2008年11月16日日曜日

1871年3月(3)ジャコバンの見果てぬ夢か・・・











写真は(現在の)二条城。撮影の日はあいにくの雨。
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■「見果てぬ夢」という言い方は失礼か?
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 パリ・コミューンは、ナポレオン第2帝政を打倒した共和派に対する民衆派の叛乱であると、私は捉えています。共和派は、民衆を利用(動員)してしか帝政を倒すことはできなかった。しかし、自分たちの目的を達成すると、この貧乏人が邪魔になる。一方、民衆の前には、いつも「パンの問題」が横たわっている。
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 3月18日、政府軍の闇討ちを排除した中央委員会(=コミューン)は、自らの存在の定義付け(権力の合法性の理屈付け)に悩みつつ、統治のための布告を徐々に出してゆくが、その布告に貫かれているものが、私の云う「ジャコバンの(見果てぬ)夢」であると、私には思える。ルソー、ヴォルテール、モンテスキューに啓示を与えられ、ロベスピエールやサン・ジュストらが実現しようとして果たせず、1830年、1848年でも果たせなかったもの。
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 それは、人間の「自由」「平等」の理想を実現しようという「夢」だと思う。急進共和派、ブランキ派、インター派、また書物には書かれていないが多数の正義派(仁義派と云うべきか)などの人々を内部に抱えながら、更にパンの問題解決を最優先させねばならない人々をも含め、運動を一本にするために、この「夢」を統合概念とする結論に辿り着いたのではないか。
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 マルクスなど国外のインター派は、この「内乱」を勉強材料として、更に自分たちの叛乱(内乱)~革命の思想・技術の補強に活用した。そして、・・・「夢」は叶えられたのか?
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 しかし、パリのコミューンの人々はまだ幸せである。明治17(1884)年11月の秩父の人々に比べれば。秩父の人々が「パン」のみで闘ったとは考えたくはないが、その時の思想家、民権家、「旦那」衆は、「夢」さえも提示し得なかったのではないか。
 秩父の闘いは、近々に「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」としてお目見えするはずです。
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 いつかパリに行くことがあれば、コミューン戦士の再期の場所ペール・ラシェーズ墓地(佐伯祐三の墓もある)、民衆の住んだフォーブール・サンタントワーヌ街に行ってみたいと思う。それから、大佛次郎さんの「パリ燃ゆ」、まだ読んでないので読まなきゃ。
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 フランス大革命も、「黙翁年表」には未完ながらも分厚くあるが、買ってそのままになっていたミシュレ「フランス革命史」(中公文庫上下)を整理しているので、これが終わったら出現するはず。マチエとルフェーブルの岩波文庫は完了。
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■1871年3月19,20日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ 「未完の黙翁年表」より
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3月19日
・午前9時~、国民軍中央委員会会議(エドゥアール・モロー司会)、バリ情勢を審議。
 コミューン選挙についての中央委員会アピールを採択。中央委員の任務を分担。その代表委員を各庁舎に派遣(ヴァルランとジュールドを大蔵省へ、ウードを陸軍省へ、デュヴァルとリゴーを警視庁へ、パスカル・グルーセを外務省へ、グロリエとヴァイヤンを内務省へ、等々)。
「パリ市の自治行政を、ただちに組織するために」、パリ市会(コミューン)選挙を3月22日に行う決定。
セーヌ県の戒厳状態廃止と軍法会議廃止、全ての政治犯に対する恩赦及び全ての政治犯の釈放についての国民軍中央委員会の決定。
出版の自由尊重についての声明。
ドイツとの暫定平和条件を承認。
国民軍中央委員会とパリの区長、代議士代表者との会談。
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19日~28日、国民軍中央委員会がパリを統治する最初の政府である。
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 中央委員会会議で、デュヴァルが、高級官吏が記録文書、金庫の鍵、金庫を持ち去ったこと、パリ中央部の区やブルジョア派の区長たちが動揺していること、若干の兵士集団がパリから逃亡する噂が流れていることを知らせ、パリの市門を閉じ、パリの出入を取締るべきと提案する。人々は耳をかさず。
デュヴアルは、速やかに攻勢に出て、退却中の政府軍を粉砕、進んでヴェルサイユに進撃し、国民議会を解散、新たに全国的選挙を組織せよと積極論を主張。
モローは、「私は市庁舎に席を占めようなどとは考えたことはない、しかし事態がこうなった以上は、すみやかに選挙を施行し、都市行政を担当し、パリを奇襲から保護しようとするわれわれの意志を明らかにしなければならぬ」「われわれはパリの権利を確保する権限を与えられているだけである、地方もまたわれわれと同様に考えるならば、われわれの例にならうであろう」と、守勢的立場を固持。
中央委員会の大勢は、モローの起草した穏健な声明書の発表に同意。
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 「市民諸君! パリ民衆は、平静に、自力にたいする自信に満ち、恐怖に陥らず、挑発に乗らず、共和制を侵害しようとする愚者どもを待った・・・パリとフランスは、協力して、久しい以前からのあこがれである共和国の基礎を築くであろう。いまこそ、侵略と内乱に永久の終止符をうつ時代である。パリ民衆は、自分たちの居住地区にかえって、市会選挙を実行しなければならぬ・・・」
「国民衛兵は、パリとわれわれの権利防衛を組織する義務を遂行した。国民衛兵の献身的勇気と讃嘆すべき冷静さのお陰で、われわれは、われわれを裏切った政府を放逐した。いまやわれわれに委託された任務は履行されたので、われわれは、われわれの権限を人民に返そうと思う、なぜならばわれわれは、人民の圧力で放逐された連中に取って代わろうとするものではないからである。市会選挙を準備し、猶予なくこれを実行せよ。・・・その結果が判明するまで、われわれは人民の名において市庁舎にとどまるであろう。」
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・国民軍諸部隊、公共官衙・国立印刷所を占拠。
 前日中央委員会によって、国民衛兵総司令官に任命された前海軍将校リュリエは、疲労困憊してヴェルサイユへ逃散する政府軍隊追撃を怠り、モン・ヴアレリアンのようなバリ~ヴェルサイユ間の最も重要な戦略的重要地点奪取もせず、政府軍粉砕の絶好の機会を失す。
新権力の財源確保の為に不可欠な「フランス銀行」接収を考える者さえいない。
ただ選挙までの期間、暫定的に行政事務を管理する為、諸種の主要官公庁は接収される。ヴァルランとジュールドが大蔵省、デュヴァルとリゴーが警視庁、アッシが市庁舎、エドアール・モローが官報発行当局に赴き、管理することとなる。
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・大蔵省に派遣された国民軍中央委員会代表ヴァルランとジュールド、ロスチャイルド氏から50万フランを前借りし、これを各区に分配。
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 国民衛兵は30スーの日当を待っている。国庫の金庫には500万フラン(金貨)があるが、出納係はヴェルサイユにいる。ヴァルランとジュールドは、合鍵で金庫を開ける合法的権限も支払命令書も持っていない。彼らは、法律や偏見を超越しているロスチャイルドに会い、取引を提案。革命派に金を貸す事で、安全にパリに留まり、事業を監督することが許される。彼は、規定に従って、受取と引き換えに50万フラン(1日分の俸給)を前貸しする。
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・夜、中央委員会の会議。
 彼らにとって最大の関心である権力の合法性の問題を巡る大論戦
2時間の討論の後、代表4名が第2区区役所にいる区長・代議士のもとに派遣され交渉開始。
翌朝午前2時、妥協成立、中央委員会は専ら国民衛兵指揮と治安保持を担当、政治的行動から手を引くことになる。
ヴァルランら強硬派はこの妥協にあきたらず、これを無視しようとする。
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①区長・代議士を代表するクレマンソーの意見。
大砲が国家の所有に属する以上、国民衛兵がこれを奪還したのは不法であり、中央委員会がこれを指導したのは正当ではない。市民大衆は中央委員会を支持せず、区長および代議士を支持している。政府がパリに対し挑発的行動に出たことは遺憾であるが、パリにはフランスに対立する権利はない。パリは国民議会の権利を承認しなければならぬ。中央委員会が袋路から脱する方法は唯一つしかない、代議士および区長会議に全権を移し、これをもって国民議会との折衝機関たらしめるにある。
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②代議士ミリエールはクレマンソーを支持し、中央委員会に自制を要求。
「一部の社会革命論者の主張するがごとき方向に進んでゆけば、新たな六月事件は不可避である。社会革命の時期はまだ始まっていない。もし諸君がこのことに思いを致さないならば、諸君自身のみならず全プロレタリアートを破滅に導くこととなろう。進歩は漸進的に行なわれる。今諸君の立っているところから下りよ。今日諸君は勝利者である。明日諸君の蜂起は粉砕されるであろう。現在の事態からできるだけ多くの利益を引出せ、あまり多くのものを獲得しようと望むな。代議士および区長にその地位を譲れ。諸君の信頼は裏切られるようなことはないであろう。」
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③中央委員プルシエは、中央委員会の行き過ぎを戒めるが、代議士・区長に全権を委ねることには反対。
「諸君は、全フランスのコンミュンの自由な連合について語った、しかしわれわれの任務は、まず選挙を行なうことにある。それからいかに発展するかは、人民自身がこれを決定するであろう。われわれの地位を、代議士および区長に譲ることは不可能である。かれらは、人民に信望なく、国民議会において権威を有しない。かれらの協力あるなしにかかわらず、選挙は行なわれるであろう。」
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④ヴァルラン、「われわれは市会を欲するのみならず、コンミュンの完全な自由、警視庁の廃止、国民衛兵が自らその将校を選出し、自ら組織を管理する権利、合法的国家形態としての共和制の布告、未払家賃の完全な棒引、満期手形に関する合理的法律、軍隊のパリ駐屯禁止を要求する。」
○[コミューン群像:ウジェーヌ・ヴァルラン]
 1839年農民家庭に生まれ、第2帝政初め頃、パリに出稼ぎ。製本工として働き組合を組織。64ストライキ禁止法撤廃後、69年、パリの30以上の同職組合が連合会議所を組織。ヴァルランはこれに参画。これより先67年、彼は消費協同組合「主婦会」、68年協同組合的食堂網「釜」(~70)を組織。その間、第1インタナショナルに参加、65年春、パリ・ビューローに選出され、ロンドン協議会に出席。66年ジュネーヴ大会、69年バーゼル大会にも出席。インタナショナル活動の為に、たびたび裁判にかけられるが、68年5月の裁判での弁論は、インタナショナルの歴史・綱領を述べ、欧州各国後・ロシア語に翻訳される。70年9月4日の革命の際はベルギーに滞在。パリに戻り、国民軍第193大隊長に任命される。70年10月8日のデモ、10月31日の蜂起、71年1月22日の蜂起に積極的に参加。国民軍中央委員となる。
3月18日の蜂起後、同時に二つの区(第6、18区)からパリ・コミューン議員に選ばれ、財政委員部委員となる。4月21日から食料委員部委員、5月2日から国民軍供給局長、5月5日から軍事委員部委員となる。公安委員会設置には反対投票をし「少数派」宣言に署名。5月の諸戦闘の頃、第6区及び第15区の防衛を指導、25~27日、軍事問題民間代表委員としてバリケード戦闘を指導。28日ヴェルサイユ軍に逮捕され、裁判なしに銃殺。
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・ヴェルサイユ、この日の国民議会。
 クレマンソー、パリ選出議員ルイ・ブランら、国民軍連盟中央委員会に対する批判派の調停に奔走。
クレマソソーやルイ・ブランその他パリ出身代議士は、22日に予定のコミューン選挙を阻止する為、国民議会に対してパリの新市制に関する提案審議を要請。ティエールは、この提案の緊急性を認めず、「強盗や殺人者の党を譲歩によって懐柔させることはできない」と答える。
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 ジュール・ファーヴルの演説。
「パリは、国民議会の権利にたいして、血で汚れた強盗の理想をおしつけようとする一群の無頼漢の・・・しかし無頼漢どもよ、忘れるな、われわれがパリを去ったのは、やがて再びそこに帰って、お前たちと決戦を行なわんためであることを。・・・断じて弱気を見せてはならぬ、断じて憐憫の気持をおこしてはならぬ。フランスは、首府を血にまみれさせようとしているこれらの無頼漢の支配には陥らぬであろう。」
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・ヴェルサイユ。
ティエール、唯一の「合法的権力」ヴェルサイユ政府の命令だけを遂行するように各県知事へ指令。セセ提督をセーヌ県国民軍司令官に任命。
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・ティエール政府、「四万の軍隊は秩序整然とヴェルサイユに集結した」と発表。実際は、正規軍4万の内ヴェルサイユに引上げたのは戦意を欠いた2万2千のみ。
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・マルセイユ、リヨン、ボルドーなど地方都市でコミューン成立。
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・アルジジェリア、反乱したアラビア人に、モクラニの弟、アーマド、プーメズラグの指揮する諸部隊が参加。
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・ロンドン、マルクスとエンゲルス、パリの18日の諸事件について知る。
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3月20日
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・中央委員会、区長・代議士のパリ市庁舎接収を拒否。前夜の妥協を受け入れず。中央委員会は再び非妥協派が大勢を占めるに至る。
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・中央委員会、刑事犯罪に対する措置についての呼びかけを採択。
質入れ物品の売却についてのティエール政府の決定を撤回。
商業手形支払期限1ヶ月延期。
家賃不払い居住者を、家主が追いだすことを禁止する事など決定。
ドイツとの平和条件遵守の意向と、戦争賠償金の大部分を、戦争犯罪人に支払わせるぺきとの声明。
21日以後、国民軍兵士の給料を、規則正しく支払うことを決定。
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・国民軍中央委員会代表ヴァルランとジュールド、フランス銀行で100万フランを受取り、これを各区に分配。
 総裁ルーランが、ヴァルランとジュールドに100万フランを前貸し。中央委員会はその日暮らしをする事になる。100万フランがなくなると、もう少し強い圧力によって、新しい貸付けを獲得。やがて、勇敢なコミューン派のベレーがここに事務室と部屋を持つが、副総裁ド・プルークに操られるままになる。
副総裁はコミューンに対し1500万フランを小出しに調達するが、他方、ヴェルサイユで振り出した2億6千万フランほどの手形に保証を与える。
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・「ジュルナル・オフィシエル・ド・ラ・レピュプリク・フランセーズ」(「フランス共和国官報」)を、新しい革命権力の機関紙として発行。この日、連盟兵3大隊で「官報」の建物を占拠。「官報」は、議会とヴェルサイユ政府の決定や演説、ならびに「合法的」区長達の声明を引き続き印刷している。
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この日付けの「官報」は、3月22日を期して市会選挙を行なうと発表。
[中央委員会布告]
 「中央委員会はなんら秘密なたくらみをもっていない、その成員はあらゆる布告にその名前を署名してきた・・・政府はパリを誹謗し、地方を首府にけしかけた・・・政府はわれわれの武装を解除しようとした・・・中央委員会はこれらの攻撃に対していかに答えたか? 連合組織を作り、節度と寛大を教えた・・・われわれにたいする政府の憤怒の最も大きな原因の一つは、われわれの間に名士がいないということである。世の中には名士がたくさんいる、これらの名士がいかに多くの不幸をもたらしたことであろう・・・名声を博することは雑作のないことである、若干の空虚な美辞麗句と少しばかりの卑劣な精神をもっていれば足りる。最近の経験がそれを証明した・・・責任重大なる使命を課されたわれわれは、動揺することなく、恐怖することなく、これを遂行した。今や、われわれは民衆に向かって叫ぶ、さあここに諸君によってわれわれに委ねられた権力がある。数日前まで無名の人物であったわれわれは再び諸君の間に帰ってゆく、そして支配階級にたいして示すであろう、民衆からかたい握手を受けることを確信する者は、頭を高く上げて、市庁舎の階段を降り得るということを。」
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・パリの諸監獄から政治犯人の最後の人々1万1千を釈放。セイヌ県国民軍共和連盟規約の発表。
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・パリの区長・代議士たち、国民軍中央委員会の権力を認める事を拒否。
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・作家エドモン・ド・ゴンクールのこの日付け日記。
バリのプロレタリアートに対する敵意を隠していない。
「こうしていま、フランスとパリは労働者の支配下にある。労働者たちは、自分たちだけからなる政府をわれわれにあたえた。いつまでつづくだろうか? だれもしらない。あてにならない権力!」。
幾日か後には、「権力は有産者から去って、無産者にうつっている」と書く。
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・ヴェルサイユ。国民議会会議開会。
セーヌ・エ・オアーズ県を戒厳状態におく声明。
ヴェルサイユ政府内相E・ピカール、パリの「官報」を差押さえる命令。
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・ヴェルサイユの防衛態勢。この日早朝、ヴィノワ将軍がモン・ヴァレリアンを再占領するが、南方の5砦は殆ど無防備。
 最短路であるセーヴルとサン・クルーでセーヌ川を渡る道は憲兵隊が守備(ドーデル旅団とともに政府側で最も信頼のおける軍)。その背後にはラ・マリューズ将軍率いる旅団第35、42歩兵部隊が援護する。パリから南を迂回してヴェルサイユに迫るルートはデロージャ旅団第109、110部隊はヴェルジーに布陣して監視。ガリフェ将軍は騎馬旅団第9、12軽騎兵隊を率い、無人地帯をパトロール。しかし、この程度の防備ではパリの大攻撃の前にはひとたまりもない状況。
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・アルジェリア。植民地住民蜂起が拡大。アルジェ市のフランス移住民に、パリの事件についての報道が広がる。各クラブで会合、当局に対し威嚇するような弁士たちの演説。
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・ベルリン。総参謀長官モルトケ元帥、休戦条件に署名した政府がフランスに存続することについてドイツは関心を持っていると、ドイツ軍司令部へ説明。パリの事件については、ドイツ軍が蜂起者に攻撃されない限り、待機的立場を堅持すると命令。パリ地区にドイツ軍を払密裡に集結する命令。ビスマルク、首都の反乱鎮圧の為、ドイツ軍はヴェルサイユ軍を援助するとティエールへ提案。
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to be continued to March 1871(4)

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