2008年11月15日土曜日

1871年3月18日 (2)ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ パリ蜂起


昨日の石碑の傍にある説明用看板。中身は下記。
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「永禄12年(1269年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天守」を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録等より) その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された。尚、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の居館として慶長7年(1602年)に築かれた。
 所在地 : 京都市上京区烏丸下立売
 築城者 : 織田信長
 形  式 : 平城
 築城年 : 1569年(永禄12年)」
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■1871年3月18日 パリ・コミューンの1日      「未完の黙翁年表」より

・政府軍の奇襲失敗、民衆蜂起。ティエール、ヴェルサイユへ逃亡。2将軍銃殺。午後10時30分、市庁舎占拠。
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[計画]
①シュビエル師団はルコント・パテュエル2旅団におりモンマルトルの丘を制し大砲を奪回。
②ファロン師団はベルヴィルに向かい、ビュット・ショーモンにラ・マリューズ旅団を派遣。
③モードゥイ師団はウォルフ旅団をバスティーユに、アンリオン旅団をテュイルリーとリュクサンプールに派遣。
④予備軍としてポシェ旅団が廃兵院と陸軍士官学校に向かい、そこに駐留。
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 パリの大砲は17地点に据えられ、有名な大砲は、パリを見下す高台に集められている。ビュット・モンマルトル(新型大砲91門など計171門)。ビュット・ショーモン(旧型12口径22門・新型7口径24門など計52門)。フランドル街ラ・マルセイエーズ公会堂(城壁から持って来た旧型31門)。ラ・シャベル(旧型22門など計43門)。クリシー(大砲8門など計10門)。ベルヴィル(改装砲6門など計22門)。メニルモンタン(新型12門など計70門)。総計417門。
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・夜の初め、ある将軍が、シャトー・ドーの兵営で、第120戦列歩兵隊第3大隊を兵営に残し兵営を防備態勢におくこと、第1大隊にタンプル場末町を、第2大隊にロワイヤル広場の占領を命令。また、一切の不穏集団には無警告で発砲せよと指示(第120戦列歩兵隊は国民衛兵が眼前に現われる時、潰走)。
同じ頃、1人の特務曹長が、モンマルトルの衛兵哨所に立ち寄り、区長クレマンソーの偽の撤退命令を伝令、人々は従い、モンマルトルには7人とムーラン・ド・ラ・ギャレットにいる僅かな分遣隊が残るのみ。
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・0時~午前2時、ルーヴル宮で政府軍の作戦会議。目的は、大砲奪取、衛兵の武装解除、委員会占領、メンバー逮捕、家宅捜査。
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[パリ軍最高司令官ヴィノワの計画]
モンマルトル攻撃は2旅団(パチュレル、ルコント両将軍)からなるシュビエル師団が担当。
①パチュレル旅団は、猟歩兵1大隊、第17大隊(第76戦列歩兵2大隊)、第88歩兵部隊3大隊(猟歩兵1大隊、第18大隊)、憲兵隊半中隊、工兵半中隊、武装警官を包含し、クリシー広場~サントゥアン大通り~マルカデ街~ソール街~モンマルトル墓地~ノルヴァン街を~ムーラン・ド・ラ・ギャレット公園へ向う。この間、1大隊がビェットの下、北と西側に布陣し、猟歩兵第17大隊は、シュビエル師団の将軍の指揮下におかれ、クリシー大通りとピガール広場に、憲兵と大砲2門をもって予備として残される。
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②ルコント将軍は、第88歩兵部隊2大隊、警官、憲兵、工兵半中隊と共にモン・スニ街を通り、ビュット・モンマルトルに登り、丘の東部を占領すべく、ロシュシュアール大通りに予備軍(猟歩兵第18大隊、砲兵1中隊、第88歩兵部隊第3大隊)を温存する。
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 歩兵部隊の大部分は、この月2日にル・アーヴル発。マラコフ大通り、エトワール広場、トロカデロ広場の付近に野営。パリが極めて平穏なのをみて、何人かの兵士は流布されていた噂に憤慨。17日夕方、何人かの兵士・下士官はが集会(例えばナシオン街のローエル酒場)に出席し、住民と親しくなり、以降、最も精力的な兵士達が、人民に発砲しないと公然と誓うに至る。従って、武装警官を部隊に配置する必要が生じる。
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[パリ全部の軍事占領計画]
モンマルトル(陣地の威力、大砲数、地区委員会や住民活動が活発さから特に重要地点)攻撃配置は、全労働者居住地区・戦略的地点(保塁、兵器廠、大通り、公共建造物)占領、パリ周辺地区住民の完全武装解除を目指す広範な計画の一部。
ファロン将軍は、ル・マリウズ将軍を指揮下におき、ベルヴィル、ビュット・ショーモンを占領、他の分遣隊はウォルフ、デロジャ、モーデュイ将軍指揮下に、バスチーユ広場、市庁舎を占領、アンリュー将軍は左岸を包囲、第135戦列歩兵は全体の予備軍としてリュクサンプールとパンテオンに残される。
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・0時~午前2時、政府軍作戦会議と同時刻、国民衛兵中央委員会も集会を開き、任務分担・委員会統合など組織作りを行い、新しく軍事委員会を任命、午前2時過ぎ、散会。(3時30分、国民軍中央委員会の任務分担についての会議終了、の記述もあり)
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・部隊2万はシャン・ゼリゼとコンコルド広場に集結、ラ・ぺー街~大通りへ進む。
午前2時半~3時、部隊は小分遣隊に分かれ、シュビエル師団はモンマルトルに向い、途中でマルチル街と外廻りの大通りを監視する為に榴弾砲を据え、騎兵・砲兵をビガール広場に配置。
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・午前3時~4時、将軍達は、配下の憲兵・警官とヴァサル少佐率いる市警官・パリ意兵隊に攻撃開始命ず。
 ロジェ街の中央委員会・地区委員会がルビック街の高みに据えた警砲は発射されず。
市警官がビュットを見下すソルフェリノ塔に近寄った時、ロジェ街委員会に配置された国民衛兵チュルパンに見つかり、彼を銃剣で打倒す(瀕死の重傷を負い、数日後没)。
襲撃者達は丘の上に出て、手薄すな哨所である第61大隊の6人を武装解除。次いで、監視委員会の置かれているロジェ街6番地に出て、そこを占拠する幾人かを捕虜としソルフェリノ塔地下室に投込む(数人は逃亡)。
この間、第18猟歩兵はプーサルグ少佐の命令下、丘上部に登り、工兵・猟歩兵は、大砲を保護する土塁、盛り土、塹壕を取壊す。
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・5時~6時。パチュレル旅団は難なくモンマルトル北側から丘の上に到着、ムーラン・ド・ラ・ギャレットまでの丘の麓を占領。
テルトル広場の大砲を守備する国民軍兵士5~6人は逃亡。第17猟兵大隊は広場守備の為その場に残され、第76大隊3中隊と若干の警官が近くの通りに置かれた大砲13門を確保の為に送られる。残りは、国民軍阻止と武装解除の為にモンマルトルの丘の周囲に配置。
モンマルトルの下町の住民達は、寒さに凍え飢えに苦しむ兵士達を歓迎し、簡単な食事をすすめ、水筒の水を一杯にしてやる。兵士達はモンマルトルの住民と談笑を始め、「戦列万歳!ヴィノワを倒せ!」に唱和する者も出てくる。
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・5時~6時。ルコント旅団はモンマルトルの高台を占領。ヴァサル少佐は、ルコント将軍に、大砲を押える為には更に兵員が必要と連絡。ルコントは直ちにソルフェリノ塔に向い第88戦列歩兵第2大隊を派遣。陣地を奪取し、大砲を捕獲させる。ルコント将軍は勝ったと思う。
 ルコント将軍が陣地を巡視し、重傷の衛兵チュルバンと傍にいるルイズ・ミシェルを見付けた時、クレマンソーが、「区長、クレマンソー、医者です」と声をかけ、将軍に対し、政府と軍当局が交渉を継続しなかった事に遺憾の意を表明、攻撃に抗議し、地区の平静の保証、負傷者の病院への運搬、負傷者の応急手当を、要望。将軍は反対するものの、区長を阻止せず通り過ぎる。クレマンソーはその場を離れ、幾人かが後に続き、兵士の警戒線を突破し、警報を広める。
 クレマンソーがサン・ピエール広場の上に着いた時、群集は彼を取り巻き、大砲とモンマルトルをヴィノワとティエールに売り渡したと責め、「裏切者」と呼ぶ。誰かが「大砲をとり戻そう!」と呼ばなければ、群集に八つ裂きにされるところ。
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 コンコルドに集められた馬が到着せず、大砲の通行を妨害する塹壕・盛土の取壊しが遅々としてはかどらず、大砲の幾門かは、ルコントの命令により手で曳かれ、或いは彼の持つ僅かの馬に繋がれ坂を下る。
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・5時55分、警視総監ヴァランタンは、軍はモンマルトルを押え、ウォルフ、アンリュー両将軍はパスチーユとシテ島を占領したと、司令部(ヴィノワ)に連絡。数分後、ベルヴィル占領の報が届く。
 しかし、同じ頃、フアロン将軍の部下は、国民衛兵との最初の接触以来、服従を拒否し、将軍はベルヴィル区役所周囲に砲列を敷く事ができず、後退命令を与え、ようやく連隊の全般的潰走を回避。彼は、ビュット・ショーモン公園に達す事ができず、退却途中で彼自身の大砲を放棄。
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・6時頃、大砲約50門がビュツトの下にある。
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・6時~7時、第18(モンマルトル)、13、14、5区の監視委員会の出した警報(空砲)、広がる。
□「三月一八日、モンマルトルの女たち、ビュットに接する街々を埋めた女たちは、反動的な文学が想像したようなものでは決してなかった。・・・彼女たちは苦痛に充たされ、ついで気高く、真に人間的となって、国民衛兵と軍隊の間の群れをなして立ちふさがり、発砲命令を与えたこれらの指揮官に服従しないよう軍隊の兄弟に懇願するのだ」(ダ・コスタ)
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・午前7時~8時、大群集が兵士を取り巻き、大砲輸送を麻痺させる。市民は、背嚢を持たず腹をすかし、喉が渇いている兵卒にパンやブドウ酒を提供するために金を出し合い、おしゃべりがはじまる。
「軍隊万歳!」の叫びがあがり、カフェや居酒屋が開かれ、女房達は兵士の為にささやかな買置きをテーブルに並べる。幾人かの兵士は銃を1杯のブドウ酒と交換。興奮した大衆は共同体となり、共信者となる。女達は公然と士官を批判し、「この大砲をどこへ持ってゆくの。ベルリンなの。」と叫ぶ。下士官の叫びと威嚇で、隊列が崩れたり、作られたり、また崩れたりする。
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・7時、政府軍部隊、モンマルトルから大砲撤収。婦人・国民軍兵士の抵抗。国民軍のブルジョア的な諸大隊を結集しようとする当局の試みは失敗。反乱人民によるバリケードの構築。
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・8時頃、ピジェールという名の士官が、明け方に、ドゥドーヴィル街で急ぎ集めた国民衛兵1縦隊300人が行進、オルナノ大通りで戦列歩兵1分遣隊に出遭い、すぐに親睦が生まれる。更に行進を続け、ルピック街で、通りを下る馬に曳かれた1門の大砲の前に出る。
そこへ、「女たち、子供たち、密集した一団は、上げ潮の波のように坂道をのぼってきた。砲兵は通路を切りひらこうとしたが無駄だった。
人間の大波がすべてを浸し、砲架や弾薬車の上、車輪や馬の足元にすべりこみ、大砲を曳く馬を空しく鞭うつ馭者の努力をまひさせる。」「とくに女たちは激怒して叫んだ。馬を切り離せ!あっちへ行け!あたし達は大砲がいるのだ!大砲を手にいれよう」(「コミューンの真相」)。大砲は奪回される。
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 大砲奪回直後、国民衛兵は、憲兵の強力な分隊がサント・マリ街の上部の進出点に集結しているのを知り、そこへ向かう。憲兵は夜のうちに多くの人々を逮捕し投獄し、叛徒側に移った部隊の兵士達は囚人救出を望む。ビジェールの衛兵が、虐殺や憲兵との戦闘回避の為、先頭に立って進み、闘う事なくサント・マリ街で憲兵隊を降伏させる。
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 第88戦列歩兵の全大隊は、依然無傷のままムーラン・ド・ラ・ギャレットに立て籠もる。ビジェールは降服を呼び掛けるが、指揮官はこれを拒否。しかし、大隊兵士は指揮官を残して退却。ビジェールの衛兵部隊は、大砲を奪回し、憲兵と第88戦列歩兵1大隊の武装を解除。
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連盟兵第79大隊がルコント将軍を逮捕。
 ルコント将軍は、夜のうちに市警官が国民衛兵から奪取したロジェ街の哨所周辺を掩護し、ビュットの頂上を占領。捕虜の衛兵と発砲拒否の兵士は、哨所に閉じ込められる。ソルフェリノ塔の右側に、連盟兵第79大隊が停止し、士官2人が軍使として前進し降服を勧告。
 ルコント将軍は、衛兵・群衆に対して発砲を命令するが、部隊はその命令を拒否。次に、将軍は、憲兵・市警官に発砲を命令。猟歩兵・連盟兵・群衆が憲兵に襲い掛かり武装解除、80人を区役所に監禁。ルコント将軍も逮捕される。
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モンマルトル、群集と衛兵は頂上台地にまで侵入。
 8時30分頃、ヴェルダァニェ軍曹を先頭とする小部隊が砲座に進出するが、押し返えされる。
プーサルグ少佐はルコントに新しい命令を要求し、ルコントは、もし衛兵と群集が30歩以内に接近したら発砲せよ、と命令。
少し遅れて、ガルサン大尉指揮下の衛兵部隊多数が到着し、群集がこれに続く。ヴェルダァニェが、「同志よ、武器を置け」と最初に叫ぶ。第88戦列歩兵は、第152、228衛兵大隊の分遣隊と交歓し、一緒に、最も危険な分子(市警官)の武装を解除。警官の多くは警官と衛兵とを見分ける帽子を投げ捨てる。プーサルグ少佐の猟歩兵達は、最も頑強に抵抗し、包囲される。
勝ち誇った群集が喚声をあげているところに、ルコンl将軍とその部下の士官達が、第106大隊のシモン・メイ工大尉が指揮するシャトー・ルージュ(ダンスホール「シャトー・ルージュ」)の哨所に連れてこられる。
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 8時、国民軍・市民がモンマルトルの丘に到着。第88連隊兵士と人民との交歓。人民を射てとの指令部の命令に兵士は服従せず、兵士の一部は人民に参加し、連隊長プーサルジュ、ヴァサール、ルコント将軍(大砲を取り囲む婦人・子供の群れに発砲命令)や、将校・憲兵は兵士に逮捕される。国民軍部隊によるパリ第13区区役所の占領。
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 事件は、その朝バフロア街で開催予定の中央委員会に報ぜられ、アルノール、ヴァルランらが本部に顔を出すが、直ちに自分の地区に帰り、その他の中央委員と共に所属大隊を指揮し、各地区の防御を組織。諸所にバリケードを構築し、国民衛兵は戦闘意欲に燃え上る。
バフロア街に残った中央委員は、作戦計画を作成、占領すべき戦略的要点を指定し、主力の市庁舎集結を決議し、この決議を地区に伝達。
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・午前9時、パリ市内の所々にバリケード構築。
 フランドル街のラ・マルセイエーズ公会堂の前。ヴィレットではパリケードで警察を封鎖。第11区ではロケット街のバリケードが、バスチーユとペール・ラシューズを分断。第13区では区役所を占領したデュヴァルが攻撃に移る準備を整える。
パンテオンの周りには、そこを占領している大隊をリュクサンプールに野営している予備軍から分離するためにバリケードが築かれる。
第13区では、衛兵1大隊がメーヌ大通りで通行中、脅威を受けている地点に救援に急ぐ騎馬憲兵の一団を逮捕。
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モンマルトルの国民衛兵と第88戦列歩兵の兵士は、続いてオルナノ大通りを制し、ロシュ・シュアール大通りまで下る。ここには、朝から叉銃をして第88歩兵部隊の残留部隊がいるが、仲間が銃床を上にし、住民と親しみながらやって来るのを見て、兵士たちはそれをみならい、「国民衛兵万歳」と叫ぶ。こうして9時30分には、ルコント将軍の攻撃縦隊とビュット占領の任を負う小軍団の右翼は存在しなくなる。
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 しかし、シュビエル師団長直轄部隊は無庇で残り、依然、ピガール広場~クリシー広場及びそれ以遠に至る外廻りの大通りを占領。
ピガール広場は、徒歩憲兵と猟騎兵の一隊が占領し、国民衛兵と群集が前進すると、シュビエル将軍は突撃命令を下す。兵士達は躊躇する。サン・ジャム大尉が先頭に立って、それを率いる。女達・小僧達・弥次馬は逃げ出す。
その時、国民衛兵と戦列歩兵が猟騎兵を攻撃。サン・ジャム大尉は瀕死の重傷を負って倒れ、猟騎兵は徒歩憲兵の後に引下がり、外廻り大通りの廠舎の後に身を寄せて、群集に発砲。1分隊が銃剣を突き出して、ビエモント通路に押し入る。
そこで白兵戦(この日の唯一の実戦)が始まる。将軍、猟騎兵、残存部隊は急いでクリシー広場に向い退却。
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9時以後、ヴィノア将軍、労働者地域から政府軍を撤退せよと命令。
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10時、パフロア通りの学校で、国民軍中央委員会議。パリ第13、11区は、反乱人民の手中に入る。
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10時頃、ピガール広場でクレマン・トマ将軍(元国民軍総司令官、1月21日辞任、1848年6月蜂起者達の死刑執行人として知られる)、スパイ容疑で逮捕。「赤い館」送り。
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10~11時、軍隊と人民との交歓。若干の部隊の武装解除。
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・10時30分頃、警視総監から政府に電報。「モンマルトルからの悪いニュース。軍隊は行動を拒否した。ビュット、大砲、捕虜は叛徒に奪回された。」
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 警察が、数人の「被疑者」(ブルードム、ヴィアール、シュートーら)を逮捕し、留置所に連行している時、幾つかの地区は叛徒の手に落ちている。しかし、全体的な計画もなく、作戦は地区毎に行なわれ、名前は知られているが外との繋がりのない人達に指導される。セーヴル街ではファルト、第20、10区ではプリュネルとランヴィ工、第3区ではパンディ、バチニョルではヴァルラン、左岸の大部分ではデュヴァル。第5区では、パスカル街の地区事務所は完全に機能を果し、文書や伝令を押え、デュヴァルに有益な情報を送る。
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10時30分頃、中央委員会メンバの数人はバフロワ街の建物の中で慌ただしく命令書や委任状を作る。
「彼が必要と判断するすべてのこと」を第17区で行なう権限をヴァルランに委託する命令。「攻撃するな、バリケードを築け」という命令。
パフロワ街に隣接する街々で太鼓を叩かせたネストル・ルソーは、部隊が現われたら「軍隊万歳!共和国万歳!」と叫び、バリケードを開き、流血を回避せよと命じ、バリケードを構築させる。
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10時30分頃、ヴィノワ将軍(モンマルトルまで偵察を行ない、事態の重大性を確認)は、全面的引揚げ命令。その後、正午少し前、セーヌ右岸の撤退と陸軍士官学校への仝部隊の後退を命令。ファロン将軍だけは、叛徒と話し合い通行許可を得て秩序正しく後退。
バスチーユでは、ウォルフ将軍の本隊は溶解。現場に来合わせた陸軍大臣ル・フロー将軍は、危うく叛徒の手に落ちるところ。メニルモンタンでは、マリウズ将軍の兵士が、フェリックス・ピアの演説に興奮した衛兵第173大隊に襲われ、第20区区役所に閉じ籠る。
モンマルトルと同様にビュット・ショーモンでも群集は兵士達を巻きこみ押し流しす。
リュクサンプールでも同様な友愛の光景がみられる。
昼前、赤旗が再びバスチーユにはためき、大砲と捕虜を引っ張ってパフロワ街に向う衛兵大隊は、通りがかりに敬意を表する。
その時、ヴィクトル・ユゴーの息子(ボルドーで急死したシャルル・ユゴー)の葬列の為にバリケードが開かれ、葬列はパリを横切り、ペール・ラシューズに向う。
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11時頃、ファロン師団6千がベルヴィルで、ラ・マリューズ旅団がビュット・ショーモンで、武装解除される。
モードゥイ師団・ウォルフ旅団はバスティーユで、アンリオン旅団は、テュイルリーとリュクサンブールで武装解除。
プランス・ユージェーヌ兵営は、プリュネル指揮の部隊により占領され、兵営にいた正規兵は、国民衛兵と交歓。
ナポレオン兵営も、警視庁も、内閣印刷所も、国民衛兵の手に帰す。
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11時頃、アシとバビックは、第65、192両大隊にモンマルトルに赴くように命ずる。
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11時、大隊会議と、政府軍に対する防衛戦術についての国民軍中央委員会の命令。国民軍部隊、パリ第5区区役所を奪取。
 反乱した人々(国民軍、政府軍の一部、市民)、市庁舎への移動。
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・11時頃、政府はセイ製糖所が第13大隊によって占領されたことを知り、更に11時30分頃、衛兵と兵士よりなる1縦隊が市庁舎に向っていることを知る。
昼近く、シュビエル将軍、ファロン将軍など、総司令部のあるルーヴルに戻る。
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・正午、全面的な中休み、昼食。
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・12時5分、ジュール・フェリーは市庁舎を去ることを拒否し、ティエールに対し、第11区は万事休す、軍隊は戦闘を拒否しバスチーユ広場を通って引返していると告げる。
しかし同時刻、ティエールはヴァランタンから、「ベルヴィルとメニルモンタンでの行動は、11時15分まで何の困難にも出会わなかった。モンマルトルではわれわれは幾分の損失をうけるかもしれない」。
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蜂起は既に全パリを支配しているのに、誰もそれに気づいていない(政府も、中央委員会も、各地区も)。
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午後1時、ティエール首相、政府軍をパリ東部諸区から西部諸区へ撤退させよと指示。
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・午後1時頃、シモン・メイエ大尉はシャトー・ルージュの捕虜達に「委員会」(第13区の監視委員会か)命令でロジエ街の哨所に連れてゆく事になったと告げる。
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・2時頃、パフロワ街の学校の校庭に、参謀本部の1士官と要職にある1警官をふくむ捕虜が連行され、訊問される。
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・午後2時30分、国民軍中央委員会、政府の建物を占領する為、諸大隊をパリ中心部へ移動させよと命令。待機中の諸大隊が、ドーレル・ド・パラディーヌ将軍指揮下の衛兵の参謀本部があるヴァンドーム広場に向い、それを包囲する。しかし、政府のある王宮や、既に叛徒の脅威を受けている市庁舎には兵力を投入せず。
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軍事的状況(中央委員会にとって極めて有利)。
第20区では、第173大隊が、メニルモンタンとベルヴィルの公園を占領するはずの部隊を武装解除。
第135大隊は区役所を占領。
パディ率いる第16隊は中央部に下り、ミニムの兵営を確保し、国立印刷所・市庁舎に前進するばかり。
ヴァルランはバチニョールの衛兵の動員に失敗するが、第17区区役所を占領し、午後早く、300人を率いヴァンドーム広場へ向う。
ベルジュレは自分の地区(クリニャンクール)を離れるのを躊躇った後、モンマルトルの監視委員会議長フェリ工の精力的な調停されてヴァンドーム広場へ向い、ヴァルランと共に兵士2千を掌握。
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左岸の戦況は更に良好。
数日前からアンリがメーヌ大通り哨所を構築し、その周囲に占領地帯とバリケード地帯が拡大される。
午後早く、ソー駅、アンフェル門(現在のダンフェル・ロシュロ広場)、第14区区役所を奪取。
デュヴァルは、朝から、ゴブラン通りとイタリア広場の防備を強化し、アンヴァリッドを脅やかす第15区の数中隊を予備に残し、大移動を展開。
午後早く、オルレアン駅、植物園、税関(保税倉庫)を奪取。この行動はリュクサンプール、パンテオン、市庁舎を目標とする。
 第15区では、ファルトが同様の計画を遂行、6大隊をもって士官学校、アンヴァリッ下を包囲、2時~3時、セーヴル街~リュクサンプールに進出。
しかしすでにリュクサンプールとパンテオン周辺では、アルマーヌ(最初に行動をおこした者の1人)のイニシアティヴで親睦が始まり、バリケードが作られる。
やがて第5区区役所、パンテオンが陥落し、リュクサンプールに野営の本隊は潰走。デュヴァはシテ島に下り、既にシャトー・ドーの兵営を奪取したバンディ、ウード、プリュネルと共に市庁舎を脅かすことが可能となる。
3時頃、彼は、市庁舎を狙う。全地区で、群集は市民兵の行動を支持し、歓呼して彼らを迎える。パリは街頭にあり、数千の正規軍兵士は、群集と混じり合う。政府の連中は、孤立し、度を失い、押し流される。
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午後3時、ティエールの主宰する大臣会議、パリ放棄と軍隊のヴェルサイユへの撤退を決定。
 この間、モンマルトルからロジェ街まで捕虜の移動。哨所を指揮するポーランド人カルダンスキーはルコントを裁く一種の軍事会議を開く(開いたように見せかける)。
ルコントは尋問に対し、自分が発砲命令を下した、「私がしたことは適切であった」と答える。この軍法会議は民衆を辛抱させる為のもので、会議主催者はルコントを救いたいと思っている。
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・3時~第2区区役所、第3区区長ボンヴァレとトランが召集した区長・助役・パリの代議士の最初の集会。調停派が介入しティエール説得を試みる。
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午後4時、首相ティエール、陸軍大臣ル・フロー、パリを脱出。ティエールは、パリの諸稜堡撤退について命令(殆ど全堡塁の守備隊全部をセーヌ左岸に撤退させ、パリ西方の最重要拠点モン・ヴァレリアン堡塁をも撤退させる)。
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・午後4時半過ぎ~5時、捕虜のルコント将軍、クレマン・トマ将軍(1848年6月事件鎮圧者)殺害。他の拘留者は再びシャトー・ルージュに連行され、監視委員会ジャクラールとクレマンソーの調停で釈放される。
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市庁舎では市長ジュール・フェリーが、デロジャ将軍配下の重要な部隊(徒歩憲兵300と騎馬憲兵40、第109、20戦列歩兵隊)を擁して抵抗。
5時頃、プランキ派が、兵舎と市庁舎を繋ぐ地下道を奇襲するが、市警備隊が銃剣で、ブランキ派を撃退。
6時頃、憲兵が撤退の総命令に従い始め、ロボーの地下道を通ってヴェルサイユに向い立退く。
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午後5時、国民軍諸部隊を市の中心部に移動させ、政府諸庁舎や兵営を占領。
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・午後6時頃、区長・助役・パリの代議士達、第1区区役所で新しい会合を開き、パリの代議士ラングロワ大佐(パリ包囲の間、指揮ぶりはその人気を高める)の衛兵指揮官への任命、パリ市長としてドリアンの任命、即時の自治体選挙、衛兵の武装解除を行なわない保証を要求。
数人の代表が、ジュール・ファーヴル(大臣)と連絡をとることに成功するが、ファーヴルは既に将軍処刑を知っており、「人殺しとは交渉しない」と乱暴に答える。
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・午後8時~深夜、正規軍、国家の役人ら、混乱の内にパリを脱出。真夜中頃、ヴィノワの掌握する軍主力2万が、パリを脱出。
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・8時~9時、ヴァルランは、バチニョール(第17区)の彼の部下と共に、ベルジュレとアルヌール率いるモンマルトルの大隊と合流し、ラ・ぺー街~ヴァンドーム広場へ集中。ベルジュレは衛兵司令部を占領。ヴアンドーム広場は広い野営地となり、隣接する街々はヴァルランが配置した諸大隊を迎える。
東から来たベルヴィルの人々は、第120戦列歩兵が確保するプランス・ユジェーヌ兵営を包囲。
プリュネルは部下に扉を破らせ、士官達を閉籠める。兵士達はすっかり親しくなる。プリュネル、ランヴィエ、ウード指揮の諸大隊は、そこからセーヌ河岸及び隣接する街々を通って市庁舎に向う。
一方、パンディはヴィエイユ・デュ・タンプル街を経てそこに向う。8時前から、市庁舎は包囲され、殆んど孤立。
左岸では、アルマーヌが巧妙に交渉し、ブルジョア派3大隊が、第59戦列歩兵によって第6区で無力化される。
デュヴァルはゆっくりと確実にシテ島へと前進、警視庁に近づく(当時はドフィーヌ広場の近くにある)。警視庁には誰もいない。夜10時過ぎ、デュヴァルは前進を早め、市庁舎包囲を終え、ノートル・ダム広場に強力な分遣隊を派遣。
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午後10時、パリ市長脱出。後、国民軍連盟中央委員会、市庁舎占拠。
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午後10時、政府軍のシャン・ド・マルスおよびアンヴァリド(廃兵会館)への集結。
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・11時、プリュネルは市庁舎の周りに、バリケード、哨所、歩哨をびっしりと林立させる。パトロール隊の1隊が、通りかかったジュール・フェリーをもう少しで捕えそこなう。彼は9時15分に市庁舎を離れ、第1区区役所に入る。プリュネル縦隊は、広場に進出し、市庁舎に侵入し、占領。建物の正面が照明され、赤旗が上る。中央委員会に知らせが届く。
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午後11時30分、反乱した人びとは警視庁を占拠。
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「直ちにヴェルサイユに進撃すべきであった。」(マルクス「クーゲルマン宛手紙('71/4/11)」)。
 渾沌とした議論の中で、プランキ派(ウード、デュヴァル、プリュネル、ファルト)は徹底的な措置(ブルジョア派大隊の即時解散、ヴェルサイユへの即時進軍)を主張するが、取り上げられない。ルイズ・ミシェルによれば、モンマルトルの委員会と労働者大隊の幾つかは、攻撃を要求。
 ヴェルサイユに向う3つの道筋(シャティヨン経由、セーヴル経由、ピカルヂィの丘経由)は、退却中の軍隊が引返すのを食い止める為に割当てられた数の憲兵が守るだけで、ヴェルサイユが、新手の士気良好な部隊を持つのは、4月2日以後。中央委員会は、20大隊と数門の大砲、霰弾砲をもって、数日でさしたる困難もなくヴェルサイユ占領が出来た筈。18日夜~19日、中央委員会の大多数は、合法性への懸念、内乱の拒否、プロシア軍への怖れにより偶発性を退ける。
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ヴェルレーヌは市役所に留まり、情報係りを勤める。
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・中央委員会、国民衛兵指揮官に無能力で自慢家のリュリエを任命(最初の大失策)。次いで、宣言(2つの布告)を起草。
委員会は、自分が何を望み、何であるのか、パリの市当局=新しい政府権力であることが判っていない。選ばれた区長、助役がいるのに、選挙を決定し、戒厳令を解除する。しかし、「コミューン」の語は布告は現われない。
 中央委員会は、革命的現実と、それが依拠し、かつ悩まされている合法性との間の矛盾を解決していない。
委員会は、その委託を解消し、人民の名において市庁舎を保管することによって委託を維持すると告げる。
委員会は、既に選出された区長のパリにおける「合法的」権威と、非合法的権威(表的な権威=委員会の権威)との間の潜在的紛争に終止符を打たず、政府との権力の二重性の解決を中途半端にしたままで、いま一つの権力の二重性が生ずるのを放置しようとする。
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・午前2時、リュリエは、最初の晩から誤りを積み重ねる。ヴィノワの軍隊に難なく退却するのを許し、警視庁において午前中の投獄者の釈放を言い渡し(釈放は実際には既に行なわれてしまっている)、ヴァンドーム広場の指揮をとり、リュクサンプールで捕虜になった士官たちの釈放命令を与える。
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・午前4時、区長・助役達は証券取引所に本拠をおく。彼らの1人チラールは、パリの行政を委託するとのティエールの手紙を持っており、翌19日昼間、ヴェルサイユからの電報により確認される。
 中央委員会は、彼らの合法的権威に異議申し立てをしない。委員会は、代議士2人と区長・助役6人の代表団を迎え、委員会も、ヴァルラン、ジュールド、ボワシエを含む4人を、区長たちの交渉役に指命。交渉は中断なしに約48時間に亘り継続し、果しない議論の末、中央委員会の代表は妥協を受諾。中央委員会は市庁舎を離れ、ヴァンドーム広場に戻り、そこで衛兵の正式司令部としての機能を果すことになる。市の役人達が市庁舎に現われ、人民によって選ばれた代表として、再び席を占めることになる。
 パリにおける自治体選挙に同意できない代議士・区長は、この選挙と並んで、衛兵の全階級の士官の選挙を議会に要求する掲示を公表する。
 この妥協は、確乎たる革命派、インターナショナル派(ヴァルラン)を含めた中央委員会メンバが、違法性と決定的選択(自治都市の設立、政府の設立)を前にして、どの程度まで躊躇したかを示すもの。軍事的無為と、中央委員会と区長との取引は、ティエールの勢力強化を許す大きな政治的失敗。
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これらの協定ができるや否や、区長の代表はヴェルサイユに出発。中央委員会側は下部(区の委員会)に意見が求められ、委員会の大多数はこの妥協を拒否。更に、連合の原則に従って諮問をうけた「下部」は重大決定を行なおうとする。
遵法主義者と非遵法主義者、調停派と非調停派、穏和派と過激派、ジャコパン派とブランキ派の間の議論が、19日を埋めつくそうとし、実際には、決裂する。
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18日~19日への夜半、政府軍、憲兵、警官隊、ヴェルサイユへ退却。政府は区長たちにパリの臨時統治を委ねる。
国民議会パリ選出代議士、区長、区長代理と政府との会談により、ドーレル・ド・パラディーヌ将軍の国民軍総司令官解任、ラングロア大佐への総司令官任命が決定。
市庁舎における国民軍中央委員会会議、退職海軍将校リュリエを、国民軍総司令官に任命、ラングロア大佐への総司令官任命を拒否。
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政府はパリを総退却。権力は、予期せず国民衛兵中央委員会の双肩に落ちてくる。
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to be continued to March 1871 (3)

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