2008年12月28日日曜日

師走の鎌倉2(長谷観音、長谷大仏)


















長谷観音に何故か久米正雄像が。理由はまだ調べてません。
観音様は撮影禁止。
あと1時間ほど後の拝観であれば、つきたてモチのふるまいに遭遇できるところ、そういう準備の真っ最中でした。
ここから由比ヶ浜の眺めもなかなかのもの。写真はヘタですが。
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入口を入ると大仏があり、その他には何もない、これがまたいいとこかな。
大仏の胎内拝観は追加で20円。
昔、この長谷大仏から見れば奥(江ノ島側)に住んでいたことがあります。
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突然ですが、最低生活権とか国の責任とかについての憲法条文を確認したくなりましたので、下記します。
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第25条【生存権,国の社会的使命】
(1)すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
(2)国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
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昭和12(1937)年12月21~24日 南京(11) 便衣狩り「査問工作」 和平工作無用論

12月21日
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・第16師団歩30旅団長佐々木到一少将、南京地区西部警備司令官(21日付)・城内粛清委員長(22日付)・宣撫工作委員長(26日付)の肩書きをもらい、月末から年頭にかけて苛烈な便衣狩りを再開
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上海派遣軍司令部は、第16師団(中島今朝吾中将)を南京城区、湯山鎮、句容、待秣陵関など近郊区の占領維持に残留させ、第13師団に長江北の六合県一帯を警備させる。
第16師団は、上海戦で大きな犠牲を強いられ、南京攻略戦に駆りたてられ、「南京一番乗り」をめざした部隊で、南京城攻防でも最強の教導総隊を相手に多数の犠牲を出し、それだけに中国軍民への敵慌心が強く、中島師団長の傍若無人の性格とも相俟って、軍紀弛緩の著しい部隊。その為、南京での日本軍の残虐事件は、数は減少するものの、虐殺・強姦・略奪・放火などの蛮行が続く。
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・この日付け上海派遣軍参謀長飯沼守少将と上海派遣軍参謀副長上村利道大佐の「日記」。
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「十二月二十一日 大体晴 荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。」(「飯沼守日記」)。
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「十二月二十一日 晴 ・・・N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。」(「上村利道日記」)。
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・長谷川司令官、列国外交団に揚子江通航の差控を通告。23日、列国自由航行権保留を回答。
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・新しい修正加重和平条件(14~17日、大本営政府連絡会議の結論)、閣議決定。翌22日、ディルクセン駐日独公使に提示。
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本来の戦争目的である防共・資源・市場を柱とする華北制圧要求を基本として、それを全中国制圧要求へ膨張させたもの。
①「満州国」正式承認、
②排日反満政策放棄、
③華北・内蒙に非武装地帯設定、
④華北特殊政治機構設定と「日満支経済合作」、
⑤内蒙古防共自治政府設立、
⑥防共政策確立、
⑦華中占拠地域に非武装地帯設定、大上海市区域の共同治安維持・経済発展、
⑧資源開発・関税・交易・航空・通信等に関する協定の締結、
⑨賠償、および華北・内蒙・華中の一定地域の保障駐兵。
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・新橋の地下鉄工事現場でガス爆発。6店舗全焼、3人重症。
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・アメリカ、女優ジェーン・フォンダ、誕生。
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12月22日
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・中支那方面軍司令官松井石根大将、南京より上海に向かう。
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「上海出発以来ちょうど二週日にして南京入城の大壮挙を完成し、帰来する気持ちは格別なり。これより謀略その他の善後措置に全力を傾注せざるペからず」と満足感と傀儡新政権樹立工作への意欲を漲らせる(「松井石根大将戦陣日記」この日条)。
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「十二月二十三日(晴) 二週間振(リ)ニ帰来ス 上海情勢漸次平静ニ向ヒツツアルモ南市ノ処分未タ終ラス 滬西方面ニアル外国人ノ居住モ一応ハ許可セルモ 支那人ノ出入自由ナラサル為メ実行意ノ如クナラス 其後ノ謀略ニ付原田少将、楠本大佐ヲ召致シテ情況ヲ聞ク 是亦多少共進展ノ模様ニテ上海在住実業家ヲ網羅スル和平、救民運動ハ漸ク其緒ニ就カントシツツアルモ未タ十分ノ纏ヲ見ス 一層ノ努力ヲ要スルモノト思ハル 思フニ先日来のパネー事件、蕪湖事件等英米抗議ニ対スル東西ノ衝撃か兎角ニ上海支那人中ニモ鋭敏ニ影響スルモノアリシ乎」(「松井石根大将戦陣日記」23日条)。
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・この日付け第9師団歩兵第7連隊第2中隊井上又一上等兵の日記。敗残兵殺害。
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「壱拾弐月弐拾弐日・・・夕闇迫る午後五時大体本部に集合して敗残兵を殺しに行くのだと。見れば本部の庭に百六十一名の支邦人が神明に控えている。後に死が近づくのも知らず我々の行動を眺めていた。百十六余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。日はすでに西山に没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も点々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落ち着きを失っているを見る。戦に敗れた兵の行く先は日本人軍に殺されたのだ。針金で腕を締める、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調をとって歩く兵もいた。突かれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げるためにしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人が飛んできたのを突殺す。暗き中にエイエイと気合いをかけ突く、逃げて行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、一時此の付近を地獄のようにしてしまった。終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけ、火の中にまだ生きて動いている奴が動くのを又殺すのだ。」
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・陸軍省局長会報に出た阿南惟幾人事局長、「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり」(阿南資料)とメモに記す。
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・日本無産党、日本労働組合評議会、結社禁止。司法省発表「いまや民主主義自由主義等の思想は共産主義思想発生の温床となる危険性が多分にある」。
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日本無産党:
労働組合法など社会立法獲得のため全評(日本労働組合全国評議会)、東交(東京交通労働組合)、関消連(関東消費組合連合会)などを中心に組織されたカンパニヤ組織である労農無産団体協議会が、戒厳令下の府議選を前にして政治結社に発展したもの。社大党との間に摩擦を生じ、内部から全農(全国農民組合)などの脱退を生んだため解体の上、改めて再結成された同名の協議会が、社大党への無条件合同提案が拒否されて戦線統一を断念し、1937年3月、社大党に対立する全国的政党として日本無産党と改称したもの。
「ファッショの撲滅」、「無産政治戦線の統一」等のスローガンで、4月の総選挙には3名が当選(得票数10万票)。日中戦争勃発後は、友誼団体を集めて物価対策委員会を開催し、8月には「時局に関する指令(第一号)出征兵士家族救援について」を発言するなどの活動。
検挙直前の構成:
委員長加藤勘十、書記長鈴木茂三郎、東京府連会長高津正道。支部数は準備会をいれて44、党員数は7,046名。翌1938年2月起訴の鈴木茂三郎は裁判の結果、42年9月第1審で懲役5年、44年9月第2審で懲役2年6ヶ月の判決、45年11月大審院で原判決破棄、免訴。
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・広田外相、ディルクセン大使に和平4条件提示。ディルクセンは、「これでは中国側の受諾は殆ど不可能であろう」と述べる。26日、トラウトマン駐中国独大使より中国に提示される。
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・米、元国務長官ケロッグ(81)、没。
・スペイン、テルエルの戦い、共和国軍、テルエル突入。叛乱軍は民政長官邸などに立て籠もる。
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12月23日
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・南京、アメリカ大使館侵害(自動車略奪・中国人館員殺害)。
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・朝鮮各級学校で天皇の写真の奉安敬拝が強要される。
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・帝国ホテル、晩餐会と舞踏会を廃止すると発表。
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12月24日
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・第9師団(金沢)、掃蕩任務を第16師団に引継ぐ。
この日、第16師団、第2次便衣狩り「査問工作」再開。~1月5日迄。第9師団は、上海~南京間の嘉定・常熱、崑山地区へ転出。
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この日付け第16師団「状況報告」。
「今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもってこれに充つるの主義を採り、もって迅速なる機動に応ぜんと企図せしが、幸いに富裕なる資源により、おおむね良好なる給養を実施しえたり」と総括。進軍途中の物資豊富な都市・農村で十分に食糧徴発=略奪ができたということ。
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「査問工作」:
日本の憲兵隊が市民と難民の登録を行い、身体検査をして民間人と判定した場合は「居住証明書」(「安居証」)を交付。
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佐々木到一の回想録では、
第2次便衣狩りの目的は、「城内の粛清は土民にまじる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するにあるとともに、我軍の軍紀風紀を粛清し民心を安んじすみやかに秩序と安寧を回復するにあった」「予は俊烈なる統制と監察警防とによって、概ね二十日間に所期の目的を達することができた」と自讃。「査問」は翌年1月5日に終り、「この日までに城内より摘出せし敗兵約二千・・・城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛、下関において処分せるもの数千に達す」という。
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中沢第16師団参謀長が東京裁判に提出したロ供書では、
「日支人合同で委員会を構成し、住民を調査することとした。その調査の方法は目支人立会の上、一人宛審問し又は検査し、委員が合議の上、敗残兵なりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付した」と述べる。師団副官官本四郎大尉は、「一人ずつ連れ出して真の避難民か、逃亡兵かを見分ける。多勢であるので書類づくり等は一切しない。兵隊は短スボンが制服なので太股に日焼けの横線がある-紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる」(「轍跡」)という。
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・南京で兵団長会議、各兵団長より上海派遣軍朝香宮司令官に報告、軍紀・風紀についても報告
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・第10軍主力、杭州占領。南京~蕪湖の要地に分散駐屯し次期作戦を待つ。
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・日本側和平条件第2次回答、届く
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・冀東防共政府の代理長官池宗墨、通州事件の賠償として120万円を出すことを通告
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・中華民国新民会発足
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・日本政府、米パネー号事件に関し遺憾の意を表明。
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・閣議、「支那事変対処要綱」を決定。
「南京政府との交渉成立を期待せず」、別個に時局の収拾を計ることを決定。蒋政権が反省の色を示さない場合、華北政権を拡大強化し「更正支那の中心勢力」たらしめる方針決定。
中国政府「ニシテナオ長期ノ抵抗ヲ標傍シ毫モ反省ノ色ヲ示サザル場合」には、「今後ハ必ズシモ南京政府トノ交渉成立ヲ期待セズコレト別個ニ時局ノ収拾ヲ計リツツ・・・北支ニオイテ防共親日満政権ノ成立・・・ノ促進ヲ計リ・・・更生新支那ノ中心勢力タラシムル如ク指導ス」る方針を固める。
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この方針は、広大な占領地区を早く経済的にも掌握したいとの欲求に貫かれている。華北新政権の支配地域は河北・山東・山西3省と察哈爾省の一部とし、これら地域の重要産業開発・統制の為に、国策会社を樹立し、華中でも、こうした新政権と国策会社方式を実現してゆこうとの経済的支配の構想が、新たに国策のレベルに登場。
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さらに閣議諒解事項として、経済開発の際にはできるだけ内地企業の技術・経験・資本を利用することが決められる。既に軍は、多くの中国企業を接収し、軍管理下におき、興中公司などに経営委託しているが、これらを一大持株会社の統制下で内地の同種企業と結びつけることも考えており、それは財界の希望に沿うものである。そしてこうした、軍の威力を背景とした傀儡政権下での経済開発という甘い幻想は、それによって占領地の安定がもたらされるかの如き楽観論と結んで、和平交渉無用論の圧倒的流れを作り出す。
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既に10月1日の四相会議で、和平の際には経済提携を要求し、「支那全般に亘り海運・航空・鉄道・磺業等の事業より着手」して、「日支共同開発」を行なう方針を決定。
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この要綱では、華北・華中に、夫々国兼会社を設けて経済開発を行なうと具体化される。
この国策会社は、翌13年の第73議会を通過した法律により、北支那開発会社・中支那振興会社として実現。この両社は投資機関であり、鉄道・鉱山・電力はじめ、紡績・製粉・煙草・セメント・製紙・印刷と、あらゆる部門に手を伸ばし、投資した事業を日本の資本家に委託・経営させてゆく。同じ議会で、国家総動員法も成立し、同会社設立は、長期体制へ踏み切る事を意味する。
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・東郷茂徳駐独大使、ベルリン着任。

to be continued

2008年12月24日水曜日

師走の鎌倉(鶴岡八幡宮)









23日、今年は例年になく「年末大掃除」を早めに始めたせいで、フッと時間が空いたので鎌倉に行きました。
鎌倉駅~鶴岡八幡~江ノ電で~長谷観音、長谷大仏~徒歩で~鎌倉駅に戻るルートの、家出発から帰着まで3時間ちょっとの「ぶらり」でした。
海外からの観光客の方がかなり目立ちました(日本人が少ないので)。
前日22日は、54歳で亡くなられた、職場の若い人のお父さんのお通夜。
12月は「メメント・モリ」の月のようだ。
昨年55歳で職場のスタッフを亡くしている。これも12月。
夜、海外から帰国している長男を入れて家族飲み会。ビール、焼酎、日本酒冷酒。
脳天気な「メメント・モリ」!!

昭和12(1937)年12月18~20日 南京(10) 「松井日記」に虐殺記事初出

12月18日
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・この日の方面軍参謀長勇中佐に関する、角良晴(松井司令官専属副官)証言
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「死体のできた総司令部内に於ける原因は次の通りである。18日朝だったと思う。第6師団より軍の情報課に電話があった。「下関に支邦人約12~13万人が居るがどうするか」と情報課長、長中佐はきわめて簡単に「ヤッチマエ」と命令された。副官は事の重大さを思い、また情報課長の伝えた命令は軍司令官の意図と異なるものと確信し、このことを軍司令官に報告した。軍司令官はただちに長中佐を呼んで「下関支邦人12~13万人の解放」を命ぜられた。長中佐は「支邦人の中には軍人も混じって居ります」という。軍司令官は「軍人が混じっていても、却って軍紀を正しくするのに必要だ」と強く解放を命令された。長中佐は「わかりました」と返事があった。
副官はさらに長中佐の行動に注意する(長中佐は陸大出の特別な支邦通であり、過去において陸軍大臣の命令に背き御叱りを受けたことが都度都度あった) 
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6D再度の電話 
○同日第一会の電話から約一時間経って再び第六師団より電話があった。
「下関の支邦人12~13万人をどうするか」の問題である。長中佐は再び前回同様「ヤッチマエ」であった。副官は、この事を軍司令官に報告することはできなかった。 
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○副官は思う。
第6師団は最初、下級参謀が下関支邦人処理の件を軍に意見を聞いた。「ヤッチマエ」であった、これを参謀長に報告した、参謀長は軍の命令を不審に思い、再び本件の処置に就いて軍に意見を求めたものと思う。
この件は第6師団長参謀長・下野一霪大佐(砲兵出身)の「下関支邦人大逆殺事件の真想」に「大逆殺は師団長の意図ではなく軍の命令である、それに此の事で師団長を死刑にするのは間違っている」とある。この実想を綴られたものと想う。」。
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・13師団(荻洲立兵中将)山田支隊(歩兵第104旅団、山田栴二少将)歩兵第65連隊(両角業作大佐)本部通信班小行李輜重特務兵「斎藤次郎陣中日記」、歩兵第65連隊連隊砲中隊菅野嘉雄一等兵「陣中メモ」。
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「十二月十八日 曇、寒 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ 敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気だって居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、・・・捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通 され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、朝はゆっくり起床、朝の礼拝をして朝食用意をして××、岡本、××の三君等と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約三丈乃至四丈幅約十四、五間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く九時就寝する。」。
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「(十二、)十八 朝より小雪が降った、銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し。」。
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・午後2時、全軍慰霊祭。城内飛行場。
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式後、松井は幹部を集め、「軍紀風紀の振粛」「支部人軽侮思想の排除」「国際関係の要領」について訓示。
「松井日記」での南京虐殺に関連する最初の記事。前日夜、又はその日朝、憲兵隊長から非軍紀行為頻発について聞いたのが契機となる。
しかし、上村利道派遣軍参謀副長の日記には、「城内に於ける軍紀の点に就て悪評を耳にす、残念なることなり」(12月16日)、「軍紀上面白からざる事を耳にすること多し、遺憾なり」(19日)とあり、風評はもう少し前から関係者の耳に入っていたと推測できる。
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松井が憲兵隊長より開いた内容は不明だが、花山信勝への告白だと、「泣いて怒る」ほどの規模であったとのこと。20日、松井は、日本総領事館で非行の実情を聞き、その後下関を視察し、「此付近尚狼籍の跡のままにて死体など其儘に遺棄せられ」(「松井日記」)ている惨状を目撃。
 松井は、翌日海軍水雷艇に便乗して南京を去る。
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・この日、日本大使館へ提出した国際委員会ラーべ委員長の文書は、交通部・金陵大学・華僑招待所など18ヶ所の収容所にいる難民概数を約5万と報告。収容所に入り切れず、民家や急造のムシロ張りの小屋などに詰め込まれた人々6~7万がいる。この数は月末にかけて更に増大。
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・この日、国際難民区委員会、日本大使館に宛てて、強盗・強姦・殺人防止策を要望。
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国際難民区委員会から、「三人から七人の兵士の群が将校の監督もなくうろつきまわることから多くの事件が発生しています」(16日付福田篤参事官補宛、第5号文書)、また、「夜間に俳諧する兵隊たちを締め出すように要請しましたが、この措置はいまだにとられていません・・・強盗・強姦・殺人行為を防止するため何らかの方法をとられることを希望するものであります」(18日付日本大使館宛、第7号文書)という文書が提出される。
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・青島日本人紡績工場焼かれる。戒厳令布告。
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・南京入場式の報道。
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「青史に凛たり・南京入城式」「武勲の各隊・粛然堵列、松井大将堂々の閲兵」「空陸に展く、豪華絵巻」
「君が代だ。国歌君が代だ。敵の首都に轟く君が代だ。その君が代吹奏裡にするすると正門の上に上る日章旗、さんたる日章旗、日章旗掲揚式がはじまったのだ。この日、この時の日の丸ほど意義深き日の丸がまたとあろうか。仰ぎ見る眼、眼、それは日本人としての感激に充ちた眼だ。涙にぬれた眼だ。日本人のみが本当に、この日の日章旗の意義を知る」(「東京日日」)。
* 
「この万歳・故国に轟け、威容堂々! 大閲兵式」「世紀の絵巻・南京入城」
「鳴呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、今日南京城頭高く揚る万歳の轟きは世紀の驚異と歓喜茲に爆発する雄渾壮麗な大入城式である、・・・南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず銃火茲に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。
 午後一時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された・・・何という堂々の大進軍だ・・・午後二時国民政府正門のセンター・ポール高く大日章旗が掲揚された、・・・東方遥皇居を拝し奉った、松井軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する『天皇陛下万歳』の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である」(「東京朝日」)。
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・スペイン、テルエルの戦い。共和国軍、テルエルを南から見下ろすラ・ムエラ高地占領。
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12月19日
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・第10軍(柳川平助、丁集団)、南京から湖州へ移動。20日、参謀長から指揮下各部隊に宛てて「杭州占領ニ伴フ秩序維持及配宿等ニ関スル件」(丁集参1第145号)下達。
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「掠奪、婦女暴行、放火等ノ厳禁ニ関シテハ廔次訓示セラレタル所ナルモ、本次南京攻略ノ実績ニ徴スルニ、掃女暴行ノミニテモ百件ニ上ル忌ムべキ事態ヲ発生セルヲ以テ、重複ヲモ顧ミズ注意スル所アラントス」。
*
・この日付け「中島日記」。
* 
「一.そこに日本軍が又我先にと進入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して往く 此は地方民家屋についは真に徹底して居る 結極ずうずうしい奴が得というのである 其一番好適例として 我ら占領せる国民政府の中にあるすでに第十六師団は十三日兵を入れて掃討を始め十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を掲げあるに係らず中に入りてみれば政府主席の室から何からすっかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持って往く 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあったがだめである翌々日入りて見れば其内是はと思ふたものは皆無くなりて居る金庫の中でも入れねば駄目といういふところなる 
一.日本人は物好きである国民政府というのでわざわざ見物に来る只見物丈ならば可なるも何か目につけば直ちにかつはらって行く兵卒の監督位では何もならぬ堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである。」。
* 
・この日の新聞報道。
* 
「敵の遺棄死体八、九万(南京攻略の戦果)」
「上海軍発表①南京攻略に当り敵の遺棄せる死体は八、九万を下らず、捕虜数千を算す②・・・③軍のとくに憂慮せし中山陵、その他保護建築物及び物件等は、敵守備兵或は敗残兵等のため破壊せられ惨々たる状態を呈しあり」(「東京朝日」夕刊)。
* 
直前には「朝日」でも、「江岸で一万五千捕虜」(16日)、「なほ潜伏二万五千 敗残兵狩り続く」(同)などと報じているのに、捕虜「数千」はおかしい。
* 
南京戦には従軍記者や、大宅壮一ら作家約50人が参加するが、証言者は少ない。
その中の、「朝日」従軍記者今井正剛の証言。
「一面はまっ黒く折り重なった死体の山だ。その間をうろうろとうごめく人影が五十人、百人ばかり、ずるずるとその死体をひきずっては河の中へ投げこんでいる。うめき声、流れる血、けいれんする手足。やがて作業を終えた″苦力たち″が河岸へ一列にならばされた。ダダダッと機関銃の音。その場にいたある将校は犠牲者の数を『約二万名ぐらい』と言ったという」
*
12月20日
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・山田支隊・国崎支隊、合流。山田支隊、浦口へ。浦口の国崎支隊、南京へ。
* 
「十二月二十日 第十三師団は何故田舎や脇役が好きなるにや、既に主力は鎮江より十六日揚州に渡河しあり、之に追及のため山田支隊も下関より渡河することとなる 午前九・〇〇の予定の所一〇・〇〇に開始、浦口に移り、国崎支隊長と会見、次いで江浦鎮に泊す、米屋なり」(「山田栴二日記」)。
* 
・大本営、華南攻略作戦を海軍の反対で中止。
* 
・「ニューズウイーク」(この日付け)、の「南京陥落、蒋介石は逃亡」の記事。
* 
「東洋では、メンツは生命以上に大切なものとされる。日本軍の勝ち誇った軍靴の響きは、一三世紀以来の中国の歴史に最も屈辱的な一貫を刻み込んだ。それはジンギスカンが中華帝国の大都市群を羊の牧草地に変えてしまって以来の出来事である。そして南京の陥落は、日本の東アジア侵略の第一段階が終わったことを告げた」

to be continued

2008年12月18日木曜日

京都のいしぶみ 山名宗全邸址 応仁の乱勃発


場所:上京区堀川通上立売下る一筋目北西角
応仁の乱の西軍のヘッド守護大名山名宗全(持豊、1404~73)の邸宅跡。東軍は管領細川勝元(1430~73)をヘッドの室町御所(花の御所)がをベースとした。ここから歩いても15~20分でしょうか。ちなみに、乱の発祥の地と云われる上御霊神社も、この室町御所から10分かからないところにあります。
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以下は、開戦の月(文正2年=1467年1月)のみの「黙翁年表」の抄出です(未整理です)。
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2日
・将軍義政、正月恒例の管領邸訪問を取りやめ畠山義就を室町邸(花の御所)に招く。
 義政、義就の上洛の力に押されて義就と対面、これ迄の行動を赦免し守護職(河内、紀伊、越中)を安堵。この結果畠山政長が家督を奪われる。5日、畠山義就は山名宗全邸を借用して義政の御成を受ける。管領畠山政長は大恥を掻く。背景に畠山義就に加担する山名宗全の策略。
*
8日
・細川派の畠山政長、管領を罷免。山名宗全の推挙で斯波義廉が管領となる。山名宗全与党による幕府掌握が完成。
*
15日
・細川勝元とその与党の守護達、将軍義政に畠山義就攻撃を求めようと動くが、先手を打った山名宗全が室町邸を固める。義政は畠山氏の私闘への関与禁止を在京諸大名に告げ、両者への協力と当事者同士の解決を図るよう求める。
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義政とって、「事の外御迷惑、御生涯に及ぶべきの間、山名、細川両人両方(義就、政長)合力の事、止むべき旨、平に仰せ請わる」(「大乗院寺社雑事記」)。
 二大勢力の衝突回避を哀願する義政には、これを抑えうる物理的強制力はない。義政は、「政長卜義就トノ事ハ、諸家各是ヲ合力スベカラズ、只逢手向ノ執逢(あいてむかいのとりあい)ニシテ、勝負ヲ決スベシ」と命じる(「応仁記」)。紛争当事者の政長と義就に、お互いの戦で決着をつけさせることを命じる。「力」による解決の公認。同内容の記事が「経覚私要抄」にも見える。
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山名宗全は、日野富子の兄大納言日野勝光の協力により、上皇・天皇父子を室町第に移し、政長討伐の後花園上皇の院宣を得る。この功により勝光は内大臣に昇進。
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17日
・管領を罷免され畠山邸(万里小路邸)の引渡しを求められた畠山政長、自邸を焼き払い上御霊社(上京区、同志社大・相国寺の北)に兵を進め陣取る。上御霊社は細川勝元邸に近く、細川勝元に決起を促すが、勝元は動かず。
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神保長誠、同出雲守、与二郎兄弟、畠山政長に自邸を焼かせ、上御霊社に布陣。しかし細川勝元の援軍が来ず、山名宗全らの援助を受けた義畠山就軍に敗れる(「応仁記」)。
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18日
【応仁の乱が始る(上御霊社の戦い)】
 家督争いを続けていた畠山義就、(山名持豊の支持を得て)上御霊社に畠山政長を攻めて破る。朝倉孝景、畠山義就軍として参戦。政長、鞍馬方面へ逃亡。天皇・上皇は室町第に避難。
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背景:
義政妻日野富子は自分の子義尚を将軍職に就かせるため、義尚の補佐役を山名持豊(宗全)に依頼、義視(義政が弟義尋を還俗させ養嗣子とする)の補佐役である細川勝元の勢力と対抗させる。それに、管領の斯波・畠山両氏の家督相続争いも絡む。斯波家では、養子斯波義敏、斯波義廉、畠山家でも養子畠山政長と実子畠山義就との間に家督相続を廻り争う。
 そこで細川勝元・畠山政長・斯波義敏との間に攻守同盟が結ばれ、これに対し山名宗全・畠山義就・斯波義廉との連盟が形成。また、諸国の守護大名や豪族達も、自分の地位保全のためどちらかと結託。
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斯波氏:義敏が東軍(細川勝元派)、義廉が西軍(山名宗全派)につく。甲斐・朝倉・織田以下主要家臣のほとんどは義廉方に属し、義敏に従ったのはごく一部。
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畠山家:持国が甥の政長を養子にするが、後で生まれた実子義就に家督を譲り、政長・義就両派が争う。山名宗全(持豊)が義就方、細川勝元が政長方を支援。
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両陣営は兵を京都に集め、細川方は先手を打って花の御所(幕府)をおさえ本陣としたため東軍、西側の山名邸を本陣とする山名方は西軍と呼ばれる。
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東軍
総大将足利義視(義政の弟、後ろ盾:将軍義政)、細川勝元6万余(摂津・丹波・讃岐・土佐)、同成之8千余(阿波・三河)、同勝久4千余(備中)、同成春3千余(淡路)、同・持久・常有2千余(和泉半国)、同教春2千余(摂津中島郡)、持賢2千余、畠山政長5千余(河内・紀伊・越中)、京極持清1万余(近江半国・出雲・隠岐・飛騨)、赤松政則500余(加賀半国)、富樫政親500余(加賀半国)、武田信賢3千余(若狭・安芸)、斯波義敏500(斯波家重臣甲斐氏・織田氏・朝倉氏は山名派の斯波義廉を支持、義敏自身は越前・尾張分国で兵を動かし、京では500余)。総勢16万1500。
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西軍
総大将足利義尚 (後ろ盾:御台所日野富子・内大臣日野勝光兄弟)、山名宗全3万余(但馬・播磨・安芸・備後)、同教之5千余(備前・伯耆)、同勝豊3千余(因幡)、同政清3千余(美作・石見)、畠山義就7千余(越前・尾張・遠江)、同義統3千余(河内・大和・山城)、一色義直5千余(丹後・伊勢半国・尾張2郡)、土岐成頼8千余(美濃)、六角高頼5千余(近江半国)、大内政弘2万余(周防・長門・筑前・豊前・)、河野通春2千余(伊予)(大内・河野は8月以降参戦)、管領斯波義廉1万余(重臣甲斐氏・織田氏・朝倉氏など)。総勢11万6千余。
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若狭武田氏と細川氏の関係:
細川氏は、瀬戸内の支配や対外貿易を廻り大内氏と緊張関係にあり、大内氏の周防に隣接する安芸の分郡守護武田氏を支援。このため応仁の乱では、若狭武田氏は細川方東軍の副将的立場となる。逆に、武田氏・細川氏に積年の恨みを持つ、かっての若狭守護で丹後守護の一色氏は山名陣営に在る。
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「応仁丁亥ノ歳天下大ニ動乱シ、ソレヨリ永ク五畿七道悉ク乱ル。其起ヲ尋ルニ尊氏将軍ノ七代目ノ将軍義政公ノ天下ノ成敗ヲ有道ノ管領ニ不任、タダ御台所或ハ香樹院或ハ春日局ナド云、理非ヲモ不弁、公事政道ヲモ知リ給ハザル青女房、比丘尼達計ヒトシテ酒宴淫楽ノ紛レニ申沙汰セラレ、亦伊勢守定親ヤ鹿苑院ノ蔭凉軒ナンドト評定セラレケレバ、今迄贔負ニ募テ論人ニ申与ベキ所領ヲモ、又賄賂ニ耽ル訴人ニ理ヲ付ケ、又奉行所ヨリ本主安堵ヲ給レバ、御台所ヨリ恩賞ニ被行。此ノ如ク錯乱セシ間、畠山ノ両家 義就・政長 モ文安元年甲子ヨリ今年ニ至ル迄廿四年ノ間ニ、互ニ勘道ヲ蒙ル事三ケ度、赦免セラルル事三ケ度ニ及ブ。何ノ不義ナク又何ノ忠モナシ。之ニ依テ京童ノ諺ニ、『勘道ニ科ナク赦免ニ忠ナシ』ト笑ケル。又武衛両家 義敏・義廉、ワヅカニ廿年ノ中ニ改動セラルゝ事両度也、是皆伊勢守定親色ヲ好ミ、淫着シ贔負セシ故也。・・・若シコノ時忠臣アラバ、ナドカ之ヲ諌メ奉ラザランヤ。然レドモタダ天下ハ破レバ破レヨ、世間ハ滅ババ滅バヨ、人ハトモアレ我身サヘ富貴ナラバ他ヨリ一段瑩羹様ニ振舞ント成行ケリ」(「応仁記」)。
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「去程に、畠山政長は奥郡に忍びて有けるが、便宜の兵を催し勝元の方へ参らる。遊佐・神保は粉川寺より馳参る。勝元大に悦び、勢の多少を知らんが為に先着到を付るに、勝元の手勢、摂州・丹州・土佐・讃岐、其外諸国被官等馬廻衆六万余騎。同讃岐守成之、阿波・三河両国を将て八千余騎。同備中守四千余騎。同淡路守三千余騎。同和泉守二千余騎。同下野守二千余騎。同右馬頭二千余騎。他国の衆には斯波右兵衛佐義敏五百余騎。畠山左衛門佐政長、紀伊・河内・越中国を催ば五千余騎。京極大膳持清、出雲・飛騨・江州を率して一万余騎。赤松次郎政則、播磨・備前・美作の勢五百余騎。富樫介五百余騎。武田大膳大夫国信、安芸・若狭の勢三千余騎。其外官軍・公方近習・外様諸国の同心被官六万人。都合十六万一千百余騎と記しける。・・・
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山名金吾も勢の多少を知んと着到をこそ付にけれ。先山名入道の勢は、但馬・播磨・備後、并に諸国被官合三万余騎。同名相州、伯耆・備前五千余騎。因幡守護三千余騎。同修理大夫、美作・石見の勢を率して三千余騎。他家の人々には、武衛義廉、越前・尾張・遠江衆一万余騎。畠山右衛門佐義就、大和・河内・熊野の衆催し七千余騎。同修理大夫義純、能登勢将て三千余騎。一色左京大夫義直、丹後・伊勢・土佐衆五千余騎。土岐左京大夫成頼、美濃衆八千余騎。六角四郎高頼、近江衆五千余騎。大内新介政弘、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見の勢二万余騎。伊予河野二千余騎。此外諸国合力一万余騎。惣都合十一万六千余騎としるしける」(「応仁記」)。
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「…鳴呼、鹿苑院殿御代ニ倉役四季ニカカリ、普黄院殿ノ御代ニ成、一年ニ十二度カカリケル、当御代臨時ノ倉役トテ大嘗会ノ有リシ十一月ハ九ケ度十二月八カ度也。又彼借銭ヲ破ラントテ、前代未聞徳政ト云フ事ヲ此御代ニ十三カ度迄行ハレケレバ、倉方モ地下方ヘ皆絶ハテケリ。サレバ大乱ノ起ルベキヲ天予メ示サレケルカ、寛正六年九月十三日夜亥ノ刻ニ、坤方ヨリ艮方ヘ光ル物飛渡リケル。天地鳴動シテ乾坤モ忽折レ、世界モ震裂スルカト覚エケル。アン浅猿シ。 不計万歳期セシ花ノ都、今何ンゾ狐狼ノ伏土トナラントハ、適残ル東寺・北野サヘ灰土ナルヲ。古ヘニモ治乱興亡ノナラヒアリトイヘドモ、応仁ノ一変ハ仏法王法法トモニ破滅シ、諸宗悉ク絶ハテヌルヲ、不堪感歎、飯尾彦六左衛門尉、一首ノ歌ヲ詠ジケル。汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ルナミダハ。」(「応仁記」)。
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21日
・朝倉孝景、斯波義廉軍(西軍)の一員として、細川派(東軍)の斯波義敏方(持種屋敷)を攻撃。斯波持種(義敏の実父)・竹王父子を襲撃しこれを追放(「後法興院記」同日条、「雑事記」正月23日条)。
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(独り言)
年末寒空の派遣労働者切り:竹中「改革」が拍車をかけた資本主義のリーダたちのモラル・ハザード。この精神(の荒廃)の自浄作用はないのか?
内需軽視のしっぺ返しが始まっている。
持続可能社会って?
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「★京都インデックス」をご参照下さい
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昭和12(1937)年12月17日 南京(9) 南京入城式

12月17日
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午後1時30分、南京入城式。松井、朝香宮、柳川、長谷川(支那方面艦隊司令長官)。
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南京城内外で掃蕩作戦を展開する現地軍より入城式延期が再三上申されるが、耳をかさず、16日の日記に、「かくて明日予定の入城式は、なお時日過早の感なきにあらざるも、あまり入城を遷延するも面白からざれは、断然明日の入城式を挙行することに決す」と書く(「松井石根大将陣中日記」)。
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入城式は、中山門から出発。
松井は朝香官・柳川両軍司令官以下を率い、海軍の長谷川支那方面艦隊司令長官らと合流、旧国民政府庁舎に至る中山路に整列した各部隊選抜の兵士たちを馬上から閲兵しつつ行進。松井は「未曽有の盛事、感慨無量なり」と日記に書き留める。
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多くの部隊が南京城内に進駐し、勝利者・征服者の「特権」として徴発、略奪、強姦、暴行、放火などの行為に走る。この段階で、南京城内の憲兵は僅か17名
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フィッチの日記。
「十二月一七日、金曜日。略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて一〇〇〇人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は三七回も強姦されたのです。別の婦人は五ヵ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。」。
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・金陵女子文理学院の婦女難民キャンプ開設責任者ミニー・ヴォートリン(51、同学院教授)、日本兵の凌辱から女性を守る為、街頭に出て女性避難民を集め、婦女・子供専用の難民収容所に設置した金陵大学寮へ引き連れて行く。
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16日には、「敗残兵狩り」の日本兵が、婦女子を凌辱する事件が多発し、自宅にいて恐怖にかられた婦人が何百人も街頭に逃げだし、安全な場所を求めて彷徨。婦女子だけを収容する金陵女子文理学院キャンパスは、既に1万人近い難民で、渡り廊下まで溢れる状況。17日も城内で1千件を超える強姦事件が発生し、18日も恐怖にかられた婦人が助けを求めて街頭に溢れ、ヴォートリンは彼女らを集め、午後、約500人を金陵大学構内に連れて行く。
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・16日~、第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)、幕府山での捕虜など2万数千殺害。上海派遣軍兼中支那方面軍情報参謀長勇中佐の指示(?)。
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歩兵第65連隊第8中隊遠藤高明少尉の陣中日記(16日)。
「定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に遭ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しⅠ(第一大隊)において射殺す。一日二合宛給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし。」
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歩兵第65連隊第4中隊(第3次補充)宮本省吾少尉「陣中日記」。
「(十二月)十六日 警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。」。
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歩兵第65連隊連隊砲中隊菅野嘉雄一等兵「陣中メモ」。
「(十二、)十六 飛行便の書葉(葉書)到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。」。
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山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記。
「午後一時、我が段列より二十名は残兵掃湯(掃蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面に向かう。二、三日前輪慮(捕虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃をもって射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時はが(か〉りと憎き支那兵を三十人も突き刺したことであろう。」
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山砲兵第19連隊第8中隊近藤栄四郎伍長「出征日記」。
「(十二月)十六日 夕方二万の捕慮が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分ノ一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。」。
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歩兵第65連隊第1大隊荒海清衛上等兵の陣中日記(17日)。
「今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名。今日は山で」。
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山田栴二支隊長の日記。
「十二月十八日 晴れ 捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸にこれを視察す。」
「十二月十九日 晴れ 描虜仕末のため出発延期、午前総出にて努力せしむ。軍、師団より補給つき日本米を食す(下痢す) 」
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歩兵第65連隊第7中隊大寺隆上等兵の陣中日記。
「十二月十八日 ・・・昨夜まで殺した捕リョは約二万、揚子江に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。七時だが未だ方付け(片付け)隊は帰ってこない。 
十二月十九日 午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に警(驚)く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後二時までかかり作業を終わる。昼食は三時だ。」
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歩兵第65連隊第7中隊柳沼和也上等兵の陣中日記。
「十二月十七日 晴 ・・・夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。・・・」
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歩兵第65連隊佐藤一郎(仮名)一等兵の日記。
「朝七時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕へるため行く事二里半、残兵なく帰る。昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。直ちに残兵に備えて監視。あとで第一大隊に警備を渡して宿舎に帰る。それから「カメ」にて風呂を造って入浴する。あんなに二万名も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。
夕食を食してから、寝やうとして居ると、急に整列と言ふので、また行軍かと思って居ると、残兵の居る兵舎まで行く。残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。
考へて見れば、妻子もあり可哀想でもあるが、苦しめられた敵と思へば、にくくもある。銃撃してより一人一人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になって、ものすごい。これも戦争か。午後十一時半、月夜の道を宿舎に帰り、・・・。(南京城外北部上元門にて、故郷を思ひつつ書く)」。
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栗原利一伍長の回想。
捕虜は、田山大隊の兵士百数十人に護送され、上元門付近の仮収容所から江岸まで5kmを数時間歩き、日暮れに江岸に到着。捕虜は対岸又は中洲に運び釈放と聞かされていたが、ここに至り異様な空気に感付き、1人の捕虜が監視役の少尉の軍刀を奪った為か、或いは連隊史が記すように渡江中に対岸の中国軍に撃たれた為か、大混乱となり、機関銃・小銃を発砲。殺戮は一時間以上も続き、夜明けには2~3千の捕虜の死体がころがり、日本軍将校1・兵8人が混乱に巻きこまれて死ぬ。
現場は下関の下流で八卦洲という大きな中洲と向きあい、中国側が草鞋峡とか燕子磯と呼ぶ江岸の辺りで、中国側が5万人前後の「大虐殺」があった地点として指摘しているところで、り概略地点は日中双方の主張が符合。
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虐殺死体の処理。
折り重なった死体の上に薪など燃えるものを撒き、それに石油をかけ火をつけ、死体の層の中の生存者を焼死させ、鎮火後、死骸を長江に運び水中に投げ入れて流すというもの。連隊総がかりで2日間を費やし、約2万の捕虜・避難民の死体処理を終える。
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中国側の証言を集めた「証言・南京大虐殺」には、「十二月十八日、草鞋峡における五七四一八人の殺害」「日付不明、燕子磯(中洲をふくむ)における三万または五万人の殺害」が併記されている。2件とも東京裁判では訴追されず(輪郭不明瞭だが、2件とも山田支隊の事件を指すと思われる)。
日本側関係者の間では、捕虜のほぼ全員という点では一致するが、江岸への連行=殺害数は5~6千(栗原)、2千(星俊蔵軍曹)、1~3千(平林少尉)とまちまちで、1万数千や8千人との差は不明のまま。
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歩兵65連隊連隊長「両角業作手記」など、部隊幹部の証言に基づき、「幕府山事件」=「自衛発砲説」(80年代前半まで)とされる。
枠組みは、15日、山田旅団は幕府山砲台付近で捕虜1万4千余を捕虜、非戦闘員を釈放し、「約八千余」を収容。その夜、火事に紛れて半数が逃亡。残り4千は警戒兵力・給養不足のため処置に困り、17日夜、旅団長が揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲撃したため、危険にさらされた日本兵はこれを射撃、捕虜約1千名が射殺され、他の3千は逃亡、日本軍将校以下7名戦死。
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・頃、第10軍第114師団、城外へ移駐
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・ニューヨーク・タイムズ記者ティルマン・ダーディン、15日に南京を退去し、「オアフ号」で上海へ下り、この日、日本軍の検閲が始まっている国際電報局を避け、上海ウースン沖に停泊する「オアフ号」上から南京虐殺の第一報を打電。
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「上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンド(埠頭)で二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけ、ひくひく動くものがあれば弾を打ちこんだ。この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、あきらかにこの見せ物を大いに楽しんでいた。」(「ニューヨ-ク・タイムズ」12月18日)。
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ダーディン記者が記す城内の「残敵掃蕩」の様子(南京虐殺の続報)。
「南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選びだすのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命びろいする場合もあった。南京掃討を始めてから三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に潜んでいると強調した。
・・・日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。(「ニューヨーク・タイムズ」38年1月9日、第38面全ページを埋める)。
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スティール記者は、
「日本軍は虱潰しに家々を捜索していき、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。これら多数の縛られた者たちが一人一人銃殺されていき、そのかたわらで同じ死刑囚がぼんやりと座って自分の順番を待っている」(「シカゴ・デイリー・ニューズ」12月17日)と報じ、「日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える」(同前、38年2月4日)と感想を記す。

to be continued

2008年12月16日火曜日

横浜 横浜公園 ブラントン像 日本大通り




横浜公園と云えば、地元では、今は鳴かず飛ばずのベイスターズの横浜球場。
この公園の海岸側、日本大通りを見て(つまり下の写真の如く)、鎮座しているのが上の写真のブラントンさん。
この横浜球場のある横浜公園は、開港後は港崎(みよざき)遊郭というのがあったらしいのですが、大火で全滅した際、居留地サイドの要望で公園にしたそうです。
この公園化および道路整備をブラントンさんが担当したとのことです。
ブラントンさんは、スコットランドのアバディーン出身で、本来は灯台建築がメインの仕事であったようです。灯台以外では、横浜の都市整備に大きく貢献されたようです。
R.H.ブラントン著、徳力真太郎訳「お雇い外国人の見た近代日本」( 講談社学術文庫)を残しています。
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お雇い外人の見た近代日本 (講談社学術文庫)

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ブラントンについては、コチラをご参照下さい。
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この火事ですが、「豚屋火事」と呼ばれたそうです。1866(慶応2)11月26日朝8時頃、現在の太田町の豚肉料理屋鉄五郎宅から出火し、遊郭を焼き尽くし、風に煽られ海岸方向へ広がり、午後10時頃まで燃え続け、当時の関内地区の日本人街区の3分の2、外国人居留地の4分の1を焼失したそうです。
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横浜公園
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昭和12(1937)年12月16日 南京(8) 入城式を翌日にひかえ難民区への「敗残兵狩り」を一層徹底

12月16日
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この日より強姦事件、多発
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南京安全区国際委員会の計算では1日千人の女性が強姦され、占領初期には控え目にみても8千人の女性が強姦され、翌年2~3月まで何万という女性が強姦される(「アメリカキリスト者へのベイツの回状」)。
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入城式を翌日にひかえ、難民区への「敗残兵狩り」を一層徹底
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「午後一・〇〇出発、入城式場を一通り巡視、三・三〇頃帰る。多少懸念もあり、長中佐(上海派遣軍司令部参謀部第二課長長勇)の帰来報告によるも、一六D(16師団)参謀長は責任を持ちえずとまでいいおる由なるも、すでに命令せられ再三上申するも聴かれず、かつ断固として参加を拒絶するほどとも考えられざるをもって、結局安心しつつ御伴することに決す。
・・・長中佐夜再び来たり、一六Dは掃蕩に困惑しあり、三Dをも掃蕩に使用し南京付近を徹底的にやる必要ありと建言す。」(飯沼守上海派遣軍参謀長の日記「飯沼守日記」)
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・第9師団(歩7連隊)、17日の入城式に備え、第16師団と第3師団の一部と共に南京市難民区徹底的掃蕩作戦 
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第9師団歩兵第7連隊のこの日の便衣兵摘出。
難民区を北から第3、1、2大隊に区画し、それを更に中隊毎に分担、末端は数名ずつの下士官兵が組になり、めぼしい建物を虱潰しに検分するローラー作戦。交叉点で着剣した歩哨が交通遮断、外郭の要点には戦車を配置。捜索・連行要領について、連隊命令は憲兵、通訳、語学堪能者を配属と指示するが、人も時間も足らず、各隊の思い思いで荒っぽい選り分けになる。
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歩7第1中隊の水谷壮上等兵の日記。
「午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通遮断の上、各中隊分担の地域内を掃蕩する。目につく殆んどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行して来る。各中隊共何百名も狩り出して来るが、1中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引立ててくる。その直ぐ後に続いて家族であろう、母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。市民と認められる者はすぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方ない。真実は分らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだろう。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。」(「戦塵」)。
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第9師団歩兵第7連隊長伊佐一男大佐の日記(16日)には、「三日間にわたる掃蕩にて約六五〇〇を厳重処分す」と記されている。
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この日付け第9師団歩兵第7連隊第2中隊井上又一上等兵の日記。
「壱拾弐月拾六日 午前拾時から残敵掃蕩に出かける。高射砲一門を捕獲す。午後又出かける。若い奴を三百三十五名を捕えてくる。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れて来るのである。全くこの中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。新聞記者が此を記事にせんとして自動車から下りて来る
・・・十重二十重にまし来る支那人の為、流石の新聞記者もつひに逃げ去る。・・・揚子江付近に此の敗残兵を連れて他の兵が射殺に行った。この寒月拾四日皎々と光る中に永久の旅に出る者そ何かの縁なのであろう。皇道宣布の犠牲となりて行くのだ。日本軍司令部で二度と足腰の立て得ないようにするために若人は皆殺すのである。」
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第9師団の城内掃蕩は12月24日、警備任務を第16師団に引継ぐ迄続く。
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この間の摘発者数は、第9師団作成「南京攻略戦闘詳報」は、「右翼隊主力ヲ以テ城内ノ掃蕩ニ当リ七千余ノ敗残兵ヲ殲滅セリ」、「南京戦ノ彼我ノ損害」として、「友軍 死者四六〇名、傷者一一五六名、敵軍死体四五〇〇、他ニ城内掃蕩数約七〇〇〇」とする。
捕虜の数字がないので、約七千人の敗残兵(便衣兵)は、ほぼ全員殺害と推量される(公式の戦闘詳報に記載された数字としては最大)。その大部分が12月14~16日、歩7連隊が難民区から摘出した便衣兵狩りの犠牲者と思われる。
ピークの16日には、1中隊が百数十、2中隊が三三五人を狩り出し、連隊全体(12個中隊)では2~3千に達したと推測。うち下関へ連行されたのは、1200(水谷日記)、1~2千(前田雄二同盟記者)、2千余(佐々木郵便長)と大差ない。
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・第16師団、この日、中山門外の掃蕩作戦。第16師団の掃蕩作戦はこの日で一段落。24日から第9師団に代って、難民区を中心とする便衣兵摘出が始まる。
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佐々木回想録は「命に依り紫金山北側一帯を掃蕩す、獲物少しとは云へ両聯隊共に数百の敗兵を引摺り出して処分した。」と記す。
「夜半、東方の山中から敗残兵数百名・・・を捕えた・・・ところが日本軍が小人数とあなどったのったか、手榴弾を投げつけて暴れ出し、収拾がつかなくなったので、軽機、小銃で弾丸のある限り射った」(歩9連隊六事政次郎少尉「偕行」シリーズ⑧)との証言はその一部と推測。
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歩33西田上等兵はこの日終日、紫金山東北地区を行動するが、敗残兵にはぶつからず、「途中、部落を皆焼き払ふ」(西田日記)ことで胸を晴らせる。
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・第10軍第6師団、蕪湖方面移動途中、歩13連隊、捕虜1千(「一千名以上の敗残兵」(萩平昌之大尉手記))確保。中華門外で集団射殺。
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児玉房弘上等兵(第6師団第11旅団歩兵第13連隊第2大隊機関閲銃中隊)の証言。
「山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然『撃て』の命令。・・・『まるで地款を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきりと分かりました』」、
「集団射殺は児玉さんらが南京郊外の駐屯地から南約六十キロの蕪湖へ向けて出発した同月十六日頃行われた。児玉さんらに、揚子江近くの小高い山に機関銃を据え付けるよう命令が下った。不審に思いながらも山上に重機関銃を据え付けると、麓の窪地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然、「撃て」の命令。機関銃が一斉に乱射された。「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分かりました」。機関銃は約五十メートルの感覚で「三十挺はあった」という。「なぜ捕虜を殺したのか。遺体をどう処理したのか。他のどの隊が虐殺に加わったのか。私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、児玉 さんはうめいた。」(「毎日新聞」昭和59年8月15日)。
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第9師団歩兵第18連隊第36連隊第6中隊分隊長山本武。
「この朝(12月19日:洞富雄氏注記)風聞するところによると、こんどの南京攻略戦で、抗州湾に上陸した第六師団(熊本)が、南京の下関に於いて、敵軍が対岸の浦口や蕪湖方面 に退却せんと揚子江岸部に集まった数万の兵達を、機関銃掃射、砲撃、あるいは戦車、装甲車などによって大虐殺を行い、白旗を掲げ降伏した者を皆殺しにしたというので、軍司令官松井大将が「皇軍にあるまじき行為」と叱り、ただちに死体を処理せよとの厳命を下し、毎日六師団が死体を焼却するやら、舟で揚子江上に運び捨てているなど、現場は実に惨憺たる状況である、と言う。物好きにも、わざわざ遠く下関まで見物に出かけた馬鹿者がいるらしい。」(「一兵士の従軍記録」)。
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・この日付け「山田栴二日記」、第13師団山田支隊歩兵第65連隊第7中隊「大寺隆上等兵の陣中日記」。
「十二月十六日 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり」。
「(一二月一六日) 徴発隊として午前七時二〇分整列、七時に起きたのであわを食って出ていく。途中道を間違えて半道ばかり反対の方向に行く。豚や米、芋の類、徴発する物資たくさんあり、徴発用意。午後二時半東流鎮につく。龍タン鎮から約四里、町に着き宿舎を決めると徴発に忙し、部隊の着くまでに徴発を終わる。米、豆腐、小豆、砂糖、豚、芋、カマ、野菜など、部隊もまたいろいろ徴発してきた。分隊では豚、野菜、米、鶏、芋などを徴発してきたので、今晩は相当に御馳走があった。」。
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・この日の新聞報道。
「南京一帯掃蕩の戦果、敵六万を捕虜・撃滅す、皇軍なお掃蕩を続く」
「南京城を陥落させた皇軍各部隊は、それぞれ城の内外に集結し、一部を以て潜伏出没する敗残兵の掃蕩及び、市内整理に当って居るが、この南京攻略戦でわが軍が捕虜とし、又は殲滅した兵数は六万を下らぬと推察されている」(「東京朝日」夕刊)。
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・帝人事件判決で全員無罪となる

to be continued

2008年12月15日月曜日

京都市上京区の風景(その弐) 「佐々木酒造」の酒蔵



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上京区の「佐々木酒造」という酒屋さん。醸造と販売をされてます。
俳優佐々木蔵之介さんのご実家とのこと。
「古都」は、川端康成さんの命名。
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この辺りには、「出水」という名の通りもあるくらい地下水は豊富です。嵯峨野でまあまあ有名な「もりか」さんというお豆腐屋さんもこの近くです。
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太古、京都は琵琶湖の延長の湖であって、神泉苑(この近くです)の池は、その太古の水を残しているものだとか、昔読んだことがあります。但し、今の神泉苑とは規模は全く違って、例えば、藤原定家の時代でさえ、後鳥羽院(といっても20歳代ですが)が、神泉苑で猪狩りをして(つまり殺生をして)、そのたたりで雨が多いことを呪ったとかいう話が堀田さんの本にもあった、そんな猪狩りをするくらいの規模だったようですが。
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「★京都インデックス」をご参照下さい
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昭和12(1937)年12月15日 南京(7) 第16師団単独南京入城式強行 幕府山事件

12月15日
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第16師団(中島今朝吾)独自の南京入城式、中山門で実施。
国民政府庁舎に進駐し、師団司令部を置く、以降40日間城内駐留。方面軍の入城に関する「注意事項」は無視される。功名をあせる中支那方面軍司令部への面当ての側面もある。
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「入城式の件、予は中山門よりの入城を肯んぜず。その功名を争う奴隷あり、これ等とともに行動するを恥辱とすればなり」と嫌悪感を表す(中島師団長の14日の日記)。
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第16師団が中支那方面軍司令部から無理な南京進撃を強いられ、多くの犠牲を出して漸く南京を陥落させると、今度はその栄誉を彼らが独占し誇示しようとしたことへ反発。
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「十二月十五日 一、各隊は事後処理の任務遂行に差支なき範囲に於て代表部隊を堵列せり師団司令部各部隊長培(賠)従の上午後一時三十分中山門より入城し 国民政府庁舎を師団司令部に充当しありたれば同庁舎に入り国旗を掲揚し各部隊長及将校の参列の上大元帥陛下の万歳を三唱し・・・」(「中島日記」)。
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この頃の治安の悪さ。
「中島日記」(19日付)によると、朝、管理部が先遣され配宿計画をたで、師団司令部の表札を掲げてあるにも関わらず、他部隊の将校・兵士が入り込み家具・陳列物を盗む。残ったものを戸棚に入れ封印したが、これも殆ど盗まれる。宿舎の中央飯店も同様で、師団長宿舎に予定している軍官学校長官舎も、内山旅団(野戦重砲兵第5旅団)の兵に徹底的に荒され、自動車も盗まれたという。中島は怒るが、中島自身も蒋の私物(巻物、絨毯、絵画など32点)を持ち出し、京都の偕行社に送り、後に問題となる。
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・この日付け第9師団歩兵第7連隊第2中隊井上又一上等兵の日記。
「(15日)午前八時整列して宿営地を変更の為中山路を行く。日本領事館の横をとって外国人の居住地たる国際避難地区の一体の残敵掃討である。・・・四拾余名の敗残兵を突殺してしまふ。・・・此の日記を書いていると人の部屋で盛んに歌う、手を叩く盛んにやっている。 」
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・ダーディン記者ら4人の外国人記者、南京去る。
ダーディンの第一報は17日上海より。上海に残る外国人は、難民区委員会関係者など22人。
彼らは、南京攻略戦下の南京に留まり取材活動を続けていたが、無線記事送信に利用していたアメリカ砲艦「バナイ号」が撃沈され、また日本軍占領下ではもはや記事送信手段がないことから、「バナイ号」生存者を乗せた米艦「オアフ号」が下関埠頭に寄った際に乗船、南京から上海に向かう。
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この時、ダーディン記者は、「敗残兵狩り」「便衣兵狩り」で集められ、連行されてきた軍民の処刑場面を目撃。
F・ティルマン・ダーディン。
「捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性を捜し出した。安全区の中のある建物からは、四〇〇人の男性が逮捕された。彼らは五〇人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。」(「ニューヨークタイムズ」1937年12月18日)。
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A・T・ステイール。
「<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日> 南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。」(「シカゴ・デイリー・ニュース」1937年12月15日)。
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ロイター通信スミス記者の講演。
「一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。その後、英国軍艦が同じ航路をとることになった。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。他の中国人がどうなったのかはわからない。」。
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・中支那方面軍司令部の意を受け塚田参謀長、湯水(山)鎮にある上海派遣軍司令部を訪れ、入城式を17日に行う旨再度通告。
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・午後3時、松井大将、句容飛行場に飛来し、自動車で湯水鎮(南京東30km)に移動。12月5日~15日、蘇州(南京220km東)の司令部に病臥・滞留。南京占領直後に必要な状況把握に基づく統制指揮ができる状況にはない。
「十二月十五日 四・〇〇頃松井方面軍司令官湯水鎮着、殿下に代り報告に行く。」(「飯島守日記」)。
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・夕方、飯沼上海派遣軍参謀長、方面軍司令部に入城式延期要請。拒否。
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・この日付け中支那方面軍命令により、第10軍(柳川平助)は杭州攻略など新任務につくことになる。19日、湖州に移る。第114師団は、17日頃から逐次城外へ移駐、第6師団は、16日以降逐次、蕪湖へ移る。
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・この日付け第6師団(谷寿夫中将)歩兵第36旅団(牛島満少将)歩兵第45連隊(竹下義晴大佐、鹿児島)第7中隊小隊長前田吉彦少尉の「日記」。
「十二年十二月十五日 江東門から水西門(城門)に向かい約二粁石畳の上を踏んで行く途中この舗石の各所に凄惨な碧血の溜まりがが散見された。
・・・後日聞いたところによると十四日午後第三大隊の捕虜100名を護送して水西門に折内地から到着した第二回補充兵(福島准尉溜准尉等が引率し、大体大正11年から昭和4年前佐道の後尾兵即ち三七八歳から二八九歳の兵)がたまたま居合わせ好都合と許り護送の任を彼らに委ねたのだと云う。
・・・原因はほんの僅かなことだったに違いない、道が狭いので両側を剣付鉄砲で同行していた日本兵が押されて水たまりに落ちるか滑るかしたらしい。腹立ちまぎれに怒鳴るか叩くかしたことに決まっている。押された捕虜がドっと片っ方による。またもやそこに居た警戒兵を跳ねとばす。兵は凶器なりという訳だ、びくびくしている上で何しろ剣付き鉄砲を持っているんで「こん畜生ッ」と叩くかこれまた突くかしたのだね。パニック(恐慌)が怒って捕虜は逃げ出す。「こりゃいかん」発砲する「捕虜は逃がすな」「逃ぐるのは殺せ」と云う事になったに違いない。僅かの誤解で大惨事を惹起したのだという。第三大隊小原少佐は激怒したがもはや後のまつり、折角投降してきた丸腰の捕虜の頭上に加えた暴行は何とも弁解出来ない、ことだった。かかること即ち皇軍の面目を失墜する失態といわねばならない。この惨状を隠蔽するために彼ら補充兵は終夜使役されて今朝ようやく埋葬を終わったる由。・・・」
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・第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)へ上海派遣軍司令部より捕虜処刑指示。16~17日殺戮、合計2万幕府山事件
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支隊長山田栴二少将の日記。
「(一二月一五日)捕虜の仕末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。」。また、捕虜の数は増加。14日に収容した1万4777名に加え、15日にも「今日一日捕虜多くきたり、いそがしい」(「荒海清衛陣中日記」)とあり、総数凡そ2万となる。
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誰が指示したか:上海派遣軍兼中支那方面軍情報参謀長勇中佐。
証言①松井大将専属副官角良晴少佐「偕行」 シリーズ⑭(昭和60年3月号)。
大要「十二月十八日朝、第六師団から軍の情報課に電話。『下関に支那人約十二、三万人居るがどうしますか」 情報課長長中佐は極めて簡単に『ヤツチマエ』と命令したが、私は事の重大性を思い松井司令官に報告した。松井は直ちに長中佐を呼んで、強く『解放』を命ぜられたので、長中佐は『解りました』と返事をした。ところが約一時間ぐらい経って再び問い合せがあり、長は再び『ヤッチマエ』と命じた」。
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証言②昭和13年春、長が田中隆吉に語った「告白」。
「鎮江付近に進出すると・・・退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた・・・(自分は)何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話に依り伝達した。命令の原文は直ちに焼却した。この命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言う訳には行かなかった」(田中隆吉「裁かれる歴史」)。
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上海派遣軍参謀長飯沼守少将の日記。
「十二月十五日 霧深し 快晴 山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。」(「飯沼守日記」)。
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13師団(荻洲立兵中将)山田支隊(歩兵第104旅団、山田栴二少将)歩兵第65連隊(両角業作大佐)本部通信班(有線分隊長)・編成 伍長堀越文男「陣中日記」。
「十二月十五日 午前九時朝食、十時頃より×××伍長と二人して徴撥(発)に出かける、何もなし、唐詩三百首、一冊を得てかへる、すでに五時なり。揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、三四十名づつ一度に行ふものなり。」。
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同上歩兵第65連隊連隊砲中隊・編成一等兵菅野嘉雄「陣中メモ」。
「(十二、)十五 今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。」。
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・午後8時30分、第9師団歩兵第7連隊(伊佐一男大佐)、難民区への「徹底的に敗残兵を捕捉殲滅」する命令。
「歩七作命甲第一一一号 十二月十五日午后八時三〇分 南京東部聯隊本部 一、本十五日迄捕獲シタル俘虜ヲ調査セシ所ニ依レバ殆ド下士官兵ノミニシテ将校ハ認メラレザル情況ナリ 将校ハ便衣ニ更へ難民地区内ニ潜在シアルガ如シ 二、聯隊ハ明十六日全力ヲ難民地区ニ指向シ徹底的二敗残兵ヲ掃蕩セソトス 三、各大隊ハ明十六日早朝ヨリ其担任スル掃蕩地区内ノ掃蕩特ニ難民地区掃蕩ヲ続行スべシ・・・」
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・バネー号事件で第2連合航空隊司令官三並少将更迭。
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・【第1次人民戦線事件】
日本無産党・日本労働組合全国評議会・労農派の山川・猪俣津南雄・荒畑・鈴木茂三郎・加藤勘十ら446名検挙。22日、日本無産党・全評、結社禁止。38年2月1日に第2次検挙。
* 
日本無産党関係265名、日本労働組合全国評議会関係174名、労農派グループ34名、教授グループ11名。北日農の玉井委員長以下20名。
* 
前年8月、全評と東京交通労働組合は社会大衆党に反ファッショ闘争の為の統一戦線を申し入れたが拒絶される。しかし、この統一戦線申し入れがコミンテルンの人民戦線路線戦術の適用とされる。
* 
「山川(均)、猪俣(津南雄)、大森(義太郎)、加藤(勘十)ら、左翼四百名を大検挙、日本無産(日本無産覚)と全評(日本労働組合全国評議会)の両団体結社禁止」(「東京朝日新聞」22日号外)。
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・出版懇話会12月例会。内務省にて。
大坪図書課長、久山、田中、鈴木、国塩事務官、羽根検閲課長、会員40名出席。
警視庁保安課猪俣事務官「人民戦線派の現状に就いて」演説。
最近の行政司法処分について羽根検閲課長の説明。
最近の発売禁止処分について鈴木事務官の説明(鈴木は執筆禁止該当者の名を告げる)。
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中島健蔵の14日付け日記。
「夜、報知新聞の山本文雄来訪、原稿を頼んでいく。戸坂潤、岡邦雄、宮本百合子、中野重治等七人ばかりに、一種の執筆禁止令が、秘かに下ったことを知る」(『回想の文学』第3巻「人権の崩壊」)。
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・この日の新聞報道。
「街々に日章旗翻えり、南京の秩序回復、わが総領事館は無事、愈々迫る南京入城式、十七-八日頃行われん」(「東京朝日」)。
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・【テルエルの戦い】
共和国軍リステル指揮第11師団、テルエル(アラゴン南部の山岳地帯)攻撃、包囲。21日、4万の兵士、テルエル突入。

to be continued

2008年12月14日日曜日

京都 一条戻橋













由来などは看板を参照下さい。
「一条戻橋」で検索かけると一杯ウンチクが出てきます。
前にも言いましたが、この向かいに「晴明神社」がありますが、ウサン臭いです。
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一条戻橋
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昨日(13日土曜)は、会社の同僚の一周忌。痛飲。
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「★京都インデックス」をご参照下さい
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昭和12(1937)年12月14日 南京(6) 幕府山砲台占領 南京城内掃蕩続く

12月14日 南京
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・第13師団(仙台)山田支隊(歩103旅団長山田栴二少将、歩65連隊基幹)、幕府山砲台占領。捕虜1万4千。揚州占領。
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山田支隊は、前日占領した鳥籠山から幕府台砲台に向う。
途中、燕子磯~上元門は、長江南岸を幕府山の急峻な絶壁が10km近く連なり、幕府山を川が浸食してできた僅かな平地が、長江沿いに続く。下関から続くこの帯状地帯に、山田支隊の進撃の遅れもあり、南京城陥落ととも長江下流に敗残兵・避難民が殺到
そこに13日夕~翌日早朝、山田支隊が下流から進軍。南側は絶壁の岩山、北側は長江の大河、後方の下関では日本軍の大殺戮と、難民にとって絶体絶命の状態。
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支隊長山田栴二少将の日記。
「(一二月一四日)他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前四時半出発、幕府山砲台に向かう、明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る。捕虜の仕末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、一四七七七名を得たり、かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外三軒屋に泊す。」
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上海派遣軍参謀長飯沼守少将の日記。
「十二月十四日 快晴 13Dの山田支隊は途中約千の敗残兵を掃蕩し四・三〇烏龍山砲台占領、高射砲及重砲十余門を鹵獲せり」(「飯沼守日記」)。
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(見出し)「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」、
「(南京にて横田特派員十六日発) 両角部隊(歩65連隊長両角業作大佐)のため鳥籠山、幕府山砲台の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を棄てさせ付近の兵営に押込んだ。一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ
・・・一番弱ったのは食事で、部隊さへ現地で求めてゐるところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった」(「朝日新聞」17日)。
*
第13師団山田支隊歩兵第65連隊第7中隊「大寺隆上等兵の陣中日記」。
「(一二月一四日) 食糧は今日からなしに。地方から徴発していかなければならない。第四中隊は徴発中隊だ。」。
*
13師団(荻洲立兵中将)山田支隊(歩兵第104旅団、山田栴二少将)歩兵第65連隊(両角業作大佐)本部通信班小行李・編成 輜重特務兵「斎藤次郎陣中日記」。
「十二月十四日 晴・・・第一大隊の捕虜にした残敵を見る、其数五六百名はある、前進するに従ひ我が部隊に白旗をかかげて降伏するもの数知れず、午後五時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す、若い者は十二才位 より長年者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思はれる、山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば一万四千余名が我が軍に降った、機銃、小銃、拳銃、弾薬も沢山捕獲した、入城以来本日の様に痛快な感じがした事はない、此辺一帯は幕府山要塞地帯で鉄条網を張り塹壕を掘り南京附近の最後の抵抗線だったらしい、・・・」。
*
・14~16日、第16師団の南京城内外掃蕩作戦続行。敗残兵・捕虜殺害。松井大将の意志により17日に入城式を強行するため。
*
この日、まだ蘇州の方面軍司令部にいる松井大将が、湯山鎮に移動している塚田参謀長に指示し、17日に全軍の入城式を挙行するので、その前に掃蕩作戦を終るよう、南京の上海派遣軍参謀長飯沼守少将に要請させる。
上海派遣軍朝香宮軍司令官は、「無理をせざる如く掃蕩作戦をやるべし」との見地から、入城式は早くて18日にしたいという意見であり、飯沼日記によると、第16師団中沢三夫参謀長が連絡の長参謀に「二十日以後にしてくれ、そうでないと責任を持てない」と反対(15日、第16師団は先に独自の入城式を実施)。
*
・第16師団佐々木支隊(第30旅団)佐々木到一支隊長は、「歩兵第三十旅団命令 ・・・各隊は師団の指示あるまで停虜を受けつくるを許さず」と正式に下令。この日、歩33は下関と城内の獅子山、北西部一帯、歩38は中山北路から玄武湖に向かって城内東部。
*
「歩兵第三十旅団命令 十二月十四日午前四時五〇分 於中央門外 一、敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意志ヲ有スルモノ散在ス 二、旅団ハ本十四日、南京北部城内及ビ城外ヲ徹底的ニ掃蕩セントス 三~五(略) 六、各隊ハ師団ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ 七~十一(略)」。命令は、参考事項として「(避難民等ハ)一地区ニ集合避難シアリテ、掃蕩地区ニハ住民殆ンド無シ」「敵ハ統制ノ下ニ我卜交戦ノ意図ヲ有スルガ如キモノ無キガ、敗残潜在スル数ハ少クモ五、六千名ヲ下ラズ」との情報と判断を付加されている。(兵第38連隊「戦闘詳報」付属)
*
中山門外で処刑風景を目撃した第16師団経理部小原予備主計少尉。
「最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す
・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた」(「小原立一日記 12月14日)。
*
「十二月十四日、両連隊全部隷下に掌握、城内外の掃蕩を実施す。いたるところ潜伏している敗残兵をひきずり出す。が武器はほとんど全部放棄又は隠匿していた、五百、千という大量の俘虜がぞくぞく連れられてくる。
・・・敗残兵といえとも尚、部落・山間に潜伏して狙撃をつづけるものがいた。したがって、抵抗するもの、従順の態度を失するものは、容赦なく即座に殺戮した。終日、各所に銃声がきこえた。大平門外の大きな外濠が死骸でうずめられてゆく」(第16師団第30旅団長佐々木到一少将「佐々木到一少将日記」)。
*
第16師団第30旅団歩兵第33連隊西田優上等兵「陣中日記」。
「(十四日) 十一時三十分入城、広場において我小隊は敗残兵三七〇名、兵器多数監視、敗残兵を身体検査して後手とし道路に坐らす。我は敗残兵中よりジャケツを取って着る。面 白いことこのうへなし、自動車、オートバイ等も多数捕獲す。各自乗りまはせり、八時頃小銃中隊に申し送り、昨夜の宿に帰る。敗残兵は皆手榴弾にて一室に入れ殺す」。
*
第16師団第30旅団歩兵第33連隊戦闘詳報第3号附表。
「自昭和十二年十二月十日 至昭和十二年十二月十四日 [俘虜] 将校14、准士官・下士官兵3,082 馬匹52 [備考] 1、俘虜は処断す 2、兵器は集積せしも運搬し得す 3、敵の遺棄死体・・・以上四日計 六、八三〇」。
*
第16師団第30旅団歩兵第38連隊第3中隊志水一枝軍曹「陣中日記」。
「(一四日)右掃蕩隊として南京北部城内の徹底掃蕩に任ず。〇八〇〇より・・・・城壁を撃ちて城内に進入し、同開門を施す傍ら横行せる敗残兵を補足殲滅す。一部降りて和する者ありしが行動不穏の為九二名を刺殺せり・・・城内に潜伏或いは横行せる敗残兵無数にて其の醜状其際達しあり。勇躍せる中隊は尚一部抵抗の意志ある敗残兵を随所に殲滅しつつ城内粛正に一段の光彩を放ちたり」。
*
歩38戦闘詳報第12号付表。
「俘虜七二〇〇名(内将校七〇)ハ第十中隊尭化門付近ヲ守備スべキ命ヲ受ケ、同地ニ在りシガ、十四日午前八時三十分頃数千名ノ敵白旗ヲ掲ゲテ前進シ来リ午後一時武装ヲ解除シ南京ニ護送」と記す。この7200人のその後については確認できていない。
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第6師団輜重兵第6連隊小隊長高城守一氏の証言。
「(十二月十四日、佐々木支隊の戦闘の後を目撃して)波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わたす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい数に思えた。
・・・私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまのあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。」
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・午前10時から、第16師団歩兵第19旅団(草場辰巳少将)歩20連隊第1大隊(西崎逸雄少佐)第4中隊(坂清中尉)、西作命第170号により掃蕩実施。同中隊の陣中日誌(第5号)は、「敗残兵三二八名ヲ銃殺シ埋葬ス」と記載。
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「明ければ十四日難民区へ。今日こそしらみつぶしにやって戦友の恨を晴らしてやろう、と意気ごみ、ある大きな建物に入ると、数百人の敗残兵が便衣に着がえつつあるところを見つけた。そばには青竜刀やピストルなど山のようにある。持物検査をしてけったりひっぱたいたあと電線でジュズつなぎにする。三百人はいたが始末に困る。そのうち委員会の腕章をつけた支那人に『いるか』と開くと、向いの大きな建物を指して『多々有』と言うので、入ると難民が一杯、そのなかから怪しそうな一千人ばかりを一室に入れ、さらに三百人よりだし、夕方に六百人近くの敗残兵を引きたて玄武門に至り、その近くで一度に銃殺した」(増田六助上等兵(2小隊3分隊)が南京戦直後に執筆した「南京城内掃蕩の記」(「支部事変出征戦友の手記」収録))。
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同中隊と思われる別の兵士(戦死)の陣中日誌(昭和59年7月、遺族から匿名を条件に「朝日新聞」に提供、本多勝一「南京への道」⑲に紹介)の記述。
選り出した数は連長など将校含む500名ばかりとあり、城壁の山ぎわで重機2丁、軽機6丁、小銃の一斉射撃で射殺、とある。この建物は司法(行政)部だったと推定される。
12月18日付難民区委員会文書第7号は、「十四日、日本軍将校一名が司法部へやってきて難民の半数を取調べ、そのうち二、三百人を元中国兵として逮捕・連行し、三五〇名は一般市民であるとして残した」と述べている。
2日後、日本軍は司法部の再検査をやり、リッグス委員を殴り、警官百人を含む男子の殆ど全員を連行し、2千人が漢中門外で射殺されたという。警官の1人で東京裁判に出廷した伍長徳の証言で、彼は処刑者を中島部隊(第16師団)と名指すが、第9師団の可能性もあり特定は困難。
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・第16師団と第9師団により、国際難民区一帯に対する「敗残兵狩り」が行われる。
この難民区に、城区の市民、周辺農民、遠くから上海攻略戦・南京進撃戦を逃れてきた難民が、最高時25万人が避難。
ラーベ委員長は、「われわれ二五万人の難民からなる「人の蜂の巣」のなかに住むことになった。最悪の場合として予想したより五万人多かった」と書く。委員会は、食べるものを全くも持たない極貧者6万5千の為に難民収容所25を開設し食物を無料で提供。
ラーベは、「要するに私たちが当時、市全体、南京の市役所の業務のすべてを事実上引き継いだ」と述懐。委員会は、膨大な難民の為に、集団収容施設設置、食料支給、安全確保、病院・医療緻関確保と衛生設備設置、治安・秩序維持の為の警察行政施行、等を執行する体制を組級し指導。アメリカ人宣教師・教授達は、中国の大洪水・大飢饉などが発生する毎に難民救済活動に従事し中国人の組織と指導に熟達していたから、これが可能であった。12日夜より、撤退機会を失った多くの敗残兵が、武器を捨て、軍服を脱いで逃げ込んで来る。
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・第9師団歩兵7連隊(金沢)の「敗残兵狩り」。
「一二月一四日 昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩にあたり、若い男子のほとんどの、大勢の人員が狩りだされて来る。靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目つきの鋭い者、などよく検討して残した。昨日の二十一名とともに射殺する。」(歩7第1中隊の水谷壮上等兵の日記「戦塵」)。
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安全区国際委員フィッチの記述。
「十二月十四日、日本軍の連隊長が安全区委員会事務所を訪れて、安全区に逃げこんだ六千人の元中国兵-彼の情報ではそうなっている-の身分と居場所を教えるよう要求したが、これは拒否された。そこで日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、中国軍の征服の山を見つけだし、近辺の者一三〇〇人が銃殺のため逮捕された。安全区委員会が抗議すると、彼らはあくまで日本軍の労働要員にすぎないといわれたので、今度は日本大使館に抗議に行った(一二月一三日に日本軍と同時に南京に入城していた)。そしてその帰り、暗くなりがけに、この使いの者は一三〇〇人が縄につながれているのを目撃した。みな帽子もかぶらず、毛布だの他の所持品もなにひとつ持っていなかった。彼らを待ちうけているものは明白であった。声ひとつたてる者もなく、全員が行進させられ、行った先の川岸で処刑された。」(「サウスチャイナ・モーニング・ボスト」38年3月16日)。
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ラーべによる「処分」の実相に関する報告。
「武装解除された部隊の各人、またこの日(一二月一三日)のうちに武器をもたずに安全区に庇護を求めてきたこの他の数千の人々は、日本人によって難民の群れのなかから分けだされたのでした。手が調べられました。銃の台尻を手で支えたことのある人ならは、手にたこができることを知っているでしょう。背嚢を背負った結果、背中に背負った跡が残っていないか、足に行軍による靴ずれができていないか、あるいはまた、毛髪が兵士らしく短く刈られていないか、なども調べられました。こうした兆候を示す者は兵士であったと疑われ、縛られ、処刑に連れ去られました。何千人もの人がこうして機関銃射撃または手榴弾で殺されたのです。恐るべき光景が展開されました。とりわけ、見つけだされた元兵士の数が日本人にとってまだ少なすぎると思われたので、まったく無実である数千の民間人も同時に射殺されたのでした。
・・・しかも処刑のやり方もいい加減でした。こうして処刑されたもののうち少なからぬ者がただ射たれて気絶しただけだったのに、その後屍体と同様にガソリンを振りかけられ、生きたまま焼かれたのです。これほどひどい日にあわされた者のうち数人が鼓楼病院に運びこまれて、死亡する前に残忍な処刑について語ることができました。私自身もこれらの報告を受けました。われわれはこれらの犠牲者を映画で撮影し、記録として保存しました。射殺は揚子江の岸か、市内の空き地、または多くの小さな沼の岸で行われました。」(「南京事件・ラーベ報告書」)。
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・第10軍第6師団歩45連隊、下関到着。広場を埋める捕虜5~6千。第6師団から第16師団に申し継がれる。
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成友第2大隊長の回想記。
「幹部らしいのを探しだして集合を命ずると、おとなしく整列した。その数五、六千名。
・・・そこで『生命は助けてやるから郷里に帰れ』といった。
・・・折から連隊から江東門に下がって宿営すべき命令に接したので、第十六師団に後を申継いで後退した」。
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本多勝一の劉四海二等兵とのインタビュー(「南京への道」⑰)。
87師所属の劉ほ、雨花台から南京城内を南北に縦断して下関まで脱出したが、中国人らしい通訳が、「降伏せよ、降伏すれば殺さない」と叫んだので、帽子を逆にかぶって投降。その数は1万より少なく、「数千」単位で2ヶ所に集められ、馬に乗ってヒゲが両耳から顎下3~4cmまで垂れた隊長(中国語のできる山本隼人大尉か)から「釈放する。故郷へ帰れ」と云われる。捕虜たちは、白旗を掲げ夫々の故郷へ向けて出発。劉は安徽省へ行く40~50人の一団に入る。三汊河~江東門の途中で刺殺された兵士・老人・女性の死体を多数見る。別グループは江東門近くの模範囚監獄前でほぼ同数の日本兵に捕まり、銃剣と軍刀で皆殺しにされる。劉は重傷を負い辛うじて脱出。
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前田吉彦少尉(第2大隊第7中隊)の日記。
下関から来た丸腰の捕虜100人(一説には千人)が14日午後、江東門で監視兵に殺害される事件が記され、劉の体験と一致。「折角投降した丸腰の停虜の頭上に加えた暴行は何とも弁解できない」と記す。第2大隊が釈放した捕虜を第3大隊が殺してしまう結果になる。
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・夕方、第10軍司令部、中華門外より市内上海商業儲畜銀行へ移動。
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・午後7時30分、国崎支隊歩兵第41連隊(福山)の中隊、長江上流の江心洲(南岸から川幅200~300mで簡単に渡れる位置)に敗残兵多数いるとの情報により「残敵掃蕩」。最初に投降した捕虜を利用して残りの中国兵を降伏させる。
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「中隊長の計画は図にあたり、午後七時三十分より続々兵器を持参し白旗を掲げて我が第一線に投降す。中隊長は兵器と捕虜を区分しこれが整理をおこなえり。これよりさき支隊長に捕虜の処分、兵器の処置の指示を受けしに、武装解除後兵器は中隊とともに、捕虜は後刻処置するをもってそれまで同島において自活せしめよとの命令あり。・・・捕虜二千三百五十人。」(歩兵第四一連隊第一二中隊「江興(心)州敗残兵掃蕩に関する戟闘詳報」)
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・「敗残兵三万の充満する」揚子江を小船で下った陸軍准尉らの体験談(「朝日新聞」、同盟電、38年1月25日付長崎版など)
「(12月13日午前3時ごろ)江上全部敵です・・・前後左石、民船、筏、発動船、戸板などに乗つた敵が一杯で殆んど水面が見えないほど」「(夜が明けて)敵の数は殖える一方・・・敗残兵はいづれも寒さに震へながら一生懸命に漕いでゐる、その大部分は鉄砲を捨てたらしく持ってゐない」「翌十四日午前二時半下から(日本の)軍艦が遡つて来た・・・機銃、小銃で猛烈に敗残兵を打ちながら来るので、我々はその敗残兵の中にゐるのでその危険といつたらありません、周囲の敵は銃火を浴びると皆ザプンザブンと冷たい河中に飛び込む」。
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・日本外交団第2陣南京入り
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・南京日本総領事館(総領事代理福井淳領事)、復帰
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・中華民国臨時政府設立(北京居仁堂、王克敏行政委員長、華北占領地域の傀儡政権)。
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・山西省臨時政府成立に伴い、委員会が臨時政府に合流、「山西省政府籌備委員会」に改称
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・~17日、大本営政府連絡会議、中国との和平条件に修正加重。華北の特殊地域化、華中占領地の非武装地帯化、戦費賠償要求など、華北を植民地にする方向で条件決定。21日閣議決定。22日広田からディルクセンに提示。26日ディルクセン~トラウトマンから孔祥熙(行政院副院長)に提示。回答なし。
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円卓会議で、近衛首相の右へ多田参謀次長、古賀軍令部次長、杉山陸相、広田外相、米内海相、末次内相、賀屋蔵総、陸・海両軍務局長の順に並び、和平条件の説明は外務省東亜局長石射猪太郎。
結果:満州国正式承認。華北・内蒙に非武装地帯設定。華北・華中・内蒙に保障駐兵し、華北新政権承誌。戦費賠償、等々、旧案を大幅に変更し新条件を追加し、全面降伏を強いるも同然のものになる。
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新任の末次内相が「なまじっかな講和条件では駄目だ」「かかる条件で、国民が納得するかね」と煽る。米内海相は和平成立の公算ゼロと反対。広田外相は「マア三、四割は見込みがありはせぬか」、杉山陸相は「五、六割は見込みがあろう」と同調。
石射東亜局長は「こんな条件で蒋が講和に出てきたら、彼はアホだ」と記す。
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堀場(参本戦争指導班)の批判。
「広田外相は、犠牲を多く出したる今日かくの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難きを述べ、杉山陸相同趣旨を強調し、近衛首相同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの結論に達し、その他みな賛同せりと」。
「閣議国を誤る事此に至り、戦争指導班は憤然として蹶起し、挺身以て国家の危急を救うは今日に在りとし、非常の手段亦敢て辞せざるの決意を固む」。
「蓋広田外相の強硬論は何ぞや。自らの失態を蒋介石に転嫁するものか。両大臣が実情を知りて之に和せしとせば罪深し。抑々トラウトマンは、蒋介石の質問に答うるため改めて最近広田外相に念を押したるに非ずや。而も先の条件も広田外相より発出せるものに非ずや。外相も戦局を知れる筈なり。先の条件発出は既に情勢錯誤なり。次の回答は尚更なり。何故軍に協議せざりしか。当時是認ぜりとせば、その変化は南京追撃の戦況に酔いて倨傲となれるか、或は輿論を恐れて臆病となれるか、是認せる条件に基づく回答ならば責を一身に負いて交渉た入ること当然にして、亦是外相の機略ならずや」。
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・南京陥落祝賀大提灯行列。東京市民40万。
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見出し「大戦捷!歓喜の熱風/来たぞ!世紀の祝祭日/師走の街に七日早く〝お正月〞/帝都は旗、旗、旗の波」、
「一億国民待望の「南京陥落公報」に接した十四日の朝は、東亜の暗雲を一掃したような澄みきった太陽が燦々とそそぎながら、歓喜の日和だ。黎明をついた新開配達の足音が各家を訪れた時、ラジオで放送開始の午前六時半、嚠喨たるラッパの音とともに臨時ニュースを発表した時、全国民は歓呼の声をあげた。子供たちは床のなかで「万歳」を叫んだ。国旗は各戸はもちろろん市電、市バスにまで翻り、ここかしこに明朗な万歳。久リスマスやお正月を蹴飛ばした世紀の祝祭日は、赤穂義士が本懐をとげた日と同じうして到来した。(「東京日日新聞」12月15日)。
* 
・天皇、南京占領を喜ぶ「御言葉」を下賜。
「陸海軍幕僚長に賜わりたる大元帥陛下御言葉 中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申伝えよ。」
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現地軍の中央命令無視、独断専行による侵略戦争拡大を、天皇が追認して鼓舞・激励する構図
中支那方面軍松井石板司令官・武藤章参謀副長らが陸軍中央の統制を無視して強行した南京攻略戦が、大元帥昭和天皇から「御言葉」が下されるまでの大軍功とされる。
松井は、「一同感泣、ただちに全軍に令達するとともに、奉答の辞を電奏す」とこの日の日記に書く。
* 
・この日の新聞報道。
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「南京を完全占領、両三日後、歴史的入城式、砲煙赤く炸裂の中に、群うつ敗走兵の惨状」(「東京朝日」)。
「きょうぞ、南京城完全占領の東西南の各城門より、皇軍大部隊勇躍突入、包囲下に大殲滅戦を展開」(「東京日日」夕刊)。
*
・末次信正、内務大臣に就任。
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・政府、米パネー号および英レディバード号事件(12日)に関し公文で陳謝。
to be continued

2008年12月13日土曜日

明治17(1884)年秩父(7)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 武相困民党、9・5事件 田代栄助、秩父困民党参加決意 加波山事件 

■明治17(1884)年秩父(7)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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 つい先ほど、「女優貞奴」(山口玲子 朝日文庫)をぱらぱらめくっていて、ちょっとムカついたので、下記を「黙翁年表」に追加した。日付的には、掲載済みなので、ここに置いておきます。
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この年の7月20日のこと。
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・藤田伝三郎、井上馨、内海忠勝、伊藤博文の政財界人4人、木挽町の待合の女将を立会人に、「各自の寵妓をとらないという一種の不侵情的(ママ)」(菊地「明治史の裏面・名士と名妓」)を結び、誓紙を書く(「とらない」と書いた色紙が現存)。
 この頃、後の女優貞奴(貞)は、13歳の誕生日を2日前に迎えて小奴という名の雛妓)で、3年後の水揚げは、伊藤博文によるとされていた。「とらない」とは、小奴の貞を伊藤博文からとらないと、他の3人が約束したことを意味する。
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この日は、秩父の困民が期待をかけた春蚕の初市で、困民たちが絶望的な結果をみた日です。この年の養蚕は6分の出来、2年前の半値という市況。
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 年を越せない派遣労働者の群れ。・・・連夜、バー通いのタロウ、と重なる。
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 さて、何故今頃、こんな本を・・・、と言いますと、以前の「ゲーテ座」のシェークスピア劇のくだりが気になってて、多分この本に書いてるんじゃないかと、探した次第。結果、よくわかりませんでした。この本は、98/3/25に読んだことになってました。
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9月前半(1~15日)
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-・片山潜、米へ向かう
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-・杉田定一、自由党解党の約1ヶ月前のこの月から1年にわたり清国を遊歴。
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-・小坂鉱山、久原庄三郎に払下げ
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-・深川工作所(セメント)、浅野総一郎に払下げ
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-・夏目金之助(17)・正岡常則(子規、18)、東京大学予備門予科(明治19年4月、第一高等中学校に改称)に入学。同級に南方熊楠、山田武太郎(美妙)、中村是公、芳賀矢一ら。
子規は明治18(1885)年、入学初年度学年末試験で不合格となり落第(「余が落第したのは幾何学に落第したといふよりは寧ろ英語に落第したといふ方が適当であらう」(「墨汁一滴」))。
漱石も明治19(1886)年、腹膜炎のため進級試験を受けられず成績も悪く落第。
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熊楠は学校の授業には興味を覚えず、図書館での抄写、上野博物館・動物園・小石川大学植物園などで自学、考古遺物・動植鉱物などの標品を採集する。この頃、世界的隠花植物学者イギリスのバ-クレイやアメリカのカーチスが菌類(キノコ・粘菌など)を6千点集めたと知り、それ以上の標品を採集し図譜を作ろうと思い立つ。学業には精を出さず、学年末試験に失敗、1886(明治19)年2月帰郷、渡米して勉強したいと父に申し出る。当初は反対していた父も、その熱意に負け渡米を許す。
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-・高橋義雄「日本人種改造論」。雑婚奨励。極端な欧化主義。
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-・群馬の農民闘争。
秩父の東隣・児玉郡4ヶ村の負債農民100名、連合規約を起草し児玉町の洪盛社に負債返済延期交渉準備。弾圧される。浅見村では、10数ヶ村代表60~70名が集会、解散させられる。
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-・新井周三郎、秩父郡石間村に小学校教員の欠員あると聞き加藤織平を頼る。この時、出入りしていた小柏常次郎から困民党運動を知り係るようになる(10月12日幹部会議出席)。明治14年頃、男衾郡西ノ入村の小学校教員。その後、群馬県緑野郡浄法寺村の浄法寺学校に転じる。
「今ヤ世上不景気ノ極ニ達セルヲ以テ、之ヲ拯フテ世直シヲセントノ実ハ目的ニ在リシナリ・・・元来自分ノ借金アルニ非ザレドモ、村民ノ困窮ヲ目ノアタリ傍観スルニ忍ビズ」(新井周三郎訊問調書」)。
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9月1日
・午前10時、八王子警察署長原田東馬、負債延納運動中心人物南多摩郡下川口村(現八王子市川口町)塩野倉之助宅捜査。書類を整理していた町田克敬(下川口村)引致、同盟のための盟約書や負債書類を押収。
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9月1日
・愛甲郡の民権家、困民党事件を前にして再び地租軽減運動に取り組む。
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9月2日
・秩父、堀口幸助他1人、大宮郷に田代栄助を訪ね出馬を要請。この日は旧暦お盆の13日。栄助は盆のうち必ずうかがうと曖昧に回答。
9月2日、田代宅を再び訪れたのは、堀口幸助と石間村姓名知らざる者の2人と田代供述にある。
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堀口は沼津の生まれ、群馬県渋川で代言業を営み、いつの頃か秩父に来る。弁の立つ2人の説得は、村上泰治の投げやりな驕慢とは異なる真摯さで栄助は不信を解く。堀口らは、高利貸の無慈悲の為、一般は困窮に陥められている。加えて、学校費嵩み、雑収税負担、村費の過重から解き放たれるにはどうすべきか、ともども相よって協議したい、と云う。
田代は、大意分った、盆のうち(旧暦7月14日~1日、新暦9月3日~6日)に必ず出頭すると回答。
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9月2日
・秩父、飯田村富農犬木寿作(32)、高岸善吉と接触。
 高利貸しの「貪欲苛薄」を知り周旋の労をとる。明治14年小鹿野町の高利貸柴崎佐平・加藤恒吉らと共同出資で製糸会社「共精社」設立。村民に金を融通し取立てのため熊谷の裁判所に出向いたりする。花火師でもあり手広く火薬販売もやる村の顔役。秩父事件では飯田村小隊長。
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9月2日
・秩父、「石間、上吉田、大田百人余・・・鍋釜諸道具持来リ(高利貸しと)掛合始メル」(「木公堂日記」)。困窮農民は夜逃げ、自殺行為から、団結し、より能動的に鍋・釜を持っての掛け合いを始めるようになる。
 「九月二日 ・・・自由党組デモ有力小鹿野エ来り、トキワヤ、アプラヤ、仝、坂本徳松、田端建次外二三軒エ金貸一件ニ付石間、上吉田、大田百人余モ腰根山ヤ小鹿野エ鍋釜諸道具持来り掛合初メル咄。高利分切ナシ五ヶ年置スエ、跡長年賦ノ掛合夫ニ付、巡査熊谷ヨリ此辺皆集マル。石間城山ニ大勢コモル、七ケ村集マル。」
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9月3日
・自由政談大演説会。福井茂兵衛「仏国革命自由の凱歌講談」。
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9月4日
・川口困民党副頭取小池吉教(西中野村戸長)、明神山(ひよどり山)集合布告。
 小池は5日の歎願デモ途中で逃亡、非難されるが、明治20年、多摩困民党唯一の犠牲者として獄死。
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9月5日
9・5事件
 川口困民党、ひよどり山集会後総代200人(南北西多摩郡33ヶ村民)、八王子警察へ行進。この日、八王子警察署乱入。総員逮捕。南多摩郡下川口村塩野倉之助、領袖として投獄。南部人民は北部と合流すべく御殿峠に再結集始めるが、横浜本署増援部隊が到着し、人民は引いてゆく。
* 
八王子警察署で一同は、「御願ガ御座リマス、借金ヲ十ヶ年賦ニ願マス」と叫び、町田の釈放と書類の返還を要求。警察は解散を命令し、210名全員を逮捕拘留。翌年2月、横浜裁判所は塩野倉之助に兇徒嘯衆罪で軽懲役6年の判決。塩野は下獄。この日以降、警察の警備は厳重になるが、この頃から相模・武蔵の農民が合同する「武相困民党」の一大組織が結成されつつある。11月19日、須長蓮造が組織する。
* 
9月6日
・八王子南方・北方の困民党呼応。津久井困民党、再起し御殿峠集結の動き。弾圧厳しく運動退潮化。
* 
 5日夜~翌朝、西中野の小池宅は対策を協議する人民100余が集結。警察署には農民が同志奪還に押寄せるとの情報が入り、更にこれまでは別個の活動をしていた八王子南方・北方の困民党が呼応、合流を始め、加えて津久井の囲民党が再起し、一大結集の為に御殿峠に集結を始める。
 八王子警察署長原田東馬警部の報告。
「九月六日南多摩郡南方の各村及び高座郡、津久井部各村の人民共、前日北方下川口村人民数百人八王子へ押し寄せ警察署にて喧閙し、尚ほ残徒中野村辺に屯集して追々八王子に押し来らんとするの景状を伝通し、同日午後八時より夜を徹し、南多摩郡鑓水峠と御殿峠の中間なる檜窪官林に集まり、八王子に押寄せくる北方各村の人民と相会せんと謀り、午後九時頃追々御殿峠及び檜窪に集合」、その数は夜半にかけて増加。
 ところが、7日夜明け頃、群衆は姿を消し、警部巡査ら駆けつけた時には誰もいない。理由は、横浜署から馬車数台に分乗して警部3・巡査35・監守10の増援部隊を、「憲兵数百人繰込みたるもの」との誤報と聞き違え、緊急退避したため。
* 
幾つかの「偶然」が原田警部や高利貸資本)を助ける。
①この地域に電信・電話施設が架設された直後であり、5日夜のSOSが直ぐに増援部隊派遣となって威力を発揮。
②デマか聞き違えか、ともかく流言により3困民党の連合を直前に阻止できた。
③石坂昌孝率いる三多摩自由党が微妙な瞬間に沈黙を守り、力の均衡を保つ。
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9月6日
・秩父、田代栄助、運動参加決意(8月21日と9月2日に要請される)。
 夕刻、新井繁太郎が大宮郷熊木の田代の家に迎え、阿熊村新井駒吉宅に向う。翌3日午後6時、上吉田の高岸宅、下吉田の井上宅と場所を変え3日間会議。井上伝蔵・坂本宗作・高岸善吉・飯塚盛蔵・小柏常次郎ら。
 田代栄助は小柏常次郎らの「関東一斉蜂起説」により困民党総理就任受請。山林集会を止めて委任状取り纏め大宮警察署への陳情決定。
 この頃、善吉・宗作・寅市トリオに加え、加藤織平・井上伝蔵・門平惣平・新井周三郎・小柏常次郎など秩父困民党指導部の輪郭出来上がる
* 
石間村新井繋太郎を使者とし、栄助を大官郷熊木の自宅から阿熊村のアジト新井駒吉宅に引っ張り出す事に成功。
栄助が重い腰を上げた大きな理由に、「群馬から自由党員小柏常次郎先生もお越しのこととて・・・」との使者の説明があったからと、栄助は供述。
* 
討議内容(栄助供述による)。
①高利貸のため身代を傾け目下生計に苦しむもの多し、よって債主に迫り10ヶ年据置き40ヶ年賦と延期を乞う。
②学校費を省くため3ヶ年間休校を県庁へ迫る。
③雑収税の減少を内務省に請願する。
④村費の減少を村吏へ迫る。
これらは、説得に来た堀口の主張と同じもの。「10ヶ年据置き、40ヶ年賦」は、高利貸連が到底呑まぬだろうし、その他の要求を内務省などに突きつける事も尋常の手段では行かぬだろう、とは容易に分ることで、敢えてそれらを目標とするには、力の対決になることを、彼らは充分理解している。
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栄助の調書。
「容易ナラザル事件ニシテ何レモ生命ヲ捨テザルヲ得ザル事柄ニツキ、熟考スル方可ナラント述べタル処、貧民ヲ救フガ為メモトヨリ一命ヲ抛テ企ツルモノナレバ宜シク賛成アレト、善吉他六人言ヲ揃へテ申開ケタリ。尚ホ小柏常次郎自分ヲ励シテ申スニハ、貧民ハ独り埼玉県ニ止ラズ何県ニテモ同様ノ事ナレバ速カニ同意ヲ表シ貧民ヲ救フニ尽力セラレヨト。ヨツテ自分決意ノ上、諸君何レモ一命ヲ棄テ万民ヲ救フノ精神ナレバ速カニ尽力セント答へタリ」。
群馬から運動に加わる小柏常次郎が、秩父一郡に埋没しがちな困民党中枢の戦略論の視野を拡大させるが、これがためらう栄助の侠気に強くアピールする。
蜂起が秩父一郡に止まるならば、それは敗北と死を意味し、しかも、蜂起が関東一円に広がる可能性は、今後の困難な組織活動にかかっていることを栄助は承知しており、この時から栄助は秘かに死を心に決めていたと思える。
「関東一斉蜂起」の鍵は、自由党中央の指導でなければならないが、栄助は村上泰治に代表される自由党の在り様へ深い不信を持っている。また実際にも、明治17年秋の自由党は10月29日の大阪解党大会を目前に瀕死の重症にあえいでいる。
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この様に、栄助に総理就任を決意させた主動因は、善吉以下7名の初期困民党幹部の熱意と、群馬からの客人小柏常次郎の展開する「関東一斉蜂起説」であり、栄助は蜂起に向けて最後の土壇場まで関東一斉蜂起説に固執し、執拗にそれを追求し続ける。
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「自分ハ生来強キヲ挫キ弱キヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者便リ来ルトキハ附籍為致、其他人ノ困難ニ際シ中間ニ立チ仲裁等ヲ為スコト実ニ十八年間、子分ト称スル者二百有余人・・・」(田代栄助訊問調書)。
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9月6日
・秩父、粟野山(吉田川・石間川合流点近く)、発起人27人で160人ほど集会。警官が現れ住所氏名を控えて解散させる。8日、発起人27人で蓑山で集会。警官70人。(小柏常次郎の訊問調書)
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9月6日
・「自由党甲州、八王子所々二集マル。当郡内所々マタ集マル咄。イズレモ高利二付騒グ」(「木公堂日記」)。
 「九月六日 ・・・自由党甲州、八王子所々二集マル。当郡内所々山々マタ集マル咄。イズレモ高利ニ付騒グ。中ニハ浦和ノ牢破リノ者五六十人モ居ル咄ナリ(これは単なる噂であった)。皆、城峯(山)へ籠ル」。
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9月7日
武相困民党第2の昂揚期は退潮
多摩北部(川口)困民党下の各村100余、滝山村少林寺に集合。解散させられる。8日警察が警戒するも農民は現れず。10日、南多摩・高座人民、相模原北辺で100余が集会。
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この頃、警察は、3名以上集合の人民を全て9・5事件(「兇徒多衆嘯衆事件」)の違犯者とし厳重に追及、各地に「巡査の配置所を増設し、臨時数名の連行巡回を施行し、非常警戒を厳にし」運動を地下に押し込める。これ以来、津久井の困民党を除いて、八王子北方・南方人民の動きは官憲の記録からも新聞からも姿を消す。
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9月8日
・多摩北部(川口)困民党石川嘉吉・立川周蔵・木下久兵衛ら7人、谷野の須長漣造宅で連行。須長自身も6日勾留状、16日収監状、30日予審判事補の召喚状を受ける。
 石川は、事件当日、八王子某所で三多摩自由党最高指導者石坂昌孝と面会し、北部困民党の実情を訴え、9・1弾圧事件への救援を依頼。石川はこれを須長に報告。石坂の回答は不明であるが、少くとも同じ仲裁者グループの一員だった塩野・町田両名の貰い下げについて奔走したという形跡は見当たらない。
 その後も、9月9、10、23、30日と高座郡相模原・津久井郡などに集合するが、官憲の厳しい追及の為に次第に地下に潜行していく。
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9月8日
・植木枝盛(28)、8月末、東京発。中山道経由、この日大阪着。13日、自由平権懇親会出席。20日、「土陽新聞」補助員になり、この日から10回、「貧民論」(「土陽新聞」連載)。財産による参政権制限の不当性。22日~高松へオルグ。6日間。
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9月8日
・自由党板垣退助・後藤象二郎、駐日フランス公使サンクィッチと会見。朝鮮でのクーデタ実行資金100万ドル提供求める。清仏戦争の背後をクーデタで牽制する目的。
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「自由党史」では、後藤象二郎・板垣退助・自由党幹事小林樟雄が、駐日フランス公使を訪れ、朝鮮「独立」のため開化派援助費100万円の借款を依頼、公使は個人資格で斡旋を承諾したという(この記述の真偽には論争あり)。9月9日、板垣・後藤が公使に借款斡旋依頼をしたことはフランス外交文書に記されている(但し、公使は承諾していない)。
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9月10日
加波山事件
 この日、門奈茂次郎・河野広体・横山信六・小林篤太郎4名、神田小川町で質屋強盗。12日、爆裂弾作成のメンバー鯉沼九八郎・館野芳之助・平尾八十吉の内鯉沼・館野2名、爆裂弾製造中の事故がで負傷。
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9月11日
・上州の小柏常次郎(屋根板割)、落合・坂本・高岸らに秩父困民党への協力求められ受諾(常次郎の供述調書、但し、もっと早い時期の筈)。
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9月11日
・「九月十一日 ・・・自由党蓑山へ凡ソ六百人斗り籠ルト云フ。皆貧窮人ニ頼マレテ高利貸ニ掛合ナリ。」(「木公堂日記」)。
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9月12日
・西多摩郡長細谷五郎右衛門、各村戸長役場に「乾第拾三号」(検査官吏派遣あり準備せよ)の指令を流す。
 「自今私立銀行及金貸会社営業等視察スル為ニ臨時官吏ヲ派出シ帳簿ヲ検査シ又ハ尋問ヲナシ不都合之所為有之卜認メタルトキハ営業ヲ差止候義モ在之旨其筋ヨリ達シ有之候条該営業者へ無洩相達シ置ベシ 此旨相達置候事」。
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9月12日
・大住郡伊勢原学校、放火のため全焼。
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9月13日
・平野友輔・小林幸二郎ら、盟友奥宮健吉・山口俊太・和田稲積・龍野周一郎らを招き、八王子に自由政談演説会。~14日。16日、平野ら6名、青梅町英昌亭で政談演説会を行なおうとして、解散を命ぜられるが屈せず、学術演説会に切り換え、17、18日に強行。聴衆は両夜とも400~500名以上。
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9月13日
・高ケ坂村の市川志郎助、細野喜代四郎に書簡。高ケ坂村の困民が細野の説得を大枠で受けいれ、各村(との会合を持つので、仲裁人への返答を2、3日待ってほしいとの内容。高ケ坂村は、仲裁人グループの説得にそって問題の解決をはかり始める。
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9月15日
・台風、疲弊した関東の農村を襲う。17日にも。家屋破壊、河川氾濫、作物に大被害。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい

to be continued

京都市上京区の風景 「山中油店」







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写真は、京都市上京区にある「山中油店」。創業は文政年間、勿論、今も商売継続中です。

この辺一帯は、もとの平安京の内裏のあった場所で、「山中油店」の辺りはその南東の端にあたるそうです。

また、時代は下りますが、秀吉の建てた聚楽第の跡はここから北の方向に、現在の二条城はここから南東の方向にあります。
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「★京都インデックス」をご参照下さい。
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2008年12月9日火曜日

あはれことしのあきもいぬめり









私の職場の席のすぐ後ろの風景。

上2枚は本日(2008/12/09、あいにく曇り)。
  ⇒ 一番上は、晴れた日の2008/12/10のものに入れ替えました。

一番下は約1ヶ月前の2008/11/13(快晴)。
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冬来り。

明治17(1884)年秩父(6)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 乙女峠事件 清仏戦争 武相困民党、8・10事件 秩父困民党第1回和田山会議 平田橋巡査故殺事件(名古屋事件) 秩父困民党の組織化進む 秩父困民党第2回和田山会議 

■明治17(1884)年秩父(6)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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8月
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-・乙女峠事件
栃木県令三島通庸の陸羽街道工事、人民の遅参に対し労役監督巡査が人民惣代を捕縛。更に、乙女宿人民73を捕え拷問。
田中正造は現場を調査、宮内卿土方久元・内務卿山県有朋に三島の暴政を訴える。翌9月、会津街道新開工事予算不足審議の臨時県会が召集。議会はこれを却下(三島が自分が所有する三島村を通過させるため独断で路線を変更したことによる予算不足)。
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-・末広重恭、東洋学館(上海)館長引受ける。国権主義者に変貌してゆく。
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-・初旬、翌月の加波山事件に参加する自由党員小林篤太郎・五十川元吉、八王子周辺困民党結集を聞きつけ現地に乗り込む。「あに図らんや、これらの徒みな事理を解せず、主義を持せず、・・・」と感じて、引上げる。
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-・有島武郎(6)、妹の愛とともに横浜英和学校に入学。
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8月1日
・植木枝盛「北陸紀行」(「自由新聞」)全8回。「負債党蜂起」の必然は理解するものの、これをもって専制政府打倒などの発想には繋がらない。第3者的観測のみ。
 「予也此行に於て更らに地方の実況を目撃するに、殆んど言ふに堪へざるものあり。農民は大に困難し、商業は大に萎徴し、金銭は大に融通せず。初め東海道を行き、大磯を歴。車夫語りて曰ふ、先日以来此辺の小民頻に此処彼処に集合し、金主某に迫らんとするの趣あり。今日も亦現に其処に会合せりと。予れ一聞し、「鳴呼夫の負債党の顕はるる既に此に至れる乎。後日必ず事あらん」と。果して遂に金主某を掩殺するの一大事を演出するに至れり。呼、負債党の蜂起する既に爾り矣。豈に独り此等の一時一事而巳ならんや。今にして其本を正さずんは、炎烟益々熾んならんこと炳々たり。要路者豈に猶ほ顧るに足らずとする乎」。
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8月3日
・南多摩郡高ヶ坂村他の(武相)困民100余、御殿峠に集結。7日、南多摩郡・高座郡の代表16人、御殿峠に集結。8・10事件の前触れ。
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(南多摩郡):木曾村2、宇津貫村2、南大沢・相原・鑓水・下一分方・根岸・小比企・松木・高ヶ坂・鶴間・小川各村1名。
(高座郡):鶴間村・小山村各1名。計24ヶ村16名。高座郡鶴間村の1名は、7月31日に集合した300名の代表。
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8月5日
・(清、光緒10年6月15日)フランス軍、台湾基隆を奇襲攻撃。清仏戦争始まる。
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8月5日
・岡山、自由党納涼大会(集会条例適用を回避する策)。
 女子親睦会・蒸紅学舎の女子生徒ら参加。蒸紅学舎教師景山英子の演説。この後、中心メンバ津下正五郎は警察から「古物商頭取」役を停止させられ、英子の姉婿の県会議員沢田正泰は譴責、英子の兄弘は小学校教員を解職。9月9日、岡山蒸紅学舎、高崎県令より停止命令。英子に上京の志燃える。
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「自由新聞」(8月13日付け)によるこの日の納涼大会の様子。
黄昏どき、旭川河原に「自由運動会」と大書した紅白四旈の旗たて、中央に「自由」と書いた高張り提灯がつけられる。自由党壮士100余が紅白に分れて旗を奪いあう競技ののち、会主の「自由万歳」に一同唱和し宴会に移る。
会が終ろうとする時、川上から船7艘が「自由」と染めぬいた紅燈数個を灯し、船首に「自由親睦会」と書いた大旗を立て、左右に高張り提灯を掲げて下って来る。その内1艘では、岡山女子懇親会員と蒸紅学舎の女生徒26~27人が歌を歌う。少年の演説に続き、蒸紅学舎の教師景山英子が、「国家の大事は独り男子に勤労せしむる者ならず、女子亦た自任して勤めざる可らず」と演説。
最後に少女(11)が、「明治の今日に生まれたるからは、国家万一の恩に報い、岡山の一女子たるの本分だけは、私幼稚なりと雖も之を尽さんと欲す」と演説、やがて夜も更けて散会。明治13(1880)年4月、集会条例を定め、更に15年、警官の集会解散権を加え、集会はしばしば警察官によって中止、解散を命ぜられるようになる。これに対抗して、運動も、表面平穏を装い、時に政府の意表をつくやり方がとられる。
この日も官憲は、河原からしきりに瓦石などを投げ挑発。水中にもぐっていた響官が、船の上で演説を始めた人々に対し、「中止解散」を命じたので、人々は怒って、「河童を殺せ」、「なぐり殺せ」とひしめき合い、年長者が推し止めたと、英子は記す。
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8月7日
・独、南西アフリカ(後、ナミビア)をドイツ領南西アフリカとして統合。
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8月10日
8・10事件
 八王子南方村民(南多摩郡・高座郡・都築郡)決起。夜、数千の人民、御殿峠集結。八王子警察署長原田東馬が部下3~40名率い駆けつける。翌11日、群集解散。午後4時、強硬分子21ヶ村224人、警察に拘引。説諭・釈放後、彼らは銀行・会社との交渉に入る。周到な準備。頭取(上鶴間村の富農渋谷雅治)・副頭取(由木困民党指導者・南大沢の佐藤昇之輔ら)・各村の連絡(総代人)・交渉委員など指揮系統。個別歎願から代表交渉へ、更に総員交渉へ発展(秩父困民党と同じ過程)。
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この夜、八王子の町は打ち毀し前夜のような恐慌状態態に陥る。夜8時頃から結集、11時に1千超、深更に入り数千人に達す。いでたち一様に蓑、笠。「門訴めきたる風姿」。近くの豪家より金穀を借り、大釜を据付け焚出し、酒樽の鏡を抜き、「酒気をかり威勢をつけて、然らば是より八王子表へくりだし、銀行はじめ其他の貸附会社に強談し、おのれらの希望をとげんと、太鼓を打ちて合図をなし押出さん」とする(「朝野新聞」8月20日)。
所管内村民の大半が御殿峠に集結したという南村(高ヶ坂・鶴間・小川・金森・成瀬5ヶ村)連合戸長細野喜代四郎が記録するその日の経過。「当近村の同徒(負債党)は、粮米大釜等も大八車に搭乗、町田分署の門前を喊声を作て繰り出し、七十有余の銀行会社に対し、所謂破壊をなさんと御殿峠に至れば、此所には早く既に数千の同徒が雲集し居り、先ず将に八王子を冒蒐て襲はんとする危機一髪」(「南村誌」)、その時、自分をはじめ石坂昌孝、薄井盛恭、中溝昌弘ら自由党幹部が鎮静に駆けつけたという。実際は、八王子警察署長原田東馬警部が必死に説得。
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「同党中一方の領袖ともいふべき鶴間村の渋谷某兄弟は、可なりの身代なる由なるが頗る弁舌に長じ、八王子三十余の銀行諸会社の人々は此の二人の舌頭に圧倒せられ、中にも共有商会の社長某は舌戦の余竟に二人の為めに説き伏せられ」(「朝野新聞」18年3月4日)。権利思想・論理力の浸透。
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(南多摩郡):南大沢19、松木9(由木村)。高ヶ坂19、鶴間12、金森12(南村)。小山9、相原3(堺村)。木曾19、根岸5(忠生村)。宇津貫9、小比企2、片倉2、西長沼2、打越(由井村)。元八王子村1。
(高座郡):上鶴間67、鵜之森8、淵野辺7、小山7、下鶴間5。(都筑郡):恩田7。計21ヶ村225人。8月7日の分布から更に拡大。
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要求は、
①負債は満5ヶ年間据置、その後50ヶ年賦にて返却。
②負債の故に売渡しを余儀なくされた地所(質地等)については、前項同様50ヶ年賦にて買戻す(①の要求を、既に土地売渡しによって負債返済したものにまで遡及させる)。
③以上が示談で解決できないときには、総員交渉による実力も辞さない、というもの。
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8月10日
秩父困民党第1回和田山会議
 落合寅市・高岸善吉・飯塚森蔵・井上善作ら13名。警官隊によって解散。困民党組織作り、各村動員の申し合わせと考えられる。
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「明治十七年八月十日頃、秩父郡小鹿野原市へ商用ニテ参リタルニ、十三人程ノ者集り、誰ガ発意トモナク字和田山卜申ス山林へ集り、尤モ右人名ハ飯塚森蔵、落合寅市、井上善作、其他十一二人ノ者ニテ、借金八年賦ニ致シ貰フべキ相談・・・」(善吉訊問調書)。
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8月10日
・有一館開館式。
 自由党の文武館(自由党急進派の拠点、左派青年志士養成機関)、築地新栄町。板垣退助・星亨・中江兆民。参列者500余。
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8月10日
・植木枝盛(28)、村松愛蔵の依頼を受けて秘密出版の原稿「飯田事件檄文」起草。31日、東京を出発し、中山道経由関西に向う。この月、杉田定一らと共に東洋学館開設の主唱者となる。
 飯田事件の首謀者村松は、ロシア語の知識があり、露国虚無党の秘密出版の例に倣って檄文を5万部印刷し、秘かに全国に撒布し、革命気運を興そうと企て、枝盛の文章力に頼り、起草を依頼。既にこの年4月25日西下の途上名古屋で村松と会い、知り合っている。枝盛これを快諾し、「数日」間で書きあげる。
 その後、村松らは、各地からの騒然たる情報により予想以上に「進歩したるに驚き」、秘密出版撒布する時機ではなく、武力革命の挙に出るべきと考え、枝盛起草の檄文末文を改め、これを挙兵の旨趣書に転用。飯田事件発覚後、官憲は檄文の筆者を追及するが、村松らは自分たちの起草であると云い張り枝盛に累を及ぼさず。
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8月11日
・武相困民党。総代6~7人づつが銀行・会社に押しかける。12日、即答を得られなかった困民、再び集合。高尾山山麓などを根城にして連日債主のもとに繰出す。
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「到底此様子にては遂に沸騰し、再び押来りて銀行或は貸金会社を焼払ひ、乱暴狼籍に及ぶことも有るべしとて、駅中の人民は目下長幼をして難を避けしめるなど昼夜安き心もなく、今にも騒動の起る如くに云ひあへり」(「朝野新聞」17年8月20日)。
自由新聞も、「あるいは竹槍を提げ蓆旗を翻えすやも測られざる」、「恰も戦争同様の景状」を呈したと記す(「自由新聞」17年8月3日)。
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8月11日
・東京有一館開館式出席の神奈川自由党領袖石坂昌孝・吉野泰三・本田定年・中村重右衛門ら、御殿峠結集の報聞き急ぎ帰郷。南多摩郡・高座郡の自由党員戸長・県議中溝昌弘・細野喜代四郎・山本作左衛門・長谷川彦八らと合流。
 彼らは仲裁人グループ作り、協議、県庁へ嘆願、債主らと個別交渉に入る。有一館に居合わせた加波山グループ五十川元吉・小林篤太郎・平尾八十吉らも多摩に急行するが、単なる農民騒擾とみて「此等の徒、皆な事理を解せず、主義を持せず」と絶望して戻る。
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石坂昌孝
1857年(安政4)以来、惣名主、戸長を経歴、農村共同体指導者として温情主義に生きてきた人物。また自分も借金問題に悩んでいる(例、石坂昌孝は明治14年の横浜・西村喜三郎からの借金2千円が返済できず、18年には石坂恩孝名義の田2町25歩を取られる。(石坂家文書借用証文))。
 石坂は幕末当時、大豪農であったが、明治10年地租改正調査終了時には、田7町5反6畝、畑9町8反4畝を含む27町7反3畝余を野津田村内に所有。明治12年7月地租額調理書では地租132円90銭1厘、従って所有地地価(地券面高)は5,316円となる。それが、明治12~18年、約75%失い1,570円となる。
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8月11日
平田橋巡査故殺事件(名古屋事件)。
 この日夜、大島・富田・塚原ら11名、丹羽郡北島村の豪農襲撃のため出かけるが警備が厳重で断念。午前2時、平田橋辺で枇杷島署詰の加藤・中村巡査に誰何されたため両巡査を殺害。のち、大島・富田・鈴木(松)が「罪ヲ免ガレルタメノ殺人」として死刑、青沼・奥宮・鈴木(桂)が「単純ナ故殺」として無期懲役となる。奥宮健之の強盗参加は、第23回の今回のみ。
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8月12日
・無署名「魯国虚無党秘聞録」(「自由新聞」)。

8月13日
・岡山自由親睦会「民権大津絵・自由数へ歌」(「自由新聞」)。

8月14日
・通俗自由政談演説会「自由の凱歌・戸谷新衛門伝・魯国虚無党退治奇談」(「自由新聞」)。
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8月15日
・津久井郡の農民100余、津久井郡役所へ押しかけ。16日、9ヶ村300余、八王子へ北上。原田東馬警部に命じられた浜口警部補以下20余が、八王子南2kmで食い止める(説得して後退させる)。この夜は中沢村普門寺に泊。17日、銀行との交渉にあたる総代選出、隊を分け、武相・東海貯蓄・八王子・旭・武蔵野5銀行と共融会社、甲子会社その他の金融業者の家々に向かう。夕方、各村2~3の代表を残し帰村。
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①個人高利貸業者には15ヶ年据置後25ヶ年賦、
②会社名称のものには10ヶ年据置後15ヶ年賦、
③規定内利子による相対の借入金には5ヶ年据置後15ヶ年賦、
④商法上の取引貸借は5ヶ年賦、
⑤質屋よりの借入には質物取り戻し、無抵当の5ヶ年賦証書に改める。
津久井の困民党は村によっては不参加者を村八分にした形跡もある。最初、彼らと債主との仲裁をしようとした新旧戸長たち(自由党県会議員で大井村戸長梶野敬三や中沢村戸長安西昌司、三井村戸長高城熊太郎、日連村前戸長で県議の岡部芳太郎ら、須長漣造「十七年雑記」)も、自分らの調停の目論みと、困民党の要求とがかけ離れている為「到底目的を果すこと能わざることを思ひ、追々手を引く」。交渉ははかどらず。
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8月15日
・福沢諭吉、フランス艦隊の基隆攻撃の報に、清仏戦争を太平天国の乱鎮圧後止んでいたヨーロッパ諸国の東アジア侵略再開の合図と看做す(「時事新報」)。
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8月15日
・三木武吉、誕生。
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8月16日
・通俗自由政談演説会「経国美談・自由の凱歌・東洋義人伝」(「自由新聞」)。
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8月17日
・石阪昌孝、困民党騒擾に直面し、広徳館館主・甲子会社社長林副重に問題の解決を要請。
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8月18日
・八王子北方西中野村明神山(別名ひよどり山)に17ヶ村60名結集。吉沢美治警部補が踏み込み解散。氷山の一角。
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 8月前よりこの地域の負債延納運動は、塩野倉之助を中心に始る。
 塩野は下川口村唐松の油屋と呼ばれる家の当主で豪農。かつては油製造家で、傍ら村民相手の質屋を営み、独創的な養蚕家でもある。
「油屋の倉さん泣かすにわけはない、佐倉宗吾の子別れ語れ」と言い伝えられる。高利貸、銀行会社に対しては、一般農民同様、被害者の立場にある営農的豪農と推測できる。
「夫レ斯ノ如ク愍ム可ク悲シムベキ貧民輩ノ事情」には「上告人モ亦之ノ一部ニ居テ其境遇ヲ脱却セント」「同病相愍ムトノ感覚ヨリ負債者各自ノ依托ヲ容レタル」ものと弁明していることからも推測できる(明治18年2月23日、塩野倉之助「上告趣意書」)。初め数ヶ村の寄合いが、次第に拡大し、8・10事件を契機に党の形をとり、表面化し、8月未頃には、組織圏は多摩3郡33ヶ村に及ぶ。
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8月20日
・西多摩の山村に連発的な小規模農民騒擾。
 檜原村に27人、21日藤橋村に12人が集合、解散させられる。同21日入間郡高根村50人が石畑村六道山中に入り込み解散させられる。23日、西多摩郡平井村山野丹二郎宅に平井・草花・菅生3ヶ村の負債農民56人が結集。これらの人々は下川口の塩野倉太郎の川口困民党(北部三多摩困民党)加盟を申し入れる。塩野家には粟ノ須村の石川嘉吉や谷野・左入・宇津木・滝山4ヶ村連合戸長須長漣造も出入りする。
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8月20日
・細野喜代四郎(南多摩郡小川村(現町田市)聯合村戸長・自由党員)、八王子に出向き自由党同志・銀行役員の何人かに面会。困民へ特別の憐憫を要請。この時、林副重より石阪が同趣旨で2、3日前に来た聞く。
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・細野喜代四郎、八王子の南多摩郡役所を訪ね、郡長原豊穣に面会し対策方を懇願。さらに、自由党の同志で、八王子で金貸会社経営の土方敬二郎や森久保作蔵(ともに共融会社)、林副重(甲子会社頭取)らに面会、困民の現状を説明し、特別の憐憫をたれるよう説得。
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8月21日
・秩父、井上伝蔵(下吉田村)・飯塚盛蔵、大宮郷に田代栄助を訪ねるが不在で会えず。その後、2、3度使者が送られるが不在。
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・この頃、各村(郡外も含み)で困民党動員組織活動進む
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□「石間村(自由党加盟者)亦多し、漆木耕地繁太郎は家業を擲棄し妻及び娘に長刀を習練せしめたり。・・・自由ノ妄説ヲ信ジテ産業ニ意ヲ留メザル著間々アリ」(下吉田村貴布禰神社神官田中千弥の日記「秩父暴動雑録」)。
* 
○石間村の新井繁太郎(41)
8月21日、加藤織平(36)より、「今度借金アルモノハ四カ年置据エ、四拾ケ年賦ニ致シテ遣ル故、貴公モ与シテハ如何、今云フ通リニスルニハ大勢デナケレバ出来ザル故、相談ノ為メ貴公ハ諸方へ使ヲシテ呉レ」と、困民党加入を勧められ、以後同人の手足となって動く。
繁太郎は織平の連絡役、自分の耕地・漆木のオルグとなる。明治6年の役場の「地券番号記」には下々田のみ6反8畝余を所有しており、養蚕、製糸農家であると推測できるが、17年の事件の際の戸長の調書には「資力ナシ」と記入されている。織平に云われ、自分の借金表をさし出して国民党組織づくりを手伝う。幹部グループの連絡役、上州関係の連絡にもあたる。9月6日栄助引き出し役。繁太郎は漆木耕地35戸中、30戸まで自分ともう1人で動員したと供述。同じ石間の半納耕地からは、蜂起の日には、神官を除く27人全員が出る。織平には5名の耕地オルグがおり、石間村全戸175戸あり180名以上動員。
* 
繁太郎は警察の訊問に対し、「秩父郡内ニ於テハ、高利貸ノ為メ困民ハ本年末ニ至レバ、七、八分通り倒レテ仕舞・・・其儘ニ差置ケバ一同立行カザル事故、身命ヲ擲テ困民ヲ救フノ精神ニテ」と答える。危機感と正義感を抱いての参加。
* 
□石間村の隣の阿熊村の農民も、「八月中、国民党/集会ニ出タルコトモ在之」と証言。
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□栃谷村(大官に近い村)の大工の若者は、「新暦八月一八日、村内山ノ神ノ堂ニ寄集り、今度小鹿野ノ方ヨリ大勢ノモノガ金貸ノ打コハシニ乗ルト云カラ、其時ハ村内ヨリモ出向べシト相談整へ罷在倹」と述べ、その集会の「重立チ」の名を2人あげる。事件後、この村の戸長は県庁に参加者2名と報告しているが、村民の支払った罰金だけでも300円となっており、参加者は数十名と推測できる。
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□上日野沢村では自由党員竹内吉五郎が困民党の村のオルグで、土方の武七をくどく。「本年八月二十日過ギ、失念、自村竹内吉五郎来テ、汝ハ高利貸ニ借アル趣ナルガ、借用ノ金子ハ返済セザルモ差支ナシ、高利貸ハ何レモ規則外ノ金利ヲ貪ル輩ニ付、返済セザルモ差支ナシ、ヨツテ汝モ同意スレバ我等ノ仲間ニナルべシトノ談話ニヨリ、共時借財ハ返済セザルコトヲ約シテ同意シタリ。」
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○上下日野沢村には新井蒔蔵新井紋蔵竹内吉五郎村竹茂市などがおり、「下日野沢村ハ自由党ニ加盟ノ者多シ。従テ今回ノ暴徒亦多シ。立立沢耕地ノ如キハ、暴徒党与ナラヌハ三家ノミ。各戸真綿作リノ服帽ヲ調へタリト云フ(下吉田村貴布禰神社神官田中千弥の日記「秩父暴動雑録」)。
竹内のオルグを受けた青年は、「同胞人民ヲ救フハ至極良キ策卜感心仕り」と供述。上日野沢の村竹は、「上日野沢ヨリ召集シタル五〇人ヲ結シ、自分ハ其隊長トナリ進退ヲ伺ツタリ」と述べる。下日野沢の小隊長は、公認党員新井蒔蔵。
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□8月15日頃、榛沢郡岡村(郡外、岡谷に近い村)で、大野又吉(おそらく風布村大野苗吉の兄弟か。早くから秩父困民党に連絡がある)が、庄八という農民を訪れ、「今度困民党トイフ党ガ出来タニ付、加入シテハ如何、左スレバ借金ハ暫ク延期ニナル」といい、庄八は「自分モ他借多分ニテ困却罷在折柄ニ付、加入スル事ニ依頼及ピタル処、然ラバ姓名ヲ差出ス様申スニ付、直ニ八カ紙ニ姓名ヲ記シ実印ヲ押シ」これを差し出す。
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風布村大野苗吉
恐らく隣村の新井周三郎の影響を受け、村内では自由党員と云われ、「役割表」では甲大隊長周三郎の下の副大隊長になる。苗吉は幹部グループに属し、城峯山下に行っているが、その配下の3~4名の耕地オルグの1人大野長四郎は、「自分ハ村方ヨリ百四十人ヲ誘ヒ出シ召連レ、百四十人ノ頭タルニスギズ」と陳述。この連中は「風布組」とお呼ばれ、最後まで結束を崩さない。信州に侵入し、長四郎は左肩を撃たれ捕縛、臼田で訊問を受けた時、多くの農民の中で理非をわきまえるのは彼だけであると新聞に書かれる。風布の小隊長、石田という農民である。
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8月21日
・八王子警察署長原田東馬警部、内務卿山県有朋に上申。農民騒擾を「治安妨害の廉を以て」首謀者は仮借なく逮捕する方針に転じる。
 「本月十六日相州津久井郡の内三井村外七力村及び武州南多摩郡鑓水村人民三百四十一名が、困民会と称し、負債償却上の事に付・・・稲荷森と唱ふる原野に集会、不穏の挙動有之を以て、鎮静方に着手夫々解散せしめ候得共、頃日追々各所に伝播し諸方に集合の聞へ有之に付、於今充分之れが取締を為さざれば遂に巨害をなすに至るも難計と思考候条」、今後は「治安妨害の廉を以て」集会条例第17条、13条により処罰し、首謀者は呵責なく逮捕すると決意。
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8月22日
・石阪昌孝、八王子広徳館滞在(~23日)。板垣歓迎準備。薄井盛恭、石阪に葉書を発し、原町田での仲裁人会議に出席依頼。また、細野喜代四郎にも、石阪の原町田会議(24日に予定、薄井・中溝・石阪ら名望家の参加を画策)への参加を要請指示。
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8月23日
・フランス提督アメデ・クールベ、福州を攻撃、洋務派(湘軍系)の雄左宗棠が築いた馬尾船政局・福建艦隊を全滅させる。
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8月23日
・通俗自由政談演説会。龍野周一郎「経国美談・自由の凱歌・東洋義人伝」(「自由新聞」)。
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8月24日
・自由党総理板垣退助、星亨・加藤平四郎・桜井徳太郎らと多摩訪問。府中駅を経て八王子広徳館訪問後、角喜楼で懇親会。石阪昌孝開会の辞。翌25日、青梅の鮎漁懇親会。
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この頃の神奈川自由党の活動:
 ①石坂・細野らの債主との仲裁交渉。
 ②平野友輔・小林幸二郎らによる演説会(9月13、14、16、17日、台風をついて八王子・青梅で2千動員)、但し、武相困民党へのアプローチなし。
 ③植木枝盛招請を契機に難波惣平・沼田初五郎らの地租軽減建白運動(11月28町村394地主署名の請願書、12月建白書)、武相困民党との結合なし。
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8月24日
・森鴎外(22)、前夜は横浜の林家に泊まり、この日、横浜港からフランス船メンザレエ号でドイツ留学に向かう。穂積八束ら9人も同行。21年9月8日横浜港に帰着。
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8月25日
・高座郡橋本村の困民党事務所、八王子警察署の出張尋問を受け、会合者が引致。成瀬・金森・高ケ坂・鶴間村の村民が各1人。
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8月25日
・中江兆民、勝海舟に会い、東洋学館の件で借金を申込む。30日にも(「海舟日記」)。
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 9月19日、勝は、兆民の紹介で栗原に30円貸す。東洋学館は上海に設立、日清両国志士の養成機関として日本語・中国語など語学中心の教育を行う。
設立に関し、中江兆民、長谷場純孝、佐々友房、末広重恭、栗原亮一、樽井藤吉、日下部正一、杉田定一らと協力したと伝えられる。財政難の為、開校後1年余で廃校。
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8月26日
・【清仏戦争】
清、ベトナムを巡りフランスに宣戦布告(~1885年4月)。太平天国残党を率い対仏レジスタンスを行う「黒旗軍」劉永福を政府軍に登用。
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8月26日
・津久井の交渉団総代13人、三井寺の交渉団本部で検束、監禁。運動一時後退。
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8月26日
・午後3時、仲裁人グループ、八王子中鶴亭に各銀行役員を呼んで和解の方策説得。終わって、各銀行会社に個別に説得。29日付けの薄井盛恭書簡では「石坂抔ハ兎角激論ノミ」と評される。
* 
南多摩郡小川村(現町田市)聯合村戸長・自由党員細野喜代四郎、高座郡下鶴間村(現大和市)戸長・自由党員長谷川彦八と対策を協議。
 長谷川は困民党を「ブッタクリ党」と呼ぶ。
高座郡長今福元頴の意向もあり高座郡下の戸長が乗り出し、細野らの意向を受けた南多摩郡長原豊穣が郡内の名望家中溝昌弘・薄井盛恭などへ働きかけ、8月下旬、和解のための仲裁人グループが形成。24人。殆どが新旧戸長・県議。自由党幹部8人。津久井からは唯一の正党員梶野敬三(現県議)のほか、騒擾の中心である中沢村戸長安西荘司らも加わる(安西はこの後10月、自由党入党)。民衆の置かれていた困難な状況に対して同情的で、銀行側に一定の妥協を示すよう説得。
この仲裁人グループから塩野倉之助・町田克敬(川口村)、中島小太郎(小山田村)、佐藤孫七(由木村)の4人の困民党指導者もでる。
* 
8月27日
・秩父、小鹿野で高利貸しとの掛け合い始まる。
* 
8月28日
・武相困民党。西多摩郡淵上村金貸淵上茂兵衛、袋叩きにあう。八王子の金貸らは、土蔵に目張りをし家財を片付け遠方の縁家などに逃亡。
* 
8月31日
・石坂昌孝ら仲裁人グループ、八王子の倉田屋に集会。
* 
8月31日
・秩父、善吉・寅市・盛蔵らが主となって小坂峠に集会。翌9月1日、秩父困民党第2回和田山会議。善吉ら27名。ゲリラ的山林集会、組織固め。警官40名が全員を拘引、説諭し、4名以外を釈放。翌日4名釈放(常次郎尋問調書では27日)。この頃から山林集会しきり。
* 
警察官10名が出張して説諭したので、宗作らが総代となり、小鹿野の高利貸営業者に4ヶ年据置、40ヶ年賦返済を交渉。
* 
8月31日
・社説「清仏戦争ハ支那国民ニ取リテ悲歎相半パス」(「東京横浜毎日新聞」~9月1日)。
清仏戦争は清朝滅亡の機となるだろうが、それによって人民による変革が行われるから支那国の滅亡にはならない。(支配者と人民を区別して将来の中国を論じる)。しかし、大勢は政府・民間ともにアジア侵略の方向を歩み始めている。
to be continued

2008年12月7日日曜日

行く秋を惜しむ






12月6日(土)、近くに歯医者を予約してあったので、カメラを持って散歩がてらに。
前日は深酒。正確にはこの日朝2時頃、帰宅したらしい。そのせいかどうか、風景見る感覚がいつもとはちょっと違ったのかもしれない。
①は、私の自宅のすぐ前の空き地。この写真の他に、同じ日の夕方に撮った写真があるが、これはちょっとブキミで、不採用とした。
②は、自宅から2~3分のところに最近できたマンションの前庭(道路と区別なく解放されている)。
私がここに来た当初は、さる企業の研究所ということで、小高い丘の上に建物がそっと建ち、麓は雑木林、春は満開の桜、という場所であった。それが、2~3年がかりで800戸からのマンションになった。
③は、秋のテーマとは関係ないですが、時々鉄道マニアの人が写真を撮りに来るポイント。遠くに、建設中のマンションが・・・。この地域、こんな経済情勢なのに、大規模マンションが他に2ヶ所、中規模のもの1ヶ所が現在、基礎工事に入っている。ひとごとながら、大丈夫なのかなと思う。

1871年3月22~23日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・

■1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ 「未完の黙翁年表」より
*
3月22日
*
・仏、中央委員会、第3、4、10、12、17区等の区役所を接収。
ヴェルサイユ政府が地方における刑事犯罪人を多数釈放し、撹乱の目的でパリ市内に潜入させたとの報に、中央委員会は、「掠奪の現場を発見されたる者は射殺さるべし」という布告を発布。
* 
・国民軍中央委員会、パリの区長・代議士の反対の為、コミューン選挙を26日に延期すると決定。
国民軍中央委員会と、その渉外代表委員(P・グルッセ)は、21日付けドイツ占領軍当局の手紙に対し回答。
中央委員会はパリの革命が「もっぱら自治体的性格」を持つもので、「ドイツ軍にさからうものではない」と説明。
パリ在住兵士の国民軍編入、新権力の命令をさぼる官公吏の罷免を決定。
選挙民に対し、コミューンの任務をのべたアピール。
* 
布告。
「区長や代議士の支持を受けている反動は、われわれに戦争をしかけてきた。われわれは挑戦に応じ抵抗を粉砕しなければならぬ・・・市民諸君、パリは支配を欲しているのではない、自由を欲しているだけである。パリは偉大なる模範となることを望んでいるだけである。何びとにもその意志をおしつけようとするものではないが、また自己の権利を放棄するものでもない。・・・パリは、自分自身の自由を確保することによって、他の者の自由を準備する。」
* 
○[コミューン群像:パスカル・グルッセ]
ジャーナリスト兼作家。1860年代末の共和主義運動に積極的に参加。新聞「ラ・マルセイエーズ」「ラ・プーシュ・ド・フェール」に寄稿。
71年3月19日、新聞「ラ・ヌヴェル・レピュプリック」、4月2日から新聞「ラフランシ」発行。3月26日、パリ・コミュ-ン議員(第18区)に選ばれる。3月29日から渉外委員部委員。4月5日から渉外代表委員。4月20日から第2次執行委員会委員。コミューンのジャコバン派-プランキ派の「多数派」に入り、公安委員会設置に賛成投票。コミューン全期間を通じ、対外政策指導者として、パリと地方との強固な連絡構築、ドイツ政府その他ヨーロッパ諸国政府のパリ・コミューン承認実現に努める。
コミューン弾圧後、逮捕、軍法会議でニュー・カレドニア流刑判決。1874年、流刑地から逃亡、イギリスに偽名で居住。1880年、恩赦により帰国。80年代、「各国の生活」「各国の児童の生活の場面」刊行。
* 
・ヴァンドーム広場で1千人近くが反革命デモ。反革命派と国民軍との衝突。
反革命分子は、パリの人民権力に対し公然と抵抗を試みる。多くの官庁や役人達は、命令をサボタージュし、高官達はヴェルサイユへ逃亡。28種類の様々な傾向のブルジョア新聞は、中央委員会がパリのコミューン議会(市会)選挙の日どりを決めたことを、非合法と宣言し、ポイコッ卜を呼びかける。
この日、ヴァンドーム広場で、取引所員・反動的評論家・退職将校達がデモ。デモは防塞地区の司令部に向って行進し、中央委員達に激しい侮辱の言葉を浴びせ、彼らを狙撃。デモ行進者は解散を拒否した為、追い払われる。国民衛兵2名殺害・7名負傷。群集側約30名の死傷。
* 
反動派が取引所付近を占領、更にサン・ラザール駅から国民衛兵を追い払い、ここを入手。国民衛兵の若干の大隊の支持の下に、区長たちは第2区区役所に籠り、パリとヴェルサイユの調停実現の為の対策を協議。
* 
・反動派対策として、ヴァンドーム広場にバリケード構築の命令。市庁舎の警備大隊の兵力は倍加され、反動派が勢力をもつ地区の警戒が厳重になる。
* 
・リュクサンプール宮殿に宿営の第69補充連隊、ヴェルサイユへ退去。
* 
・リヨン。国民軍代表者会議、パリ支持の諸演説。労働者諸地区の国民軍諸大隊は、市役所前へ集合、革命派がは市役所占拠、知事ヴァランタン逮捕、自治委員会5人を選出。リヨン・コミューン宣言。市役所に赤旗をたてる。市会解散と県知事罷免。~24日。25日朝コミューン消滅。
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間もなくバリから技師A・ルブランと労働者シャルル・アムールーを団長とする中央委員会代表団が到着。リヨンの国民軍の18大隊(総数24大隊の内)がパリの国民軍との連帯を声明。指導者達はリヨンのコミーンを宣言。市政とコミューン選挙準備の為の臨時委員会が作られるが、この委員会は、指導的官庁を占領せず、労働者団体とも連携せず。僅か1日でリヨン蜂起は弾圧される。リヨンの中小ブルジョアジーは、コミューンのスローガンを支持せず、急進派は労働者に依拠する決心はつかず。4月30日再度蜂起。
* 
・マルセイユ。カフェー「エル・ドラード」で集会、パリの政府支持の諸演説。
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・ロンドン。ウェリントン・ミュージック・ホールで共和派集会。インタナショナル総評議会員セライエの演説。パリの革命との連帯決議。
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・ライブツィヒ。ドイツ社会民主労働者党機関紙「フォルクスシュタート」、パリの事件を報道、ドイツ人民に対し、ドイツの反動のフランス共和国粉砕の為の戦争再開をさせてはならないとの問題を提起。
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・ベルリン。全ドイツ労働者同盟機関紙「ソツィアル・ヂモクラート」、パリ労働者の闘争支持を表明。
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3月23日
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・仏、国民軍中央委員会アピール、22日に中央委員会は、リヨン、ボルドー、マルセイユ、ルアンその他の都市の代表団を迎えたと報道。泥棒を犯罪の現場で銃殺する命令。
* 
・夜、国際労働者協会(インタナショナル)パリ支部連合評議会と労働者協会連合会議所の会議、テイス司会、3月18日の革命の任務をのぺ、コミューン選挙に参加するよう住民に訴える宣言を採択。
* 
・パリ諸区長、ティエールの勧告に従い、セッセー提督を国民軍総司令官に、代議士ラングロアを総参謀長に、代議士シェルヘルを砲兵隊司令官に任命すると声明。代表をヴェルサイユに派遣しパリとヴェルサイユ調停の為の提案。ヴェルサイユは、パリ弾圧のため農村での義勇兵部隊組織に関する法案可決。区長らの調停の労は報われず。
* 
・一時、約1千人のデモ隊が、「秩序万歳!」を叫びながらラ・ペー街を降りてくる。
最も陰険な反動が立直ろうとしている。ブルジョア派諸大隊は、パリ中心部を強固に固め特に第17区役所とサン=ラザール駅周辺を再び占拠し、そこで通行人を止める。「都市のなかにもう一つの都市があった。」(リサガレー)。
* 
・マルセイユ。「パリ万歳!」のスローガンで国民軍兵士のデモ。革命家たちは県庁舎を占拠。勤労者たちの武装。ガストン・クレミユを首長とする臨時ブーシュ・ド・ローヌ県委員会の設置。マルセイユ・コミューンの宣言。選挙布告。
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・トゥールーズ、市庁舎占拠。翌日、コミューン宣言。27日、市庁舎奪回。
to be continued

明治17(1884)年6月~7月 秩父(5)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 落合寅市・高岸善吉・坂本宗作ら、秩父困民党組織者トリオの血盟。 武相困民党騒擾の第2段階始まる。

■明治17(1884)年秩父(5)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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6月
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-・石阪放庵・若林蟄堂、神奈川県人談夢会の会員募集広告を新聞に掲載。住所は、本郷龍岡町22番地の慶令居。石坂公歴が本郷5丁目大塚から慶令居に移ったのは、6月18日。
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-・坪内逍遥(25)、監督する学生が増加し、掛川銀行頭取永富謙八の出資により、この月本郷真砂町の新築家屋に移る。
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-・与謝野寛、父礼厳・兄と共に鹿児島より帰り、京都宇治に住む。この月23日、大阪府住吉郡遠里小野村の安藤秀乗の養子となる。
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6月5日
・関西有志懇親会開催。東京より星亨・大井憲太郎が招かれる。大阪に関西事務所相輝館(責任者片岡健吉)設立。
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6月6日
・グエン朝、フランスと第2フエ条約締結。ベトナム全土、フランス支配下に。
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6月7日
・森鴎外(22)、陸軍衛生制度調査およぴ軍陣衛生学研究のためドイツ留学を命せられる。24日、横浜港発。10月11日、ペルリン着。22日からライプチッヒ大学のホフマン教授に師事。
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6月12日
・鹿鳴館慈善バザー。大山捨松企画。有志共立東京病院へ寄付。
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6月14日
・平野友輔(27)、横浜伊勢佐木町の蔦座での自由壮進政談学術演説会で「維新前の志士の有様を陳べ併て今日の青年諸君に告ぐ、活動社会の発育」を演説。
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6月16日
・荻原井泉水、誕生。
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6月17日
・仏、カンボジア国王ノロドムに王権限制約協約に強制的に署名させる。
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6月25日
・九条節子、公爵九条道孝の4女として誕生。貞明皇后。
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6月25日
・フェノロサ、夢殿の観音像を調査。
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6月30日
村上泰治(17)、東京で逮捕。以降、井上伝蔵(31)が秩父自由党指導者となる。
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宿を転々しているうち松久町の旅宿で描えられ、ただちに浦和警察署へ護送。浦和署は謀殺事件の容疑者として、治罪法第126条に従い、浦和監倉へ拘留手続きをとる。
泰治は、連日拷問を交えた厳しい取調べの末、「刑法第二百九十二条ニ該ル可キ者卜思料」され、浦和監獄へ収監される。その後、各処に潜居していた岩井丑五郎・深井卓爾・長坂八郎らも相ついで縛につき、浦和監獄へ送られる。
*
刑法第292条:「予メ謀テ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ノ罪卜為シ死刑ニ処ス」
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この頃、宮部襄は、群馬の党員清水永三郎・伊賀我何人を伴い、東京本部代表として、星亨・大井憲太郎・加藤平四郎と共に関西有志大懇親会に出席。
その後、宮部・清水は1ヶ月間高野山に籠り、大阪に踊ったところで自分への逮捕状が出ているのを知る。
8月21日、同志の勧めで京都に潜入したところで、京都で逮捕。すぐに清水も逮捕。
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20年1月25日付の「予審終結言渡書」では、直接の下手人岩井丑五郎に死刑(南関蔵は19年に獄死)を宣告、教唆著村上泰治は謀殺の罪により死刑とすべきところ、20歳に満たない年齢のため一等を減じ、無期徒刑を宣告。
宮部襄、長坂八郎、新井愧三郎、深井卓爾、清水永三郎は、間接教唆者のため、法律上罪にならぬして、免訴放免。
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しかし、同年6月18日、泰治が獄死するや、裁判をやりなおし、直接下手人は泰治であったと断じる。
泰治が下手人となると、これまで間接教唆者とされた官部・深井は直接教唆者として謀殺教唆罪に、岩井が同加功従犯に問われ、22年3月30日、各有期徒刑12年を宣告され、北海道の樺戸集治監に送られる(泰治獄死をフレームアップに利用する)。
*
このように状況に応じて何が何でも自由党を血祭りにあげる官憲側のやり方から、照山謀殺事件=群馬を代表する自由党グループ高崎有信社に壊滅的打撃を与える為に仕組まれた政治的謀略という見方もでてくる。
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明治20年6月18日、肺結核により獄死。21歳。
6月22日、青山斎場で葬儀。会葬者37名。高知県の岡島耕馬、福島県の宇田成一、板垣退助名代で高知県の村越直光、東京の星亨・加藤平四郎、神奈川県の伊藤仁太郎(のちの痴遊)、宮部襄、深井卓爾ら。
* 
〇井上伝蔵:
下吉田村。小鹿野に出来た無尽講「蓄栄社」分社を吉田につくり罰金20銭。村会議員、衛生委員、明治17年8月から役場筆生。
* 
□「秩父事件」と『自由党史』と井上伝蔵。
 『自由党史』の「秩父事件」に関する叙述は極めて簡略でまた事実誤認も多い。『自由党史』によれば、井上伝蔵が村上泰治後の秩父自由党の中心人物と位置付けられている。
 『自由党史』は明治30年代後半~40年代に、和田三郎・宇田友猪という板垣と親しい自由党系ジャーナリストが執筆編集するが、その頃は、田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作は死刑に処され、欠席裁判で死刑を宣告された伝蔵は行方をくらまし、地元秩父には事件を語りうる中心的人物はいなく、また事件を正確に語ることはタブー視されてもいる。
 そのような状況下での『自由党史』編集者の取材源としては、井上伝蔵がわが児の如くいつくしみ嘱望していた甥井上宅治が推測できる。
 宅治は伝蔵の兄兵作の長男として明治元年に生まれるが、幼くして父と死別し、伝蔵が庇護して育てる。長じて上京、共立学校に学び、島田三郎に見出され島田の経営する「東京毎日新聞」記者となり、明治30年代谷中村鉱害について健筆をふるうジャーナリストとなる。
 井上伝蔵をモデルとする木下尚江『火の柱』は明治37年に「東京毎日」に連載されるが、井上宅治が尚江に素材を授供している。『自由党史』編纂もちょうど同時期に進められており、宇田・和田両執筆者が井上宅治と面識がなくとも、当時洛陽の紙価を高めた『火の柱』から井上宅治を知りえた、と考えられることもできる。そう考えると、『自由党史』の「秩父事件」の項が井上伝蔵を中心に描かれていることの説明もつくことになる。
* 
□「六月二日 ・・・日ノ沢泰次卜云者杉ノ峠デ高崎士族ヲ殺シタ組ニテ先日巡査二十人斗り召捕ニ行、其女房庖丁ヲ持テ騒ギ巡査ニ面ヲ伐レ其間ニ亭主ハ逃去リタト云、此者ハ自由党ノ頭組ナリ。」(「木公堂日記」)。
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7月
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-・「朝日新聞」、東京に進出。
 6月13日「傍仮名新聞の本色」との一文を掲載し、「(新聞は)傍仮名のあるが為に資格の卑しといふべきものにもあらず、必竟時勢人情に適合して尤も切に其効果を見るべきものを是貴しと為すべきなり」と、「読み易く解し易からしめ」た新聞の効用を力説。
「開明の半途」にある時、「論旨を高尚の点に馳せて理窟のみ列べんよりは、姑く筆鋒を縮めて最下人民の智識を開発する」ことが「朝日」の役割という。
 また、この宣言の前日から、3年ぶりに「論説欄」を復活(19年からの常時掲載に道を開く)。大衆新聞路線に自信を持った布石。この年17年、販売担当小西勝一が、中国、九州まで回って売捌店という名の販売網を作っていく。
*
-・連合戸長役場制が敷かれ小川村に戸長役場がおかれる。戸長に細野喜代四郎が就任(細野は神奈川県下自由党中堅活動家、後、仲裁活動に奔走)。この戸長役場の管轄区域は、高ケ坂・金森・鶴間・小川・成瀬の5村。
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-・星亨、講武所を設け、壮士層慰撫を図る。武術訓練のみならず、住居のない者も多い壮士層の収容施設を作って、その不満を和らげることも目的としているが、このような手段では、もはや急進派の激化事件は避けられない状態になっている。
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-・チュニスのドイツ領事ナハティガル、トーゴ、カメルーンをドイツ保護下におく
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-・ランボー、バルデ兄弟の会社と再契約。
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-・ゴーギャン(36)、妻メットは長女アリーヌと4男ポーラを連れコペンハーゲンの実家に向けてルーアンを離れる。11月ゴーギャンもコペンハーゲンへ。翌年(85年)5月迄。
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7月1日
・秩父、高岸善吉・和田庄蔵・坂本宗作・落合寅市、高利貸し吉川宮次郎(のち焼討ちにあう)殺害を計画、中止。
この頃、秩父、落合寅市・高岸善吉・坂本宗作ら、困民党組織者(トリオ)の血盟
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 「・・・七月一日高岸善吉、日尾村和田庄蔵と今晩吉川宮次郎の寝首を取る約束して坂本宗作、和田庄作、落合寅市、高岸善吉宅に会し、夜となり出立途中にて庄蔵腹痛と謂うて帰り、善吉妻マキ女粥煮を与えて善吉申すに彼を置いて我々三人にて実行すれば庄蔵弱くして腹痛という。後日必ず口外する、今夜は止ると申したり。」(寅市回想録)。
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7月5日
・アメリカ、第2次中国人移民制限法制定
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7月7日
華族令制定。爵位制創設(公侯伯子男5爵)。
 元勲・将官など勲功者を加えることで華族制度を補強、貴族院の基盤構築(帝国議会開設による民権派の政局参入に備える)。伊藤・黒田・山県・大木・井上・西郷・大山(伯爵)・佐々木。
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 7、8、17日に旧公卿・旧諸侯、大社寺門跡ら既に華族の者及び維新の功臣ら517名に爵位が与えられる。
 旧公卿・旧諸侯の中で、三条実美、島津久光、毛利元徳、島津忠義、岩倉具定(公爵)、中山忠能(侯爵)、東久世通禧(伯爵)7名は維新の偉勲によって標準より高い爵位を授与されるが、以外は家柄、旧石高を標準にした「叙爵内規」に従い爵位が定められる。
 勲功華族=新華族は「特旨ヲ以テ華族ニ列セラレ候事」との辞令を授けられ、その後勲功の程度に応じて授爵(実際は政府部内における比重や勢力均衡の配慮が払われる)。この後1887(明治20)年の50名が追加授爵。
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 薩長49人は他の合計31人を超える(薩長土肥では80%超)。
 1884年の伯爵は大木喬任・山県有朋・伊藤博文・井上馨・西郷従道・川村純義・山田顔義・大山巌・佐々木高行の現参議、黒田清隆(内閣顧問)・寺島宗則(宮内省出仕)の長い参議歴を持つ者、副島種臣・伊地知正治(いずれも宮内省御用掛)の長くはないが参議歴を持ち、外務卿・左院議長の経歴を持つ者、宮内大輔吉井友実。
 子爵は、現参議福岡孝弟、陸海軍中将クラス(島尾小弥太、三浦梧楼、中牟田倉之助、谷干城、伊東祐麿、三好重臣、曾我祐準、高島柄之助、樺山資紀、仁礼景範。うち学習院長の谷を除けば島尾の陸軍大輔、樺山の海軍大輔をはじめ陸海軍の要職。また、島尾・三浦が元老院菅、樺山が警視総監の経歴を持つ)、土方久元・品川弥二郎の内務・農商務大輔。
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 1887年の場合、伯爵は、大隈重信・後藤象二郎・板垣退助・勝安房の、当時在野の旧参議クラス。子爵は現職大臣(森有礼、榎本武揚)、卿の経歴をもつ者(田中不二麿、佐野常民、山尾庸三)、次官(青木周蔵、吉田清成、野村靖)、大輔の経歴をもつ者(福羽美静、杉孫七郎、河瀬真孝)、知事等の経歴をもち元老院議官であるもの(林友幸、岩下方平、田中光顕、清岡公張、黒田清綱、大久保一翁、宍戸璣、河田景与、海江田信義、税所篤、伊集院兼寛、大迫貞清、由利公正)、渡辺昇(会計検査院長)、香川敬三(皇后宮大夫)、井上勝(鉄道局長官)、三島通庸(警視総監)、山岡鉄太郎。
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 男爵は、子爵と同じく知事等を経て元老院議官の職にある者(植村正直、渡辺清、神山郡廉、楫取素彦、本田親雄)、元老院議官経歴者で現職知事(青山貞、高崎五六)、陸海軍中将クラスで陸海軍の要職にある者(黒川通軌、小沢武雄、真木長義、山地元治、佐久間左馬太)、少将で同上の者(赤松則良、野崎貞澄、滋野清彦、松村淳蔵、井上良馨)、高崎正風(式部次官)。
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 その後の受爵者は、明治22、24年、井田譲(岐阜)、元甲永孚(熊本)が没直前に男爵、同26年10月、河野敏鎌(高知、枢密顧問官)、同27年8月に陸奥宗光(和歌山、外相)、同28年1月に井上毅(熊本、前文相)が子爵となり、日清戦争直前迄には藩閥の中枢および周辺の要人の授爵は完了。
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7月7日
・司法省法学学校第2期生33名卒業。入学時100名。原敬は1879年学生寮でストライキし中退。
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7月12日
・モディリァーニ、リヴォルノに生まれる。父フラミニオはローマ出身商人。兄のエマニュエルは弁護士から後に社会主義政治家。姉マルゲリータは・親もとへ留まり後にモディリァーニの遺児ジャンヌの養育にあたる。2番目の兄ウンベルトは、鉱山技師。
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7月16日
・植木枝盛(28)、約100日間の遊説を終えて帰京。31日~8月3日、神奈川県下に赴く。
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7月20日
・窮乏する農民が期待する春蚕の初市
この年の養蚕は6分の出来、2年前の半値という市況

「十七年度養蚕ハ全国平均先(まず)六分位ノ出来ト云フ、提糸本日一円ニ付、始メナレバ四十四、五匁位ナリ、但シ明治十七年七月二十日ノ市日ナリ」。
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7月30日
案外堂小室信介「義人伝淋漓墨坂」(『自由燈』)
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7月31日
武相困民党騒擾の第2段階始まる。
 高座郡上鶴間村谷口の鹿島神社に困民300名余集結。南多摩郡原町田村の武相銀行原町田出張所と都筑郡奈良村の盛運社への談判を行なおうとする。以後10日間程、各地で小規模な集会や村々の代表が密かに会合する総代会議。武相銀行頭取は青木正太郎(父没後、頭取に就任したばかり、神奈川県会議員・南多摩郡自由党では石阪昌孝に次ぐ幹部)。武相国境付近の困民党は、初発から有力自由党員との対立をかかえて出発。
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 相州南西部に始まる負債返済条件緩和の運動、7月終わり頃、高座郡北部(現相模原市・大和市)、南多摩郡南部(現町田市)辺に広がる。
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to be continued

2008年12月6日土曜日

3年前の東京散策とKY君の追憶









写真は、上から
  ①根津神社
  ②樋口一葉の菊坂旧宅跡(本郷4丁目)
  ③④不忍池と池辺り
撮影日付は、丁度3年前の2005/12/03(多分土曜日)
 この日、会社に同期入社した4人で、お茶の水~湯島(聖堂、天神)~上野辺り~本郷辺りを歩いて、まだ(飲むまでに)時間があったので、後楽園~秋葉原をぶらついて、神田で飲みました。
 この4人のうち、K.Y君は、この3ヶ月後の2006/06/25に肺がんで亡くなりました。
 発病(正確には発見?)から2年近くなって、それまで治療入院・退院、手術入院・退院を繰り返してはいましたが、僕たちと会うときは特にそうなんでしょうが、いたって元気でした。また、その間、マレーシアに旅行、現地駐在者が止めろと忠告するほどのバックパッカー的旅行を敢行・・・。「死」を思わせるような感じは、全くなかった。
 逗子~鎌倉方面散歩、衣笠城址散歩なども一緒でした。
 それまでは、県立がんセンタでの治療だったのが、2月にメールが来た時は、「あと数ヶ月、病院も変えられた」旨のメールがありました。急いで日程の調整をして、お見舞いに行く予定のその前日に、亡くなった旨の連絡がありました。

2008年12月4日木曜日

昭和12(1937)年12月13日 南京(5) 「もう間に合わない」 南京城内残敵掃蕩の実相

■昭和12(1937)年12月南京(5) 「もう間に合わない」(ゴヤ「戦争の惨禍」19)
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12月13日南京
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・江岸に沿って南京に向う第13師団山田支隊(山田梅二少将)、12日鎮江出発。この日、鳥龍山砲台占領。14日、幕府台砲台占領。
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・第10軍国崎支隊、揚子江北岸を北進し、南京対岸の浦口占領。中国軍の退路を遮断。
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・午前0時、集成騎兵隊・攻城重砲兵隊第2大隊、中国退却軍と激突。仙鶴門付近。
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・午前0時30分過ぎ、南京城南の砲声・銃声は途絶え、南京は異常な静寂の中に陥る。
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・午前3時10分、第16師団歩20連隊四方中隊、最後の中山門無血占領。
この頃迄には、各城門でも守兵は退却、夜明けとともに、城壁を包囲する各部隊は前後して手近な城門や城壁の破壊個所から進入、城内掃蕩に移る。
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・午前6時、第16師団佐々木支隊(歩38連隊基幹)は下関に向かう追撃命令を受け、配属された独立軽装甲車第8中隊を先頭に急進、一部兵力(第1中隊)で南京城北側の和平門・中央門を占領、城内敗残兵の逃げ道を塞ぐ。午後1時40分頃、先頭隊が目指す下関に突入、「渡江中ノ敵五、六千ニ徹底的大損害ヲ与エテ之ヲ江岸及江中ニ殲滅」(歩38連隊戦闘詳報)する。
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・午前6時、第6師団歩45連隊第3大隊(小原重孝少佐)左側支中隊(第2中隊長大薗庄蔵大尉以下250)、南京城西側を下関に向かい北進中、南下する第74軍と遭遇、4時間の激闘でほぼ全滅させる。中国軍戦死2377。翌日、佐々木支隊と合流。
兵力は日本軍が10対1以下の劣勢。大薗中隊長は、「敵は城内からの脱出兵だ、戦意は失っているから、落ちついてやれ」(浜崎富蔵日記13日)と督励、中国軍は「二三七七人」(赤星昴「江南の春遠」)の死体を残し、残兵は揚子江に飛びこんだり、貯木用の筏で逃げようとして掃射され四散。支隊も大薗大尉以下戦死16、負傷36。
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高橋義彦中尉(独立山砲兵2連隊付)の証言。
 「砲兵は全部零距離射撃の連続で・・・遂に白兵乱闘の状況となった。当初は軍官学校生徒が第一波で、さすがに勇敢で我々を手こずらせたが、第五波、六波ごろからはやや弱くなった。九時頃からの突撃部隊はへッピリ腰の民兵で、その半数は督戦隊である彼等の味方から殺されていた。江岸の膝を没する泥濘地帯も、死体が枕木を敷きつめたように埋められ、その上を跳び或は這いずり廻って白兵戦が続いた」(「偕行」シリーズ(6))。
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・朝、第3師団歩兵68連隊の先遣隊、光華門と中華門の中間にある武定門から城内に入る。第3師団主力は第二線兵団として後方を追及中。
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・朝、第10軍第114師団(宇都宮)歩127旅団歩102連隊先頭に中華門から進入し、城内掃蕩
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・am8.第16師団中島師団長に下関突入命ぜられた歩33連隊、天文台占領、下関途上、江上の敗残兵全滅させる
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・午前8時30分、第10軍司令官柳川平助中将、残敵「殲滅」を下命
 「丁集団(第10軍)命令(丁集作命甲号外) 十二月十三日午前八時三十分 
 一、〔丁〕集団は南京城内の敵を殲滅せんとす 
 一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す」
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・朝、「残敵掃蕩」開始。
 上海派遣軍第9師団第6旅団長秋山義兌少将、「南京城内掃蕩要領」及び「掃蕩実施に関する注意」において、青壮年は全て便衣兵とみなす旨指示
 「一、遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す 
  一、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし」
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・午前、第16師団(左翼担当)歩兵第19旅団(草場辰巳少将)歩20連隊、中山門に一番乗り。夕方まで掃蕩。殆ど抵抗無く「この日は一発も射たなかった」(森英生中尉)ほど。
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・午前、上海派遣軍第9師団(金沢、南京城東・東南側攻撃担当)、無抵抗で城内進入。中山門とその南側から歩35連隊と歩7連隊、光華門と通済門から歩36連隊と歩19連隊が入り、城内東南部を掃蕩。敗残兵の抵抗は微弱。夕方、掃蕩を打切り各所の建物で宿営。
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 13日午前10時に下達された歩兵第6旅団(秋山義兌少将、歩7、35連隊基幹)の「南京城内ノ掃蕩要領」「掃蕩実施ニ関スル注意事項」。
 外国権益への無断立入禁止、文化財・老幼婦女子の保護、掠奪・放失火の厳禁など項目と、「遁走スル敵ハ、大部分ガ便衣ニ化セルモノト判断サレルノデ、ソノ疑ヒアル者ハ悉ク検挙シ、適宜ノ位置ニ監禁スル」、「青壮年ハスべテ敗残兵又ハ便衣兵トミナシ、スべテコレヲ逮捕監禁セヨ」と指示。捕虜を認めないとの方面軍方針に沿えば、「監禁」は「処刑」の椀曲な表現と解釈される可能性がある。
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・【無抵抗で南京入城】午後、.金沢第9師団。~12月24日迄、断続的に掃蕩活動続ける。
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 12月7日付示達の「南京城攻略要領」では、城内掃蕩兵力は各師団から歩兵1個連隊基幹に制限し、主力は城外に集結する方針になっている。しかし、第9師団の場合は、13日に4個連隊全部が進入、第10軍の2個師団も半分以上が入城したらしい。第16師団は、15日に中島師団長を先頭に全員が中山門から入城式を実施、主力はそのまま居すわる。城外に宿営した部隊からも、連絡や見物の名目で相当数の兵士が入り込み、城内の兵力は7万以上となり、宿舎の奪いあいや占領前と変らぬ補給難が発生。
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 中山寧人中支部方面軍参謀の東京裁判での証言。
 「第一級軍隊の大部分は何時の間にか城内に入ったのであります・・・(その原因は)城壁の抵抗を排除した余勢にひきずられたこと、城外の兵営や学校などは中国軍又は中国人によって破壊され又は焼かれて日本軍の宿営が出来なかったこと、城外は水が欠乏していて、あっても飲料にならなかった」。
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 極端に少ない軍紀取締りに当るべき憲兵
東京裁判の日高信六郎証言。12月17日現在の城内憲兵は僅か14人で、数日中に40名の補助憲兵を得られる筈とある。この14人は上海派遣軍所属の憲兵(横由昌隆少佐)と推定され、第10軍も憲兵長上砂勝七中佐が「二十万の大軍に憲兵百人足らず」(上砂「憲兵三十一年)と書いており、南京占鱗直後では、城内の正規の意兵は、両軍合せて30名を越えないと推測できる。
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 第9師団の報告。
 「城内の掃蕩に当り七千余の敗残兵を殲滅せり」と述べ、南京攻撃戦における損害を、友軍死者460・負傷1156、敵軍の死体4500・他に城内掃蕩数約7千と数えている(戦闘での4500よりはるかに多い7千を敗残兵として殺害)。
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・午後、第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)、長江下流から南岸沿いを進撃し、鳥龍山砲台(南京17~18km)占領。幕府山に向う。14日、幕府山で捕虜1万4千余獲得。15日、南京より「処分」指示。16日~「処分」。
 「(13日) 例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏竜山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す」(「山田栴二日記」)。
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・午後、海軍第1掃海隊、揚子江上を敗走中の中国船艇・筏を掃蕩。「微減せるもの約一万」。
 「烏龍山水道より南京下関まで(十二月十三日) 一三二三前衛部隊出港、北岸揚子江陣地を砲撃制圧しつつ閉塞線を突破、沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、微減せるもの約一万に達し・・・一五三〇頃下関付近に折から城外進出の陸軍部隊に協力、江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子州付近まで進出し、掃海策を揚収す・・・終夜江上の敗残兵の掃蕩をおこないたり。」(「南京遡江作戦経過概要」)
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 海軍軍医泰山弘道大佐は、「上海戦従軍日誌」に、「下関に追い詰められ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗りて逃げんとする敵を、第十一戦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万人に達せりという」と書く。
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・午後1時40分頃、第16師団佐々木支隊(歩38連隊基幹)の先頭隊(独立軽装甲車第8中隊)、目指す下関に突入、「渡江中ノ敵五、六千ニ徹底的大損害ヲ与エテ之ヲ江岸及江中ニ殲滅」(歩38連隊戦闘詳報)する。
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・午後2時頃、「残敵掃蕩作戦」に従事した第16師団第30旅団長佐々木到一少将、和平門に到達し、城内の状況を記す。
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 「この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。
 ・・・午後二時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。」(「佐々木到一少将私記」)
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・午後2時頃、第6師団の最左翼を北上した歩23連隊第3大隊(河喜多富士喜少佐)、漢中路付近で、請願書を持参した国際難民区委員会ラーべ委員長、フィッチら3人と出会う。
 難民保護と武装解除した便衣兵を捕虜として収容されたいとの請願。委員会の記録によると、日本軍の隊長は翌日来るはずの特務機関に交渉せよ、と答え、軍司令部への取りつぎを断わったという。   *
 「熊本兵団戦史」は、「大隊長は宣教師と協議し、その集団の外周を兵をもって警戒し、外部との交通を遮断して避難民を安全に保護した」と述べるが、フィッチの日記では、「日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民二〇人を殺した」という。
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・午後2時30分、第16師団歩兵第33連隊、「江上の敵を猛射することニ時間、殲滅せし敵二千を下らざる・・・」(「南京付近戦闘詳報」)。
 佐々木支隊に1時間遅れて、支隊復帰の歩33連隊主力が下関に突入。歩33は苦戦ののち前日夕方、紫金山第1峰を攻略、その戦功で感状を貰い、12日夜は付近で露営。第16師団中島師団長は、佐々木支隊の遅れを心配し、歩33にも下関突入を命じる。13日8時、歩33は天文台占領後、1個中隊を太平門に残し、主力は敗残兵を倒しながら下関へ向かい、江岸に集まったり、小舟や筏で逃れようと*
 江上にひしめく敗残兵の対し、1万5千発の小銃、機関銃火を注ぎほぼ全滅させたという。
 「午後二時三十分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。」「遺棄死体五五〇〇(タダシ敗戦兵ノ処断ヲ含ム)」「停虜、将校一四、下士官兵三〇八二、計三〇九六(俘虜ハ処断ス)」(「南京付近戦闘詳報」)。
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 「直ちに河岸に至り、散の舟逃ぐるをわが重機にて猛射す。面白きことこの上なし。又大隊砲の舟に命中、ものすごし。やがて我軍艦八隻も来り、思はず万歳を叫ぶ。敗残兵多数殺す。」(第2大隊機関銃中隊西田健上等兵の日記)。           、
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 第13師団歩兵第26旅団歩兵第58連隊第1大隊吉田庚。(下関での捕虜殺害なので第16師団と推測できる)。
 「(12月13日頃のこと)二、三日中に原隊へ連絡に行きし上等兵の帰着を待って南京を出発することとす。準備も完了している気安さから噂に聞く下関埠頭の捕虜銃殺現場を検分する。街側堤防脚部に監視兵に取囲まれた多数の捕虜うごめき、二十名提上に整列させ、半数は揚子江に面 して半数は裏向きとして、前向き十名は桟橋に駆足行進、濁流に投身せしむるのである。強行溺死の処置であるが、生還せんとするものまたは逃げんとせし者は、数名の歩兵が膝撃の構えで射殺する。終ると、残る裏向き十名が前向けに替わり、終れば提脚部から二十名整列、これを繰返すのである。鮮血河流を紅とす。嗚呼惨たる哉、巳むを得ざる処置なる哉。江上に浮上する我が駆逐艦上より二、三発飛弾水面 につき刺す。流弾的をはずるれば友軍に危害を招く恐れあり。桟橋上と提上の歩兵が怒号して中止せよと叫ぶ。漸く止みたり。海軍の面 白半分の行動である。上流に向かって堤防を行く。川面側の提下には、到る処正規兵の死体と銃器、弾帯、鉄兜散乱し、逃げかねて濁流に流されしものも多数あらん。 」(「軍馬の思い出 一輜重兵の手記」)。
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 飛行第8大隊付き陸軍航空兵軍曹井手純二。(下関での捕虜殺害なので第16師団と推測できる)。
 「鉄橋の手前で、収容所から運ばれてきたらしい二十人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、江岸へ連行されて行く。釈放するからと偽って連れてきたのか、みんな大きなフロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を着ていた。軍服姿は見当らなかったが、二十、三十歳代の男が主で、坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた。江岸まで二〇〇メートルもあったろうか、道路のカーブを曲ると、江岸の斜面 から水際にかけて処刑された死体がゾロゾロと重なっている。追い立てられてよろよろと歩いてきた捕虜たちは気づいて動揺したようだが、ここまで来ると、もう逃げ道はない。
 ・・・さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、死体を水面 にけり落としているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数だが、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落としていた。
 ・・・その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に江岸で数人の兵が指さしながら見物しているので、”何ですか”と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた舟を揚子江の中流まで漕ぎ出して捕虜を突き落し、舟の上から機銃で射ち殺しているところだった。その前後、江岸にたまった死体を工兵隊らしい連中が、舟の上からさサオとカギを使って流しているのを目撃して、カメラに収めた。」(投稿「私が目撃した南京の惨劇」(増刊「歴史と人物」1984年12月号))。
*
・第16師団団長中島今朝吾中将のこの日付け日記の「捕虜掃蕩」という項目に記述。投降兵・敗残兵を捕虜として収容せず、殺害するのは師団方針。この日、第16師団だけで2万3千の敗残兵を処理、うち歩30旅団(佐々木到一少将)だけで1万5千を処理。
*
 「本日正午高山剣士来着す 捕虜七名あり直に試斬を為さしむ 時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸ふたつを見込斬りたり・・・だいたい捕虜はせぬ方針なれは、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、五千、一万の群集となれはこれが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末にこまるので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、十三日夕はトラックの大活動を要したり。
 ・・・後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、大平門における守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、その仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり、なお続々投降しきたる。この七、八千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のケ処(箇処)に誘きて処理する予定なり。」(中島師団長の日記)。
*
 歩38連隊副官児玉義堆大尉の証言。
 「彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として〝支部兵の降伏を受け入れるな。処置せよ″と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた・・・参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず・・・」(「借行」シリーズ(5))。
 この師団副官は官本四郎大尉であり、宮本副官は13日に捕虜1万が出と報告すると、参謀長が即座に「捕虜はつくらん」と指示したと遺稿に記す(「轍跡」)。
*
・午後4時、第16師団、国民政府庁舎に日章旗掲げる。公式の南京陥落。
* 
・午後5時30分~7時30分、第10軍第114師団歩127旅団(秋山充三郎少将)歩66連隊第1大隊、12日夜、中華門~光華門の城壁南で、助命すると約束して投降させ獲得した捕虜1500を処刑。「歩66連隊事件」。
 同大隊の戦闘詳報。
 「(二月一二日午後七時ごろ)最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
 (一二日夜)捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二〇名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。
 (一三日午後二時)連隊長より左の命令を受く。旅団(歩兵第一二七旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方態は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。・・・
 午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路宮地南方谷地、第三中隊は路宮地西南方凹地、第四中隊は路宮地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。
 ・・・各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。」
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・pm7.第6師団歩45連隊、下関へ進軍中、中国軍第縦隊を攻撃全滅
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・支那方面軍艦隊参謀長杉山少将、米アジア艦隊司令官ヤール大将に陳謝
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・難民区国際委員会委員長ラーベがアメリカ人委員共にと日本軍総司令部に向う途中で目撃したもの。
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 「われわれは、たくさんの中国の民間人の屍体を見ました。いくつかの遺体を調べた結果、私は彼らが至近距離、おそらく逃走中に背後から射殺されたことが確認されました」と書く。沿道に見たのは、さながら「うさぎ狩り」のように逃げるところを射殺された民間人の死体。「私はさらに、われわれが走った範囲では市街にはごく僅かな損傷しかないことを確認しました。撤退する中国軍はごく僅かな損害しか加えlなかったのでした。われわれは、この事実に満足し、しっかりと記憶に留めました」と記す(「南京書件・ラーベ報告書」)。
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 南京城東南部は、避難する手段・条件の無い貧しい階層の人々が残り住む住宅密集地で、そこへ敗残兵が逃げこんでいると想定した日本軍は、幾つかの部隊を投入し徹底した掃蕩作戦を行なう。
 第9師団歩兵第19連隊(敦賀)は、「午前一〇時光華門より城内に進入し、東南部を掃蕩して、通済門西側地区に兵力を集結し、爾後の行動を準備した」と記す(「敦賀連隊史」)。
 第114師団歩兵第150連隊(松本)は、雨花門・武定門から白鷺州地区一帯を担当、「城内は家屋稠密しあり、掃蕩に時間を要せり」と記録(「歩兵第五十連隊史(歩兵第一五〇連隊史を含む)」)。
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13日・この日の新聞報道。
 「南京城内の敵総崩れ、南側城壁を全部占領、残敵掃蕩、凄壮を極む、皇軍の戦果益々拡大」(「東京日日」)。
「南京・南側全城壁に日章旗翻る、潮の如く城内へ殺到、凄絶・暗夜の大市街戦、敵の二個師全滅、凄愴!〝最後の姿〞」(「東京朝日」)。
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13日・「東京朝日」(13日付)社説「占領地窮民の救済」。
 「戦地を視察して帰った人々の異口同音に語る重要話題の一つは、北支と上海付近とに論なく、我軍の占領地域内における支那住民の驚くべき困窮状態である。水害や干魅の災いを受け、餓死するもの幾万なるを知らずという所もあり、その上、疫病、匪賊、内乱の犠牲となって倒れるもの等、年々幾十百万の多きに達し・・・。今目前飢餓に追れる窮民数百万人の救済については新政権の樹立を待つまでもなく、日本としても即刻着手すべき緊急問題といわねばならぬ」
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13日・萩原朔太郎「南京陥落を祝ふ詩」(東京朝日新聞)
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13日・広田外相、米大使グルーに陳謝/駐米斎藤博大使、米国務長官ハルに陳謝
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13日・末次信正予備役海軍大将(参議)、内務大臣就任
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13日・米、ニューヨーク、デューイ委員会、トロツキーを無罪とする評決。
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to be continued