能を攻撃。ロシア一辺倒の李鴻章の外交政策批判(ロシアの南下阻止こそ重要)。即時、清国軍の韓国派遣要求。

7月12日

閣議、イギリスの調停を清国が拒否したことを理由に、清国に対し今後不測の変があっても日本はその責に任ずることはできない旨の声明発する決定。小村代理公使に電訓(「第2次絶交書」)。陸奥外相は、大鳥公使に対して「訣別類似の電訓」(世界の非難が最小になるような口実を選び積極的行動を始める)を送る。

同日、陸奥、青木駐英公使に清国との紛争が重大化した為、イギリスとの条約調印を急ぐよう指示。青木公使はイギリス政府に、14日迄に調印しうるならば帽子・砂糖の関税については譲歩すると告げ、イギリス政府はこれを承諾。

「清国トノ葛藤愈々切迫セリ、可成条約調印ヲ急ガレタシ」と打電し、調印に必要な一切の条件を譲歩せよと命じる。

同日、大鳥公使の特命を帯びて帰国した外務省参事官本野一郎、福島中佐、清国軍を朝鮮から駆逐しないと内政改革の見込みなしと外相・参謀本部に上申。

翌日、両名は京城に帰任。陸奥外相は「日清の衝突をうながすは今日の急務なれば、これを断行するためには何等の手段をも執るべし、一切の責任は予みずからこれに当るを以て、同公使は毫も内に顧慮するにおよばず」との訓令を託す。

「国民新聞」、「朝鮮に対する発言権は我が邦の独占に帰したるものなり」。

7月12日

一葉、桃水を訪問。変わらぬ桃水への思慕と「潔白清浄」に生きて貞節を守ると願う。

「十二日 到来物のありしかば、半井君を訪ふ。めづらしくこゝろよげにて、にこやかに物がたらる。されども、来客のありければ、長くもかたらで帰るに、「いづれちかくに御音(おおと)づれ申べし。十五、六の両日のうちに、雷雨なくはかたらず」といふ。たけくをゝ敷此人のロより、かみなりの恐ろしきよしを聞こそをかしけれ。」

(「いずれ近いうちにお訪ねするつもりです。十五日か十六日のうち、雷や雨がなかったら必ずお訪ねしますよ」とおっしゃる。強そうで如何にも男らしいこの方の口から、雷が恐ろしいなどと聞くのは、可笑しい気持ちでした。)

「静かにかぞふれは、誠や、此人とうとく成そめぬるは、をとゝしのけふよりなり。隔たりゆく月日のほどに、幾度こゝろのあらたまりけん。一度は、これをしをりにして悟道(ごどう)に入らはやとおもひつる事もあり。一度は、「ふたゝびと此人の上をば思はじ。おもへばこそさまざまのもだえをも引おこすなれ。諸事はみな夢、この人こひしとおもふもいつまでの現(うつつ)かは。我れにはかられて我と迷ひの淵にしづむ我身、はかなし」と、あきらめたる事もありき。そもそも思ひたえんとおもふが我がまよひなれば、殊更(ことさら)にすつべきかは。冥々の中に宿縁ありて、つひにはなれがたき仲ならばかひなし。見ては迷ひ、聞てはこがれ、馴ゆくまゝにしたふが如き我れならば、遂に何事をかなしとげらるべき。かく計(ばかり)したはしく、なつかしき此人をよそに置て、おもふ事をもかたらず、なげきをももらさず、おさへんとするほどにまさるこゝろは、大河をふさぎてかへつてみなぎらするが如(ごと)かるべし。悟道を共々(ともども)にして、兄の如く妹のごとく、世人(よびと)の見もしらざる潔白清浄なる行ひして、一生を送らばやとおもふ。」

(心静かに数えてみると、本当にこの人との間が疎遠になり初めたのは一昨年の今月からでした。その後、月日がたつにつれて私の心は何度変わって行ったでしょうか。或る時はこれを栞として悟りの道に入ろうと思ったこともあり、また或る時は、もう二度とこの人のことは思うまい、思うからこそ色々の悩みが湧いてくるし、人生はみな夢のように消えるのだから、この人を思う現実の心も何時まで続くとも思われず、こんな迷いの中に沈んで行くことの何とはかない事よとあきらめた時もあったのでした。しかし、あきらめようと思うこと自体が迷いなのだから、わざわざあきらめる必要もないように思われる。お互いに知らなくても、それぞれに前世からの因綾というものがあって、離れられないものならば、それも仕方のないことと思う。お逢いしては恋しく思い、お声を聞いてはますます焦がれて行くような私ならば、結局はこの一生を何もしないで終わるのでしょうか。こんなにも慕わしく懐かしいこの人に対して、思う事も言わず、愚痴も言わずに、ひたすら気持ちを抑えてばかりいると、恋の心はかえって大きくなり、大河の流れを塞いでかえって水を溢れさせるようなものでしょう。そこでお互いに悟りの道に志して、兄のように、また妹のように、世間の人がまだ誰も知らないような潔白清浄な関係でこの一生を送りたいと思うのです。)

7月13日

朝鮮政府、議政府に校正局をおき、総裁官・堂上を任命。

7月13日

ロシア公使、陸奥外相に対して、日本政府が出した撤兵勧告の拒否回答を了承する旨の書簡を渡す。

7月13日

対韓同志会(志賀重昂・徳富蘇峰ら)、緊急会議。開戦促す。この頃、「国民新聞」など新聞論調も強硬論。

〈陸奥「蹇々録」が語るこの頃の動き〉

「明治二十七年七月十三日付を以て、青木公使は余に電稟して日く、『本使は明日を以て新条約に調印することを得べし』と。而して余が電信に接したるは抑々如何なる日ぞ。鶏林八道の危機方に旦夕に迫り、余が大鳥公使に向ひ、『今は断然たる処置を施すの必要あり、何等の口実を使用するも差支なし、実際の運動を始むべし』と訣別類似の電訓を発したる後僅かに二日を隔つるのみ。余が此間の苦心惨澹・経営太忙なりしは実に名状すべからず。然れども今此喜ぶべき佳報に接するや頓に余をして積日の労苦を忘れしめたり」(「蹇々録」)。


つづく

2024年4月25日木曜日

大杉栄とその時代年表(111) 1894(明治27)年7月1日~8日 ラフカディオ・ハーン、五高を退職 イギリスの仲裁に清国が受け入れ難い項目を入れる(筋書き通り調停不調) 一葉、父方の従兄弟の死に衝撃を受ける 大鳥公使、朝鮮政府に改革綱領を提示 アメリカのプルマンスト鎮圧 尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止  

ラフカディオ・ハーン

大杉栄とその時代年表(110) 1894(明治27)年6月21日~30日 清国、日本の朝鮮共同改革提案を拒否 陸奥、次の手(御前会議~第1次絶交書)をうつ 日本軍混成旅団主力、仁川から京城へ移動 加藤増雄書記官が京城に到着し「曲ヲ我ニ負ワザル限リ、如何ナル手段ニテモ執り、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」との内訓を大鳥公使に伝える より続く

1894(明治27)年

7月

有賀長雄(日清戦争に万国公法担当法律顧問として従軍)、ブラッセル宣言を陸軍大学校に提出。

7月

ラフカディオ・ハーン、熊本の五高を退職。 神戸のジャパンクロニクルに就職、神戸に転居する。

7月1日

駐日イギリス公使ラルフ・ページェット、外務省を訪れ日本の妥協を要請。別に、キンバリー外相も青木駐英公使に妥協を求める。

イギリスは、清国の韓国への宗主権を認めロシアの南下を防ぐという現状維持論がベース。青木公使は、清国が元山に、日本が釜山に駐兵する条件でイギリスの調停に応じるのが得策と上申。

伊藤首相は、これを容れ、大鳥公使には進んで激越な処置をとらぬよう、参謀本部には大島旅団に急激な処置をとらぬよう指示。

陸奥外相はこれに不満で、イギリスの調停受諾条件に、清国が受入れ難い「政治・通商上の均一な地位」を入れる。李鴻章は同時撤兵が先決と主張。

イギリスは、ロシアが紛争調停し、日清間に勢力を伸張する事を恐れ、「露国ヲ局外中立ノ地ニ立タセ置夕為メ」に、仲裁に立とうとする。イギリスも朝鮮の現状維持を期待するが、政策のウエイトはロシアの南下阻止に置かれる。日本はこれを見抜き、その提案に同意しつつ、清国が受け入れられない朝鮮における政治上・経済上の同一特権を要求。これは第3回目の挑発。

7月1日

下谷区上野桜木町の丸茂病院(院長は山梨出身の丸茂文良)で治療を受けていた一葉の父方の従兄弟の樋口幸作が急死、大きな衝撃を受ける。丸茂病院は皮膚科の医院。幸作はハンセン病との説もある。一葉は、幸作の突然の死に自分の短命を予感。樋口くらは幸作の妹で、入院している幸作に付き添っていた。


「七月一日 芳太郎来訪。しばしありて、横須賀より野々宮君参らる。かなしく、浅ましく、かつは哀れにも、はづかしくも、さまざまなる物語をかたり出る。失敗の女学生が標本ともいふべきにや。十時頃成けん、桜木丁より使来り、幸作死去の報あり。母君驚愕、直に参らる。からはその日寺に送りて、日ぐらしの烟とたちのばらせぬ。浅ましき終(おはり)をちかき人にみる。我身の宿世(すくせ)もそゞろにかなし。(「水の上日記」)

*「日ぐらし」;北豊島郡日暮里村の火葬場。

*野々官菊子は結婚に失敗して、この年の二月から横須賀小学校に勤めていた。

(七月一日。芦沢芳太郎が来る。しばらくして横須賀から野々宮菊子さんが見える。悲しく、情けなく、また可真相な身の上話をなさる。彼女は本当に失敗した女学生の見本とでも言うべきでしょうか。十時頃だったでしょうか、桜木町の病院から使いが来て、幸作さんの死去を知らせてくる。母上は驚き慌ててすぐ病院に行かれる。なきがらはその日のうちに寺に移し、日暮里の火葬場で茶毘に付されたとのこと。悲しく情けない人生の終焉を身近な人の上に見て、私の一生のことも考えられて何となく悲しい思いでした。)

7月2日

「二日 早朝、母君およびおくらと共に、日ぐらしに骨ひろひにゆく。山川程を隔てたる叔甥の、おなじ所に烟とのぼるは、こものがれぬ宿縁なるべきにや。「おはしまさば」と、今日はなき人に成し父上嬉しとおもふ。」

*一葉の父則義は明治22年7月12日死去、同14日に日暮里火葬場にて茶毘に付された。

(二日。早朝、母上やおくらと一緒に日暮里の火葬場に骨拾いに行く。遠く離れて別別の人生を生きた叔父と甥が同じ火葬場の煙となって消えて行くのも、これものがれられない前世からの因縁だったのでしょうか。父上が存命であったらどんなに悲しまれただろうと思うと、今日ばかりはおなくなりになっていたことが嬉しい気さえするのでした。)

7月2日

米、連邦裁,シャーマン反トラスト法違反を理由にプルマンのストに禁止命令. 

7月3日

陸奥外相、大鳥公使に、内政改革要求中に鉄道・電信の権益獲得条項を入れること、政務局長栗野慎一郎を派遣するので4日迄、実行行為を避けるよう命令。

7月3日

朝鮮、大鳥圭介公使、外務督弁に改革綱領を提示。回答期限を8日正午とする。朝鮮政府は内政改革調査委員を任命。

7月3日

クリーブランド大統領,スト鎮圧のため連邦軍など1万4千名出動・弾圧.死者13名. 

〈プルマン・ストライキ〉(「日本大百科全書(ニッポニカ)」より)

アメリカ合衆国の19世紀末の労働争議。1894年5月、シカゴ郊外にあった発明家プルマンGeorge Mortimer Pullman(1831―97)の経営するプルマン寝台車製造会社の大幅賃金切下げに抗議して、アメリカ鉄道組合に属する労働者がストに入った。会社側が交渉拒否、首切りの挙に出たため、デブス(後の社会党党首)を長とする同組合は、6月下旬、寝台車取扱いをボイコットし、各地で鉄道輸送を止めた。経営者団体が、同時に郵便車阻止となるように工作したため、組合側は公務妨害を問われることになった。政府は作業員を派遣して一部列車を動かし、裁判所は差止め命令を出した。なお従わぬ組合に対し、クリーブランド大統領は連邦軍を派遣し、抵抗する労働者に発砲させたため、7人死亡、多数負傷のうちに組合は敗れた。デブスは法廷侮辱および州際通商妨害による反トラスト法違反で投獄され、社会主義思想に傾いていった。また、このとき用いられた差止め命令と反トラスト法は、その後長く労働者を苦しめるものとなった。[長沼秀世]

7月4日

対外硬派大演説会。神田錦輝館。大井憲太郎、犬養毅、新井章吾、小林樟雄、福田友作。

7月4日

この日付け福沢諭吉、「時事新報」社説「兵力を用るの必要」。

「斯る頑民(朝鮮人民)を導て文明の門に入れんとするには、兵力を以て之に臨むの外、好手段あることなし」と云う。更に、17日付けの社説では、「抑も今回日本政府が隣国(朝鮮)の国事改革を謀るは、其国を日新の門に導き国民を無政無法の塗炭に救ふて文明の恩沢に浴せしめ、世界万国と共に天与の幸福を与にせしめんとするの義挙にして、俯仰天地に愧ぢず・・・」と述べる。

27日付け「時事新報」では、「今日に到りては押し問答は無益なり。一刻も猶予せず、断然支那を敵として我より戦いを開くにしかざるなり・・・直ちに開戦を布告して、もって懲罰の旨を明らかにすると同時に、彼支那人をして自ら新たにするの機を得せしむるは、世界文明の局面において大利益なるべし」と述べ、清兵が集結する朝鮮牙山への進撃を希望。

7月4日

ハワイ、共和国となる。サンフォード・ドール判事(50)大統領選出。

7月5日

大屋晋三、誕生。

7月5日

尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止となる。

「明治二十七年の風俗壊乱としては、尾崎紅葉・渡部乙羽校訂の『西鶴全集』(上・下巻)がある。五月二十日(上巻)と六月十二日(下巻)の発行で、上巻千十八頁、下巻千二十二頁という分厚い背革の立派な本である。渡部乙羽が上巻で「西鶴是非」を書いているが、古人の西鶴についての諸説を列記して、なかなか手がたい解説となっている。七月五日に発売を禁止された。」(平凡社「別冊太陽」シリーズ『発禁本』)

7月7日

イギリスの調停により、北京で小村寿太郎代理公使と清国との交渉、筋書き通り成果なし。

9日も。陸奥外相は好機到来と判断、「我国将来の行動上ようやく自由を得た」と喜ぶが、イギリスとの条約改正が未実現という問題があり、条約改正に成功するまでは、ロシアに与えた言質からも、日本から戦争を仕掛けることはできない

7月7日

駐清ロシア公使カシニ、日清紛争へのロシアの積極的干渉を上申。

10日、本国政府は、①極東ロシア軍の兵力不充分、②日本が撤兵に応じないとき、ロシアが戦争に巻き込まれる危険がある、③単独干渉では、外交上ロシアは孤立する、ため紛争に干与することを絶対に希望しないと訓令。欧米諸国の日本を妨害する可能性は消滅。

7月7日

山県、桂太郎第3師団長に、「此際、欧州諸大国之容喙不致之時期ニ授ジ、兵端を開く可き手段を尽シ、工夫を凝シ」ていると伝える。

7月7日

一葉の日記より

「七日 小石川稽古日也。十二日までには是非金子(きんす)の入用(いりよう)あるに、此月は別していかにともなすによしなく、「師君(しのきみ)に申てこそ」とこゝろは定めたりしを、さても猶いひおくれて、昨日までに成ぬ。「今はいかにしても言はではあられぬ時」とて、夕べ書物(かきもの)おはりて帰るさに、文したゝめて机の上に残し置し。されば、今日の稽古日に何とかの給ふべきは道理なり。よきこたへならは嬉しけれど、例(いつも)の気質も知らざるにはあらぬ師君が、いか様なる事やの給(たまふ)らん。」


(七日。小石川の稽古日。十二日までには是非ともお金が必要なのに、今月はとりわけどうしようもなく、先生にお願いしてと心に決めていたのに、それも言い出せずに昨日まで過ぎてしまった。今日はどうしてもお願いせずにはおれない時まできてしまったので、昨日の夕方書き物の仕事などすべて終わって帰りがけに、手紙を書いて机の上に残しておいたのです。だから今日の椿古日には先生はきっと何かおっしゃる筈です。善いご返事なら嬉しいけれど、いつもの先生の気性を知っているので、はたしてどのようにおっしゃるでしょうか。(以下五行抹消))

7月8日

陸奥外相、大鳥公使にイギリス政府が調停を提起したことを伝え、事態好転の見込みは「物質的利益」の獲得にあると注意。

7月8日

一葉の日記より

「八日 平田君来訪。田中ぬしが「かまくら紀行」、いづくの雑誌にか記載のこと頼む。「これより森鴎外君のもとに趣けば、同君にたのみて、『しがらみ草紙』などに出さばや」とてかへる。午後、中島くら殿来訪、物語多し。夜食を馳走してかへす。樋口のくらも来る。「明早朝、一番汽車にて帰郷したし」とあるに、今宵はみやげ物などとゝのふる為、本郷通へ諸共に行く。」

*「かまくら紀行」:明治25年7月1日~5日、中島歌子と鎌倉に旅行した折の紀行。「しがらみ草紙」第58号に掲載。


つづく

兵庫県の記者聴取「変更指示できない」 知事、新聞労連の抗議受け 批判文書問題(神戸4/26) / 元県民局長が作成した知事らへの「告発文」、県議が内容の外部調査を要望…知事は否定的(読売) / 県民局長の斎藤知事批判文書問題 兵庫県人事課が本紙記者を聴取 (神戸新聞) / 「贈答品」県幹部が返却 県職員「告発文」問題 加西の会社に(読売) / 兵庫・斎藤知事を揺るがす「告発文書」 阪神・オリックスパレードにも疑惑が(AERA) / 兵庫県知事を中傷する文書、筆者の元幹部が公益通報 解任され、県の調査は「真相究明できない」(神戸新聞) / 兵庫県の斎藤知事 自身の疑惑の真偽、明言避ける  「一つ答えると次も次もとなる」  解任の元県民局長文書問題(産経) / 内部告発された斎藤知事、会見にて『反論文書はまだ見ていない』という裏設計を開始20秒足らずでバラしてしまう… 「報道等では承知していますけど、私については内容そのものは承知していないことになっています。(アッ!)してません!」 / 兵庫県庁大激震!定年退職直前の幹部職員が知事などの行為を内部告発!そのウラ事情とは?(YouTube) / 知事や職員を中傷する文書流布か 退職間際の兵庫県幹部、処分を検討(朝日) / 兵庫県幹部が知事を中傷する文書を配布 知事「うそ八百」と解任、退職認めず 報道機関や県警が入手(神戸新聞) / 「定年退職が近い県民局長が知事らを批判する文書を作成し、報道機関や議会などへ送っていたという。退職が目前なのに降格処分を覚悟しての確信犯的行動だろうが、むしろ局長にそこまでさせた兵庫県で何が起こっているかが気にかかる。— 吉富有治」