2009年1月31日土曜日

鎌倉 鎌倉五山② 寿福寺









鎌倉五山の第3位:寿福寺。
アウトラインは写真の説明をご参照下さい。
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この日、特にアテもなく歩いていたら、結果的に鎌倉五山の4つを参拝したことになったのですが、後でネットで知ったところによると、昭和12年2月に中原中也がこのお寺の境内に引っ越して最晩年をすごしたそうです(この年10月に鎌倉の病院で没)。

前にもちょこっと書いたのですが、「帰郷」という彼の詩が好きです。


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帰郷」  

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細そうに揺れている

山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍の草影が
あどけない愁みをする

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと
年増婦の低い声もする

あゝおまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云ふ
*


頼朝の鎌倉入りの翌日(治承4年(1180)10月7日)の「吾妻鏡」は:
「先ず鶴岡八幡宮を遙拝し奉り給う。次いで故左典厩(さてんきゅう、頼朝の父、左馬頭義朝)の亀谷の御旧跡を監臨し給う。即ち当所を点じ、御亭を建てらるべきの由、その沙汰有りと雖も、地形広きに非ず。また岡崎平四郎義實、彼の没後を訪い奉らんが為一梵宇を建つ。仍ってその儀を停めらると。 」
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(現代語訳)「まず鶴岡八幡宮を遥拝された。その後左典厩の御旧跡である亀谷に行かれた。その場所を定めて邸宅をお建てになろうとしたものの、土地の形が広くなく、そのうえ岡崎四郎義実が義朝の没後を弔うために寺院を建てていたため、お止めになったという。」
とあります。
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頼朝没後(翌年)、政子の夢に頼朝の父義朝が現れ、今は沼間の館(逗子)に居るが鎌倉の館に戻りたいと言ったので、義朝の別邸を管理していた三浦氏に掛け合い、遺品等を亀ヶ谷の館跡に移し寺を建てたというのが由来だそうです。
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鎌倉の五山といっても、大伽藍のあるデーンとしたお寺は建長寺・円覚寺までですね。でも、ひなびた、ひっそりとしたたたずまいが、いいですね。

明治17(1884)年10月1~11日 秩父(10)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 秩父困民党、岩殿沢鉱泉で非合法集会

■明治17(1884)年秩父(10)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月:蜂起1ヶ月前
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10月(日付なし)
・宮城県柴田郡に借金党蜂起
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・景山英子、上京。「自由燈」記者坂崎斌を頼る。ミッションスクール新栄女学校(築地新栄町、後の女子学院)入学(11月頃~翌18年4、5月)。

*・鹿鳴館、開館。
この月より毎日曜日、日本の高官夫人たちにダンス練習会が始る。外務卿井上馨は、殆ど皆勤で婦人たちの練習につきあう。
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・民権結社、関東6県で303社、東北6県で120社となる。
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・この頃、加波山事件の逃亡者、八王子に潜入。4日、加波山事件により、二子川向こうより先に巡査・憲兵による立番が置かれる(橘樹郡溝ノロ村の「上田日記」)。
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10月2日
清仏戦争
西太后、敵は船堅砲利であるが、多数の舢板船(沿岸河川用小型砲艦)で四方から一斉砲撃すれば勝利を得ようと述べる。三元里に始まる「以民以夷」(義民によるゲリラ戦)戦略。12日、朝廷、基隆を攻撃するフランス軍に対し、台湾の富戸・豪士が「忠義の士」を集めて団勇(義勇軍)を組織し、正規軍と協力してフランス軍を撃退せよと命令。
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9月6日開戦。10月以降、クールベ提督率いるフランス海軍は基隆・澎湖島の占領、台湾の淡水・浙江の鎮海の攻撃、台湾・寧波の封鎖などを行う。陸軍もトンキン~広西ルートの要衝ランソンをへて国境の鎮南関まで占領。 
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10月2日
・東秩父坂本村、自由党員福島敬三のもとに門松庄右衛門と共に代用教員新井周三郎(のち甲大隊長)が訪問、門松他農民13名の自由党入党志願書の保証人を依頼。福島は文字もかけない農民には党員資格なしと拒否するが、新井の理を尽くした説得で判を押す。
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福島の父は大地主・戸長、自分も戸長役場筆生として村政を牛耳る。
福島は、秩父蜂起には参加せず、児玉町警察と通じる。長い審理ののち無罪放免。旦那自由党員の限界。自由党の体質を変えざるを得ない状況にあるということは、同時に自由党自壊の始りでもある。
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10月2日 
・南多摩郡下壱分方村の被差別部落民の自由党員山口重兵衛・山上作太郎(卓樹)・柏木豊次郎・奥田兵助ら,浅川の川原で野外運動会を行ない、鴻武館道場の発会式を祝う。
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10月2日
・中溝昌弘(私立銀行・金貸会社との直接交渉を担当)の細野喜代四郎宛書簡。
諸銀行会社が回答案の提出を先延ばしする姿勢に「不快」。八王子銀行回答案が年賦返済を認める範囲を狭くし、それが他の銀行会社に与える影響を憂慮。
また、東海貯蓄銀行株主総会で、「蓄財専門連中」の「田村・指田抔(など)」が会社規則通りの処置を主張し、八王子銀行と同様に「猶予年賦」を認めることに「不承諾」を決議し、中溝の詰問に対して成内頭取が、役員の任期1年を越えた約束はできないと述べたこと、等を細野に知らせて批判。
因循していては負債主が不幸に陥るばかり、と負債民(困民)側にたった問題解決を模索。
* 
○石阪昌孝・中溝昌弘・薄井盛恭ら名望家層として仲裁に関与する「天保の老人」たちに共通の不満や憤り:
彼らは幕末から、地域社会の平和や安穏の維持に責任感をもつ保護者として振る舞い、地域の人々の困難の除去を責務と考え、その責務に対する思い入れが強い。
困民党の徒党行動は容認しないが、困民の状況には同情的で、困難の原因を諸銀行会社に見て、原因の除去を求める立場。
石阪・中溝・薄井らの幕末維新期の同志で、リーダー的存在の小野路村(町田市)小島韶斎も、困民への同情と債主非難を日記に書く。
また、この頃の北多摩郡長砂川源右衛門(砂川村、現立川市、明治14年1月結成の多摩で最初の政治結社自治改進党社長)も、東海貯蓄銀行成内頴一郎に対し「不都合ノ営業ヲセズモ妻子扶助ハ差支有之間敷ニ付已来廃業」しろと「厳談」に及ぶ(薄井盛恭の原豊穣南多摩郡長宛書簡、1884年10月24日付)。
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聯合村戸長の立場にある仲裁人(細野喜代四郎・長谷川彦八ら):
末端とはいえ官吏が私的な契約に介入することの論理的な正当性をついに見つけられず、自らの立場は曖昧。
諸銀行会社役員には、契約履行を会社規則に則り強行するのは当然という論理をもつ者があり、政府もそれを保証するとの確信もある。地域社会では少数派だが、時代との一体感は強い。
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自由民権家:
経済的自由、営業の自由、契約の絶対性、財産所有権などに親和的で、中溝昌弘・薄井盛恭らのように同情を機軸に対応できず、銀行側を不誠実・不快なものと非難することも不可能。夫々の地域社会における位置、銀行会社との関係などに引きずられて対応を選択する、論理と状況の板挟み状況。
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石阪昌孝(中溝・薄井ら名望家と発想を共有し、かつ自由民権家):
論理は明確ではないが、地域自由党の最高リーダーとして、共融会社や甲子会社への影響力を行使。また中央自由党幹事で昌孝の同志佐藤貞幹に仲裁活動を要請し、「自由党員」としての関与が目立つ。
昌孝は、仲裁人リーダーで友人の薄井盛恭から、「石坂抔ハ兎角激論ノミ」主張すると見られている(1884年8月29日付、原豊穣南多摩郡長宛書簡)。
数年後、石阪昌孝は、長年の同志・北多摩郡野崎村吉野泰三と多摩を二分する政治的対立に陥るが、そのとき昌孝は吉野派から、「加波山暴挙ニ続テ石坂ハ八王子地方ニ於テ陰ニ貧乏党を煽動ス」「此貧乏党沈静ノ為メ神奈川県知事沖守固ハ石坂をシテ沈静ニ尽力セシメ褒状及物品ヲ賜フ、人皆眉ヲヒソム」と非難される。この文書は、怪文書的なもので信用度は低いが、昌孝の困民よりの姿勢を表すともいえる。
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結局、仲裁活動の成果としての銀行側の回答案(負債額100円以内のものに限り元金3ヶ年賦)では、鎮静化に至らず。
仲裁人が困民党の総代的な役割を担った津久井郡と、細野喜代四郎の管轄下の高ケ坂村・金森村などの困民党は、回答案に沿っての和解交渉に入るが、圧倒的多数の困民集団は、回答案を不満として武相7郡におよぶ大困民党組織「武相困民党」を結成(秩父困民党蜂起潰滅後の11月19日)、嘆願により行政を巻き込み、自力で問題解決を図ろうとする。仲裁団の影響力は10月を境に後退。石阪昌孝も自由党指導者としての活動に追われる時を迎える。
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10月2日
・海南親睦会結成
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10月3日
・下村湖人、誕生。
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10月4日
・秩父困民党、高利貸しとの個別交渉始まる。
鋭い論理で相手を追詰める教員あがりの新井周三郎、それを苦みばしった笑いで見つめる加藤織平(今も古老の語り草)。ひとりの高利貸しも崩せず
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風布村大野福次郎は、隣村西ノ入村の新井周三郎の組に属し、井戸村の高利貸磯辺浜五郎の邸に押しかける。浜五郎からは、風布の宮下嘉蔵が9円60銭、中川庄蔵が17円を借りていたと云う。
* 
風布村農民の借金額。
福次郎の記録だけをみても、24人で2,144円、1人平均90円となっている。1戸当りの所有地価は65円であり、家屋敷田畑全て抵当に入れてなお足らぬ額と、村を挙げての身代限りというべき情況。よって、要求も「43ヶ年間据置き、15ヶ年賦」、棒引きに等しいものとなる。
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10月5日
・「自由新聞」、「海外着手」を訴える。
「その形跡のたまたま併呑蚕食に類するあるも、また何ぞこれを意とするに足らんや」と強調。 
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10月10日
・秩父困民党、岩殿沢鉱泉での非合法集会。中堅幹部以上と各村代表に拡大幹部会議。
高利貸との交渉(合法活動)限界となり、再度の警察署への請願を決定(一度も行われず、内部的には一斉蜂起による強願へ方向転換が決議?)。
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風布村福次郎は、「小鹿野の岩殿鉱泉にあつまれ」との指示ありでかけると、数十名の農民が集まっているが、顔見知りは犬木寿作・落合寅市ぐらいで、あとは新顔ばかりと云う。組織活動の進展を示す
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高利貸との個別交渉の総括的検討を行い、激しい個別交渉によっても、1人の高利貸をも崩せなかったことの確認と再度警察署への請願を決める。
●困民党指導部の狙いは、激しい個別交渉後の農民たちの闘志の方向性の測定にある。それ故、再度請願の会議決定は実行されず、2日後(12日)の最高幹部会議では「一斉蜂起」方針が打ち出される。再度請願は、警察権力への撹乱戦術と推測する見方もあり。
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10月10日
・高ヶ坂村市川四郎助、共融会社へ出頭、交渉するも手間取る。夜、市川・矢口は、原町田警察分署山本一智宅を訪問、「困民ノ事情」を報告。11日、市川は、細野に銀行へ書面を出してくれるよう依頼。
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10月11日
・武相自由党会議。広徳館。石阪昌孝ら15名出席。自由党秋季大会(大阪大会)出席人決定。広徳館の維持法も議論。
「・・・党中ニテ費用其七、八分ヲ助力」すると決定(自由党通信事務所の性格を強める)。
出席人は石阪昌孝、佐藤貞幹(都筑郡久保村・自由党幹事)・平野友輔(八王子)・山本与七(高座郡座間村)、鎌田喜三(北多摩郡奈良橋村)など。 
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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to be continued

2009年1月28日水曜日

横浜 旧横浜正金銀行本店









横浜馬車道の海側、どちらかいうと桜木町側(みなとみらい側)には、この写真のような「歴史的建造物」が多くあります。その中でも、今回のが白眉でしょうか。プロフィールは、看板を参照下さい。
現在は「神奈川県立歴史博物館」です。
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尚、設計者の妻木頼黄についてはコチラをご参照下さい。
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その他は、今後追って紹介致します。
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再訪版はコチラ
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「歴史的建造物インデックス」をご参照下さい
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旧横浜正金

1871年3月26日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・(7) パリコミューン評議会選挙

1871年3月26日
・仏、パリコミューン評議会選挙
485,566中225,000投票(485,569中229,167という数値もある)、86評議員中労働者26、国民衛兵中央委員会は候補者推薦せず。ブランキ派9、インター派17、インター派に近い社会主義者11。穏健共和派15、急進共和派6。
* 
ブルジョア地区でも、民衆地区より熱意に劣るが、多くの投票が行なわれる。
選挙は、ともかく「合法的」権力の代表者である区長の同意を得ており正規のものとされる。
ブルジョア地区ではパリ市議会を選出する為に投票し、民衆地区では、保守的国民議会・裏切者政府に対抗する共和国新政府を合法的なものにする為に投票する。
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「人民の叫び」(27日付)が伝える26日午後11時のパリの表情。
「選挙各区の一般的表情(午後11時) 
第一区:投票に対する熱意が少ない。現在の市当局者の名前のみが壁に張り出されている。・・・
第二区:サン=ドニ地区。選挙人が大勢集まっている。
第三区:棄権は少ない。ビラが多い。・・・
第四区:棄権は少ない。
第五区:投票者が多い。
第六区:投票者が多い。
第七区:熱意が少ない。
第八区:熱意が少ない。
第九区:ドルオー区役所に大勢の選挙人が集まっている。
第一〇区:投票に熱心である。・・・
第一一区:ダングレーム街に人出が多い。
第一二区:熱意が少ない。
第一三区:棄権は少ない。
第一四区:区役所に大勢集まる。
第一五区:区役所に大勢集まる。
第一六区:現在の市当局者に反対の候補者がいない。熱意が少ない。
第一七区:すべての小地区に選挙人が大勢集まっている。・・・
第一八区:プランキ。
第一九区:ウーデ。
第二〇区:プランキ、ベルジュレ、フルーランス、ランヴィエ。すべて平穏である。」
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ブルジョワがこの選挙実施の中心的な存在。
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候補者擁立分類
(1)ブルジョワ団体(妥協派と呼ばれ、ヴェルサイユにもコミューン側にも関係を持つ。分権主義をかざしコミューンの政治的プログラムにも十分対応する理由を持つ)。
①「パリの諸権利の共和合同同盟」:コミュ-ンの活動が続く期間ずっと指導的役割を果たす。
②「共和同盟」:唯一・分割不可能な共和国を目指す。
③「和解」:選挙候補者クレマンソー、ヴィクトル・コンシデラン、ジュール・クラルティ、ロシュフォールを送る。
④「ヨーロッパ均衡」。
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(2)クラブ。
①「医学校クラブ」:候補者レヴィ、ロジュアール、ヴァルランなどを立てる。
②「パリ二十区委員会」:有名なマニフェストを出す。起源としてはプルードン主義に立脚するが、実際にはブランキスト、ジャコバン派、インターナショナル、中央委員会メンバーも擁す。ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルイリエ、ジュール・ヴァレスの他に88名の候補を全区に立て、殆どを当選させる。
③「インターナショナル・パリ地区連合委員会」。
④「労働者組合連合局」。
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(3)戦闘的な新聞。
①ユージェーヌ・ヴェルメシュの「ペール・デュシェーヌ」:そのリストは全区のトップにプランキを挙げる。
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派別分類
①保守派:
現職区長・助役、ロシャール、ティアール、ルフェーヴル、ルロワ、マルモンタなど約15名(議会開始後殆ど辞職)。
②プランキストとジャコバン主義者を含む超革命派:
モルティエ、プロト、ウード、フェレ、プランキストのトリドン、デュヴァルなど約20名。
③ジャコバン派:
ブリュネル、ドゥレクリューズ、フォルテュネ、C・デュポン、デカン、ガンボン、グルーセら約40名(ドゥレクリュース、フェリックス・ピアが指導的位置)。
④インターナショナル派:
アシー、アヴリアル、ベスレー、シャレン、クレマンス、クレマン、ドゥリュール、デュヴァル(ブランキスト)、フランケル、ジェラルダン、ランジュヴァン、ルフランセ、マロン、パンディ、ティズ、ヴァイアン、ヴァルランで約15名。
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[選挙区別] 
第1区(ルーヴル)アダム、ロシャール、メリーヌ、バレ。
第2区(プルス)プレレ、ティアール、シェロン、ロワゾー。
第3区(タンブル)ドゥメ、アルノー、パンディ、ミュラ、デュポン。
第4区(市庁舎)ルフランセ、アルテュール・アルノー、クレマンス、アムールー、ジェラルダン。
第5区(パンテオン)ジュールド、レジェール、トリドン、プランシェ、ルドロワ。
第6区(リュクサンプール)ルロワ、グーピル、ロピネ、ペスレー、ヴァルラン。
第7区(パレ・プールボン)パリゼル、ルフェーヴル、ウルベン、プリュネル。
第8区(エリゼ)ラウル・リゴー、ヴァイアン、アルテュール・アルヌー、アリックス。
第9区(オペラ)ランク、U・パラン、デマレ、E・フェリー、ナスト。
第10区(アンクロ・サン・ローラン)フェリックス・ピア、アンリ・フォルテュネ、ガンボン、シャンピー、バピック、ラストゥール。
第11区(ポバンクール)アシー、アヴリアル、ドゥレクリューズ、モルティエ、ウード、プロト、ヴェルデュール。
第12区(ルイイ)ヴァルラン、フリュノー、ジュレーム、ティズ。
第13区(ゴグラン)レオ・メイエ、デュヴァル、シャルドン、フランケル。
第14区(オヴセルヴァトワール)ピリオレ、マルトゥレ、デカン。
第15区(ヴォージラール)クレマン、J・ヴァレス、ランジュヴァン。
第16区(パシー)マルモンタン、ド・プーティエ。
第17区(バティニョル・モンソー)ヴァルラン、クレマン、ジェテルダン、シャレン、マロン。
第18区(ビュット・モンマルトル)プランキ、ニース、ドゥリュール、クレマン、フェレ、ヴェルモレル、P・グルーセ。
第19区(ビュット・ショーモン)ウーデ、ビュジェ、ドゥレクリューズ、オスタン、J・ミオ。
第20区(メニルモンタン)ランヴィエ、ベルジュレ、フルーランス、プランキ。
* 
ブルジョア的各区で選ばれた20人以上の大中ブルジョアジーは、革命家や社会主義者が優勢の議会への参加を拒否しコミューンを離れる(3月末と4月初)。4月16日補欠選挙で、新議員16人が選ばれる(うち6人が労働者)。大中ブルジョアジーが辞任した後、コミューンは、プロレタリア革命家と小ブルジョア民主主義者のブロックになる。
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中央委員会は大部分の地区で多数の候補者を立てるが議員12名を得たのみ。ベルジュレ、ランヴィエ、ビリオレー、フォルチュネ、バピック、ウード、ジュールド、プランシェ、プリュネル、デュポン、モルチエ、ジョルジュ・アルノー。
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労働者階級の定義を職人・小工業にまで拡大すれば、コミューン議員25名が労働者階級と関係がある。
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有名な知識人代表:
画家ギュスターヴ・クールベ、作家ジュール・ヴァレス、革命詩人ウジェーヌ・ポティエ、ジャン・パティスト・クレマン、医者・技師エドワール・ヴァイヤン、歴史家・評論家オーギュスト・ヴェルモレルとギュスターヴ・トリドン、人類学者ギュスターヴ・フルーランスなど。
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コミューン内革命的諸党派間の不一致。
政治の優位を主張するジャコバン派およびプランキ派の潮流と、経済の優位を主張するブルードン的自由連合派の潮流が対立。前者は多数派を形成し、後者は少数派となる。
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・ル・クルーゾ、「コミューン万歳!」のスローガンの下に、国民軍兵士の閲兵式。政府軍との衝突。コミューン宣言。~28日。
運動の先頭に立つのは、市長の労働者デュメ。23日、3千人の集会がヴェルサイユ政府不信任を表明し、「あらゆる誠実なフランス人が、コミューンの独立をめざしているパリを支持するように」呼び掛け。27日、赤旗を掲げて行進する労働者デモ隊が、市役所を占領した政府軍に追い払われる。
* 
・アルジュリア。国民軍兵士、知事に対し、自治体支配を国民軍に移譲せよと要求。知事は拒絶。知事退職と国民軍再編を要求する集会。フランス軍諸部隊、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を封鎖。
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26日付けコミューン「官報」、
「市民諸君、アルジェリアの代表者たちは、彼らを選んだ人々の名において、パリ・コミューンに対する絶対的な同意を表明している。全アルジェリアがコミューンの自由を要求する。軍隊と行政機関という二重の中央集権によって四〇年にわたって圧迫されてきた植民地は、久しい以前から、コミューンの完全な確立が植民地の自由と繁栄を実現する唯一の方法であることを理解してきた・・・」との声明発表。
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・ベルリン(ラサール派の牙城)。全ドイツ労働者同盟べルリン組織の集会(1千人参加)は、パリその他の大都市の社会革命を、「健康な勤労人民の、退廃的ブルジョアジーにたいする」蜂起として歓迎し、「・・・この革命の勝利によって、ヨーロッパに自由、平等、友愛、平和の樹立を」期待すると声明。
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3月27日
・仏、26~27日の夜半、国民軍中央委員会、1849年選拳法を遵守すると決定。これによると、選挙民の1/8の賛成投票があれば、コミューン議員選出に十分。コミューン選挙の票数の審査。
* 
・この日付け「人民の叫び」に発表された全20区共和主義中央委員会の宣言コミューンの一般的理念を明らかにしようと努める。
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「全二〇区中央委員会の宣言 パリは、三月一八日の革命によって、国民衛兵の自発的で勇気ある努力によって、パリの自治、すなわちパリの警察力、治安および財政を組織する権利をとり戻した・・・。
われわれが平和的に達成しようと努めている革命とコミューンの思想の勝利を確かなものにするために、その一般的原理を定め、諸君の代理人が実現し擁護すべきプログラムを明文化することが重要である。
家族が社会の萌芽であるように、コミューンはすべての政体の基礎である。
コミューンは自立的(オートノーム)でなければならない。すなわち、それ独自の能力、伝統、欲求に従って自己を統治し自己を管理し、都市における個人のごとく、政治的、国民的、連合的な集団にあって自己の全面的な自由、個性、完全な主権を保持する法人として存在しなければならない。
最も広範な経済的発展、独立、国民的・地域的安全を確保するために、コミューンは国家を構成する他のコミューンの全部あるいはコミューンの連合体と結びつくこと、すなわち連合することができるし、またそうしなければならない。それを決めるものとして、コミューンは人種と言語の類似、地理的状況、主権と相互関係と利害の共通性をもっている。
コミューンの自立性は、市民に自由を、都市に秩序を保証し、全コミューンの連合は、それぞれのコミューンが全コミューンのカを利用することによって、相互に、それぞれのカ、富、販路、資源などを増大させる。
これこそ一二世紀いらい追求され、道徳、法健、科学によって確認され、ようやく一八七一年三月一八日に勝利をおさめたコミューンの思想である。
この思想は、政治力としては、自由および人民主権と両立しうる唯一のものである共和政を内包する。
話すこと、書くこと、集会を開くこと、団結することの完全な自由。
個人の尊重と個人の思想の不可侵。
常に自己の管理者であり、たえず召集され、表明されることの可能な普通選挙の至上権。
すべての官吏と司法官に適用される選挙の原理。
代理人の貴任、およびその結果として、代理人を常に解任できること。
強制委任、すなわち代理人の権力と任務を明確に定め制限した上での委任。
バリに関しては、この委任は、以下のように規定されうる---
各地区の工業および商業の状況に応じた都市の区画のすみやかな再組織。
全有権者から成る国民衛兵の自立性、全指揮官および参謀本部の任命、三月一八日革命の勝利をもたらした中央委員会が代表する市民的・連合的組織の保持。
警視庁の廃止。コミューンの直接命令の下に置かれる国民衛兵が実施する都市の巡視。
パリについては、市民の自由にとって危険であり、社会経済にとって負担になる常備軍の廃止。
一般的な支出および公共事業の分担部分は別として、パリ市にその予算をすべて自由に処理することを許し、かつ納税者の負担額を法に従い公正に、受けとる便益に応じて割り当てる財政組織。
宗教、劇場、出版物を援助するあらゆる助成金の廃止。
包括的・職業的・非宗教的教育の普及。子供の信仰の自由、利害、諸権利と、家父の自由と諸権利との調整。
広範な調査を即時開始すること。それによって最近フランスを襲った災難において公人に課せられる責任を明らかにし、市の財政、商業、工業などの状態、市が自由にできる資本および諸力、市が使用できる資源を正確に知り、延滞金の支払と信用の再建に必要な、全体的で和解的な清算の資料を提供する。
失業や破産を含む、あらゆる社会的災亨に対するコミューンの保証制度の組織。
貸金制度や恐るべき貧困状態を永遠に解決するため、また流血を伴なう要求とその致命的な結果である内戦の再来を永遠に避けるために、資本、労働用具、販路、信用などを生産者に提供する最も適当な手段を絶えず、熱心に探求すること。
以上が、われわれがあたえる委託であり、また、市民諸君、諸君が選出する議員にあたえることを希望する委託の内容である・・・
全二〇区委員会代表、ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルーリ工、ジュール・ヴアレス」
* 
・マルセイユのコミューン。ガストン・クレミューが運動の中心。自然消滅。
* 
27日、群衆約1千の示威運動、県庁を包囲、知事・秘書オリヴィエ将軍を捕縛。ガストン・クレミューが、パリを守れ、パリ政府こそ唯一の正当な政府であると叫び、群衆の喝釆を博す。
クレミュー外5名をからなる委員会が組織され、市会および国民衛兵クラブから各3名の代表がこれに参加し、マルセイユの全権力を掌握。軍隊は撤退し、全市街が完全に民衆の手に帰すが、委員たちは、責任の重大さに恐怖し、それ以上の行動に出る勇気はなく、なかには姿を隠して出てこない者も。躊躇し動揺している間に、大衆の情熱は冷め、運動は自然消滅。
* 
・トゥールーズ、政府軍、市役所・県庁を占拠。国民軍兵士は撤退。コミューン崩壊。
* 
・ヴェルサイユ。国民議会はパリ・コミューン選挙を無効と宜言。
* 
・早朝、ヴェルサイユ軍第109連隊とガリフェ将軍指揮下騎馬大隊、パリ南方のプティ・ビセートル、シャティオン、ソーの周辺をパトロール。意外にも連盟兵はなく、僅かな騎兵で保塁に入る。しかし、連盟軍夜襲を恐れ、ティエールがヴェルサイユに戻るよう命令。
* 
・アルジェリア。蜂起アルジェリア人に、宗教団体「ラフマニイア会会員」(一種の秘密抵抗団体)も参加。フランスの植民者たちは、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を撤退。フランス軍はこの都市周辺のアルジェリア人村落を焼払う。
to be continued

2009年1月27日火曜日

横浜 中華街 恭喜発財





春節来了。コンシー・ファーツァイ。
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26日からチャイニーズ・ニューイヤーです。写真は、実は16日に写したもの。上から、横浜中華街の善隣門、関帝廟、朝陽門です。
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昔、中国人が多く住む南洋の街に5年超住んでいたことがあり、この季節の浮かれた騒ぎは懐かしい。
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写真の16日、40人ほどの宴会があり、そのあと地元で朝の3時まで飲んでしまいました。
「エーカゲンニシトカント、アカンヨ」と。

昭和12(1937)年12月28日~31日 南京(13)

昭和12年(1937)12月28日
・第16師団上村参謀副長のこの日付け「日記」)。兵士の非行と防止策としての慰安所開設。
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「軍隊の非違愈々多き如し、2課をして各隊将校会報を召集し、参謀長より厳戒するよう三十日十時より実施と、南京慰安所開設について2課案を審議」と記す。
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兵士の非行に関する苦情・抗議は、国際委員会から日本大使館に持ち込まれ、福井淳領事、田中正一副領司、福田篤泰らは、「非常に不利な状況の下に出来るだけのことはしようと努めて居りましたが、軍部に対して非常に恐怖感を抱いて居りましたし、彼等の為した総ては唯斯う云う報告を上海を通して東京へ伝達することのみ」(東京裁判のペーツ証言、昭和21年7月29日)。
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上海から出張した岡崎勝男総領事、「事態はひどく悪化しておりました。軍隊は全く無統制でありました」(岡崎口述書)としてベーツ証言を裏付ける。
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12月28日
・第10軍司令部、杭州移転。
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12月28日
・英米大使、揚子江自由航行を申し入れる。
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12月28日
・新協劇団「夜明け前」(久保栄演出)。昭和13年2月2日迄1万人観客動員。
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12月28日
・参謀総長・陸軍大臣連名で、中支那方面軍松井司令官に「国際関係に関する件」要請電送る。事実上の「戒告」文書。1月4日付で大本営陸軍部幕僚長(閑院宮)名でも。
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国際関係もあり、軍紀・風紀の乱れを正すよう要望。天皇に親補された出征軍最高指揮官が、天皇の幕僚長からこの種の要望を受けるのは異例で、事実上の「戒告」に相当する。陸軍懲罰令には戒告(正式には譴責)は将官には適用しない、と規定されているが、この「要望」を起案した河辺作戦課長は、「松井大将宛参謀総長の戒告を読んだ大将は「まことにすまぬ」と泣かれたと聞いた」(「河辺虎四郎回想録」)と書く。
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12月28日
・外相、英レディバード号事件に関し正式回答を英大使に手交。
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12月28日
・作曲家ラヴェル(62)、没。
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12月28日
・ルーマニアで選挙。ティトゥレスク政権倒れる。国王カルロス2世、キリスト教民族党のオクタビアン・ゴガを首相に任命し、権威主義的政府が成立。ゴガ、反ユダヤ政策を実施。
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12月29日
・汪兆銘「和平建議」打電。
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12月29日
・鉄道省、遺骨移送列車に英霊のマークを付ける
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12月29日
・石川淳「マルスの歌」(「文学界」新年号)、反戦的であるとして発禁。
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12月29日
・全農、小作組合より勤労農民全体の運動に再出発。
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12月29日
・日ソ漁業条約の第3回効力延長に関する議定書署名(モスクワ)。
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12月29日
・アイルランド自由国で新憲法が施行、エール共和国と改称。
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12月29日
・仏、セーヌ県公営事業労働者、賃上げ要求ストライキ。
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12月29日
・スペイン、テルエルの戦い。叛乱軍、独コンコルド兵団の掩護で反撃
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12月30日
・この日、松井司令官の派遣した中山参謀、上海派遣軍に対し、近く各国大使館員も復帰してくるし、早く軍紀を立て直せと伝える。飯沼上海派遣軍参謀長は、この日の日記に「恐縮の他なし」と書くが、「上海気分と南京は違う」と反発も。
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12月30日
・国民政府最高国防会議。~1月3日迄。
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12月30日
・プロフィンテルン(赤色労働組合インターナショナル)、解散。
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12月30日
・東京市バス、木炭バス4台を初めて運行。
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12月30日
・フィリピン、タガログ語を国語の基礎とする大統領宣言。
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12月30日
・スペイン、テルエルの戦い。叛乱軍、ラ・ムエラ高地奪回。共和国軍も反撃
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12月30日
・エジプト国王ファールーク1世、ワフド党のナッハース・パシャ首相を解任、ワフド政府倒壊。
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12月30日
・日伊通商条約追加協定調印(ローマ)。
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12月31日
・アメリカ大使館員アリソン3等書記官、米砲艦「オアフ号」で南京の下関埠頭に到着、大使館業務再開を要請するが、日本軍司令部は、中国兵掃蕩が続いており危険との理由で、これを拒否。
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アリソンは国務省へ電報で、「今日午後二時三〇分に到着する。岸辺はまるで殺戮場であり、市内のあちこちで小規模な火災が発生しているのが見え、銃声も聞こえる」と報告。
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・この日付け歩9連隊兵士の日記(外賀関次日記)。
「本日左の如く命令が会報に出た。
一、良民達を殺さぬようにする事 
一、良民達の家屋内に無断にて立ち入る事を禁ず 
一、良民達の物品又は其他の品々を額収することを禁ず」(外賀閑次日記) 
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・深夜、南京、ソ連大使館、焼失。
「今日午後ソ連大使館焼く、此処日本兵決して入り込まざりし所なれば証拠隠滅の為自ら焼きたるにあらずやと思はる。他の列国公館は日本兵の入り込みたる疑あるも番人より中国軍隊の仕業なりと一冊を取り置けり」(「飯沼日記」元旦)。
飯沼上海派遣軍参謀長は、特務部岡中佐を現場調査に派遣、隣接するソ連大使公邸に独立機関銃第2大隊笹沢中隊の伍長ら4人が押し入り食糧を徴発しているところへ出くわす。
「10:00過、特務部岡中佐来りソ連大使館焼失に就て取調と米国大使館員(5日来る筈)と折衝の為来たりしとて午前1.00迄話して帰る。同中佐ソ連大使館に至りし時裏手の大使かの私邸に笹沢部隊(独立機関銃第二大隊の笹沢中隊)の伍長以下三名入り込み食料徴発中なりしと、今に至り尚食料に窮するも不思議、同大使館に入り込むも全く不可解。」(「同」1月4日)と飯沼は首を傾げるが、ソ連相手に事を構えるのを回避し、密かに大隊長を戒告してもみ消す。
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・レディーバード号事件解決
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以上、12回で昭和12年12月分を終了しましたが、「黙翁年表」は勿論まだ続いており、「南京」の話題が途切れるまで続けます。その後は、「重慶爆撃(戦略無差別爆撃)」をやります)。
 

2009年1月25日日曜日

京都 三つの二条城,① 旧二条城 聖アグネス教会聖堂













京都に三つの二条城。
①現存する二条城。家康が建てて家光が増築、充実させた。
②信長が、将軍義昭のために建てたもの(今日の写真の上三つ)。但し、その前に、管領斯波氏の邸宅跡に、将軍義輝(義昭の兄)が自分の城を建ててます(写真の下三つ)。
③信長が自分の為に建てて、のち正親町天皇の皇子の誠仁親王に献上したもの。本能寺の際に信忠が戦死したところ(後日紹介)。
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「斯波武衛陣跡」の碑は1年前までは、駐車場の端に寂しく立ってましたが、今では看板まで立ててもらって出世してました。
「武衛」というのは、官名に「兵衛佐」を持つ人物を指し、室町幕府(尊氏)が管領斯波義将に与えたもの(頼朝も「吾妻鏡」では一時「武衛」と呼ばれている)。斯波義将は、1342~45年、この一帯(室町通下立売下ル一帯)に邸宅を構え、その邸宅が武衛陣と云われる。尚、現在もこの辺は、「武衛陣町」という名前の地名です。
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現在この地には「平安女学院」があり、写真一番下は、御所側から写したそのチャペル「聖アグネス教会聖堂」(明治31年建築)です。
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旧二条城
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「地下鉄工事で発掘された旧二条城の石垣遺構」はコチラ
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天文3(1534)年信長誕生と父信秀(2)

父信秀についての概要
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○織田信秀
永正7年(1510年)、尾張南西部を支配する海東郡・中島郡に跨る勝幡城(ショウバタ、愛知県愛西市・稲沢市)の織田信定の長男として生まれる。
信定は尾張の守護代織田氏一族で、尾張下四郡守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、重臣たる清洲3奉行の1人。
子女は、弟に織田信光。長子織田信広、次男信時、3男(嫡男)信長、信勝(信行)、信包、有楽斎(長益)、市姫他多数。
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信秀/信長以前の織田氏(織田氏のルーツ)はコチラ
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流通拠点を掌握
湊町・津島を支配下に置き、そこからもたらされる恵まれた経済力を後ろ楯に、主家に匹敵するまでに勢力を伸張させる。
天文元年(1532)、主君の尾張守護代織田大和守達勝(ミチカツ)と戦い和睦。
天文2年7月、京都から公家の山科言継と飛鳥井雅綱を居城勝幡城に招いて饗応、言継は信秀と達勝の戦いを記録。
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信秀と今川氏との角逐、挟まれる三河松平氏
天文3(1534)年、今川氏豊の那古野(ナゴヤ)城(名古屋市中区)を奪っ以降、今川氏との角逐が始まり、三河松平氏を間に挟んで激突が繰り返される。愛知郡(名古屋市域周辺)に勢力を拡大。
天文8年(1539年)古渡城(名古屋市中区)、天文17年(1548年)末森城(名古屋市千種区)を築き居城を移す。
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一方の今川義元は、天文5(1536)年、兄氏輝の早世により還俗して家督を継ぎ、翌天文6年、甲斐の武田信虎と結む。これにより、後北条氏との関係が悪化し、北条氏綱は駿河駿東・富士2郡に侵入、以後、義元は今川軍主力を東側に向けざるをえず、手薄になった三河方面に、自立間もない信秀の勢力が浸透。
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氏綱の駿河侵攻はコチラ
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三河は、元来一色氏の守護領国である、永享12(1440)年、一色義貫が第6代将軍義教に暗殺されて以降、阿波守護細川持常(庶流家)の兼帯となるが、応仁の乱後、細川氏が支配権を手放し、東海地方では守護職が最も早く形骸化した地域となる。
しかし、擾頭する国人松平氏の統制力は弱く、大名化にはほど遠い状態で。信秀が尾張で自立化した頃は、三河松平氏は今川義元の保護下(間接支配) にあり、天文6(1537)6月、元服前の松平広忠(家康の父)は、ようやく駿府での人質生活から解放され、岡崎城に入る。
天文9(1540)年6月、信秀は尾張から大軍を率い三河安祥城(愛知県安城市)を攻略、城主松平長家は戦死、織田氏は待望の三河拠点を獲得。
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信秀の三河守任官
伊勢の外宮(ゲグウ、豊受宮)社司の記録「外宮引付」によれば、この頃信秀は外宮仮殿造替費に700貫文を寄進。
外宮は永享年問(1429~41)の最後の式年遷宮以降、造替が途絶え、この頃、せめて仮殿として造替をと、神官たちは朝廷に働きかけ、念願の仮殿遷宮が可能となる。信秀は、これが評価され天文10(1541)9月、三河守に任ぜられる。尚、内宮へは近江守護六角定頼が銭700貫を献金。
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今川義元の親征、小豆坂で信秀に敗れる
天文10(1541)年8月、義元は三河から織田氏を駆逐する為、自身は田原(愛知県田原町)まで親征し、今川軍先鋒は岡崎城外に迫る。信秀はこれを小豆坂(岡崎市)に破る。
岡崎城主松平広忠は、信秀の三河守任官にも拘らず、義元に忠誠を誓っているが、天文12年9月、最も尾張寄りの刈谷城主水野信元が義元に背き、信秀に内通し、広忠は妻の水野氏(家康の母)を離別して水野氏と断絶の意を示す。
天文14(1545)年9月、広忠は矢作川を越え、信秀方の安祥城を攻めるが、信秀が来援し失敗。こうして矢作川以北の西三河は殆ど信秀の支配に帰し、その勢力圏は東三河にも及ぶ。
信秀の三河守任官作戦は奏功し、禁裏に修理料4千貫を献じる。
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「あづき坂合戦の事 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出で、七段に人数を備へ候、其の折節、三川の内・あん城と云ふ城、織田傭後守かゝへられ侯ひき。駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。則ち備後守あん城より矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて傭後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、既に一戦に取り結び相戦ふ。其の時よき働きせし衆。織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞殿、是れは鎗きず被られ・内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かゝり合ひ貼、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし。前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。」(「信長公記」巻首)。
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義元の巻き返しと松平竹千代の略奪
今川義元は、関東の上杉憲政と結び北条氏康挟撃策が成功、天文14(1545)年、富士川を越境して北条軍を攻撃、駿東・富士2郡を回復し、北条領国の範域を伊豆国境まで押し戻す。
これにより、義元は西部戦線に専念できる態勢となり、天文15年10月、広忠と結び戸田康光の三河吉田城(豊橋市)を陥れ、翌天文16年9月には家臣天野景貫を派遣し広忠を支援し、寵る田原城を落とす。
田原・吉田両城を失った信秀は、同年10月、広忠の同族松平忠倫を手なずけ、岡崎城を攻略させようとするが、広忠は先手を打って忠倫を殺す。
しかし事態がここに至った以上、織田軍の来寇は避けられず、広忠は駿府に援軍を求め、竹千代丸(5歳未満、家康)を質子として義元に差し出すことになる。ところが、竹千代の駿府護送中に、三河国渥美郡の田原城の戸田康光が待ち伏せ、竹千代を略奪、尾張の信秀に送り銭500貫文に換える。信秀は人質竹千代を織田家菩提寺の万松寺に預ける。
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信秀、禁裏に修理料4千貫を献上
これより先の天文8(1539)年8月17日、「百年以来未聞」といわれる大雨洪水が京都を襲い、内裏の建物に大損壊を与える。天皇自ら、「さてはこの御所、大破に及び候」(1544年9月、阿蘇惟豊に下した女房奉書文)と告白。
天文9年3月4日、天皇は関白近衛植家を召し内裏修理を幕府へ申し入れる件につき合意。しかし幕府も、室町第の造営中のため対応できず、同12日、近江守護六角定頼と協議。この結末は不明であるが、豊後の大友氏の許に、この5月、禁裏修理要脚賦課の記録が残っており、将軍義晴は諸大名に献金上納を触れ巡らしたことがわかる。
まず越前の朝倉孝景が、同年9月、この要請に応じ100貫を納入。しかし他の大名は不協力だったようで、9月23日、能登守護畠山義総は幕府に対し、かねて義晴が諸大名に触れてある第6代将軍義教100年忌の仏事銭50貫は納めるが、禁裏修理料は勘弁ほしいと連絡、翌々日、伊勢国司北畠具教も、禁裏修理料は出せぬと申し入れ。
仲介の六角定頼は、「堅く申し下すべく候」「いかようにも思案を加えられ候え」(なんとしても納入するよに)と返事を出すが、納められた形跡はない。
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そのうち、天文10(1541)年8月10日、大風雨が内裏を襲い、陣座・宜陽殿・軒廊・月華門・車寄・外様番所の諸棟が転倒。翌日幕府内談衆(引付衆)らは善後策を協議するが名案なく、洛中の土倉方(金融業者の組合)へ賦課する意見が多数を占めるが、これは先例も実現性もない。
9月20日、天皇は執政細川晴元に修理を内命、晴元は「四方の築垣」をとりあえず請け負う。
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翌天文11年3月、陣座再建が見切り発車し、参議山科言継は、近江坂本に居陣の将軍義晴と天皇の間を周旋するが、結局近江・若狭・能登3ヶ国に修理国役を課することで妥協。義晴宛て女房奉書には、「一向大破に及び候て、今の為躰(テイタラク)は日を増し正体も候わぬまま」(日ごとに崩壊している)と破損状況を報じる。しかし現実にはこの3ヶ国役は殆ど納入されず、修理費献上大名は、天文12年2月織田信秀4千貫(家老平手政秀が上京して進納)、同年今川義元500貫などとなる。
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信秀の献上額4千貫は、一件金額としては天皇家に諸大名から納入された中で最大の金額であり、他に伊勢外宮仮殿造替費も負担していることを考慮すれば、その財力は東国大名中でぬきん出ていたことが知れる。
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朝廷では、信秀の抜群の献金に対し、尾張へ勅使派遣の議が起こり、たまたま、連歌師宗牧の東国遊覧の噂を聞きつけた広橋兼秀が、信秀宛ての女房奉書をことづけることになり、宗牧が臨時勅使として信秀に「叡感」(天皇側の謝意)を伝えることになる(この時の宗牧の紀行文が、「群書類従」にも収められている「東国紀行」)。
天文12年2月、京都出立。10日近く石山寺に滞在、同月末瀬田を出帆、六角氏重臣永原重秀の居館(敦賀県野洲町)に1泊、10月3日、六角定頼の城観音寺(滋賀県安土町)登城し定頼に対面。ここで馳走接待を受け、六角家臣らが引き止めて連歌興行のため滞在。
10月29日、鈴鹿鞍掛越の峠道に入り、11月4日、大泉(三重県員弁町)を経て桑名へ出、翌5日、ここから織田家の川舟で津島(勝幡城の外港、愛知県津島市)に1泊。6日は信秀の城下那古野に到着、登城し、信秀に面謁して、宸翰の女房奉書や「古今集」写本などを手渡す。
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信秀は9月23日、美濃稲葉山城に斎藤利政(道三)を攻めるが、利政は朝倉教景の来援を受け、信秀は大敗北を喫しからくも身一つ逃れ去るという苦汁を嘗めており、信秀は宗牧に、「今度は、思いがけず一身助かったのは、この宸翰を拝領するためであった。織田家の面目、これに過ぎるものはない。美濃攻めは、将来本望を達することもあれば、その折重ねて御修理の内命を頂きたい。天子様には宜しくお伝えを。」と語る。
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宗牧は熟田宮社参、連歌興行など行い、桑名へ戻り、伊勢浜田(三重県明和町浜田)で閏11月4日連歌会、伊勢湾を海路知多大野(常滑市大野)へ渡り、常滑から再び海路知多半島を回航して三河大浜(碧南市大浜)に上陸。ところの住職の言では、「数年合戦が続き、ことに敵の城ほど近く、毎日足軽などが不意に攻めてきます」と、慢性的な尾張と三河の戦乱状態をかこつ。閏11月14日、岡崎城主松平広忠へ人伝てに預かってきた女房奉書を渡す(広忠が朝廷の内命に応じて、禁裏料所の年貢を納入したことを褒めた内容)。宗牧は、これで大役を果たし、東国へと旅立つ。
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「美濃国へ乱入し五千討死の事 さて、備後殿(信秀)は国中を憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。或る時、九月三日、尾張国中の人数を御憑みなされ、美濃国へ御乱入、在々所々放火侯て、九月廿二日、斎藤山城道三が居城稲葉山の山下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り侯所へ、山城道三焜と南へ向かつて切りかゝり、相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿御舎弟織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。」(「信長公記」巻首」)。
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義元の軍師、駿河臨済寺禅僧太原崇孚(雪斎)の軍略
崇孚は天文14(1545)年正月、天皇から妙心寺の居公文(イナリノクモン、赴任せず辞令だけ受け取る住持)に勅請されるほどの高僧。
天文17(1548)3月、義元の要請で出陣した崇孚は、6年前に今川軍が信秀に敗北した小豆坂で戦って勝利。天文18年3月、広忠が松平家の内紛から暗殺され、今川氏の三河支配終焉が懸念されるが、同年11月9日、崇孚は、織田信広(信秀の一族)の安祥城を攻略、信広を生けどりにし、更に続けて同月23日、三河上野城も攻め落とす。
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このように西三河で武威を示しておいて、崇孚は尾張古渡城の信秀に、竹千代と信広の交換を提案、これが容れられ、同月末竹千代(7歳未満)は岡崎に戻り、再び駿府に送られる。
信秀は、次第に今川・斎藤・国内の敵などに包囲され、苦しめられるようになり、天文18年(1549)、子の信長と斎藤道三の娘濃姫を政略結婚させることで斎藤家とは和睦。
今川氏との対立は尚も続き苦しめられる中、天文20年(1551年)3月3日、流行病により末森城で急没(42)。
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信秀(42)没
「備後守病死の事 一、備後守殿疫癘に御悩みなされ、様々の祈祷、御療治侯と雖も、御平愈なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化。・・・」(「信長公記」巻首)。没年は、天文18、20、21年説あり。また、天文18年没し、天文21年葬儀との説もあり。
*
こうして信秀は、主家の尾張守護代「織田大和守家」への臣従関係は保ちながらも、主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、国内の他勢力を圧倒する地位を築いてゆく。
しかし信秀は晩年まで守護代家臣に甘んじ、尾張国全域を支配することはできなかった。
*
信秀没後の義元
三河をほぼ掌握した義元は、尾張辺境を脅かし、天文21(1552)年、信秀没後の混乱に乗じ、尾張村木城・三河小河城などを攻略。
信長は美濃の斎藤利政(道三)の援助を得てようやく撃退するが、相模の北条氏康に誼を通じ、義元もまた武田晴信(信玄)と連携してこれを迎撃。
崇孚は駿河善徳寺に北条・武田の使節を招き、三者の和議が政略婚を媒介にして成立(善徳寺の会盟)。崇字はこの年閏10月に没すが、この遺産によって義元は、西部戦線に全力を傾注することが可能になり、弘治3(1557)年3月迄に品野城(春日井郡)を、永禄2(1559)年8月迄に大高・鳴海の両城(名古屋市)を占取。
「★信長インデックス」をご参照下さい。
to be continued

2009年1月24日土曜日

京都 御霊神社 応仁の乱勃発地 相国寺










御霊神社:別に下御霊神社があり、これを上御霊神社と区別していう場合もある。応仁の乱の勃発地で有名。
相国寺:京都五山。御霊神社と背中を接してます。この日、冷たい雨が降り始め、藤原定家の墓所までは行けませんでした。
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御霊神社
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「応仁の乱勃発」詳細はコチラ
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「★京都インデックス」をご参照下さい。
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明治17(1884)年9月23~30日 秩父(9)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 秩父困民党、高利貸し説諭請願から集団交渉へ路線変更 

■明治17(1884)年秩父(9)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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9月23日
・高ケ坂村の矢口甚左衛門家で会合。原町田分署の巡査によって矢口ら14名が引致。25日、高ケ坂村市川四郎助、
細野喜代四郎に書簡。「自村一同決議ニ及」び、市川と「党内之内一両名」は八王子へ出頭するので、細野にも同道してほしい旨を依頼。
仲裁グループの活動に期待し、そこで提示される妥協案にそって問題の解決を計ろうとする姿勢に決定したことを意味する。
*
9月25日
・築地の有一館で自由政談演説会。平野友輔・田中力が参加。
*
9月25日
・夕刊新聞「今日新聞」、主筆仮名垣魯文で創刊。後の「都新聞」。
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9月26日
・秩父、千鹿野で集会。警察署請願の署名集め指示(困民党の組織確認)。
* 
9月26日
・橘樹郡の上田忠一郎・井田文三ら13名、多摩川で遊猟の名目で会合。
*
9月27日
・この日、共融会社・甲子会社が、28日に八王子銀行・旭銀行が、30日に東海貯蓄銀行・武蔵野銀行・武相銀行が仲裁人への回答書を出す。無利息40ヶ年賦要求に対し年利1割5分・3ヶ年賦の解答。頭取・有力株主は自由党員。
* 
自由党同志を多く抱え仲裁人の影響力を強く受ける共融会社(社長土方健之助、役員森久保作蔵、共に自由党員、役員・出資者には日野地域の自由党員が関係)と甲子会社(社長林副重、自由党員、広徳館館長)は、5ヶ年賦の回答案を示し、極貧者へは5ヶ年以上の年賦の可能性を認め、延滞利子の3割棄捐処置を盛り込み温情的な対応。
八王子・東海貯蓄(頭取成内頴一郎、自由党員、のち改進党か)・旭・武蔵野銀行(頭取中藤弥左衛門、副頭取鈴木芳良(自由党員))・武相銀行など「悪意」の私立銀行・金貸会社は、元金は3ヶ年賦、それも負債額100円以内のものに限るとの制限付き。
* 
□共融会社・甲子会社連名の解答書。
「一、負債主ノ内貧困ナル者ニ限り五ケ年以内ノ年賦済方ヲ許スベシ 
一、極貧ニシテ最可憐者ニ限り会社ノ見込ヲ以テ五ヶ年以外ノ年賦ヲ許スコト有ベシ 
一、年賦金利子ハ一割五分以上二割迄トス 但シ極貧者ハ此定限ヲ減ズル事有ベシ 
一、右負債延滞利子ハ(明治十七年六月迄)改テ元金ニ加へルモノトス 但シ明治十七年七月ヨリ十二月迄ノ利子ハ年一割二分ノ割合ヲ以テ請求スベシ 
一、延滞利子皆済セントスル者ハ其金額ノ三割以内ヲ棄損スベシ 
一、証書ハ都而旧証書ヲ用ヒ副証書ヲ以テ年限利子各期日等確乎タル契約ヲナシ再ビ違約無之ヲ要ス」
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□債主中の銀行・金融会社と自由党との関係。
①特に南多摩郡の大土地所有者の上位6名中3名が自由党員・党友であり、各銀行に巨額の株券を持っているか自身が頭取を勤めている。彼らは債主層として明治10年代後半の数年間に多大の土地・資本を集積。
②地価4千円以上(所有地約50町歩以上)所有者7名中、徹底した個人高利貸で一生を貫いた浜中重蔵を除き、6名の党員の殆どが有名銀行の頭取乃至副頭取格である。
彼らは、多くの銀行・会社に数百円ずつの株を分散所有し、金融業者としての利害では他の債主層と連帯している。更に、この6名中3名は、自由党県会議員として党の幹部クラスに属している。彼らも、明治13~18年の間に急速に土地・資本を集積した利殖型(石坂や須長らの型とは異質な豪農)商人資本=寄生地主である。
③自由党内の中堅クラスからも、林副重(甲子会社)や森久保作蔵(共敵会社)ら債主側の人物をだしている。
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株の分散所有の例。
天野清助の明治11~18年「銀行及諸会社加入該社株券売買簿」では、第三十六国立銀行に10株500円、東海貯蓄銀行に10株500円、八王子銀行に15株750円、共融会社に6株300円、日野・武蔵野銀行、自由新聞社等に株券を所有し、年々増殖させている。
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こうした事情は石坂ら「志士型」豪農党員(単純な地主=豪農型党員)の行動を制約し、内在的矛盾を持つ自由党と困民党との関係を分離=雁行の関係におしとどめる結果となる。
しかし、自由党と困民党とが敵対関係に陥らなかったのは、石坂らの型の豪農党員が神奈川自由党のヘゲモニイを掌握していたからであり、彼らの大部分が地主等級の下位クラス(所有地価600円~1千円)に属し、没落傾向にあったから。
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この銀行解答によって人民内部には2つの反応が現われる。
①運動の前途に失望、仲裁条件に不服ながらも諦めて脱落してゆく(一部の富裕層と身代隈を覚悟した一部の極貧層)。
②自由党や名望家へも期待を棄て、独自な困民党再組織の方向に踏み切る。
武相困民党の第3の局面に転回

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9月30日
・秩父困民党(総代高岸善吉・犬木寿作・飯塚森蔵・村竹茂市)、大宮警察署へ28ヶ村代表の合法的請願運動(連印帳は127名)。高利貸し説諭請願、受理されず。翌々日、大野福次郎らを加え「御説諭願」提出、不受理。
以降、高利貸との集団交渉路線に戦術転換(善吉が小鹿野分署に、寅市が大宮署に赴き、おだやかに交渉するなら債主との交渉はさしつかえない、との言質をとる)。
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小柏常次郎が、繰り返してきた山林集会も限度に来ており、山林集会はきりあげ、困民一同の委任状を集め、これをもって大官郷警察署に出願し、高利貸と負債農民の実情をの述べれば、「何トカ御裁判モ下サロウカラ左様ニシテハ如何」と提案し、これが採択され9月30日、10月1日、大官警察へ説諭請願を実行。
オルグたちは秩父の山野に散り、署名を集める。
署長は連名委任状に難癖をつけ、1名ずつの委任状を持って出直して来いと請願を受理せず。
総代たちは切り返す。1人1人となれば、また各部落で集会をしなければならない。
署長は渋々、「山ナドニ寄ラズニ吉田ノ宿ナラ宿ニ寄テ穏便ニ為サバ差支へナイ」と答える。
総代たちは引揚げる。
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負債農民たちは警察署への請願は幻想と悟り、高利貸への直接交渉という戦術に転換する。
常次郎は善吉・寅市に策を授け、小鹿野・大宮両署に対し高利貸への直接交渉を事前通告させ、「穏カニ掛ケアフナラバ、差支へナイ」との署長の言質を取らせる。(小柏常次郎訊問調書)
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蜂起へ向けての戦術
①請願を通じて借金農民を結集する、
②警察は農民ではなく高利貸に味方するものと農民大衆に実地教育する、
③請願が受け容れられられなかった事実は、のちの蜂起を正統化させる効果がある。
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○請願署名集め(風布村大野福次郎の場合)
「上吉田へ参集セヨ」との通知があり、27日、福次郎は吉田村井上善作の許に赴く。
善作宅には農民10名ほどが集まり、懇談場所は千萱(千鹿谷)鉱泉に準備されている。この日初めて高岸善書・井上伝蔵・落合寅市ら困民党中枢を知る。
善吉が、「このたび自分ら各村の総代となり、貧民が高利のために責めらるるを見るに忍びず、ために身命を抛ちて貸主を説諭せられんことを警察署に歎願する条、貴殿は申すにおよはず、その村の者に借用金ある者は一切書付をいたして九月二十九日までに大宮郷平野屋方まで来れ」と言う。
各村オルグは、この善吉の言葉を受け、自村に帰り精力的に呼びかけ。風布村でも近隣の者あげて賛意を表すと云う。
風布村では福次郎と大野苗吉が署名を集める。福次郎は地価52円の貧農だが、苗吉の家は地価90円で風布村で13番目の中堅農家。しかし、借金額では福次郎が36円、苗吉は390円で、苗吉はこの時点で身代限りの身と云える。
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○犬木寿作(32):
明治14年、小鹿野町の高利貨柴崎佐平・加藤恒吉らと共同出資で製糸会社「共精杜」を設立、自らも金貸しをし、村祭りで打ち上げる花火作りの名人でもある。9月初め、高岸善吉・坂本宗作らの和田山「山林集会」に臨んで事情をきき、「高利貸ノ貪利苛薄ナルヲ憂ヒ、爾来其事ニ周旋尽力スル」ようになる。10月31日の石間村の加藤織平方における田代栄助の「職務分担ヲ予選スル」席にも加わる。
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○村竹茂市(45):
上日野沢村自由党員竹内吉五郎の勧めで困民党に参加。「無情ノ債主ノ家ヲ毀シ、借金証書等ヲ奪ヒ取リ焼捨候ハパ、富者ヲ倒シ貧者ヲ助クルノ途相立ツベキニ付、賛成シテハ如何トノ相談ヲ受ケタルニヨリ、同胞人民ヲ救フニハ至極良キ策卜感心仕り、無異議同意イタシタリ」(「村竹茂市訊問調書」)。
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▽神官田中千弥が書き残した高利貸の農民収奪。「秩父暴動雑録」。
「今般暴徒蜂起するやその原因一にあらず。高利貸なるものその一なり・・・。
そもそも高利貸なるものは元来日歩に違約付の証書を取って金貨を貸しつけ、返期延滞するときはすなわち多夥の違約金を収り、数度証書を改めついに負債主をして身代限の処分を受くるにいたらしむ。官これを不良としたまいけん。
明治十一年利息制限法の発令ありて日歩違約金等ある貸借を廃せられたり。・・・しかれども陰に奸策をなし証書金額のうち二割あるいは三割を減じて貸与す。これを切金貸という。そしてその返期を三月限りと定め三か月目にいたり返却すまざるものはさらに証書を改替し新規貸付に書記せしむ。その証券改替の都度利息は加えて元金となし、また証書面の金額の歩を切り、これも元金となすなり。これを一年間借りるときは二倍を超過す。
観るペし、まず今年一月七円入用にてこれを借らんと乞う。高利貸のいわく、十円ならば貸すべしと。よって十円の借用証書を出す。また言う、例の二割切れ承服ならば貸与せんと。話して金八円を受けとり、一時要度を弁ず。
三月十五日期限なるにより、利息金を納めて延期を約せんため負債主は康主の家にいたる。家人のいわく、主人は四、五日他出せり。帰宅の後来れと。負債主己が家に帰り、四、五日間に彼利息に備えし金は他事に使用しつくせり。さて同月二十日頃またゆきて遅延を謝す。借主は顔を和らげ、証書を改めたまううえは仔細におよはずという。
負「しからば下案をたまえ」債「証書金高十二円六十銭なり(元金十円利子五十銭書面の切金二円十銭)」負債主は不審ながらこの証書を渡して帰る。また三か月日五月証券を改む。書面金額十五円八十七銭六厘なり。この五月十五日の借金は七月十五日返期なり。この期にいたりまた証券を改替す。券面金二十円四厘。これまた同前九月にいたって改券す。書表金額二十五円二十銭。またまた三か月日十一月にいたる。
ここにおいてすっかり返済の督促を受け返納する金額二十六円四十六鏡なり。これを計算するに一か月元金一円十九銭につき二十五銭の利子にあたるべし。僅々八円一年未満にしてかくのごとし。いわんや多数の金を累歳措置するにおけるやいくぱくの高利なること料るべからず。
・・・数次この金を借用するものはほとんど返却に困難し、勧解あるいは民事の裁廷をへて身代限の処分を受くるにいたるなり。」
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9月30日
「国権拡張論」が、「自由新聞」社説に始めて登場。~10月1、4、5日。
加波山事件を機に「自由新聞」の論調が国権拡張に転じる。既に自由党は8月の清仏全面戦争に絡み、8月の東洋学館開設、杉田定一の渡清、板垣・後藤の対朝鮮画策など国権的な動きを見せていた。
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「彼ノ壮年有志等ノ熱心ヲシテ、内事ヨリ転ジテ外事ニ向ハシメ、政府ハ則チ之ヲ利用シテ、大ニ国権拡張ノ方法ヲ計画スルヲ得バ、内ハ以テ社会ノ安寧ヲ固フシ、外ハ以テ国利ヲ海外ニ博スルニ足ルニ非ズヤ」(「国権拡張論」)。
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国権拡張・官民協力・排外主義鼓吹の真の意図は、少壮有志の熱心を内事から外事に転換させることにある。
「特に当時実際に党務の中心となっていた星亨、加藤平四郎らに対して、恐らくは秘密裡に朝鮮進出の計策に従事していた板垣・後藤がその朝鮮進出の論理をいわばここへ転用したのではなかったろうか。この論理は加波山事件の突発という条件なしには公然と社説としてかかげることはできなかったであろう」(下山三郎編・解説「自由民権思想」下)。
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9月30日
・天野貞祐、津久井郡鳥屋村に誕生。24年4月鳥屋村小学校入学。30年東京の獨協中学校(=独逸学協会学校中学)に進む。
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下旬
・南多摩郡日野駅で小作人400余が、小作料減免要求を掲げ集会や地主と交渉。1割5分の減額で妥協。~11月上旬まで。
to be continued

横浜(みなとみらい昼と夜)



万国橋から見た「みなとみらい」の昼と夜の景色。
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2日連続でちょっと飲みすぎた。

ちょっとがっかり、オバマさん

デンゼル・ワシントン顔負けのカッコイイ演説でした。
別に仔細に検討するなどという大袈裟なことではないですが、・・・。
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Our economy is badly weakened, a consequence of greed and irresponsibility on the part of some, but also our collective failure to make hard choices and prepare the nation for a new age.
(我々の経済は、ひどく弱体化している。一部の者の強欲と無責任の結果であるだけでなく、厳しい決断をすることなく、国家を新しい時代に適合させそこなった我々全員の失敗の結果である。)
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Nor is the question before us whether the market is a force for good or ill. Its power to generate wealth and expand freedom is unmatched, but this crisis has reminded us that without a watchful eye, the market can spin out of control - and that a nation cannot prosper long when it favors only the prosperous. The success of our economy has always depended not just on the size of our Gross Domestic Product, but on the reach of our prosperity; on our ability to extend opportunity to every willing heart - not out of charity, but because it is the surest route to our common good.
(問うべきなのは、市場の良しあしでもない。富を作り自由を広げる市場の力に比肩するものはない。だが、今回の(経済)危機は、監視がなければ、市場は統制を失い、豊かな者ばかりを優遇する国の繁栄が長続きしないことを我々に気づかせた。我々の経済の成功はいつも、単に国内総生産(GDP)の大きさだけでなく、我々の繁栄が広がる範囲や、機会を求めるすべての人に広げる能力によるものだった。慈善としてではなく、公共の利益に通じる最も確実な道としてだ。)
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「一億総懺悔」的なのが気になる。原因があって結果がある。結果として、多くの人々がバブルに酔ったのであって、原因は多くの人々にあるのはないと思う。
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「監視」すれば市場はコントロールできるのだろうか?
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社会(経済)システムへの突っ込みが足らないように思う。過去、日本を嘲笑ったような「注入」をやらざるを得ない未曾有の状況への分析、質的転換を捉えきれていない、そんな歯がゆさを感じました。
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2009年1月20日火曜日

京都のいしぶみ 六角獄舎 平野国臣外数十名終焉址 山脇東洋観臓地 蛤御門の変 残念さん












■六角獄舎:中京区六角通神泉苑西入南側
①平野国臣外数十名終焉趾、②山脇東洋観臓地
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■山脇東洋解剖碑所在墓地:中京区新京極通三条下る東入(誓願寺墓地入口)
六角獄舎跡に行くと言ったら、知人に「あの辺だけは昼間でもスーット寒いよ」と言われた。あいにく、その日は、京都全体が凍えてました。
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元治元年(1864年)7月19日     「黙翁年表」より
蛤御門の変(禁門の変)。
久坂玄瑞(25)・真木和泉(52)自尽。来島又兵衛(49)戦死。京に大火。会津・桑名・薩摩兵。古い尊攘派壊滅。戦火で京都市内811町に渡る民家27511戸・土蔵1207棟・寺社253などが焼失。
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諸廷臣・京都守護職松平容保・所司代松平定敬・摂海防御徳川慶喜・水戸藩主徳川慶篤弟松平昭武ら在京の諸侯、相次いで参内。警守諸兵、9門を閉ざして内外を厳守。
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[戦闘]
午前0時過ぎ、福原越後隊700、伏見街道北上、大垣・彦根藩兵に丹波橋付近で敗北、山崎方面に遁走(入京できず)。
午前2時頃、嵯峨野の国司・来嶋隊800余、市内に突入、三手に分かれ、国司隊は中立売御門を、来嶋隊は蛤御門を、児玉隊は下立売御門を目指す。禁裏周辺守備は、中立売御門に筑前藩、蛤御門に会津藩、禁裏台所門に桑名藩、堺町御門に福井藩、乾御門に薩摩藩が配置。
午前7時頃、諸隊の一斉攻撃。国司隊は中立売御門の筑前兵を破り、児玉隊も下立売御門の桑名兵を破り、来嶋の攻める蛤御門(会津藩兵1500)へ向かう。来嶋隊は一旦会津藩を突破、御所に侵入するが、乾御門守備の薩摩藩兵(西郷指揮)が来援、激戦の末、来嶋(48)が戦死、長州勢は崩れ山崎方面へ敗走。
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大山崎の久坂玄瑞・真木和泉隊600余、前夜から西国街道を北上、午前8時、堺町御門に到着。久坂は堺町御門横の鷹司邸裏門から邸内に入り、参内同行を求めるが、鷹司は遁走。久坂らは堺町門内の鷹司邸に立て篭もる。越前・彦根兵がこれを攻めるが抜けず、会津藩砲術家山本覚馬が大砲をもってこれを粉砕。入江九一(28)戦死。久坂玄瑞(25)・寺島忠三郎(22)、自決。
後、真木和泉は残兵を率いて鷹司邸の南裏門から逃げる。鷹司邸の火炎は、長州の残党狩りの為に幕府軍が民家に放った火と砲撃により、更に煽られ京都を焼き尽す。家屋3万軒が焼失という。
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「どんどん焼け」「鉄砲焼け」:
手の施しようもなく燃え広がる有様をいう。火災被害は、北は丸太町通、南は七条通、東は寺町、西は東堀川に至る区域に及ぶ。21日に鎮火。800ヶ町、2万7千世帯、他に土蔵・寺社(東本願寺・本能寺・六角堂など)などが罹災。
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因州藩邸の桂小五郎は、同藩河田佐久馬が「有栖川宮を擁し長州・因州藩士が天皇を守る」計画実行の機会を窺がう為、有栖川宮邸に向かったのでその結果を同藩邸で待つ。しかし、有栖川宮は昨晩参内したまま帰邸せず、宮廷内の様子もわからず、夜明けとなる。桂は待ちきれず、出撃、兵を2手に分け、時山直八が1手を率い、別の経路から今出川御門に向い、桂は馬屋原二郎・田村甚之允ら6~7名と共に今出川門から有栖川宮邸に入る。
ここで戦端が開かれた以上約束を果たせぬとの河田佐久馬と決別、有栖川邸から下鴨社に向う(天皇が難を逃れてここに遷座するとの情報があり)。しかし、その兆候も無く、桂以外は蛤御門・鷹司邸での戦闘に合流する為に夫々駆けつける。その後、桂は、鷹司邸の方角から大砲の轟音を聞き、堺町門までたどり着くが、既に鷹司邸は火炎に包まれようとしているため、天王山に向う。途中、天王山の兵も散り散りになるとの情報を聞き、再び京都に引き返す。のち、但馬出石に潜伏。
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・夜、六角獄舎で平野国臣(37)・古高俊太郎(36)・丹羽正雄・河村季興・長尾郁三郎・水郡善之祐ら志士33名殺害
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松平慶永の禁門の変への論評。
「元治元年九月二日付 前々七月十九日、鳳京へ長毛人乱入、終に宮掖に向ひ奉り発炮す、高示の如く、長賊本心を顕はし、先々一時の動乱、速かに静定す、この上なく恐悦と存じ奉り候。実に長賊は悪むべきの甚敷、第一朝敵の名号、赫々明白、共に天を戴かざるの仇□と存じ奉り候。千古無比の大変、往古乱臣賊子これ有り候得共、斯の如く、王城に向い奉り、発砲等の儀はこれ有る間敷、尊氏・北条にもまさり候大姦大悪と存じ奉り候」(「続再夢紀事」)。
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禁門の変後の会津藩による敗残兵狩りと残虐行為
勝海舟、憂慮する。「聞く京地にて会藩、生捕りの者、残らず斬首と云う。・・・或いは私怨に出づるか」(7月23日付け日記)。
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「会津及び近藤勇が率いる新選組等凶暴至らざるなく、或は客月(7月)19日の騒乱に乗じ、平野二郎、国臣以下在獄の義士を濫殺し、或は日に尊王憂国の志士を捕らえて之を殺し、或は獄に下しての非道の苛責を加え死に至らしむる等の惨酷は枚挙に遑(いとま)あらず。余の知己橋本半助もこの毒手に陥り、終に囚中に没せり。…是を以て天下の志士等会藩新撰等を蛇蝎視すること一層を加え、長藩を憐れむの情も亦其度を高め、是より諸侯中にも長を援くるもの日を追ふて多きに至る傾きあり。」(「尾道市史」第2巻「維新前後に活躍した尾道の豪商」、竹内要助履歴書の脚注)
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朝敵長州藩に対して、京都・大阪・江戸の長州藩邸没収。26日、幕府、庄内藩酒井家に対して江戸の長州藩邸の接収を命じる。酒井左衛門尉ほか4大名が指揮の騎兵・歩兵が、日比谷御門の上屋敷、麻布の中屋敷に殺到。残留藩士120名を拘束し神田橋外旧陸軍所に閉じ込める。8月8日、取り壊し。3万6千余坪の敷地に建てられた建物は全て1日で取り壊され、藩士たちは掛川、大垣新田、沼津、牛久保など諸藩の江戸屋敷に預けられる、扱いは過酷をきわめ、慶応2年(1866)5月に釈放される迄の2年間に51名が没。また、長州へ逃げ帰る途中で幕府方捕虜となった60余の長州藩士も非情な扱いをうけ、半年余で刑死者6・牢死者39名に及ぶ。
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民衆の長州への同情と「残念さん」
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「元治元年(一八六四)末ごろから翌慶応元年(一八六五)にかけて、畿内の庶民のあいだに「残念さん」や「無念柳」の参詣がひろまった。禁門の変(蛤御門の変)で敗走し、仲間からはぐれた一人の長州藩兵が、尼ケ崎で捕らえられ自害した。これに同情した土地の人々は、誰いうとなく「残念さん」と称し、墓をたてて参詣するものが絶えなかった。それも尼ケ崎だけでなく、三里ほど離れた大坂からも参詣にでるものが増した。
将軍進発の五月ごろには、これに願かける群集がおびただしく、連日大混雑であった。大坂町奉行所や尼崎藩では道を通行止めにしたり、渡しを止めたりしたが、参詣ブームは少しもやまなかった。そのためついに大坂町奉行所は五月十七日、参詣を禁止した。それは民衆の長州藩への同情と、幕府への抵抗のあらわれであるとみることができよう。
類似のケースはほかにもある。大坂市内では、尼ケ崎での参詣が禁止されるとまもなく、長州藩兵が禁門の変で捕らえられて切腹した東御堂と千日墓所への参詣が始まった。尼ケ崎での参詣が禁止されたことへの代替行為である。
またこれより以前、大坂から遠く離れた大和国吉野では、文久三年(一八六三)に天誅組の指導者吉村寅太郎が処刑されたが、翌元治元年(一八六四)末には参詣者が多く、河内・伊勢からも参詣者がおしかけたという。残念さん参りの先駆である。五条代官は吉村の碑をこわして河中に投じ、吉村を祭った責任者として大庄屋ら二〇人を閉門にするなど処罰した。
大坂の長州藩の蔵屋敷(現西区土佐堀二丁目)は、禁門の変直後に破壊された。ところが慶応元年(一八六五)五月になると、蔵屋敷跡の柳の木に参詣することが大流行した。蔵屋敷内にあった稲荷が柳の木にのり移り、柳の葉をせんじて飲めば何病でも治るというのである。柳の葉がなくなると、人々は柳の木を切りけずるようになり、参詣人は夜どおし続いたのである。その柳はまた「無念柳」とよばれた。役人がいくら制しても群集がおしよせるので、参詣を禁止し、柳は切り払われた。そして、以後参詣するものは捕らえて厳しく処分すると令している。
したがって、吉野の碑詣り→尼ケ崎の残念さん→大坂の東御堂・千日墓→同長州藩蔵屋敷跡(無念柳)とつづく一連の民衆行動は、長州藩支持-反幕府の表示であるとみなすことができよう。」(南和男「維新前夜の江戸庶民」(教育社歴史新書))。
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「長州藩の天誅の闇の世界を、京都藩邸の指導者、木戸孝允や久坂玄瑞が統率していた。一八六四年二月下旬の大坂本願寺南御堂で起きた実例だが、長州藩尊王撲夷派は、天誅を実行し、なおかつ 「攘夷の赤心〔いつわりのない心〕」を吐露して切腹した志士を「演出」していた。
大坂でイギリス向け綿花を買い集めて長崎へ向かい、長州上関に寄港していた薩摩商船の船頭を暗殺し、首を持って上坂した長州藩在地の二人の無名の草莽がその主役である。深夜、久坂玄瑞や品川弥二郎ら十数人が、黒装束でガントウ(龕灯)をもって、木戸番を脅迫して南御堂の路地をとざし、船頭の首を梟首し、立札を立てた横で、本人の意に反して、その二人に「切腹させた」のである。実は、一度は長州へ逃亡した草莽を品川らが追跡、連れ戻していた。草莽は、肉親に、「切歯にたえない」が、もはや免れないので、「何卒々々、ご許容」と便りを残した。二人は、切腹の翌年、流行神「残念さん」になって、大坂市民の共感を集める。このように、激派草莽は、長州藩の尊摸運動の下部に組織されていった。・・・」(井上勝生「幕末・維新」(岩波新書))。
冷血の「長州ブランド」クリエイター。
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一方、明治元年の「堺事件」で切腹させられた11人に対しても、民衆は・・・。
「堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶(かめ)を「生運様(いきうんさま)」と云って参詣(さんけい)するものが迹(あと)を絶たない。」(森鴎外「堺事件」)。
大岡昇平さんにも「堺攘夷始末」なる詳細な研究所あり。幸運にも私は「中公文庫」(だったと思う)でこれを持っている。
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一番下にある碑は、「新京極東入る」とありますが、通常「裏寺町」と言われる通りのことです。通称か正式名かは知りません。
昔、四条通からこの裏寺町への入口近くに、「アルサロ」とかいう店がありまして、妙に下品で派手で、いつも背広のお兄さんがお店の前に立っている所がありました。もっともお兄さんにはガキに全く用事はなかったようで、チラとも見て貰ったことないですが。刑事モノのテレビドラマなんかで、「ガイシャはアルサロのオンナでっせ」とかのセリフがでようものなら、「ふーん、ああいうお店にいる女のヒトやな。ボク知ってるよ」と、ヒト知れず納得したものでした。
そのうち、名前がどんどん変わり、「長じゅばんサロン」ていうのもあり、想像を逞しくしても全然イメージできない名前もありました、当時は。
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天文3(1534)年信長誕生と父信秀

天文3(1534)年5月12日
織田信長、誕生
尾張下4郡守護代織田大和守の3奉行の1人織田信秀(居城勝幡(しょばた)城)次男。幼名吉法師。母は正室土田氏。生誕地には勝幡城・那古野城の2説(勝幡説が有力)。誕生日を決める確実な手掛りはなく、11、12、28日説あり。父信秀は天文3年以降に古渡城を新築、那古野城に平手政秀ら宿老を付けて吉法師を居城させる。
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○[信長以前の織田氏(概要)]:
越前丹生郡織田郷の織田剣神社の神官の家柄。越前・遠江・尾張斯波氏に従い尾張に下向。
1400年初、守護斯波義重のとき、織田伊勢守入道常松(常昌とも)が尾張8郡守護代となる。又代(小守護代)として織田出雲守入道常竹が尾張に在住。
織田伊勢守家は、14世紀~15世紀半、岩倉城を拠点に勢力を増すが、その傍流の一族が清洲城を拠点として一方の勢力となり、織田大和守として尾張下4郡を支配するようになると、伊勢守家は上4郡を支配するのみとなる。
尾張下4郡を支配した織田大和守家は、その後、勝幡城を拠点の織田弾正忠家、小田井城(名古屋市西区小田井)を拠点の織田籐左右衛門家、拠点は明らかではない織田因幡守家に分割され、3奉行として尾張下4郡を統治。その中で、勝幡の弾正忠家が勢力を増していく。
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「去程に尾張国八郡也。上之四郡、織田伊勢守諸侍手に付、進退して岩倉と云う処に居城也。半国下四郡、織田大和守下知に随へ、上下川を隔て、清洲之城に・・・」(「信長公記」巻頭)
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今回は、①この年と1年前くらいの世界の動き
②父信秀
③信秀/信長以前の織田氏(やや詳細)
について、先に触れてみます。
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天文2(1533)年の出来事概要
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・この年、毛利元就、三入高松城(広島市安佐北区可部町)を攻め、熊谷信直を降服させる。五龍城(広島県高田郡甲田町)宍戸元源と和約。さらに備後に影響力をもつ宮惣領家の本拠亀寿山城(芦品郡新市町)、多賀山氏の蔀(しとみ)山城(比婆郡高野町)などを攻略。大内氏の威力を利用しながら備後・安芸両国に影響力を及ぼすまでになる。
この時点で毛利はようやく「家中」とよばれた「譜代」家臣の外側に、周辺の国人領主を「国衆」として臣従させ、戦国大名としての姿を整え出す
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・この年、毛利元就、3男隆景誕生。
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・この年、フランシスコ・ザビエル(27)、イグナチオ・ロヨラの感化を受け、その仲間に入る(大回心)。
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1月15日
・英、ヘンリ8世、妃カザリンの侍女アン・ブーリンと結婚。カンタベリ大司教に兄嫁であったカザリンとの結婚は無効との裁定を出させる。
(カザリン;スペイン王フェルナンド5世とイザベラの子。早世したヘンリ8世兄の妃、スペインとの同盟維持を望む父ヘンリ7世が無理やり結婚させる。ヘンリ8世(18)、カザリン(24)。2人の間には6人の子ができるが5人が死産、1人の娘がメアリ1世(位1553~58))
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その後、ヘンリ8世は、・・・
・春、ヘンリ8世、腹心トマス・クロムウェルと図り「上告禁止法」を制定。教会関係裁判、直接ローマに上告することを禁止(最終決定権はイングランド国王)。
イングランド議会、教皇の最高司法権を否定(イングランド、教義的にもローマから分離)。 
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・5月23日、英、ヘンリ8世、自ら任命したカンタベリ大司教トマス・クランマー(44)に王妃キャサリン(カザリン)との離婚(結婚無効)を成立させる
そもそも結婚が無効であったという論法。
兄嫁キャサリンとの結婚を認めた法王庁は誤り、キャサリンは妻ではなく愛人と主張。キャサリンはウィンザー城を追われる(キャサリンの能力は高く評価され、国民の受けもよく、結婚無効後は皇太子アーサー未亡人としてアムプティルに引き篭るが、1536年(50)没まで住民にはPrincessでなくQueenと呼ばれ慕われる。
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・9月7日、エリザベス1世、ヘンリ8世とアン・ブーリンの間に誕生(1533~1603、位1558~1603)。男子出生と決めつけていたヘンリ8世は落胆。
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・翌1534年11月、イングランド国教会成立
ヘンリ8世、宗教改革議会召集。「国王至上法(国家首長令)」可決・制定。国王を英国宗教界における唯一・最高の首長と定める。英教会制度はローマ・カトリック教会から独立。首長はイングランド国王。
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3月19日
・大内氏の陶興房、大友方の是松太郎の筑前柑子岳城(福岡市西区)を攻略、少弐資元を高祖(福岡県前原町)まで進撃。22日、陶軍別働隊は筑紫平野を南下し筑後に迫り、この日、立花(福岡県立花町)で大友軍主力と激突。大内軍は筑前一帯をほぼ固めるが、少弐・大友軍は一層結束を固める。
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6月20日
・細川晴元・本願寺講和
3万の法華勢、京都に戻る。丹波勢引上げ。この後、京都の法華宗徒勢力最盛期を迎える。
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この年の細川晴元、本願寺、法華勢力の関係は、・・・。
・1月2日、川辺郡一向一揆1万、尼崎大物城(細川晴元属将松井宗信)包囲。一向一揆摂津で攻勢。
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・1月18日、洛内法華門徒・晴元勢3万、京都進発。23日、摂津富田の一向一揆駆逐。
(細川晴元部将薬師寺国長、法華宗徒を率い摂津山田に一向宗徒を攻撃、山田市場焼討ち)
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・2月9日、一向一揆、堺の細川晴元の陣屋襲撃。細川晴元・茨木長隆、淡路洲本へ敗走。4月7日、再上陸。
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2月14日、京都町衆、真宗僧侶を逮捕し、一向一揆のスパイとして処刑(「実隆公記」同日、2月15日条)。警察権掌握。
細川晴元の不在の間、畿内は無政府状態。洛中は木沢長政の軍が駐留、町衆主体の法華一揆の自検断が支配。
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・3月5日、・一向一揆、細川晴元属将伊丹親興居城伊丹城攻撃。7日、木沢長政、法華法徒1万で出陣、伊丹の一向一揆追払う。
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・4月1日、法華一揆、京都帰還。
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・4月2日、池田伊丹衆、佐井寺へ軍勢差向。伽藍炎上。
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・4月7日、細川晴元、淡路洲本から摂津池田島入り。池田城入城、後に芥川城入城。
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この月、京都町衆が法華一揆として細川晴元と呼応して摂津に進出。晴元・長隆らは池田から摂津上部の芥川城に進出、淀川を挟み中島・石山の一向一揆と対峙。晴元政権内での日蓮宗徒=町衆の勢威は上昇、軍事的にも侮り難い存在となる
この年(天文2年)末、幕府は法華宗寺院に京都防衛を命じる。京都の権門は日蓮宗(特に本願寺)の干渉を恐れる(「実隆公記」)。前年末には、日蓮宗とが先例を破り参内(「実隆公記」)。
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・「東の声聞師村に日蓮点差懸け放火す。言語道断の事なり」(「実隆公記」4月7日条)。
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・4月29日、法華宗徒・細川晴元・木沢長政の軍勢、堺攻撃。本願寺証如、堺より石山本願寺に戻る。
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・5月9日、法華一揆・摂津国人、石山本願寺包囲。
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・5月26日、細川晴国、山城高雄に出陣、細川晴元客将(摂津守護代)薬師寺国長と丹波に交戦。
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・6月中旬、細川晴国の丹波勢、京都乱入。18日、総攻め。薬師寺国長討死。
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石山本願寺(証如(16))は、畿内の武士勢力の半数近くの心をつかんでいる三好氏の権威に頼って、教団存続をはかろうとし三好千熊丸(12、長慶)に、晴元との講和を依頼。一揆側も、農村の疲弊甚しく、晴元政権も、室町幕府を復活させたばかりで、これ以上の戦乱は双方続けたくないという意志もある。阿波芝生城から大坂にあらわれた長慶は本願寺と幕府との和平を調停。証如法主は、ようやく武家への抵抗と引きかえに北陸加賀一国支配と、教団維持を全うするが、坊官下間氏率いる徹底抗戦派は、なお一揆をとかず、摂津各地にくすぶる。長慶は、これら一揆残党と、ある時は和し、ある時は掃蕩戦を行ない、しだいに摂津方面を安定させ、旧元長党を支配下に組み入れる。晴元は、この長慶の実績と、本願寺和平仲介の功により、木沢長政の斡旋により、天文3年10月、遂に長慶と和を結ぶ。ここに表むき長慶は晴元の有力被官、すなわち内衆となり、京都に屋敷を構え、幕府に出仕する身分となる。のち、長慶は摂津越水城を与えられる。
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6月24日
・スペイン、フランシスコ・デ・ピサロ、インカ帝国征服
ピサロは遅れてきたアルマグロとカハマルカで合流。「リマ」建設。スペイン人は海路補給に依存しているため海岸近くに新首都を建設。
ピサロのカハマルカ到着時、インカ帝国は、嫡出ワスカルと庶出アタワルパによる皇位継承争いの内乱でアタワルパがワスカル軍を破り支配を始めたばかりの頃。アタワルパの身柄を抑えたピサロはインカの財宝を集めるのに数ヶ月を要し、1533年7月26日無用になったアタワルパを絞殺、11月インカの道路を辿ってクスコへ入る。後、10年以上にわたるスペイン人同士の内乱が始まる。
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セバスチャン・ド・ベラルカサール:
カハマルカでピサロからペルー北部に建設の居留地サン・ミゲル・デ・ピウラの責任者に任命。ピウラへ向う途中、インカ帝国アタワルパの本拠地キトーに財宝が沢山あると聞きキトーへ直行、アタワルパの将軍ルミニャウイを倒してキトーへ入城(実際には財宝は無し)。1534年ピサロは彼をキトー総督に任命。15355年、海岸部に港町グアヤギルを建設。
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・11月15日、フランシスコ・ピサロ、合流したアルマグロ一行と共に。黄金財宝に飾られたインカ帝国の帝都クスコに侵入、占領、略奪。
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to be continued to 「信秀」、「信秀/信長以前の織田氏」
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(信秀/信長以前の織田氏)
http://mokuou.blogspot.com/2009/05/blog-post_13.html
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「★信長インデックス」 をご参照下さい。
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2009年1月18日日曜日

鎌倉 鎌倉五山 浄智寺







昨日(17日)午後、私をいれて4人で北鎌倉~鎌倉まで歩いた。
意識してなかったけど、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺と「鎌倉五山」の4つまで参拝することになった。
今日の写真は浄智寺(他も追って掲載します)。
北鎌倉から行くと、円覚寺、明月院(昨日はここには行かず)、東慶寺の次に訪れることになるお寺。とは云え、いつもはこのお寺の脇の道を通って源氏山~銭洗弁天というコースを歩くのが常で、このお寺に入ったのは初めて。
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[パンフレットの説明文]
寺    史
浄智寺が創建された十三世紀の終わりごろの鎌倉は、北条氏の勢力がきわめて盛大で禅宗がもっとも栄えた時期である。
開   基
執権として有名な北条時頼の三男宗政が二十九才の若さで弘安四年(一二八一)に歿しているが、間もなく宗政夫人が一族の助けをえて寺を起こし、亡夫と幼少の師時を開基にしたと思われる。
開   山
中国の名僧兀庵普寧と仏源禅師大休正念(請待開山)、および日本僧の真応禅師南州宏海(準開山)の三人が名をつらねている。
・・・南州宏海は嘉元元年(一三〇三)に死去し、以後、高峰顕日・夢窓疎石・清拙正澄・・・などの高僧がつぎつぎに住職に迎えられている。
延文元年(一三五六)の火災で、初期の伽藍をうしなうが室町時代ごろには、方丈・書院・法堂・五百羅漢像を安置した三門・外門・行堂・維那寮・僧堂などの主要な建物、・・・といった塔頭が建ちそろっていた。
戦国時代から江戸時代にはいると、鎌倉は農漁村になってさびれ、寺院の多くもしだいにかつての繁栄ぶりをうしなう江戸時代の後期ごろには、仏殿・方丈・鐘楼・外門・惣門そして塔頭の中の八院などがあったが、これらの建物は大正十二年の関東大震災でほとんど倒潰した。現在は三門・二階に鐘をさげた楼門や新しい仏殿の曇華殿・方丈・客殿などが伽藍を形造っている。
環    境
浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相ついで寺院を建てた北条氏の所領であったので、今でも禅利が多い。山を挟んだ隣りが駆込寺の東慶寺で、その向かいには円覚寺があり、建長寺も数分の場所にある。どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸と呼ぶ谷合に堂宇を並べている。
浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのぴ、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の隧道をぬけると、洞窟に弥勒菩薩石化身といわれる、布袋尊がまつられている。全域が、昭和四十三年三月・史跡に指定された。
参道入口の石橋のほとりにある甘露の井は鎌倉十井の一つとして名高く、裏山天柱峰には名僧竺仙梵僊の供養塔や以前この地に住んだ英国の日本文化史研究家G・B・サンソムの記念碑がある。植物もゆたかで、梅・牡丹・シャガ(著我)・夏椿などのほか、庭の白雲木が、五月には美しい花を開く。参道右横の大木タチヒガン(さくら)は、見事な美しさで神奈川県指定百選の一つになっている。また、仏殿横のコウヤマキは鎌倉第一の巨木で、鐘楼前のビャクジンとともに鎌倉市指定文化財である。
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パンフレットでは「梅」とある「蝋梅」という花が写真のようにほころびはじめてました。
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室町時代の五山の威力は絶大のもので、僧院経営・荘園経営にあたる僧侶集団(東班衆)は高利貸しにも転化していったと云います。
「・・・、禅宗に関しては京都および鎌倉の両五山を二つの核とする幕府の〝官寺〞として南北朝時代を通じて着々と整備され、五山関係の禅宗寺院の荘園は増大の途をたどった。・・・、これらの荘園を拠点に、五山僧侶の経済活動が著しく活発化したことが室町中期の大きな特色である。」(今谷明「戦国期の室町幕府」)。
パンフレットには、戦国時代~江戸時代は鎌倉はさびれたとあり、上の今谷本と矛盾するように思えますが、そもそも戦国~江戸をひとくくりにするのに無理があるように思えます。
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6月の再訪もご覧下さい。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。

「鎌倉インデックス」もご参照下さい。

昭和12(1937)年12月25~27日 南京(12) 地獄のクリスマス

12月25日
・日本陸軍、この日予定の広東を目標とする華南方面の上陸作戦を中止。
上陸作戦は台湾で臨時編成した第5軍(第11師団の1個旅団、重藤支隊基幹)を使用して、この日決行の予定。しかし、海軍が、一時は日米開戦の風説さえ流れたバネー号事件の反響に慌て、新たな刺激材料を作りたくないと、急遽中止を申し入れ。陸軍は憤慨するもこれを受け入れる。但し、陸軍も南京での非行を放置すれば、対外関係で動きにくくなると判断。28日の戒告となる。
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・撃墜された日本の爆撃機の調査の為に南京入りした奥宮正武、中国兵の処刑を目撃。27日にも。(「私の見た南京事件」)
「・・・そこには広大な玄武湖があった。ところが、そこで、目もあてられないような惨状を目撃した。湖岸やそこに近い湖上に数え切れないほどの数の中国人の死体が投棄されていたからであった。
・・・このことは、それまでの南京で異常な事態が発生したことを示唆していた(註 十三日、一部の部隊がここで敗残兵を処刑したとの記録があるが、私の見たところではそれだけではないようであった)。・・・下関にはかなり大規模な停車場と開源碼頭(波止場)があった。そこで、その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。
・・・構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江上に投棄されていた。
・・・この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。
・・・その日、私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入るのを確認したのち、現場から退去した。・・・」。
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「十二月二十七日。・・・下関の処刑場に・・・再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。・・・「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」と質間したところ、「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」との答が返ってきた。このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。
・・・この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。私は、この二目間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれぱ、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題ではないかと思われた。
・・・その後、市の南部にある中華門を出て、雨花台方面を調査したところ、計九名の遺体を発見することができた。二人は九六式艦爆の搭乗員で、七人は九六式陸攻の搭乗員であった。いずれも土葬で、立派な木製の棺に納められていた。私はそのような手厚い取り扱いをしてくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった。・・・」。
*
・中国共産党、対時局宣言を発し、遊撃戦の展開・大衆動員を主張。
* 
・南京、金陵女子文理学院の婦女難民キャンプ開設責任者ミニー・ヴォートリン(51、同学院教授)のこの日の日記。
「クリスマスがきた。街には、いぜんとして殺戮、強姦、略奪、放火がつづき、恐怖が吹き荒れている。ある宣教師は〝地獄の中のクリスマスだ″と言った」
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・トスカニーニとNBC交響楽団の最初のコンサートが放送される。
*
12月26日
・駐華ドイツ公使トラウトマン、日本の新4条件を行政院副院長孔祥煕に伝達。
孔はトラウトマソに対し、「日本が提出した条件には思いつくかぎりのすべてのことが含まれている。日本は十個の特殊政権と十個の非軍事区が欲しいとでもいうのだろうか。こんな条件を受け入れられるものはいない。日本は将来に思いを致さなければ自ら滅亡するだろう」といったという(「蒋介石秘録」12)。
*
・難民区内で安全区国際委員ベイツらの立会いのもとで「査問工作」。
日本の将校が元兵士でと「自首」すれば米と仕事を与えると説得、男子200~300(殆ど市民)が「自首」し、銃殺される。
「元兵隊であろうがなかろうが、とにかく元兵隊と認定されたものの集団虐殺となったということだ。ここは、捕虜の生命はさしせまった軍事上の必要以外においては保障されるという国際法の条文を語る場所ではないし、日本軍もまた、国際法などは眼中になく、いま南京を占領している部隊の戦友を戦闘で殺したと告白した人間にたいしては復讐すると公然と言明したのである。」(ベイツ)。
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・日本軍、青島の交通遮断宣言
* 
・第9師団(金沢)、蘇州へ出発
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・第73回議会開院式。
* 
12月27日
・江浦県、日本軍40が村々を捜索し、農民・難民17を殺害、婦女6人を強姦。(「江浦県誌」)。
* 
・駐蒙兵団(兵団長蓮沼蕃中将)、関東軍と切離し編成
* 
・文芸評論家・「東京朝日」嘱託杉山平助、朝7時に車で上海を発ち、夕5時、南京支局に着。
支局は国際難民区の中にあり、「避難民がまはりにいっぱい住んで」おり、「死骸はまだ、いたるところに転がってゐ」た。夜、若い従軍記者がランプの周りで「戦争と人道」を巡り議論を始める。「勝利のためには・・・一切の道徳律は無力であり無能である」と杉山は論じる(「南京」(「改造」38年3月号))。
南京滞在中、「支那人の死骸がツクダニのやうに折り重なった南京の城壁のほとりを、ひとり静かに歩い」た。「南京城内外、鬼哭啾々たるの恨み」を聞く。
「南京の印象は、あまりに強烈だ。私の心はレストレスである。不安である」と、杉山は朝日紙上で告白(38年1月18日)。
*
・新京(長春)の日本産業株式会社、満州重工業開発株式会社に改組、満州国特殊法人となる。日産コンツェルンが満州に進出し、「満州国政府」と折半出資(資本金4億5,000万円、総裁鮎川義介)。
* 
この会社は、満州軽金属、満州自動車などの既設特殊法人を傘下におさめ、その他の既設企業とならんで、「5ヶ年計画」の中心的推進企業となってゆく。
「満業」設立は、満鉄のあり方に大きな改変を加える。即ち、「満業」が持株会社として重工業部ブロックと満鉄が持っている株式譲渡を受けるため、鞍山製鉄所をもつ昭和製鋼所の株式の75%をはじめ、持株会社に投資してきた持株1億890万円を満州国に譲渡し、残った鉄道部門、炭鉱部門、それに製油・中央試験所などを含め調査研究部門を業務の中心におくかたちとなる。
*
・内務省警保局、中野重治、宮本百合子、戸坂潤、岡邦雄、鈴木安蔵、堀真琴、林要に執筆禁止措置。
* 
「一九三七年十二月二十七日、警保局図書課が、ジャーナリストをあつめて懇談会を開く。その席上、ジャーナリストが自発的に執筆させないようにという形で、執筆禁止をした者、作家では中野重治、宮本百合子、評論家では岡邦雄、戸坂潤、鈴木安蔵、堀真琴、林要の七名があった。益々その範囲を拡大するという風評と図書課長談として同様の意こうの洩されたことは、事実指名をされなかった窪川夫妻などの執筆場面をも封鎖した結果になっている。
一月十七日中野重治と自分とが内務省警保局図書課へ、事情をききに出かけた。課長は数日前に更迭したばかりとのことで、事務官が会う。大森義太郎の場合を例にとって、何故彼の映画時評までを禁じたかという、今日における検閲の基準を説明した。それによると、例えば大森氏はその時評の中に、日本の映画理論はまだ出来ていない、しかしと云ってプドフキンの映画理論にふれている。大森氏がプドフキンという名をとりあげた以上、それは日本にどういう種類の映画理論をつくろうとしている意図かということは 『こっちに分る』 のだそうである。又、同じ映画時評の中に、ある日本映画について、農村の生活の悲惨の現実がある以上それを藝術化する当然さについて云っているが、これは、悲惨な日本の農村の生活は『どうなれば幸福になれるかと云っているのだという意味がある』。従って映画時評であっても人によっていけないというわけで云々。
『内容による検閲ということは当然そうなのですが、人民戦線以来、老狡になって文字づらだけではつかまえどこがなくなって来たので・・・』云々。『一番わるく解釈するのです』 本年は憲法発布五十年記念に当る年である。
二月十一日には大祝祭を行うそうである。その年に言論に対する政策が、一歩をすすめ、こういう形にまで立ち到ったことは、実に深刻な日本の物情を語っている。常識の判断にさえ耐えぬ無理の存在することが、執筆禁止の一事実でさえ最も雄弁に告白されているのである」」(宮本百合子「一九三七年十二月二十七日の警保局図書課のジャーナリストとの懇談会の結果」)
* 
この時、中野重治と宮本百合子は中島健蔵を訪ねるが、よい知恵は出ない。こうして、執筆禁止措置は、抗議も出ぬまま既成事実化される。
*
宮本百合子の覚え書の末尾。
「文藝家協会へ行って様子をきいて見た。予想どおりである。大体今回の執筆禁止は文壇をつよく衝撃したが、全般的にはどこやら予期していたものが来た、その連中はやむを得まい、却ってそれで範囲がきまってすこし安心したような気分もあり、だが、拡大するという威嚇で、やはり不安、動揺するという情況である。文藝家協会の理事会は、その動揺さえ感じない、益々わが身の安全を感じて安心している種類らしい。従って、生活問題としても、はっきりそれをとりあげる気組みは持っていないと見られる。文学者の問題として声明を発表するなどということは、存じもよらぬ程度である」。
* 
中野重治の北川省一宛て葉書、「小生は去る十二月二十七日午後を以て一切の新聞雑誌に一切のものの執筆を禁止されました。小生の文筆業もここにひとまず終りを告げたわけです」(日付けなし、消印不明、年末~年始と推定)。
* 
中野重治「島木健作氏に答え」(「文藝」38年2月号)のために書いた力作評論が、発表間際に検閲の為に削られる。
* 
・綿製品ス・フ等混用規則、規制強化。
* 
・京都帝国大学(京都大学)文学部に日本精神史講座設置。38年1月15日、東京帝国大学(東京大学)に日本思想史講座設置。
* 
・この日、女優の岡田嘉子が家を出る
*
to be continued

2009年1月15日木曜日

京都 南座 阿国歌舞伎発祥地








南座とその向って右側(鴨川側)にある阿国歌舞伎発祥地の碑です。
この日、偶然南座のだしものも「出雲の阿国」(前進座)でした。
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1871年3月24~25日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(6)

■1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・「未完の黙翁年表」より
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3月24日
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・仏、パリ第7区庁舎制圧。ヴェルサイユ議会に対するパリ区長たちの調停の試み、失敗。
* 
・国民軍中央委員会、反革命弾圧の為、断固とした処置をとり、パリの軍事権カをウード、プリュネル、デュヴァル将軍からなる軍事評議会に委ねる決定。元国民軍司令官リュリエ逮捕。
* 
22、23日は、中央委員会にとって状況は重大になる。
共和主義連合(自由主義的で合法主義的な連合)との間の交渉は失敗。
ブルジョア派大隊は市の中央の一部を占拠し、活発な再組織を実施。
中央委員会支持者、インターナショナル派、監視委員会委員の間に様々な困難と不決断。しかし、この時(24日)、中央委員会は、確信をもって精力的に行動開始、リュリエを無能力者として解任し、代りに3人の活動家を任命。
* 
・3将軍は、任命されるやベルヴィルの大隊を派遣して第6区区役所を占領させる。「秩序派大隊」が占拠するされたサン=ラザール駅を遮断するため聖バチニョル高地から道路を監視させる。
最後に、プリュネルは、中央委員会代表者が否応なく、第3、10、12、18区の区長、助役の地位を奪っている間、ベルヴィル住民と共に、第1、2区の区役所を奪取。
* 
3将軍の宣言。
「中央委員会の求めによって共和国国民衛兵を臨時に指揮するという重要で困難な任務を担当するに際し、われわれは全市民の間の社会的協調の回復を確立するため、この使命を強力に遂行することを誓う。われわれは秩序を望む
・・・しかし、おとなしい歩哨を殺害し、あらゆる悪弊を許すことによって、すでに失格した体制が擁護する秩序は望まない。暴動を挑発する者どもは、君主制の復活という彼らの目的を達するために、恥ずべき手段を用いることも躊躇しない。彼らは銀行や糧秣庫を差押え、国民衛兵を飢えさせることも躊躇しない。もはや議会主義の時ではない。行動し、共和国の敵を厳しく罰する必要がある。われらと共にあらざる者は、すべてわれらにそむく者である。バリは自由でありたいと望む。反革命はパリをおぴえさせはしない。しかしながら、この大都市は、公共の秩序を乱すものが罰されずにいることを許さない。・・・」。
* 
○[コミューン群像:エミール・フランソワ・デジレ・ウード]
パリで医学を学び、同時に印刷所で働く。無神論的な新聞編集者として、プランキ主義的出版物にも寄稿、第2帝政反対闘争に積極的に参加し、たびたび警察の弾圧を受ける。プランキの最も近い協力者で、1868~69年プランキが作った秘密戦闘組織の百人隊長である。1780年8月14日プランキ主義者のラ・ヴィレット監獄襲撃に参加して死刑判決。
1870年9月4日の革命後、国民軍第138大隊長、10月31日の蜂起に参加し、その後一時ベルギーにいく。国民軍中央委員会委員。第20軍団長として、3月18日の革命にめざましい役割を果たす。
3月24日、将軍に任命され、パリの軍隊の3司令官の1人に任命される。26日、パリ・コミューン議員に当選(第11区)。コミューン執行委員会および軍事委員会の委員になる。4月3~4日のコミューン戦士のヴェルサイユ進撃の際、1縦隊を指揮。4月15日から南部戦線諸堡司令官、4月19日からセーヌ左岸諸堡査察総監。5月5日から第2予備旅団指揮官、5月9日、第2次公安委員会委員。
「五月の一週間」の市街戦の積極的な参加者。軍法会議で欠席のまま死刑判決。1871年夏、ロンドンにいく。コミューン亡命者グループのなかで、バクーニン派と、改良主義的トレードユニオンの指導者たちに反対する闘争を支持。のちにスイスにおちつき、新開『レヴァンシュ』を発行。1880年の恩赦ののちフランスに帰国。プランキ主義の組織「中央革命委員会」創立者の1人。
* 
○[コミューン群像:ボール・アントワヌ・マグロアール・ブリュネル]
1855~64年将校として勤務(騎兵隊、のちアフリカ狙撃兵部隊)。ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍第107大隊を指揮。プランキ主義者に近い。
70年10月31日、71年1月27~29日の諸蜂起に参加。国民軍将校団会議で総司令官と宣言され、国民軍諸大隊の全体会議についての命令を出すが、失敗し、逮捕、軍法会議による禁錮2年。
2月26日夜~27日、国民軍により釈放され、国民軍中央委員会委員に選ばれる。3月18日、市中心部に前進した国民軍諸部隊を指揮し、18日夜~19日、市庁舎占領、赤旗を掲げる。24日、国民軍兵士を率い、ルーヴル区役所(パリの反革命の中心部の一つ)を占領。同日、将軍、国民軍司令官に任命される。26日、パリ・コミューン議員に選出(第7区選出)。公安委員会設置に賛成投票。国民軍第10軍団長となり、南部戦線の連盟兵第2軍の編成に入り軍事作戦を指揮。イシ堡陥落後、イシ村防衛部隊を指揮し、頑強な戦闘(5月12、13日)の後撤退。必要な補強を受けなかったと主張するが、勝手に自分の戦闘のポストを離れた点で軍法会議にかけられ、ヴェルサイユ軍のパリ侵入まで投獄。
「五月の一週間」の頃は、パリ中心部でコミューン戦士諸部隊を指揮。22日~23日、彼の指揮のもと連盟兵はコンコルド広場でバリケード闘争。ブリュネルの行動は、市街戦の戦術を応用した模範となる。25日、シャトー・ドー広場を巡る戦闘で重傷を負いロンドンへ逃れる。
71年10月2日、欠席裁判で死刑宣告。亡命中は、ダームスの海軍学校で教え、亡命したコミューン戦士たちの会合でも演説する。恩赦ののちフランスに帰国。
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・中央委員会声明、5綱領を提示。
①唯一の可能にして不可欠の政府としての共和制の維持。
②パリの自治権。
③警視庁の廃止。
④常備軍の廃止、国民衛兵をパリにおける秩序維持の唯一の責任者たらしめる。
⑤国民衛兵のすべての将校を選挙する権利。
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・パリのインターナショナル派、フランケルの強力な働きかけにより、この日夜の集会においてようやく中央委員会を公然と支持し、選挙候補者を指名し、独自の選挙リストにインターナショナル派候補者の氏名記載を中央委員会に要求することを認める。
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インターナショナル・パリ支部は、幾度かの集会で、中央委員会及びコミューンと結びつく事へのためらいを表明。
最も大きな影響力をもつインターナショナル派プノワ・マロンは、合法主義者と調停派区長たちの呼びかけを支持し、中央委員会の行動と選挙に関する悲観論をかくさず、自ら革命運動を放棄する。別の有力なインターナショナル派グーレは、インターナショナルは中央委員会にヴァルラン1人を送っているに過ぎず、従ってインターナショナルは何の責任も負わされないことを強調。
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・「ラ・コミューン」新聞、地方におけるパリ支持の蜂起の動きを伝える。
「パリの事件は、ヴェルサイユのの『反-官報』が、怯えている地方にむかって証明しようと望んでいるような、孤立した行為でも異常な行為でもない。
パリで起っていることは、リヨン、サン=テチエンヌ、マルセイユに反響をよびおこしている。昔のリュテス(現在のパリ)のコミューン革命は、七世紀前に、北部と南部で、すなわちピカルディ-とイール=ド=フランスにおいては自治都市の形式の下に、南仏のいくつかの都市においては共和政の形式の下に、同じようにして発生したコミューン解放に、多くの点で似ている。当時のごとく、同じ火の粉が国中を燃え上らせ、火災は次から次へと絶えずひろがって行く。
北仏の自治体員は小売商人の代表であり、南仏の共和主義者は古代ローマのいくつかの伝統の後継者であったが、今日の革命派は工業の奴隷の代表であるというちがいはあるが・・・」
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地方の運動は、ばっと燃え上るが、「合法的」権威によって容易に鎮圧される。
パリにおいて、一定の理論的純化を行ない、蜂起的で民衆的なコミューンのイメージに、連合主義原理に従う建設的思想が、どうにか付け加わわる時には、既に遅すぎることになる。
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パリにおけるコミューン勝利の日が、マルセイユ(4月4日鎮圧)、トゥールーズ(3月27日鎮圧)、サン=テチエンヌ(3月28日鎮圧)、クルーゾーにおけるコミューン運動の終りの時期と一致する(3月27日)。リヨンでは、コミューン運動は既に敗北(3月25日)。
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・トゥールーズ。「コミューン万歳!」のスローガンの下に、国民軍兵士のデモ。国民軍将校がコミューン宣言。27日、知事ケラトリが軍隊を率い戻ってきて蜂起者を追い払う。
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[詳細]
24日、衛兵2千が県庁に向い、知事ケラトリーを弾劾、コミューンを宣言、カピトール(トゥールーズ市庁)の大バルコニーで声明文を読み上げる。トゥールーズ・コミューンは単一不可分の共和国を宣言し、パリ選出議員に対しヴェルサイユ政府とパリ・コミューンの和解を要求し、ティエールに国民議会解散を勧告。委員会は穏和急進主義を代表し、サン=シプリアン地区のプロレタリアートは代表をもたない。27日、3日間の混乱の後、ケラトリーは数百の部下と共に攻撃に移り、難なくカビトールと県庁を再び手に入れる。
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・ナルボンヌ、武装大衆、市役所占拠。ナコミューン自治宣言。31日、市庁舎奪回。
運動の先頭に立つのは、有名な民主主義者エミール・ディジョン。24日、国民軍兵士が市役所他の政府の建物を占領し、コミューンを宣言。兵器廠を襲い人民に武器を与え、県庁、駅、郵便局などを占拠。政府軍兵士は市外に撤退するが、28日、司令部は、補強部隊を率い軍隊をナルボンヌに入れる。31日、ゼンツ将軍率いるアルジェリア狙撃兵(アラビア人兵士)が街を包囲し、砲撃すると威嚇。ディジョンは市庁舎を明け渡し、外人傭兵が市庁舎を占領。市内のパリケードは破壊され蜂起は鎮圧。
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・ニーム、コミューンの試み挫折。
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・夜、サン・テティエンヌ炭鉱地方、市役所選挙。知事射殺。26日、国民軍委員会がコミューン宣言。28日、軍隊が市役所奪還、占領。
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[詳細] 
3月24、25日、国民衛兵を先頭に大群集が市会を襲い、コミューンの自由選挙の組織を担当する臨時民衆委員会のために市会の譲歩を要求。短い乱闘があり、知事を殺害。25日~26日の夜、委員会を設立、29日の為の選挙人を召集。市議会、辞職。「帝政と王政の立法がわれわれから奪い取った自治権と独立を再び獲得すること」を、コミューンの唯一の任務と定める委員会が、召集をかけるが、坑夫も含め誰れも動かない。28日朝、単純な降伏勧告に従い、最後の国民衛兵たちが市庁を明け渡す。
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・ビチ(ロレーヌ)。フランスの要塞ビチの陥落。ピチ:1870年9月3日、バイエルン軍が包囲。フランス・ドイツとの暫定平和条約締結にもかかわらず、8ヶ月半以上も降服しなかった。
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・ドイツ政府、ヴェルサイユ軍の8万までの増強をティエール政府に許可。条件は集結後3日以内に、パリに対し軍事行動開始するというもの。
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ティエールは着々と軍備を充実させる
25日には、「私は軍隊を再編成しつつある。二、三週間もすれば、われわれはパリを解放するのに充分な兵力をもつことになると思う」とチラールに知らせる。
ルクセンプルグ駐屯部隊を、大砲と共に無傷で取戻し、ラ・マリウズ、ドーデル、ファロン、デロジャがヴェルサイユ周辺を固めている。やがて、指揮官にしっかりと率いられ、巧妙な宣伝によって、パリの共産主義者、略奪者、無政府主義者、唯物論者に対する憎悪を吹きこまれた10万の兵隊をもつことになる。
「区長たちの抵抗は、政府に一〇日間の余裕をあたえた。幾世紀にも価する一〇日間である。じっさいこの一〇日間が政府に防御を組織することを許し、カにカを対抗させることを許したのであった」(ジュール・クラルティ)。
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3月25日
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・仏、国民軍中央委員会とパリの一部の代議士・区長の間に、26日にコミューン選挙施行について協定。国民軍中央委員会は選挙アピールを採択。コミューン議会選挙、支障なく進捗。
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「市民諸君、われわれは、熱烈な和解の願望に導かれ、われわれのあらゆる努力の絶えざる目標であるこの融合の実現を喜び、われわれと戦う人々に友愛の手を心からさしのべた。しかし依然として策動が続けられ、とくに夜間に霰弾砲が第二区の区役所に移されるなど、われわれとしてもその最初の決定を固持せざるをえない。『投票は三月二六日の日曜日に行なわれる。』 もしわれわれが相手の考えを誤解しているのなら、日曜日の一般投票にわれわれと共に参加することによって、誤解を解いてくれることを願うものである。一八七一年三月二五日市庁舎にて 中央委員会委員」
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「国民衛兵中央委員会は、パリ選出代議士、区長および助役の参加をえて、パリにおける内戦と流血を避けると同時に共和国を強固ならしめる唯一の手段は、直ちに選挙に取りかかることであると信じ、明日の日曜日、全有権者市民を召集する。バリの住民諸君は、現在の状態において、選挙だけが市の平和を保証できる真摯な性格をもつので、諸君がすべて投票におもむくことを命じるものは愛国心であることを理解されたい。投票場は午前八時に開かれ、夜の二一時に閉ざされる。『共和国万歳!』 パリ区長ならびに助役(以下署名)。パリ在住セーヌ県選出議員(・・・・・)。国民衛兵中央委員会(・・・・・)。」
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・国民軍中央委員会、とばくを禁止。「官報」に、テュイルリ公園と諸博物館を公開の報道。
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・工業都市クリュゾー市長デュメ、市内のコミューンを代表すると声明。
国民衛兵が中心となり、市役所前広場を占領し、コミューンを宣言。翌日、軍隊到着とともに立消え。
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・ライブツィヒ。社会民主党新聞「フォルクスシュタート」、ドイツ政府のパリ・コミューンに対する敵対的態度を暴露。
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to be continued

2009年1月12日月曜日

京都 龍馬、慎太郎、小五郎の像




ちょっと俗っぽいですが・・・。
上は円山公園内、下は河原町御池上ル東側。
彼らの寓居跡や遭難の地のいしぶみは、またのちほどご紹介。
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「寓居跡」はコチラ
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「★京都インデックス」もご参照下さい。
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明治17(1884)年秩父9月 (8)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 加波山事件 

久々の本シリーズ掲載ですが、この年は11月の蜂起までにまだ2つほど大きな山があります。
①加波山事件と、②自由党解党。それに、蜂起後は、③武相困民党結成。
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■明治17(1884)年秩父(8)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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9月16日
・小室信介「清国通信」(「自由新聞」)全14回。
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・竹久夢二、岡山県邑久郡本庄村大字本庄119番邸に誕生。実家は酒の醸造と取次販売。明治34年上京(17)。35年9月早稲田実業高校入学。
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オーストリア、ドイツ、ロシア3帝同盟君主、ロシア・ポーランド国境の狩猟館で会合。バルカンの現状維持の重要性確認。
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9月20日
・秩父困民党井上伝蔵、東京の静寧館を訪問。大井の軽挙阻止論を聴取した筈。
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9月21日
・新潟市内の名刺不動院で北陸七州懇親会。参加者は千数百人。星亨の演説「政治の限界」。星の初めての逮捕。12月16日公判。18日判決。重禁固6ヶ月、罰金40円、代言人資格剥奪。
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星の演説の趣旨は「ロシアには国会がなくドイツの国会はないに等しい。両国は国民の義務として徴兵を行い軍備を拡張しているが、これは好ましくない。政府の任務は外患を防止し内憂を治めることで、農商工業に対する政府の干与は望ましくない。しかし、ロシア、ドイツ両国は鉄道を国有化し、電信、郵便制度にも干与している。また両国の政府は、宗教、教育に干渉し、人間に等級を設けている。私が政治を行えばそのようなことは行わない」というもの。
ロシア、ドイツ両国批判の体裁をとるが、実際には日本の藩閥政府を批判。しかし自分が政治を行えばそのようなことは行わない、との趣旨の発言をするやいなや、警官が中止・解散命令を発し、懇親会はやむなく解散。解散後、星は新潟警察署からの呼び出しを受けるが、再三の召喚にもかかわらずこれに応じず、翌22日、次の目的地新発田に出発。警察は当初は演説禁止程度の処分を考えていたが、召喚を無視された為、官吏侮辱罪によって星を逮捕。
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・武相困民党。9・5事件の被告171名が16日ぶりで保釈出所。或る者は「創傷甚シク」歩くことが困難であったという(須長上願書)。
*
・石阪昌孝、細野喜代四郎に書簡。銀行側の動向、対応への批判。22または23日午前、中溝昌弘に面会。「債主党」の内情を聞く。明治政府のある限り云々、政府の威力を借り云々、このままでは困民救治ノ方策はたたない、など債主を激しく非難。
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9月23日
・加波山事件

福島自由党琴田岩松・河野広躰、栃木自由党鯉沼九八郎、茨城県士族富松正安(37)ら16名、茨城県加波山挙兵(この月、栃木県庁開庁式の情報あり、三島・政府高官暗殺の資金調達のため神田小川町の質屋を襲う。逃亡途中、爆弾投擲。また12日鯉沼の作業場で爆弾破裂、鯉沼重傷。追詰められ、茨城・富松正安を動かして加波山の挙兵)。警官隊の攻撃に四散。10月にかけて関東各地自由党員300名拘引、弾圧。田中正造12月23日迄79日間拘留、不起訴。死刑7・無期懲役7、有期懲役4。
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[経緯]
1883(明治16)年10月、三島通庸が栃木県令となるや、福島県下で強行した同じ政策を栃木の人民や民権家たちに押し付ける。茨城県士族富松正安らは、関東の態勢を立直すため河野広躰ら福島グループ栃木の豪農民権家鯉沼九八郎らに呼びかけ、東京飛鳥山で自由大運動会を開催。栃木の鯉沼と福島事件の残党琴田岩松との盟約成立、加波山グループの中核が形成される。
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その後、河野・鯉沼らは84(明治17)年2月、東京芝の三島邸を襲撃しようとして果さず、自由党本部寧静館を本拠に暗殺の機会を窺う。ところが、この激派壮士による寧静館乗っ取りに内藤魯一・星亨ら党幹部が退去を要求し、警察カを借りて追い出そうとした為は、河野らは憤激、「もはや頼むに足らず」と訣別、一層急進化する。
河野・鯉沼らのグループは三島邸近くに下宿して見張りを続けるが、三島は行方をくらませる。そのうち新華族となった数百人の祝賀会が同年7月元日に芝の延遼館で開かれると聞いて、一挙殲滅の好機を喜ぶが、その宴会も無期延期となる。
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7月13日、河野広躰、杉浦吉副、横山信六、鯉沼九八郎、佐伯正門の5名は、東京八丁堀三代町飯塚伝次郎宅に相会し、「大臣参議ヲ暗殺」し、政体変革を目指す盟約をする。その後、河野らは、琴田岩松、小林篤太郎、五十川元吉、草野左久馬らを仲間に加え、9月5日頃、宇都宮県庁開庁式を襲撃する計画を纏め準備(資金集め、爆弾製造)にとりかかる。
9月10日、資金獲得の為に神田小川町の質屋を襲撃。逃走途中、警官に咎められ、持っていた爆弾を投げる。また、この頃、鯉沼は栃木県稲葉村の自宅で強力な爆裂弾製造に成功するが、9月12日、鯉沼の作業場で大爆発が起こり、彼が重傷を負う。官憲はこれによって鯉沼グループの動きを察知し、検挙にのりだす。
* 
これより先、鯉沼は、3、6、8月に運動会(決起集会)をもち、100余、600余、1千余と民衆を動員。8月17日、鯉沼ッ原で開かれた第3回運動会では、元禄時代に百姓惣代として戦い斬首された農民指導者3人の弔魂祭を行い、堂々たる祭文を読みあげ、その場で警察に連行される。
* 
その後、河野・琴田らは茨城県下館出身の保多駒吉の紹介で、下館の有為館に潜伏、秘かに準備を進めるが、この時の有為館館主富松正安は、彼らを匿い、宇都宮県庁開庁式襲撃計画に参加してゆく。
まず、「明治十七年九月十四日」、に平尾八十吉・琴田岩松が、有一館生保多駒書の「添書」を携え有為館に富松正安を尋ね、「栃木県ノ開庁式ニ大臣参議ヲ爆殺シ、以テ革命ノ魁ヲ為サン」との計画への「同意」を促す。正安は、後から来館した「河野広躰、横山信六ノ諸氏」による熱心な「勧メ」により「同意」して計画に加わる。しかし、宇都宮県庁開庁式日程が、当初の9月15日から23日、27日に期となる間、小川町事件(9月10日)の全容が発覚し、河野・横山ら逮捕が確実な情勢となる。
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9月22日夕刻、富松正安ら16名の同志は、警察当局の捜査の手がのびる前に、急拠、有為館を離れ、加波山に向かう。23日朝、山上に蜂起。
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海抜709mの険しい石山である加波山山頂に、「一死報国」「自由取義」「自由之魁」などの旗がたつ。檄文は、「今日我国ノ形勢ヲ観察スルニ、外ハ条約未夕改メス、内ハ国会未夕開ケス、為ニ姦臣政柄ヲ弄シ、上聖天子ヲ蔑如シ、下人民こ対シ収斂時ナク餓孚道ニ横タハルモ之レヲ撿スルヲ知ラス。其惨状苟モ志士仁人タルモノ豈之レヲ黙視スルニ忍ヒンヤ」「夫レ大廈ノ傾ケル一木ノ能ク支フル所ニ非ズト雖モ、志士仁人タルモノ坐シテ其倒ルヲ看ルニ忍ビンヤ。故ニ我々茲ニ革命ノ軍ヲ茨城県真壁郡加波山上ニ挙ケテ以テ自由ノ公敵タル専制政府ヲ顚覆シ、而シテ完全ナル自由立憲政体ヲ造出セント欲ス。鳴呼三千七百万ノ同胞兄弟ヨ、我党ト志ヲ同フシ、倶ニ大義ニ応ズルハ、豈ニ志士仁人タルノ本分ニ非ズヤ。」とある。攻撃目標は「天皇」ではなく、「自由ノ公敵」である「姦臣」(専制政府)にある。人民との連携もない党員16人の挙兵
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9月23日夜、「金穀等ヲ掠奪センカ為メ町屋分署ヲ襲フコト」を「評決」し、河野広躰・三浦文治など10名が山を下り(富松正安、琴田岩松ら6名は、山頂にかがり火を焚いて待機)、爆弾を爆発させて町屋分署内に侵入、「洋剣及ヒ刀剣、外套、帽子、提灯及ヒ蝙蝠傘3三本、金員若干、横山信六・河野広躰逮捕状」などを「掠奪」。24日、同志の中から「此儀此処ニ囲マレテ空シク死スルハ実ニ遺憾」、「栃木ノ監獄署ヲ破り、囚徒ヲ率ヒ東京ニ出テ政府ヲ襲」うべきとの声が起こり、一同「評議」結果、富松ら同志16名は、同日夜加波山を下り、栃木を目指すことになる。しかし、加波山周辺は、既に警察の大包囲網が敷かれており、彼らは、下山すると間もなく、長岡畷付近で警察隊と戦闘(「長岡畷の戦」)。この戦いで、警察官隊側に「即死壱名」「負傷者数多」、加波山決起者側に「平尾八十吉」死亡の被害がでる。富松ら15名は、25日早朝、「其山ニテ休憩中」、同志中から「離散セシトノ議」が起こり、相談の結果、「再挙」を前提として、「鬼怒川ヲ越へテ離散スルコト」を決定。
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25日、「鬼怒川ヲ渡」ったところで「十月廿五日」に「東京ノ飛鳥山ニ密会」し、「再挙」を約束し「離散」。富松正安は共犯者と別れた後、玉水嘉一と共に東京に逃れ、1人で房州行の汽船に乗で千葉県安房国安房郡那古に渡り、10月2日から約1ヶ月間、自由党員佐久間吉太郎等に匿われる。その後、東京に出る為、市川の渡船場近くの木賃宿に宿泊中、11月3日未明、市原郡姉力崎交番の巡査の取り調べをうげ、直ちに八幡分署に護送。この時点で、蜂起者15名中の未逮捕者は原利八であるが、原は、18年2月4日、福井県足羽郡で捕縛。
* 
[富松の裁判]
千葉軽罪裁判所の予審審理(判事補岩倉重武)は、明治17年11月19日~18年1月19日、計7回行われ、3月16日に終結。予審終結言渡書によると、決定は、司法省の指令通りに、正安の行為を「犯した罪を免かれるための故殺」と認定するもので、事件を「千葉重罪裁判所へ移す」と言い渡すもの。正安は、予審決定を不服とし、直ちに千葉軽罪裁判所会議局に故障を申立て、却下されると更に大審院へ上告し、徹底的に抵抗。しかし、8月18日、大審院は申立てを却下。9月21日、千葉重罪裁判所検事塩野宜健は、予審手続き終了とし、千葉重罪裁判所長岡村為蔵宛に富松正安の公訴状を提出。10月15日、千葉重罪裁判所の公判開始。
* 
「曾て報道せし通り加波山暴徒の巨魁なる富松正安の公判は去る十五日前十時より千葉重罪裁判所に於て開かれたり。・・・富松の代言人は板倉中なりき。当日は管轄違の弁論にて十一時過となり遂に此裁判は明日にすべしとて退庁を命ぜられしが傍聴人は無慮六七十人の多きに及び公庭は傍聴人充満せり。富松の身装は羽織を着し白足袋を穿き中々元気の有様なりしと云ふ。其管轄違の申立等は東京重罪裁判所の被告人等と大同小異に付之を略し、稍や情を異にする個条を摘むで追々之を記載すべし。」(「朝野新聞」10月18日)。
正安は、公判開始後、管轄違いの申立てを行い、翌16日、却下されると、更に上告。11月30日、大審院が管轄違いの申立てを退ける。12月21日、千葉重罪裁判所公判が始まると、第2回目の管轄違いの申し立てを行う。これも、12月23日千葉重罪裁判所で、19年4月19日大審院で棄却。6月21日、公判再開となる。7月3日、死刑判決。直ちに上告。8月4日、大審院公判。8月12日、死刑判決。10月5日、執行。この事件での死刑言い渡しは、富松正安、横山信六、三浦文治、小針重雄、琴田岩松、杉浦吉副、保多駒吉の7名で、横山は病没し、死刑執行は、横山を除く6名。
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その他への判決。
草野佐久馬(無期徒刑)、五十川元吉(同)、玉水嘉一(同)、原利八(同)、河野広躰(同)、天野市太郎(同)、小林篤太郎(同)、鯉沼九八郎(有期徒刑15年)、門奈茂次郎(有期徒刑13年)、佐伯正門(重懲役10年)、大橋源三郎(重懲役9年)、栗原足五郎(軽禁鋼3月、罰金10円)、神山八弥(同)、内藤魯一(軽禁錮2月、罰金10円)、谷津鉄之助(同)、山田勇治(軽禁鋼2月、罰金5円)。樺戸集治監(草野、五十川)、空知集治監(玉水、原、門奈、小林、河野、天野、鯉沼)。獄死者4人(山口守太郎:栃木県監獄署栃木支所、横山信六:東京府鍛冶橋監獄署、原利八:空知集治監、大橋源三郎:宇都宮監獄署)。
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明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令(勅令第12号)により、多くの国事犯関係者が出獄することになるが、常事犯で処罰された加波山事件関係者には、これが適用されず。しかし、同年6月3日、東京控訴院、甲府始審裁判所、栃木始審裁判所、宇都宮始審裁判所の各検事は、大赦令が適用されない加波山事件関係者11名(門奈、草野、五十川、玉水、原(東京)、小林(甲府)、鯉沼、大橋(栃木)、河野、天野、佐伯(宇都宮))について、これを放免すべく特赦意見書を司法大臣山田顕義宛に提出。7月10日、山田司法相はこれを拒否。明治26年初、鯉沼・門奈・佐伯の有期徒刑の3人に対してのみ第2回目の特赦申請が出される。山縣有朋司法相はこれを受理、内閣法制局の審査後、伊藤首相がこれを指令、3名は26年2~3月に特赦放免となる。次いで27年、河野・玉水・天野・草野・五十川・小林6名の特赦措置がなされ、11月5、7日放免となる。更に、明治30年7月12日、河野広躰ら9名の公権回復となる。
* 
[名誉回復]
明治43年2月、茨城県真壁郡下館町長大内達三郎ら30名は、加波山事件殉難志士表彰の請願書を衆議院に提出。「去る明治十七年、茨城県下加波山に起れる所謂加波山事件殉難の志士に対し、下館町長大内達三郎外三十名は、代議士内藤魯一、武藤金吉、村野常右衛門、小久保喜七、佐々木安五郎、平島松尾、大津淳一郎外数代議士の紹介を以て、右国事犯者表彰の請願書を衆議院に提出したり。」(「東京日日新聞」2月14日)。これをうけて、衆議院議員小久保喜七・森久保作蔵・平島松尾は、加波山事件関係者の名誉回復の為の「加波山事件殉難志士表彰ニ関スル建議案」を衆議院に提出。同建議案は、「加波山事件殉難志士表彰ニ関スル建議案委員会」(委員長小久保喜七)に付託され、同委員会の審議をへて衆議院本会議にかけられる。3月5日、衆議院本会議は建議案を満場一致可決。常時犯で処断された富松正安らの名誉は回復。刑死後、23年5ヶ月。
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[農民蜂起との関わり]
下館士族で、教員の経験もあり、地方の有数の知識人でもある富松正安は、1883(明治16)年未、大井憲太郎を案内して古河、下妻、潮来などを遊説した際、「血雨を注ぎて専制政府を倒すの捷径たるを知れ」と演説し、その背後に既に戦う姿勢を無くした自由党指導部への大きな幻減があったとみられる。しかし、彼らには人民との共闘は念頭にない。8月10日御殿峠集結の現場を見た加波山グループの小林篤太郎・五十川元吉・平尾八十吉は、「好機乗ずぺし」と多摩に急行したものの、単なる農民騒擾にすぎないと見て、「此等の徒、皆な事理を解せず、主義を持せず」として絶望して帰ってきたというのがその好例。
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[三島県令と田中正造]
三島県令はこれを好機として、三島県政に抵抗する県会の有力者田中正造を逮捕しようと追及。正造は急ぎ出京し、三島暴政の証拠資料をもって外務卿井上馨を訪ねるが果たさず、警視庁に出頭して立場を釈明しようとする。しかし警視庁は正造を加波山事件の連累として拘留し、宇都宮に護送。その後宇都宮監獄から佐野警察署と身柄を移されるが、取調べもなく拘留、起訴されずに12月23日佐野警察署から釈放。この間11月21日、三島通庸は内務省三等出仕に転じ土木局長となり、間もなく警視総監に昇進。
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[蜂起者たちの思想] 
□富松正安、明治19年6月21日、千葉重罪裁判所公判廷で挙兵の理由を供述(『千葉新報』所載「富松正安公判傍聴筆記」)。
「被告富松氏ハ他ノ被告等卜共ニ加波山ノ挙ニ及ヒタルハ愛国憂民ノ情ニ出テタルコトニテ被告ハ常ニ自由ノ滅亡ヲ歎シ人民ノ疾苦ヲ悲ミ国権ノ枉屈ヲ憤り之レカ救済ニ尽力スルモ当路政務官ノ無稽ナル徒ニ圧虐ヲ行ヒ最早平穏ナル手段ニ依テ政治ヲ改良スルノ望絶へ果テタルヲ以テ則チ事曲ヲ腕力ニ訴へテ決セント檄ヲ飛ハシテ四方義士ノ応援ヲ促シタル次第ニテ其趣意ハ檄文ニ明カナリ而シテ政府ヲ転覆シタル上ハ明治十四年ノ詔ノ趣意ヲ遵奉シ善美ナル立憲代議ノ政体ヲ設立シ国会ヲ開キ朝野ノ全力ヲ集メテ以テ外条約ヲ改正シ内自由ヲ伸張シ国民ノ疾苦ヲ救ヒ西洋各国卜対峙シテ独立国ノ対面ヲ全フセント期セリ」。
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富松は、「愛国憂民ノ情」から、「腕力」による政府願覆を決意し、政府顚覆後は、「明治十四年ノ詔ノ趣意」を「遵奉」し、「善美ナル立憲代議ノ政体」を確立し、「国会」を開設しようとし、「朝野ノ全力」を集め、対外的には「条約ヲ改正」し、対内的には「自由ヲ伸張シ国民ノ疾苦ヲ救」う事を目指す。対内的にも、対外的にも国民一致してわが国の近代化につとめ、「西洋各国卜対峠シテ独立国ノ対面」を保つ事こそ、天皇の「趣意」に沿い、かつ、わが国が対処すべき最も緊要な事柄である。共和主義的志向はない
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□河野広躰(無期徒刑)、明治18年9月18日、栃木重罪裁判所公判廷できょうじゅつ。
「政府ニシテ暴ナルトキハ人民力モ亦暴ヲ以テ之二応スへキハ理ノ当然ナリ彼ノレベルソンカ檄文ニ暴悪政府ヲ顚滅シテ之ヲ改良スルハ人民ノ義務ナリ国民タルノ職務ナリ云々由是観之暴悪政府ヲ願覆シテ之ヲ改良スルハ国民ノ義務ニシテ天ニ対スルノ本分ナルコトハ明カナリトス又善良ナル政府ヲ確立シテ公衆卜共ニ其幸福ヲ得ントスルハ人間ニ在リテハ欠クへカラサルノ道徳タリ加之立憲政体ヲ確立スルハ我明治天皇陛下ニ対スルノ義務ナリ」。
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明治政府を「暴悪政府」と見做し、この「暴悪政府ヲ顚覆」させ、これを「改良」することは、「国民ノ義務」であり、「善良ナル政府」樹立の為に行動を起こす事は、「人間」として「欠クへカラサルノ道徳」に合致するという、一種の抵抗権を認める立場。しかし、この抵抗権の対象は、主権者の天皇や国家体制そのものではなく、あくまで天皇の意思に沿わない「暴悪政府」である。「立憲政体ヲ確立」する事が「我明治天皇陛下ニ対スルノ義務」と述べ、「暴悪政府」は、「天皇」「国民」の共通の敵であり、「国民」による「暴悪政府」打倒は、天皇の意思に叶う抵抗権の行使である、とする。
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▽富松正安の経歴
茨城県真壁郡下館町四番屋敷(現、茨城県下館市)に、父富松魯哉、母中村嘉兵衛長女のつね(文政12年10月30日生)の長男として誕生。慶応4年(1868年)2月22日、19歳で千葉県葛飾郡関宿町山本権六長女せき(嘉永3年10月30日生、18)と結婚。明治6年10月14日、父魯哉没し、富松家の家督を相続(25)。これより先、茨城県下の小学校教員となる。
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「明治五年茨城県小学校の建立に当り教員に任ぜらる。幾何もなく之れを辞す。拡充師範学校の水戸に設けらるゝや選を以て入校し生徒取締となる。七年六月出でゝ川澄村春風小学校の生徒に授く。八年春上等教課肆業の命あり。再び拡充学校に入て学寮監事を命ぜらる。同年七月去て小栗小学校の教員と為り、叉市野辺小学校に転ず。・・・法律命令の出る毎に民権の防遏を意味し、集会、出版、言論、都て天職の権利を剥奪し、小学校教員の如きは、政治団体に加はることを許さず。生徒は政談演説会の傍聴を禁止されたり。正安憤然、叉以為く、足れ藩閥の奸臣、柄を弄び、聖上の聴明を擁蔽するの致す所たるべしと。於是て一切念を文教に絶ち、専ら心力を政治運動の一方に注ぎ、京に出ては当世著名の士と国事を談論し、家に在りては地方の団結を鞏固にせんことを務む。」(関戸覚蔵「東陲民権史」)。
「小学校教員」の「政治団体」加入禁止となるまで(集会条例(太政官第一二号布告・明治13年4月5日)制定まで)、教員を勤め、以後は「専ら心力を政治活動」に注ぐようになる。
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明治14年10月29日、自由党結成大会に、茨城県から富松正安は、森隆介、磯山清兵衛、栗田興功、関信之介、青柳球平と共に出席。その後も、15年6月の臨時大会、16年4月の定期大会、同年11月の臨時大会、17年3月の臨時大会に出席。16年11月14日には自由党員100名以上を集めて飛鳥山運動会を主催。正安の演説活動が新聞紙上にあらわれるのは、14年6月以降。「茨城日日新聞」に「真壁郡下館町にては毎月一回宛富松正安氏会主となり金井町演劇場に於て政談討論演説会を開き来り」とある。
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明治16年12月6日、古河町の自由党員小久保喜七、館野芳之助らが、古河町大田楼にて関東派領袖大井憲太郎、森隆助、仙波兵庫、富松正安を迎えて開催。関戸「東陲民権史」には、富松正安(加波山事件関係者)が、席上「今日は道理の戦場にあらず。言論を以て格闘するも寸効を奏せず。寧ろ血雨を注ぎて専制政府を倒すの捷徑たるを知れ」との演説を行ったと記され、この時点で実力による政府顚覆を考えていることが判る
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なお、静岡事件の中心人物鈴木音高は、「国事犯罪申立書」で、「自由党ノ会議其期ニ迫ル以テ、中野二郎三郎及音高ノ両名其撰ニ当り、二月中旬、彼ノ重任ヲ負ヒテ出京シ鋭意奔走、・・・幸ニ社会気運ノ形向ヲ視察スルニ、当時人心概ネ政府ヲ怨望シ、事アラハ奮テ起タントスルノ気象ヲ含有スルコトヲ亮知シ得タリ。加之ノミナラス茨城県人富松正安、仙波兵庫ノ両人ヲ得、又仙波兵庫ノ斡旋ヲ以テ群馬県高崎ノ人深井卓爾、伊賀我何人ノ同盟連絡ヲ得、猶其四人ノ同盟者数十名モ、与ニ事ニ当リテ勃興スルノ盟約ヲ整へ・・・後来ヲ約シ気息ヲ通スルコトヲ誓ヒ、三月下旬ヲ以テ東京ヲ発シ帰県ノ途二就キタリ。」と述べる。
この年3月の自由党臨時大会出席の為に上京した際、富松正安らと内乱陰謀の謀議を行ったと供述。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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to be continued

2009年1月11日日曜日

横浜 山手ゲーテ座


日本最初の本格的劇場「ゲーテ座」(Gaiety Theater)跡。
撮影08/11/22。
もともとは、1870(明治3)年12月6日、オランダ人ノールトフーク・ヘフトが横浜居留地68番地(現、谷戸橋北、テレビ神奈川裏辺)に建築。1872年11月パブリックホールと改称され利用されるが、より広い建物が求められ、1885(明治18)年4月18日現在地に350人収容のホールが完成。1908年12月から、ゲーテ座と呼ばれ、音楽会・演劇・講演など各種の催物に利用される。
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 観客は、外国人主体であったが、滝廉太郎、坪内逍遥、北村透谷、小山内薫、和辻哲郎、佐々木信綱、芥川竜之介、大佛次郎らも観劇した記録あり、明治・大正期の文化に大きな影響を与える。松本克平「日本新劇史」によると、上演演目はオペレッタのような娯楽作品が主流であったとのこと。
ゲーテ座は日本で初めて「ハムレット」を上演した劇場である、というのをどこかで読んだ記憶があるが、それがどの本であったか思い出せない。多分、川上音次郎・貞奴を扱った本だったような・・・?
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以上が前回エントリ。
以下、松本克平「日本新劇史」による追加情報。但し、松本著書によると、由来については諸説あるとのことで、私見では、上記の方がより新しい情報を含むという点で真実に近いと思う。
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■明治初年におけるゲーテ座の位置
「・・・幕末から日露戦争後までの四十数年間の外人劇団や演芸が演じられた場所はもっぱら横浜のゲーテ座であった。この劇場は居留地の外人を対象にしたもので、一般の日本人はほとんど関心を示していなかった。明治四十年前後になって日本にも新劇へめ腐心が目覚めるに及んで心ある人々はようやく横浜まで出向いて、このゲーテ座の外人劇を見物するようになっていた。明治末期にゲーテ座に来演していた外人劇団の中ではバンドマン一座(Bandman's Opera Company)とアラン・ウイルキー喜歌劇団(Allan Wilkie Company)の二つが日本人の問では最も馴染みが深かった。帝劇と有楽座が竣工するに及んで、今まで東京へ足を踏み入れなかったこれらの外人劇団も、丸之内の舞台に登場するに至ったのである。殊にバンドマン一座は数年間続けて六月頃に帝劇に現われ、やがて東京の年中行事の一つに数えられるようになった。
バンドマン座はロンドンに本社があり、東洋ではインドのカルカッタに支社を置き、香港、上海、マニラ、横浜、東京、神戸などを巡演していた。・・・
バンドマンの方はロンドンで当りを取っている現代劇とミュジカルコメディを見せ、アラン・ウイルキーの方は古典劇も混ぜて上演していた。・・・」
「バンドマンについて小山内薫の書いた、「喜劇ゼ・アドミラブル・クライトンを観る」及び「バンドマンの追憶と印象」という二文がある。前文は明治四十年五月十八日に横浜の山手公会堂(注、ゲーテ座のこと)において上演された時の観劇記である。ジェイムス・バリイ作のこの戯曲を留学中の島村抱月がロンドンで見ており、その詳細な観劇記を博文館の「新小説」に寄せたところ(後に抱月は「滞欧文談」に収録した)、これにヒントを得て花房柳外という人が喜劇「平民主義」を書いて「新小説」に発表した。それはとうていバリイの原作には及びもつかないものであったが、英国式デモクラシーに関する注目をひいたのであった。それ故、心ある演劇人はわざわざ横浜まで出向いて、夜八時に開演して深夜の一時に及んだこの舞台を見物したのであった。小山内薫もその易の中の熱心なー人であった。」
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■大仏次郎の回想
「海岸通り伝いにフランス山に登ると、そこにゲーテ産があって外人相手の芝居を専門にやっていた。香港あたりから来た(バンドマン)というオペラの劇団がよく実演していたのをおぼえているが、あるとき、英国の劇団が来てハムレットやサロメを上演していた際、学生時代だったぼくは意気揚々と出かけたものですよ。セルの着物にハカマはきといういでたちだったんですがね。当時はみなイブニングの礼服で芝居見物としゃれこんでいた。その中でぼくひとりがいかめしい服装だったのでちょっと恥ずかしかった。なにしろ戦前は英国人が圧倒的に多く、ハマを牛耳っていたから戦後ハマに住む外人たちの気楽な格好に比べて常に威厳ある服装できちんとしていたものでしたよ。」
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■日本における外国人劇の始めとゲーテ座
「日本最初の外人劇がどんなものであったかを探るとすれば、・・・どうやら二つの系統があるようである。一つは日本に早くから来ていた長崎出島のオランダ人によるむのと、もう一つはベルリ提督がもたらしたアメリカ系のものである。
まず、オランダ人によるものから。これははっきりした記録が残っている。文政三年庚申九月の二十四日(一八二〇)、長崎出島のオランダ人によって上演されたオペレッタとコメディである。・・・
・・・。では次にもう一つベルリの部下たちが演じたミュジカルスを見てみよう。
安政元年五月(一八五四)ベルリの率いるアメリカ艦隊は下田でいろいろの交渉をすませたあと、函館に向って出発した。函館湾停泊中に種々の科学調査を行なうと同時に、松前奉行との交渉中、ミシシッピー号上で役人たちと交歓し「食事と歓待とを喜んだ」と言っている。その時、アメリカ水兵たちは「アメリカン・ミンストレルス」という黒人歌のショオを演じて見せ、幕府の役人たちを大いに喜ばせたという。音楽を演奏しながらその合間合間にいろいろの扮装をした人物が出て来て、グロテスクにユーモアたっぷりにコミカルに歌い且つ踊ったという。西洋仁輪加の如きものらしい。船に積みこんできた小印刷機で刷ったプログラムまで配られた。見物は腹をかかえて笑いころげた。もちろん日本人も大いに感興を催したらしいが、ベルリがその著『日本支那遠征紀事』に「沈黙せる日本の聴衆」と記しているところから察するに、日本人の多くはただ然々と聴き、見物するのみであったらしい。女形をやったのは船中のボーイたちであった。これが日本最初の外人のショオであり、それはミュジカルスであったのである(昭和九年五月「テアトロ」創刊号所載、玉城肇筆「ぺルリ遠征隊員の芝居」及び「ベルリ提督遠征記」による)。
続いて文久二年九月、下田文吉によって子供手踊りの名儀で来航外人目当てに建てられた下田座が、開港場でのショオと劇場の元祖であるという。
横浜にこういう劇場が生れたのは下田座におくれること二年の元治元年(一八六四)のことであった。当時は元治元年条約締結の前後で、開港場附近では日本浪士による外人殺傷事件が相ついで起っていた。・・・・・・この殺伐と無柳に苦しんだ外国兵の中で、フランス兵の将卒と英国の一部が協力して屯所に舞台をつくり、有り合わせの衣裳道具類を使って演じた芝居が、横浜における外人劇の走りになったのであった。その後も折々、無骨な兵隊劇が演じられたが、慶応三年(一八六七)の春、在留フランス人の組織したアマチュア劇団が新居留地(旧居留地は今の子安町)の空店で第一回の催しを行なった。この頃はもう赤隊青隊が駐屯していた時代で、この時の公演には英国の赤隊のストリングバンドが応援した。これが居留外人の満足を買い、これが動機となって同年十一月の第二回公演には、谷戸川を挟んで元町薬師と相対した本町通りの外れに坐席百三十人の小さい劇場がつくられ、これにゲーテ座の名がつけられたのが、ゲーテ座発生の由来である。明治四十二年の火災で板屋敷(ハマ言葉で機械で板を挽き箱を作る外人工場のこと)の一部となっていたゲーテ座名残りの建物は焼失したという。その後山手公会堂と呼ばれ、極東公会堂株式会社によって経営されていたが、明治四十四年にはマニラの興行師フリーを招いて経営に当らせたという(明治四十四年十月号「歌舞伎」第百三十六号所載、山野芋作筆「日本最初の外人劇-横浜のゲーテ座」による。因に筆者の山野芋作とは若き日の長谷川伸のペンネームである由)。
このゲーテ座の僅か百三十の客席を通じて外人劇やミュジカルスは、明治、大正の新しい演劇の胎動を刺戟していたのであった。」
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下記もご参照下さい。
「山手洋館」
「ホテルニューグランド」
「フランス山」
「ヘボン博士邸宅跡」
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山手地区を含む横浜散策は「★横浜インデックス」をご参照下さい。
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