2009年1月5日月曜日

「元日」物語(3)

1571(元亀2)年
 武田信玄3万7千、三島集結。駿河興国寺を奇襲、失敗。3日、駿河深沢城(御殿場市)攻略も失敗、帰陣。10日、北條氏政、小田原を出陣し深沢城を後詰め。16日、深沢城攻略。信玄、矢文をもって開城を促し、北條綱成、深沢城を開城。信玄は、金堀衆を動員して城内への坑道を掘り進める。
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1573(元亀4)年
 村上義清(73)、旧領信濃に戻ることなく越後根知城で病歿。
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1574(天正2)年
 信長、岐阜城で諸将の参賀を受ける。祝賀の後、馬廻衆の酒宴で、朝倉義景、浅井久政・長政父子の首を漆で固めて金泥などで彩色したものを飾り酒の肴にする。
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1575(天正3)年
 毛利輝元・小早川隆景、三村元親の将三村正政を備中国吉城に攻め、この日落とす。2日、小早川隆景、備中成羽に進出。
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1578(天正6)年
 安土城で元日の茶会。信忠・武井夕庵・林秀貞・滝川一益・細川藤孝・明智光秀・荒木村重・長谷川与次・羽柴秀吉・丹羽長秀・市橋長利・長谷川宗仁12人が招かれる。茶頭は松井友閑。茶会後、諸大名・諸将の出仕があり、出仕者に自分の座所を見物させ、雑煮と唐物の菓子を振舞う。4日、前年冬に信忠へ下された名物道具の披露会、万見仙千代邸。武井夕庵・松井友閑・林秀貞・滝川一益・長谷川与次・市橋長利・丹羽長秀・羽柴秀吉・長谷川宗仁9名。市橋長利が芙蓉の絵を贈られる。
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1581(天正9)年
 信長、安土城北の松原町の西に湖岸へ面して馬場を造営。奉行菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一、元日より普請。
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1582(天正10)年
 全国の大名・小名、安土城に出仕。惣見寺に100文づつ持参させる。信忠も出席。
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1583(天正11)年
 秀吉、姫路城に入る。
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1584(天正12)年
 紀伊根来・雑賀一揆、和泉国岸和田進出。秀吉部将中村一氏・小西行長、和泉の海岸沿いに一揆攻撃。
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1585(天正13)年
 秀吉、有馬温泉で半月過ごす。19日、有馬温泉で石川数正・利休・宗及を招き茶会。
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1586(天正14)年
 佐野宗綱、攻めた長男顕長の彦馬城で顕長配下に討たれる。11月、佐野氏は北条氏に降伏。氏政弟氏忠が入部。
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宗綱横死後、佐野家では佐竹派(叔父天徳寺宝衍ら)・北条派(大貫・竹沢・津布久氏ら)で暗闘。経緯は不明ながら、北条氏忠を迎えることになり、天徳寺は京都に出て秀吉の傍に仕えることになる。後、佐野に戻る。
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1593(文禄2)年
 朝鮮侵略。明国軍務提督李如松4万3千、平壌北方10里余の安州着。朝鮮領議政柳成竜と会見。3日、粛川着。5日、朝鮮軍8千の来襲うけ平壌包囲。日本軍1万5千。
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1594(文禄3)年
 秀吉が大坂城で、関白秀次が聚楽第で、それぞれ諸大名の年賀を受ける。
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1596(文禄5)年
 諸大名、元旦の出仕が行われず伏見において越年。
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1597(慶長2)年
 秀吉、伏見城より大坂城に移る。諸将に再度朝鮮出兵を命ずる。
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1599(慶長4)年
 伏見城で前田利家、秀頼を抱き諸将から拝賀の礼を受ける。
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1600(慶長5)年
 豊臣秀頼、大坂城中で諸大名の参賀を受け、ついで西の丸に赴いて家康に年賀を述べる。
 この頃、他の大老はすべて本国に帰り、五奉行のうち三成と浅野長政が失脚しているめ、事実上、家康の独裁。
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1601(慶長6)年
 家康(60)、発病のため諸大名の参賀を延期。15日、諸大名の参賀を受ける。29日、秀頼と共に大坂城で公家衆・門跡らの参賀を受ける。
 この月、家康、東海道伝馬制を制定。
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1602(慶長7)年
 家康(61)、秀忠と共に江戸城で諸士の参賀を受ける。6日、従一位に叙任。19日、上洛のため江戸をたつ。
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1612(慶長17)年
 結城忠直(18)、駿府へ名代を遣わし年頭の御礼。本多正純披露。
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1613(慶長18)年
 結城忠直(19)、駿府城に出仕。年頭御礼。
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1615(慶長20)年
 (大坂冬の陣)東軍諸将、二条城と岡山で家康・秀忠に年賀。
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1616(元和2)年
 松平忠直(22)、年頭御礼で江戸城に登城。席次は水戸家の次、加賀前田家の前。
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1618(元和4)年
 幕府、江戸城大奥に、男子禁制や夕刻六つの門限などの法度を定める。
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1632(寛永9)年
 大御所徳川秀忠(54)、家光(29)を迎え、御座の間で年頭の儀式を簡略に済ます。
24日、秀忠(54)、没。
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家光親政。
弟忠長、熊本加藤忠広の改易(その跡へ細川忠利が入部)、竹中重義・黒田忠之の江戸喚問、大目付の設置等にみられる大名統制幕閣の強化。ついで1633(寛永10)年、鎖国断行。
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1638(寛永15)年
 第3回原城総攻撃。上使板倉重昌、総攻撃を開始。指揮権は貫徹せず、各藩が交互に先手を争い、後詰めは動かず、重昌自身が突撃して戦死。*
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1651(慶安4)年
 家光(48)、病気のため参賀を受けず。19日、江戸城に初代中村勘三郎を招き、歌舞伎を観劇。
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1720(享保5)年
 中御門天皇の女御の近衛尚子(19)、昭仁親王(桜町天皇)を生む。20日、産後の経過が思わしくなく没。
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 バッハ(35)、「いとしき太陽の光よ、汝を讃えん」(BWVAnh.6)初演。22日、「フリーデマンのためのクラヴィーア小曲集」記入開始。
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to be continued to 1725 onwards

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