2009年1月12日月曜日

明治17(1884)年秩父9月 (8)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 加波山事件 

久々の本シリーズ掲載ですが、この年は11月の蜂起までにまだ2つほど大きな山があります。
①加波山事件と、②自由党解党。それに、蜂起後は、③武相困民党結成。
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■明治17(1884)年秩父(8)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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9月16日
・小室信介「清国通信」(「自由新聞」)全14回。
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・竹久夢二、岡山県邑久郡本庄村大字本庄119番邸に誕生。実家は酒の醸造と取次販売。明治34年上京(17)。35年9月早稲田実業高校入学。
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オーストリア、ドイツ、ロシア3帝同盟君主、ロシア・ポーランド国境の狩猟館で会合。バルカンの現状維持の重要性確認。
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9月20日
・秩父困民党井上伝蔵、東京の静寧館を訪問。大井の軽挙阻止論を聴取した筈。
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9月21日
・新潟市内の名刺不動院で北陸七州懇親会。参加者は千数百人。星亨の演説「政治の限界」。星の初めての逮捕。12月16日公判。18日判決。重禁固6ヶ月、罰金40円、代言人資格剥奪。
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星の演説の趣旨は「ロシアには国会がなくドイツの国会はないに等しい。両国は国民の義務として徴兵を行い軍備を拡張しているが、これは好ましくない。政府の任務は外患を防止し内憂を治めることで、農商工業に対する政府の干与は望ましくない。しかし、ロシア、ドイツ両国は鉄道を国有化し、電信、郵便制度にも干与している。また両国の政府は、宗教、教育に干渉し、人間に等級を設けている。私が政治を行えばそのようなことは行わない」というもの。
ロシア、ドイツ両国批判の体裁をとるが、実際には日本の藩閥政府を批判。しかし自分が政治を行えばそのようなことは行わない、との趣旨の発言をするやいなや、警官が中止・解散命令を発し、懇親会はやむなく解散。解散後、星は新潟警察署からの呼び出しを受けるが、再三の召喚にもかかわらずこれに応じず、翌22日、次の目的地新発田に出発。警察は当初は演説禁止程度の処分を考えていたが、召喚を無視された為、官吏侮辱罪によって星を逮捕。
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・武相困民党。9・5事件の被告171名が16日ぶりで保釈出所。或る者は「創傷甚シク」歩くことが困難であったという(須長上願書)。
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・石阪昌孝、細野喜代四郎に書簡。銀行側の動向、対応への批判。22または23日午前、中溝昌弘に面会。「債主党」の内情を聞く。明治政府のある限り云々、政府の威力を借り云々、このままでは困民救治ノ方策はたたない、など債主を激しく非難。
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9月23日
・加波山事件

福島自由党琴田岩松・河野広躰、栃木自由党鯉沼九八郎、茨城県士族富松正安(37)ら16名、茨城県加波山挙兵(この月、栃木県庁開庁式の情報あり、三島・政府高官暗殺の資金調達のため神田小川町の質屋を襲う。逃亡途中、爆弾投擲。また12日鯉沼の作業場で爆弾破裂、鯉沼重傷。追詰められ、茨城・富松正安を動かして加波山の挙兵)。警官隊の攻撃に四散。10月にかけて関東各地自由党員300名拘引、弾圧。田中正造12月23日迄79日間拘留、不起訴。死刑7・無期懲役7、有期懲役4。
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[経緯]
1883(明治16)年10月、三島通庸が栃木県令となるや、福島県下で強行した同じ政策を栃木の人民や民権家たちに押し付ける。茨城県士族富松正安らは、関東の態勢を立直すため河野広躰ら福島グループ栃木の豪農民権家鯉沼九八郎らに呼びかけ、東京飛鳥山で自由大運動会を開催。栃木の鯉沼と福島事件の残党琴田岩松との盟約成立、加波山グループの中核が形成される。
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その後、河野・鯉沼らは84(明治17)年2月、東京芝の三島邸を襲撃しようとして果さず、自由党本部寧静館を本拠に暗殺の機会を窺う。ところが、この激派壮士による寧静館乗っ取りに内藤魯一・星亨ら党幹部が退去を要求し、警察カを借りて追い出そうとした為は、河野らは憤激、「もはや頼むに足らず」と訣別、一層急進化する。
河野・鯉沼らのグループは三島邸近くに下宿して見張りを続けるが、三島は行方をくらませる。そのうち新華族となった数百人の祝賀会が同年7月元日に芝の延遼館で開かれると聞いて、一挙殲滅の好機を喜ぶが、その宴会も無期延期となる。
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7月13日、河野広躰、杉浦吉副、横山信六、鯉沼九八郎、佐伯正門の5名は、東京八丁堀三代町飯塚伝次郎宅に相会し、「大臣参議ヲ暗殺」し、政体変革を目指す盟約をする。その後、河野らは、琴田岩松、小林篤太郎、五十川元吉、草野左久馬らを仲間に加え、9月5日頃、宇都宮県庁開庁式を襲撃する計画を纏め準備(資金集め、爆弾製造)にとりかかる。
9月10日、資金獲得の為に神田小川町の質屋を襲撃。逃走途中、警官に咎められ、持っていた爆弾を投げる。また、この頃、鯉沼は栃木県稲葉村の自宅で強力な爆裂弾製造に成功するが、9月12日、鯉沼の作業場で大爆発が起こり、彼が重傷を負う。官憲はこれによって鯉沼グループの動きを察知し、検挙にのりだす。
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これより先、鯉沼は、3、6、8月に運動会(決起集会)をもち、100余、600余、1千余と民衆を動員。8月17日、鯉沼ッ原で開かれた第3回運動会では、元禄時代に百姓惣代として戦い斬首された農民指導者3人の弔魂祭を行い、堂々たる祭文を読みあげ、その場で警察に連行される。
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その後、河野・琴田らは茨城県下館出身の保多駒吉の紹介で、下館の有為館に潜伏、秘かに準備を進めるが、この時の有為館館主富松正安は、彼らを匿い、宇都宮県庁開庁式襲撃計画に参加してゆく。
まず、「明治十七年九月十四日」、に平尾八十吉・琴田岩松が、有一館生保多駒書の「添書」を携え有為館に富松正安を尋ね、「栃木県ノ開庁式ニ大臣参議ヲ爆殺シ、以テ革命ノ魁ヲ為サン」との計画への「同意」を促す。正安は、後から来館した「河野広躰、横山信六ノ諸氏」による熱心な「勧メ」により「同意」して計画に加わる。しかし、宇都宮県庁開庁式日程が、当初の9月15日から23日、27日に期となる間、小川町事件(9月10日)の全容が発覚し、河野・横山ら逮捕が確実な情勢となる。
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9月22日夕刻、富松正安ら16名の同志は、警察当局の捜査の手がのびる前に、急拠、有為館を離れ、加波山に向かう。23日朝、山上に蜂起。
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海抜709mの険しい石山である加波山山頂に、「一死報国」「自由取義」「自由之魁」などの旗がたつ。檄文は、「今日我国ノ形勢ヲ観察スルニ、外ハ条約未夕改メス、内ハ国会未夕開ケス、為ニ姦臣政柄ヲ弄シ、上聖天子ヲ蔑如シ、下人民こ対シ収斂時ナク餓孚道ニ横タハルモ之レヲ撿スルヲ知ラス。其惨状苟モ志士仁人タルモノ豈之レヲ黙視スルニ忍ヒンヤ」「夫レ大廈ノ傾ケル一木ノ能ク支フル所ニ非ズト雖モ、志士仁人タルモノ坐シテ其倒ルヲ看ルニ忍ビンヤ。故ニ我々茲ニ革命ノ軍ヲ茨城県真壁郡加波山上ニ挙ケテ以テ自由ノ公敵タル専制政府ヲ顚覆シ、而シテ完全ナル自由立憲政体ヲ造出セント欲ス。鳴呼三千七百万ノ同胞兄弟ヨ、我党ト志ヲ同フシ、倶ニ大義ニ応ズルハ、豈ニ志士仁人タルノ本分ニ非ズヤ。」とある。攻撃目標は「天皇」ではなく、「自由ノ公敵」である「姦臣」(専制政府)にある。人民との連携もない党員16人の挙兵
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9月23日夜、「金穀等ヲ掠奪センカ為メ町屋分署ヲ襲フコト」を「評決」し、河野広躰・三浦文治など10名が山を下り(富松正安、琴田岩松ら6名は、山頂にかがり火を焚いて待機)、爆弾を爆発させて町屋分署内に侵入、「洋剣及ヒ刀剣、外套、帽子、提灯及ヒ蝙蝠傘3三本、金員若干、横山信六・河野広躰逮捕状」などを「掠奪」。24日、同志の中から「此儀此処ニ囲マレテ空シク死スルハ実ニ遺憾」、「栃木ノ監獄署ヲ破り、囚徒ヲ率ヒ東京ニ出テ政府ヲ襲」うべきとの声が起こり、一同「評議」結果、富松ら同志16名は、同日夜加波山を下り、栃木を目指すことになる。しかし、加波山周辺は、既に警察の大包囲網が敷かれており、彼らは、下山すると間もなく、長岡畷付近で警察隊と戦闘(「長岡畷の戦」)。この戦いで、警察官隊側に「即死壱名」「負傷者数多」、加波山決起者側に「平尾八十吉」死亡の被害がでる。富松ら15名は、25日早朝、「其山ニテ休憩中」、同志中から「離散セシトノ議」が起こり、相談の結果、「再挙」を前提として、「鬼怒川ヲ越へテ離散スルコト」を決定。
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25日、「鬼怒川ヲ渡」ったところで「十月廿五日」に「東京ノ飛鳥山ニ密会」し、「再挙」を約束し「離散」。富松正安は共犯者と別れた後、玉水嘉一と共に東京に逃れ、1人で房州行の汽船に乗で千葉県安房国安房郡那古に渡り、10月2日から約1ヶ月間、自由党員佐久間吉太郎等に匿われる。その後、東京に出る為、市川の渡船場近くの木賃宿に宿泊中、11月3日未明、市原郡姉力崎交番の巡査の取り調べをうげ、直ちに八幡分署に護送。この時点で、蜂起者15名中の未逮捕者は原利八であるが、原は、18年2月4日、福井県足羽郡で捕縛。
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[富松の裁判]
千葉軽罪裁判所の予審審理(判事補岩倉重武)は、明治17年11月19日~18年1月19日、計7回行われ、3月16日に終結。予審終結言渡書によると、決定は、司法省の指令通りに、正安の行為を「犯した罪を免かれるための故殺」と認定するもので、事件を「千葉重罪裁判所へ移す」と言い渡すもの。正安は、予審決定を不服とし、直ちに千葉軽罪裁判所会議局に故障を申立て、却下されると更に大審院へ上告し、徹底的に抵抗。しかし、8月18日、大審院は申立てを却下。9月21日、千葉重罪裁判所検事塩野宜健は、予審手続き終了とし、千葉重罪裁判所長岡村為蔵宛に富松正安の公訴状を提出。10月15日、千葉重罪裁判所の公判開始。
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「曾て報道せし通り加波山暴徒の巨魁なる富松正安の公判は去る十五日前十時より千葉重罪裁判所に於て開かれたり。・・・富松の代言人は板倉中なりき。当日は管轄違の弁論にて十一時過となり遂に此裁判は明日にすべしとて退庁を命ぜられしが傍聴人は無慮六七十人の多きに及び公庭は傍聴人充満せり。富松の身装は羽織を着し白足袋を穿き中々元気の有様なりしと云ふ。其管轄違の申立等は東京重罪裁判所の被告人等と大同小異に付之を略し、稍や情を異にする個条を摘むで追々之を記載すべし。」(「朝野新聞」10月18日)。
正安は、公判開始後、管轄違いの申立てを行い、翌16日、却下されると、更に上告。11月30日、大審院が管轄違いの申立てを退ける。12月21日、千葉重罪裁判所公判が始まると、第2回目の管轄違いの申し立てを行う。これも、12月23日千葉重罪裁判所で、19年4月19日大審院で棄却。6月21日、公判再開となる。7月3日、死刑判決。直ちに上告。8月4日、大審院公判。8月12日、死刑判決。10月5日、執行。この事件での死刑言い渡しは、富松正安、横山信六、三浦文治、小針重雄、琴田岩松、杉浦吉副、保多駒吉の7名で、横山は病没し、死刑執行は、横山を除く6名。
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その他への判決。
草野佐久馬(無期徒刑)、五十川元吉(同)、玉水嘉一(同)、原利八(同)、河野広躰(同)、天野市太郎(同)、小林篤太郎(同)、鯉沼九八郎(有期徒刑15年)、門奈茂次郎(有期徒刑13年)、佐伯正門(重懲役10年)、大橋源三郎(重懲役9年)、栗原足五郎(軽禁鋼3月、罰金10円)、神山八弥(同)、内藤魯一(軽禁錮2月、罰金10円)、谷津鉄之助(同)、山田勇治(軽禁鋼2月、罰金5円)。樺戸集治監(草野、五十川)、空知集治監(玉水、原、門奈、小林、河野、天野、鯉沼)。獄死者4人(山口守太郎:栃木県監獄署栃木支所、横山信六:東京府鍛冶橋監獄署、原利八:空知集治監、大橋源三郎:宇都宮監獄署)。
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明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令(勅令第12号)により、多くの国事犯関係者が出獄することになるが、常事犯で処罰された加波山事件関係者には、これが適用されず。しかし、同年6月3日、東京控訴院、甲府始審裁判所、栃木始審裁判所、宇都宮始審裁判所の各検事は、大赦令が適用されない加波山事件関係者11名(門奈、草野、五十川、玉水、原(東京)、小林(甲府)、鯉沼、大橋(栃木)、河野、天野、佐伯(宇都宮))について、これを放免すべく特赦意見書を司法大臣山田顕義宛に提出。7月10日、山田司法相はこれを拒否。明治26年初、鯉沼・門奈・佐伯の有期徒刑の3人に対してのみ第2回目の特赦申請が出される。山縣有朋司法相はこれを受理、内閣法制局の審査後、伊藤首相がこれを指令、3名は26年2~3月に特赦放免となる。次いで27年、河野・玉水・天野・草野・五十川・小林6名の特赦措置がなされ、11月5、7日放免となる。更に、明治30年7月12日、河野広躰ら9名の公権回復となる。
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[名誉回復]
明治43年2月、茨城県真壁郡下館町長大内達三郎ら30名は、加波山事件殉難志士表彰の請願書を衆議院に提出。「去る明治十七年、茨城県下加波山に起れる所謂加波山事件殉難の志士に対し、下館町長大内達三郎外三十名は、代議士内藤魯一、武藤金吉、村野常右衛門、小久保喜七、佐々木安五郎、平島松尾、大津淳一郎外数代議士の紹介を以て、右国事犯者表彰の請願書を衆議院に提出したり。」(「東京日日新聞」2月14日)。これをうけて、衆議院議員小久保喜七・森久保作蔵・平島松尾は、加波山事件関係者の名誉回復の為の「加波山事件殉難志士表彰ニ関スル建議案」を衆議院に提出。同建議案は、「加波山事件殉難志士表彰ニ関スル建議案委員会」(委員長小久保喜七)に付託され、同委員会の審議をへて衆議院本会議にかけられる。3月5日、衆議院本会議は建議案を満場一致可決。常時犯で処断された富松正安らの名誉は回復。刑死後、23年5ヶ月。
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[農民蜂起との関わり]
下館士族で、教員の経験もあり、地方の有数の知識人でもある富松正安は、1883(明治16)年未、大井憲太郎を案内して古河、下妻、潮来などを遊説した際、「血雨を注ぎて専制政府を倒すの捷径たるを知れ」と演説し、その背後に既に戦う姿勢を無くした自由党指導部への大きな幻減があったとみられる。しかし、彼らには人民との共闘は念頭にない。8月10日御殿峠集結の現場を見た加波山グループの小林篤太郎・五十川元吉・平尾八十吉は、「好機乗ずぺし」と多摩に急行したものの、単なる農民騒擾にすぎないと見て、「此等の徒、皆な事理を解せず、主義を持せず」として絶望して帰ってきたというのがその好例。
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[三島県令と田中正造]
三島県令はこれを好機として、三島県政に抵抗する県会の有力者田中正造を逮捕しようと追及。正造は急ぎ出京し、三島暴政の証拠資料をもって外務卿井上馨を訪ねるが果たさず、警視庁に出頭して立場を釈明しようとする。しかし警視庁は正造を加波山事件の連累として拘留し、宇都宮に護送。その後宇都宮監獄から佐野警察署と身柄を移されるが、取調べもなく拘留、起訴されずに12月23日佐野警察署から釈放。この間11月21日、三島通庸は内務省三等出仕に転じ土木局長となり、間もなく警視総監に昇進。
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[蜂起者たちの思想] 
□富松正安、明治19年6月21日、千葉重罪裁判所公判廷で挙兵の理由を供述(『千葉新報』所載「富松正安公判傍聴筆記」)。
「被告富松氏ハ他ノ被告等卜共ニ加波山ノ挙ニ及ヒタルハ愛国憂民ノ情ニ出テタルコトニテ被告ハ常ニ自由ノ滅亡ヲ歎シ人民ノ疾苦ヲ悲ミ国権ノ枉屈ヲ憤り之レカ救済ニ尽力スルモ当路政務官ノ無稽ナル徒ニ圧虐ヲ行ヒ最早平穏ナル手段ニ依テ政治ヲ改良スルノ望絶へ果テタルヲ以テ則チ事曲ヲ腕力ニ訴へテ決セント檄ヲ飛ハシテ四方義士ノ応援ヲ促シタル次第ニテ其趣意ハ檄文ニ明カナリ而シテ政府ヲ転覆シタル上ハ明治十四年ノ詔ノ趣意ヲ遵奉シ善美ナル立憲代議ノ政体ヲ設立シ国会ヲ開キ朝野ノ全力ヲ集メテ以テ外条約ヲ改正シ内自由ヲ伸張シ国民ノ疾苦ヲ救ヒ西洋各国卜対峙シテ独立国ノ対面ヲ全フセント期セリ」。
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富松は、「愛国憂民ノ情」から、「腕力」による政府願覆を決意し、政府顚覆後は、「明治十四年ノ詔ノ趣意」を「遵奉」し、「善美ナル立憲代議ノ政体」を確立し、「国会」を開設しようとし、「朝野ノ全力」を集め、対外的には「条約ヲ改正」し、対内的には「自由ヲ伸張シ国民ノ疾苦ヲ救」う事を目指す。対内的にも、対外的にも国民一致してわが国の近代化につとめ、「西洋各国卜対峠シテ独立国ノ対面」を保つ事こそ、天皇の「趣意」に沿い、かつ、わが国が対処すべき最も緊要な事柄である。共和主義的志向はない
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□河野広躰(無期徒刑)、明治18年9月18日、栃木重罪裁判所公判廷できょうじゅつ。
「政府ニシテ暴ナルトキハ人民力モ亦暴ヲ以テ之二応スへキハ理ノ当然ナリ彼ノレベルソンカ檄文ニ暴悪政府ヲ顚滅シテ之ヲ改良スルハ人民ノ義務ナリ国民タルノ職務ナリ云々由是観之暴悪政府ヲ願覆シテ之ヲ改良スルハ国民ノ義務ニシテ天ニ対スルノ本分ナルコトハ明カナリトス又善良ナル政府ヲ確立シテ公衆卜共ニ其幸福ヲ得ントスルハ人間ニ在リテハ欠クへカラサルノ道徳タリ加之立憲政体ヲ確立スルハ我明治天皇陛下ニ対スルノ義務ナリ」。
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明治政府を「暴悪政府」と見做し、この「暴悪政府ヲ顚覆」させ、これを「改良」することは、「国民ノ義務」であり、「善良ナル政府」樹立の為に行動を起こす事は、「人間」として「欠クへカラサルノ道徳」に合致するという、一種の抵抗権を認める立場。しかし、この抵抗権の対象は、主権者の天皇や国家体制そのものではなく、あくまで天皇の意思に沿わない「暴悪政府」である。「立憲政体ヲ確立」する事が「我明治天皇陛下ニ対スルノ義務」と述べ、「暴悪政府」は、「天皇」「国民」の共通の敵であり、「国民」による「暴悪政府」打倒は、天皇の意思に叶う抵抗権の行使である、とする。
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▽富松正安の経歴
茨城県真壁郡下館町四番屋敷(現、茨城県下館市)に、父富松魯哉、母中村嘉兵衛長女のつね(文政12年10月30日生)の長男として誕生。慶応4年(1868年)2月22日、19歳で千葉県葛飾郡関宿町山本権六長女せき(嘉永3年10月30日生、18)と結婚。明治6年10月14日、父魯哉没し、富松家の家督を相続(25)。これより先、茨城県下の小学校教員となる。
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「明治五年茨城県小学校の建立に当り教員に任ぜらる。幾何もなく之れを辞す。拡充師範学校の水戸に設けらるゝや選を以て入校し生徒取締となる。七年六月出でゝ川澄村春風小学校の生徒に授く。八年春上等教課肆業の命あり。再び拡充学校に入て学寮監事を命ぜらる。同年七月去て小栗小学校の教員と為り、叉市野辺小学校に転ず。・・・法律命令の出る毎に民権の防遏を意味し、集会、出版、言論、都て天職の権利を剥奪し、小学校教員の如きは、政治団体に加はることを許さず。生徒は政談演説会の傍聴を禁止されたり。正安憤然、叉以為く、足れ藩閥の奸臣、柄を弄び、聖上の聴明を擁蔽するの致す所たるべしと。於是て一切念を文教に絶ち、専ら心力を政治運動の一方に注ぎ、京に出ては当世著名の士と国事を談論し、家に在りては地方の団結を鞏固にせんことを務む。」(関戸覚蔵「東陲民権史」)。
「小学校教員」の「政治団体」加入禁止となるまで(集会条例(太政官第一二号布告・明治13年4月5日)制定まで)、教員を勤め、以後は「専ら心力を政治活動」に注ぐようになる。
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明治14年10月29日、自由党結成大会に、茨城県から富松正安は、森隆介、磯山清兵衛、栗田興功、関信之介、青柳球平と共に出席。その後も、15年6月の臨時大会、16年4月の定期大会、同年11月の臨時大会、17年3月の臨時大会に出席。16年11月14日には自由党員100名以上を集めて飛鳥山運動会を主催。正安の演説活動が新聞紙上にあらわれるのは、14年6月以降。「茨城日日新聞」に「真壁郡下館町にては毎月一回宛富松正安氏会主となり金井町演劇場に於て政談討論演説会を開き来り」とある。
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明治16年12月6日、古河町の自由党員小久保喜七、館野芳之助らが、古河町大田楼にて関東派領袖大井憲太郎、森隆助、仙波兵庫、富松正安を迎えて開催。関戸「東陲民権史」には、富松正安(加波山事件関係者)が、席上「今日は道理の戦場にあらず。言論を以て格闘するも寸効を奏せず。寧ろ血雨を注ぎて専制政府を倒すの捷徑たるを知れ」との演説を行ったと記され、この時点で実力による政府顚覆を考えていることが判る
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なお、静岡事件の中心人物鈴木音高は、「国事犯罪申立書」で、「自由党ノ会議其期ニ迫ル以テ、中野二郎三郎及音高ノ両名其撰ニ当り、二月中旬、彼ノ重任ヲ負ヒテ出京シ鋭意奔走、・・・幸ニ社会気運ノ形向ヲ視察スルニ、当時人心概ネ政府ヲ怨望シ、事アラハ奮テ起タントスルノ気象ヲ含有スルコトヲ亮知シ得タリ。加之ノミナラス茨城県人富松正安、仙波兵庫ノ両人ヲ得、又仙波兵庫ノ斡旋ヲ以テ群馬県高崎ノ人深井卓爾、伊賀我何人ノ同盟連絡ヲ得、猶其四人ノ同盟者数十名モ、与ニ事ニ当リテ勃興スルノ盟約ヲ整へ・・・後来ヲ約シ気息ヲ通スルコトヲ誓ヒ、三月下旬ヲ以テ東京ヲ発シ帰県ノ途二就キタリ。」と述べる。
この年3月の自由党臨時大会出席の為に上京した際、富松正安らと内乱陰謀の謀議を行ったと供述。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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to be continued

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