2008年12月7日日曜日

明治17(1884)年6月~7月 秩父(5)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 落合寅市・高岸善吉・坂本宗作ら、秩父困民党組織者トリオの血盟。 武相困民党騒擾の第2段階始まる。

■明治17(1884)年秩父(5)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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6月
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-・石阪放庵・若林蟄堂、神奈川県人談夢会の会員募集広告を新聞に掲載。住所は、本郷龍岡町22番地の慶令居。石坂公歴が本郷5丁目大塚から慶令居に移ったのは、6月18日。
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-・坪内逍遥(25)、監督する学生が増加し、掛川銀行頭取永富謙八の出資により、この月本郷真砂町の新築家屋に移る。
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-・与謝野寛、父礼厳・兄と共に鹿児島より帰り、京都宇治に住む。この月23日、大阪府住吉郡遠里小野村の安藤秀乗の養子となる。
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6月5日
・関西有志懇親会開催。東京より星亨・大井憲太郎が招かれる。大阪に関西事務所相輝館(責任者片岡健吉)設立。
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6月6日
・グエン朝、フランスと第2フエ条約締結。ベトナム全土、フランス支配下に。
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6月7日
・森鴎外(22)、陸軍衛生制度調査およぴ軍陣衛生学研究のためドイツ留学を命せられる。24日、横浜港発。10月11日、ペルリン着。22日からライプチッヒ大学のホフマン教授に師事。
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6月12日
・鹿鳴館慈善バザー。大山捨松企画。有志共立東京病院へ寄付。
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6月14日
・平野友輔(27)、横浜伊勢佐木町の蔦座での自由壮進政談学術演説会で「維新前の志士の有様を陳べ併て今日の青年諸君に告ぐ、活動社会の発育」を演説。
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6月16日
・荻原井泉水、誕生。
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6月17日
・仏、カンボジア国王ノロドムに王権限制約協約に強制的に署名させる。
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6月25日
・九条節子、公爵九条道孝の4女として誕生。貞明皇后。
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6月25日
・フェノロサ、夢殿の観音像を調査。
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6月30日
村上泰治(17)、東京で逮捕。以降、井上伝蔵(31)が秩父自由党指導者となる。
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宿を転々しているうち松久町の旅宿で描えられ、ただちに浦和警察署へ護送。浦和署は謀殺事件の容疑者として、治罪法第126条に従い、浦和監倉へ拘留手続きをとる。
泰治は、連日拷問を交えた厳しい取調べの末、「刑法第二百九十二条ニ該ル可キ者卜思料」され、浦和監獄へ収監される。その後、各処に潜居していた岩井丑五郎・深井卓爾・長坂八郎らも相ついで縛につき、浦和監獄へ送られる。
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刑法第292条:「予メ謀テ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ノ罪卜為シ死刑ニ処ス」
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この頃、宮部襄は、群馬の党員清水永三郎・伊賀我何人を伴い、東京本部代表として、星亨・大井憲太郎・加藤平四郎と共に関西有志大懇親会に出席。
その後、宮部・清水は1ヶ月間高野山に籠り、大阪に踊ったところで自分への逮捕状が出ているのを知る。
8月21日、同志の勧めで京都に潜入したところで、京都で逮捕。すぐに清水も逮捕。
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20年1月25日付の「予審終結言渡書」では、直接の下手人岩井丑五郎に死刑(南関蔵は19年に獄死)を宣告、教唆著村上泰治は謀殺の罪により死刑とすべきところ、20歳に満たない年齢のため一等を減じ、無期徒刑を宣告。
宮部襄、長坂八郎、新井愧三郎、深井卓爾、清水永三郎は、間接教唆者のため、法律上罪にならぬして、免訴放免。
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しかし、同年6月18日、泰治が獄死するや、裁判をやりなおし、直接下手人は泰治であったと断じる。
泰治が下手人となると、これまで間接教唆者とされた官部・深井は直接教唆者として謀殺教唆罪に、岩井が同加功従犯に問われ、22年3月30日、各有期徒刑12年を宣告され、北海道の樺戸集治監に送られる(泰治獄死をフレームアップに利用する)。
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このように状況に応じて何が何でも自由党を血祭りにあげる官憲側のやり方から、照山謀殺事件=群馬を代表する自由党グループ高崎有信社に壊滅的打撃を与える為に仕組まれた政治的謀略という見方もでてくる。
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明治20年6月18日、肺結核により獄死。21歳。
6月22日、青山斎場で葬儀。会葬者37名。高知県の岡島耕馬、福島県の宇田成一、板垣退助名代で高知県の村越直光、東京の星亨・加藤平四郎、神奈川県の伊藤仁太郎(のちの痴遊)、宮部襄、深井卓爾ら。
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〇井上伝蔵:
下吉田村。小鹿野に出来た無尽講「蓄栄社」分社を吉田につくり罰金20銭。村会議員、衛生委員、明治17年8月から役場筆生。
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□「秩父事件」と『自由党史』と井上伝蔵。
 『自由党史』の「秩父事件」に関する叙述は極めて簡略でまた事実誤認も多い。『自由党史』によれば、井上伝蔵が村上泰治後の秩父自由党の中心人物と位置付けられている。
 『自由党史』は明治30年代後半~40年代に、和田三郎・宇田友猪という板垣と親しい自由党系ジャーナリストが執筆編集するが、その頃は、田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作は死刑に処され、欠席裁判で死刑を宣告された伝蔵は行方をくらまし、地元秩父には事件を語りうる中心的人物はいなく、また事件を正確に語ることはタブー視されてもいる。
 そのような状況下での『自由党史』編集者の取材源としては、井上伝蔵がわが児の如くいつくしみ嘱望していた甥井上宅治が推測できる。
 宅治は伝蔵の兄兵作の長男として明治元年に生まれるが、幼くして父と死別し、伝蔵が庇護して育てる。長じて上京、共立学校に学び、島田三郎に見出され島田の経営する「東京毎日新聞」記者となり、明治30年代谷中村鉱害について健筆をふるうジャーナリストとなる。
 井上伝蔵をモデルとする木下尚江『火の柱』は明治37年に「東京毎日」に連載されるが、井上宅治が尚江に素材を授供している。『自由党史』編纂もちょうど同時期に進められており、宇田・和田両執筆者が井上宅治と面識がなくとも、当時洛陽の紙価を高めた『火の柱』から井上宅治を知りえた、と考えられることもできる。そう考えると、『自由党史』の「秩父事件」の項が井上伝蔵を中心に描かれていることの説明もつくことになる。
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□「六月二日 ・・・日ノ沢泰次卜云者杉ノ峠デ高崎士族ヲ殺シタ組ニテ先日巡査二十人斗り召捕ニ行、其女房庖丁ヲ持テ騒ギ巡査ニ面ヲ伐レ其間ニ亭主ハ逃去リタト云、此者ハ自由党ノ頭組ナリ。」(「木公堂日記」)。
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7月
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-・「朝日新聞」、東京に進出。
 6月13日「傍仮名新聞の本色」との一文を掲載し、「(新聞は)傍仮名のあるが為に資格の卑しといふべきものにもあらず、必竟時勢人情に適合して尤も切に其効果を見るべきものを是貴しと為すべきなり」と、「読み易く解し易からしめ」た新聞の効用を力説。
「開明の半途」にある時、「論旨を高尚の点に馳せて理窟のみ列べんよりは、姑く筆鋒を縮めて最下人民の智識を開発する」ことが「朝日」の役割という。
 また、この宣言の前日から、3年ぶりに「論説欄」を復活(19年からの常時掲載に道を開く)。大衆新聞路線に自信を持った布石。この年17年、販売担当小西勝一が、中国、九州まで回って売捌店という名の販売網を作っていく。
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-・連合戸長役場制が敷かれ小川村に戸長役場がおかれる。戸長に細野喜代四郎が就任(細野は神奈川県下自由党中堅活動家、後、仲裁活動に奔走)。この戸長役場の管轄区域は、高ケ坂・金森・鶴間・小川・成瀬の5村。
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-・星亨、講武所を設け、壮士層慰撫を図る。武術訓練のみならず、住居のない者も多い壮士層の収容施設を作って、その不満を和らげることも目的としているが、このような手段では、もはや急進派の激化事件は避けられない状態になっている。
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-・チュニスのドイツ領事ナハティガル、トーゴ、カメルーンをドイツ保護下におく
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-・ランボー、バルデ兄弟の会社と再契約。
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-・ゴーギャン(36)、妻メットは長女アリーヌと4男ポーラを連れコペンハーゲンの実家に向けてルーアンを離れる。11月ゴーギャンもコペンハーゲンへ。翌年(85年)5月迄。
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7月1日
・秩父、高岸善吉・和田庄蔵・坂本宗作・落合寅市、高利貸し吉川宮次郎(のち焼討ちにあう)殺害を計画、中止。
この頃、秩父、落合寅市・高岸善吉・坂本宗作ら、困民党組織者(トリオ)の血盟
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 「・・・七月一日高岸善吉、日尾村和田庄蔵と今晩吉川宮次郎の寝首を取る約束して坂本宗作、和田庄作、落合寅市、高岸善吉宅に会し、夜となり出立途中にて庄蔵腹痛と謂うて帰り、善吉妻マキ女粥煮を与えて善吉申すに彼を置いて我々三人にて実行すれば庄蔵弱くして腹痛という。後日必ず口外する、今夜は止ると申したり。」(寅市回想録)。
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7月5日
・アメリカ、第2次中国人移民制限法制定
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7月7日
華族令制定。爵位制創設(公侯伯子男5爵)。
 元勲・将官など勲功者を加えることで華族制度を補強、貴族院の基盤構築(帝国議会開設による民権派の政局参入に備える)。伊藤・黒田・山県・大木・井上・西郷・大山(伯爵)・佐々木。
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 7、8、17日に旧公卿・旧諸侯、大社寺門跡ら既に華族の者及び維新の功臣ら517名に爵位が与えられる。
 旧公卿・旧諸侯の中で、三条実美、島津久光、毛利元徳、島津忠義、岩倉具定(公爵)、中山忠能(侯爵)、東久世通禧(伯爵)7名は維新の偉勲によって標準より高い爵位を授与されるが、以外は家柄、旧石高を標準にした「叙爵内規」に従い爵位が定められる。
 勲功華族=新華族は「特旨ヲ以テ華族ニ列セラレ候事」との辞令を授けられ、その後勲功の程度に応じて授爵(実際は政府部内における比重や勢力均衡の配慮が払われる)。この後1887(明治20)年の50名が追加授爵。
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 薩長49人は他の合計31人を超える(薩長土肥では80%超)。
 1884年の伯爵は大木喬任・山県有朋・伊藤博文・井上馨・西郷従道・川村純義・山田顔義・大山巌・佐々木高行の現参議、黒田清隆(内閣顧問)・寺島宗則(宮内省出仕)の長い参議歴を持つ者、副島種臣・伊地知正治(いずれも宮内省御用掛)の長くはないが参議歴を持ち、外務卿・左院議長の経歴を持つ者、宮内大輔吉井友実。
 子爵は、現参議福岡孝弟、陸海軍中将クラス(島尾小弥太、三浦梧楼、中牟田倉之助、谷干城、伊東祐麿、三好重臣、曾我祐準、高島柄之助、樺山資紀、仁礼景範。うち学習院長の谷を除けば島尾の陸軍大輔、樺山の海軍大輔をはじめ陸海軍の要職。また、島尾・三浦が元老院菅、樺山が警視総監の経歴を持つ)、土方久元・品川弥二郎の内務・農商務大輔。
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 1887年の場合、伯爵は、大隈重信・後藤象二郎・板垣退助・勝安房の、当時在野の旧参議クラス。子爵は現職大臣(森有礼、榎本武揚)、卿の経歴をもつ者(田中不二麿、佐野常民、山尾庸三)、次官(青木周蔵、吉田清成、野村靖)、大輔の経歴をもつ者(福羽美静、杉孫七郎、河瀬真孝)、知事等の経歴をもち元老院議官であるもの(林友幸、岩下方平、田中光顕、清岡公張、黒田清綱、大久保一翁、宍戸璣、河田景与、海江田信義、税所篤、伊集院兼寛、大迫貞清、由利公正)、渡辺昇(会計検査院長)、香川敬三(皇后宮大夫)、井上勝(鉄道局長官)、三島通庸(警視総監)、山岡鉄太郎。
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 男爵は、子爵と同じく知事等を経て元老院議官の職にある者(植村正直、渡辺清、神山郡廉、楫取素彦、本田親雄)、元老院議官経歴者で現職知事(青山貞、高崎五六)、陸海軍中将クラスで陸海軍の要職にある者(黒川通軌、小沢武雄、真木長義、山地元治、佐久間左馬太)、少将で同上の者(赤松則良、野崎貞澄、滋野清彦、松村淳蔵、井上良馨)、高崎正風(式部次官)。
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 その後の受爵者は、明治22、24年、井田譲(岐阜)、元甲永孚(熊本)が没直前に男爵、同26年10月、河野敏鎌(高知、枢密顧問官)、同27年8月に陸奥宗光(和歌山、外相)、同28年1月に井上毅(熊本、前文相)が子爵となり、日清戦争直前迄には藩閥の中枢および周辺の要人の授爵は完了。
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7月7日
・司法省法学学校第2期生33名卒業。入学時100名。原敬は1879年学生寮でストライキし中退。
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7月12日
・モディリァーニ、リヴォルノに生まれる。父フラミニオはローマ出身商人。兄のエマニュエルは弁護士から後に社会主義政治家。姉マルゲリータは・親もとへ留まり後にモディリァーニの遺児ジャンヌの養育にあたる。2番目の兄ウンベルトは、鉱山技師。
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7月16日
・植木枝盛(28)、約100日間の遊説を終えて帰京。31日~8月3日、神奈川県下に赴く。
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7月20日
・窮乏する農民が期待する春蚕の初市
この年の養蚕は6分の出来、2年前の半値という市況

「十七年度養蚕ハ全国平均先(まず)六分位ノ出来ト云フ、提糸本日一円ニ付、始メナレバ四十四、五匁位ナリ、但シ明治十七年七月二十日ノ市日ナリ」。
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7月30日
案外堂小室信介「義人伝淋漓墨坂」(『自由燈』)
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7月31日
武相困民党騒擾の第2段階始まる。
 高座郡上鶴間村谷口の鹿島神社に困民300名余集結。南多摩郡原町田村の武相銀行原町田出張所と都筑郡奈良村の盛運社への談判を行なおうとする。以後10日間程、各地で小規模な集会や村々の代表が密かに会合する総代会議。武相銀行頭取は青木正太郎(父没後、頭取に就任したばかり、神奈川県会議員・南多摩郡自由党では石阪昌孝に次ぐ幹部)。武相国境付近の困民党は、初発から有力自由党員との対立をかかえて出発。
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 相州南西部に始まる負債返済条件緩和の運動、7月終わり頃、高座郡北部(現相模原市・大和市)、南多摩郡南部(現町田市)辺に広がる。
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to be continued

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