2009年1月10日土曜日

「元日」物語(7)

1919(大正8)年
中国、段祺瑞、参戦軍(辺防軍)正式に創建。
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1921(大正10)年
軍備拡張を主張してきた「時事新報」、一転して海軍縮小を主張し始める。
尾崎行雄がこの年の第44議会に提出した軍備制限決議案は、2月10日衆議院で圧倒的多数で否決されたが、議会後に尾崎が各地を遊説すると聴衆の強い支持を受ける。大阪財界でも、鐘紡社長武藤山治らが軍備制限連動にのりだす。軍縮論は、国際的な軍縮問題への関心の高まりに刺激され、促される。戦後も、戦争中からの建艦競争が続いており、何とかしなければいけないというのが当面の問題。
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「1919年インド統治法」発効。
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1922(大正11)年
山川均・田所輝明・西雅雄ら、「前衛」創刊(共産主義運動機関誌)。4月市川正一・青野季吉ら「無産階級」創刊。
1923年4月「前衛」、「社会主義研究」「無産階級」と合併、「赤旗」となる。山川論文は毎号掲載、他に堺利彦・荒畑寒村・平林初之輔らが執筆。大杉栄らアナ派の「労働運動」(第3次)とアナ・ボル論争を展開、ソヴェト権力を支持するボル派の指導的雑誌となる。時事評論、各国共産主義運動紹介のほか、山川「無産階級の方向転換」(’22年7・8月合併号)が掲載され大きな影響を与える。
堺利彦「精神主義と潔癖」(「前衛」)。土田杏村、賀川豊彦、武者小路実篤、有島武郎、吉野作造ら対し、「反動的」「逃避的」「独善的」「現状維持主義」と痛烈な批判を展開。
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ロシアで推定3,300万人が餓死の危機に瀕する。
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1924(大正13)年
枢密院議長清浦奎吾に組閣命令。清浦組閣開始。政党内閣は時期尚早とする西園寺の意向。4日、貴族院研究会幹部、枢密院議長清浦奎吾の組閣を援助することを決定。人選は研究会幹部が行い、閣僚は貴族院から選ぶ。外相・陸海相以外は貴族院議員。
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「大阪毎日新聞」、部数100万部突破を社告。2日「大阪朝日新聞」も同様発表。
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1925(大正14)年
大衆雑誌「キング」(大日本雄弁会講談社)、創刊。発行部数100万部を誇る。
「中世的ではなくて近世的であり、専制的でなくて民衆的であり、聡明にして趣味豊満、気軽に変装して随時随所に出没し、殆ど端倪する遑がない」と、現代性と軽快さを自認。「一家に一冊」を標榜し、年齢や性別、職業を越えた「国民雑誌」を目指す。著名人の論稿、成功譚や出世譚、逸話、小説、講談、実用記事、笑い話に至る、多様なジャンルの記事が満載され、社会不安を防禦する家庭の育成が図られる。農村にも目を向け、発刊時には村長、青年団幹部、校長などにも案内を送る。
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独、ゲッペルス「アドルフ・ヒトラーに! われわれはあなたに敬意を表する。指導者にして英雄よ。…」(「民族の自由」)。
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ノルウェーの首都クリスティアニアをオスロと改称。
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1926(昭和元)年
中国国民党第2期全国代表大会(4~19日)開幕式典(広州)。茅盾、参加(3月に上海に戻る)。
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歩兵第24連隊事件。差別糾弾に対し「福岡連隊爆破陰謀」のフレーム・アップ。松本治一郎ら懲役3
年半
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フィンランド、金本位制に復帰。
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1927(昭和2)年
武漢政府、職務開始。武漢入りしない蒋介石の南昌司令部と対立。
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年賀状(東京市36局)、282万通に激減(1926年、3,595万通)。
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佐野学、第1次共産党事件の刑期を終え出獄。前年末の五色温泉での再建大会で中央委員・無産者新聞主筆に選任されていたが、支配的な福本イズムに反対のため、すぐには党活動に復帰せず。27年1月~4月上旬、福本イズムに反対の堺利彦・荒畑寒村・山川均・北浦千太郎らと意見交換。市川正一・志賀義雄らの働きかけにより、4月上旬頃、荒畑と手を切り、「無産者新聞」主筆に復帰。
前年末の再建大会後、暮に市川正一が出獄。この月、徳田球一も出獄し、渡辺政之輔が留守中の報告。佐野は福本に反対。徳田・市川は福本支持。この頃、前年入露した鍋山貞親の報告により福本イズムによる運動実践面の欠陥が説かれ、在モスクワの高橋貞樹もこれに同調、コミンテルン(ブハーリン中心)は福本イズムを重要視し、山川イズム・福本イズム両責任者のモスクワ召集指令を出す。1月中旬、草津温泉で会合。モスクワ召集に応じ、福本・徳田・渡辺・中尾・佐野(文)・河合の派遣決定。市川・三田村・志賀が「留守部隊」常任委員として残る。山川は同行せず、意見書をヤンソンに託す。
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イタリア、国家防衛特別裁判所が活動を開始。
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独、ゲーリンク、ベルリン大管区事務所をポツダム街地下室よりリュッツォー街へ移動。
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西スマトラのパダン付近で蜂起。
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仏、舞踊家・振付師モーリス・ベジャール、誕生。
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デンマーク、金輸出再禁止(金本位制復帰)。
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1928(昭和3)年
中国、湖南南部の農民暴動、湖南ソビエト成立。
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1929(昭和4)年
中国国軍編遣会議(再編・削減会議)。軍閥私軍の国軍編入めざすが失敗。広西派・馮玉祥等反蒋運動。5日より第1次大会開会。蒋介石、軍閥私軍の国軍編入を図るが、地方軍閥の反対で失敗。25日閉会。
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蒋介石「国民に告ぐるの書」発表、3年以内に平和的に不平等条約を廃棄
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中国国民政府王外交部張、田中義一外相の対中政策に関して村上領事を攻撃。
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アグネス・スメドレー、ハルビン到着。前年末、モスクワ経由シベリア鉄道で中国入り。ハルビン~奉天・大連~北京~南京~上海(5月)。
スメドレーは、中国人家庭を転々とし、東北各地に3ヶ月留まり、外国領事館員、中国人の鉄道官吏、学生、出版物などのあらゆるルートを利用して、日本の資本がどの程度に行政機構や鉄道などに喰いこんでいるかをさぐり、中国での第一報「満州における日本の武力」を纏める。しかし、この文章は、編集部で保留になったまま陽の目をみず、日本の武力侵略(9・18事件)後、初めて活字になる。
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シャフィー派系の全インド・ムスリム協議会、大幅自治の連邦制・分離選挙制堅持などの決議を採択(議長アーガー・カーン3世)。
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1932年
中国、広東派政権発足。蒋介石の南京政府と王兆銘の広東政府が妥協。新国民政府が南京に樹立。主席林森、行政院長孫科、外交部長陳友仁。翌2日、中央政治会議、蒋・汪両名を南京に召集する決議。孫科「内閣」は辞意をかためつつある。
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1933(昭和8)年
山海関事件。
山海関守備隊長落合甚九郎少佐謀略。山海関憲兵分遣隊裏庭、日本守備隊派出所前鉄道線路上に手榴弾投擲。3日、夜明け、陸海軍協同攻撃。午後2時、山海関占領。張学良・何桂国に陳謝及び山海関の緩衝地帯化を要求。
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山海関(万里の長城の東端の、奉天~北平の鉄道が関内(支那本土)へ入る入口に当る)。
元日夜、山海関守備隊長(天津派遣軍所属)落合甚九郎少佐の命により、国境警備隊山海関派遣隊特務警士4名が、日本側の山海関憲兵分遣隊裏庭と日本守備隊派出所前の鉄道線路上に手相弾2発ずつを投擲、爆発、損害なし。落合少佐は、これを支那側何柱国軍の仕業として抗議し、安全保障の為に日本軍による山海関南門警備を要求。相手側指拝官何柱国が北京に行っていて留守中に、武力に訴える謀略。
2日夜、関東軍司令部に日支両軍衝突の入電があるが、それ迄に、隷下の第8師団は兵力を山海関へ増強。何柱国が、北平からの帰路、秦豊島に止まり電話で落合隊長と交渉している間に、日本側は攻撃兵力を整える。守備隊が2個中隊だったのを、歩兵10個中隊基幹に増強、空軍1中隊を加え、更に海軍も協力して、津田静枝第2遣外艦隊司令官は軍艦「平戸」と第16駆逐艦隊を急行させる。
3日仏暁、陸海空3軍協同して攻撃開始、牛後2時、山海関を完全占領。午後6時頃、第8師団は関東軍司令部へ山海関占領後の進退に関する指示を求めると、事態拡大は目下の情勢上不得策であり、濫りに渦中に投じないように指揮下部隊を指導せよとの回答。第8師団は何柱国軍を追撃し、4日、石河の線で停止、何柱国軍もここで増援を受け日本軍に対時、後の熟河作戦開始まで一服の状態となる。
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独、オーバーザルツブルクのヒトラー山荘に占星術師ハヌッセン来訪。ヒトラー自信を回復。
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ソ連、スミルノフ(禁固6年)ら「旧降伏者」逮捕。
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ニカラグア、サカサ大統領就任。「愛国グループ」指導者ソフォニアス・サルバティエラ農相。サンディーノに停戦を呼び掛け。国警隊長官ソモサ。
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1934(昭和9)年
中国、国民党中央軍、福建人民政府を総攻撃。13日、壊滅。
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東京宝塚劇場が開場。
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ウィーンで労働者蜂起。政府軍・郷土防衛団と市街戦、鎮圧。~16日。祖国戦線を除く全政党、禁止される。
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ソ連、第2次5ヵ年計画を発表。
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1935年
中国、国民政府、華北と満州国間の通郵を実施。
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1936(昭和11)年
全国の日刊新聞者と日本放送協会により同盟通信社、発足。政府は同社を通じて国内報道統制を開始し、外電取り締まりも強化しようとする。
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1937(昭和12)年
中共中央政治局会議、東北軍・西北軍・紅軍の三位一体強化決定。
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この年元旦の貴族院議長近衛文麿の論文。この頃、正月には新聞雑誌は近衛の論文を掲載。
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「朝日」の「我が政治外交の指標」は、近衛には珍らしく穏健な内容、「政治運用の要諦は政治の明朗性を保持することにある・・・非常時だからといって断じて憲法の埒外に出ることは許されぬ・・・非常時だから国民生活を忍従せしめてよいなどというのは誤謬・・・国民生活の尊重こそ政治の大本だ」との主旨。しかし、他紙では、「日独防共協定」に対し、英米などが一大勢力結成を企てるのは甚だ遺憾と言い、日中間題では、「中国がソ連に依存して、抗日・排日・打倒日本、ボイコットに狂奔」しているとし、これでは「結局日支戦争に行かねばならない」と断言。西園寺はこれを嫌い、広田内閣交代の気配が出るや、いち早く近衛を後継候補から外す。
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「棉花・石炭・鉄鉱等々支部の天然資源は今なお無尽蔵にあるが、これらに要する資本技術などは日本側よりこれを提供し、支部側の労力と共同してその開発に当る」ことを提議し、「自ら開発のカがおよはざるに天賦の資源を放置して顧みないというのは、天に対する冒溝ともいい得るが、日本は友誼の発露として開発をなさんとするものである」(「我が政治外交の指標」)。
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「神聖な年神さまにたった一つお願ひごとをしたい。・・・コレラとペストが一緒に流行ってもよろしうございます。どうか戦争だけはございませんやうに」(野上弥生子「朝日新聞」)。
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ニカラグア、ソモサが大統領に就任。
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イギリスで社会秩序法が施行。政治的意図のある制服や私設軍隊が禁止される。
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1938(昭和13)年
南京市政府に代る住民代表による南京自治委員会再建。中支那方面軍特務部の指導。市政府の役割を事実上代行していた難民区委員会から行政責任を引継ぐ。日本軍占領から2週間以上無政府状況。
正月以後も、国際委員会は「統治する能力も・・・自信もない」(「一ドイツ人の見聞記」)行政能力の低い自治委員会を肩代りして、精力的な救援活動を継続。特に日本兵の非行摘発は、1月上旬に復帰した米大使館など外国代表部に窓口を切替え、外国政府⇒日本外務省⇒陸軍中央部⇒現地軍のルートを通じ圧力を加え、それなりの効果を得る。
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蒋、内閣改造。行政院長辞任。後任孔祥煕。講和の責任取らぬ意志表示。この日、トラウトマンより新4条件に関する細目11ヶ条が非公式に伝えられる。
蒋は、「倭寇が持ち出した(細目)条件は、わが国を征服し滅亡させるものに等しい。日本に屈服して亡びるよりは、戦いに敗れて亡びる方を選ぼう。厳しい拒絶をもって回答としなくてほならない」(「蒋介石秘録」12)と、2日の日記に書く。
「孔(行政院院長)、張(副院長)はこの日(1月1日)正式に就任し、二日には白崇禧、閻錫山等が漢口を去って前線に赴き、四日には蒋介石も開封方面に去ってしまった。ここで後に残った孔、張二人に和平の全責任が負わされてしまったのであるが、しかし前後左右からいろいろ邪魔が入り、徒に時日を空費しているうち、日本軍は遂に待ち切れなくなって一月十六日の声明を発し、すべては全く水泡に帰してしまったのである。・・・和平方針はすでに(民国)二六年(1937年)の大晦日の国防会議で正式に決定され、二七年の元且から実行される筈であったのだ」(安藤徳器「汪精衛(兆銘)自叙伝」)。
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広州で「救亡日報」復活。郭抹若の手配。編集長夏衍(劇作家、のち文化部副部長)。
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尾崎秀実「抗日支部の行方」(「大阪朝日」1日~4日)。
「陸海軍は全支各方面にわたって赫々たる戦果を挙げつつある。しかしながら一切の問題がすべてこれのみによって解決されると考え、これのみに依頼しようと考えるならば、いうまでもなく甚だしき誤りであるだろう」。「支那の長期抵抗の基礎は南京でもなければ、その他の大都市でもない。全支の農村と人民の確固たる決意にあるのだ」との37年12月16日漢ロでの蒋介石の全国民に告げるラジオ放送を引用し、さらに「わが軍事行動の進展にしたがって生ずる・・・日本と列国との間の危機の増大は直ちに日本に対する支那の抵抗力の増大となって現われるであろう」。
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新潟県十日町の映画館旬街座の屋根が積雪で落下、晴着客69人が圧死。
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1939(昭和14)年
中国国民党中央常会臨時会議、汪兆銘の党籍永久除名を決定。逮捕命令を出す。
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スペイン、フィゲラスで共和国最後の国会開催。
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フランスのダラディエ首相、アルジェリア・チュニジア・コルシカを訪問(~6)。イタリアの領土要求(2ヶ月前、イタリア議会がコルシカ、チュニジア返還要求を決議)を拒否。26日 フランス会議、植民地を含む領土防衛を決議。 
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1940(昭和15)年
1日より6大都市で次の映画を強制上映。「ある保母の記録」(芸術映画社、水木荘也)、「或日の干潟」(理研、下村兼史)、「戦ふ兵隊」(東宝、亀井文夫、上映禁止)。
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1941年
自由フランス代表ド・ゴール、英外相イーデンより自由フランス海軍総司令官ミュズリエ少将をヴィシーのスパイとして逮捕したとの通告を受ける。冤罪であり1週間で釈放。チャーチル英首相陳謝。最初ド・ゴールはミュズリエを疑っていたと言われ、両者の関係は次第に冷えて行き、1942年3月ミュズリエ解任に繋がる。
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1942(昭和17)年
竹内好「大東亜戦争と吾等の決意(宣戦)」(雑誌「中国文学」第80号)
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食塩通帳配給制。ガス使用量割当制実施。
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フィリピン、午前6時、最後の米比軍、カルンピット橋爆破。
夜、第14軍第16師団(森岡中将)がマニラ市南部、第48師団(土橋中将)が北部を制圧。いつでも進入できる状態。
この時、マニラ市は、31日に米比軍・警察が撤退し無秩序状態となり、難民が騒乱を起し、商店は破壊略奪を受け、数ヶ所に火災が起り、空は黒煙に覆われている。
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第14軍第65旅団(奈良晃中将、歩兵5大隊・野砲2中隊基幹)、リンガエン湾上陸。ジャワに転用される第48師団と交替するため、この日からバタアン半島の第1線まで220Kmを徒歩で強行軍を開始。
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川口支隊2小隊、ラブアン島占領。
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第1航空艦隊、機動部隊のラバウル方面作戦兵力部署と行動予定を示達。
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南方軍・第2艦隊、蘭印攻略日程の1ヶ月繰り上げ協定が成立(通称、カムラン協定)。
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ワシントン、連合国26ヶ国宣言。対枢軸国単独不講和・大西洋憲章(1941.8.14)の原則を確認。軍事的経済的資源の利用に関する宣言。中国宋子文は米英ソについで4番目に署名。
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米英ソ中、反枢軸同盟条約調印。
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極東地域連合軍統合司令部を設置、総司令官に英陸軍ウェーベル中将が就任。
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仏、ジャン・ヌーラン(元県知事、左派政党に人脈を持つ)、ドゴール将軍代理・フランス国民委員会代表としてイギリスよりフランス本土に落下傘降下し活動開始。ド・ゴールは自分が主権国家フランスの代表としての地位を維持するためには国内レジスタンスの広範な支持が必要であると考え、全組織を自分のイニシアティヴのもとに統合することを企図。
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〇フランス・レジスタンス:
翌1943年年1月、ヴィシー政府統治の自由地区レジスタンス諸派を「統一レジスタンス運動」に統合。同じ頃、フランス北部・大西洋沿岸のドイツ軍占領地区のレジスタンス諸派も自由フランス情報行動中央局による統合が進められ、1943年5月27日、全フランス16団体(8組織・6政党・2労組)を結集する「全国抵抗評議会」結成。組織者ジャン・ムーランはこの1ヶ月後ドイツ軍に逮捕され、拷問・殺害。ムーランの死後、ジョルジュ・ビドーを議長に選出、ド・ゴールから独立した機関であることを明確化して行く。
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1943(昭和18)年
中野正剛「戦時宰相論」(「朝日新聞」連載)。東条批判。「朝日新聞」発禁。春、東条政権打倒の重臣工作(重臣らが東条を追詰め、後継首相には宇垣を擁立するシナリオ)。10月、倒閣企図で検挙、釈放後割腹自殺。
ビスマルク、ヒンデンプルグ、ルーデンドルフを引用し、非常時宰相は強くなければならぬ、戦況が悪化したといって顔色憔悴してはならぬ、と説く。「・・・非常時宰相は必ずしも蓋世の英雄足らずともその任務を果たし得るのである。否日本の非常時宰相はたとえ英雄の本質を有するも、英雄の盛名をほしいままにしてはならないのである」。桂太郎は貫録のない首相に見えたが、人材を活用してその目的を達した。「難局日本の名宰相は絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しこうして気宇広大でなければならぬ」と結ぶ。
読みようによっては東條を激励しているととれるが、東條は、自分へのあてこすり、批判、中傷、戦局への対応の誹謗ととる。情報局検閲課に新聞紙法第23条による発売禁止を命令。内相でない命令は、23条(内務大臣の権限で、安寧秩序を策したと認めたとき発売、頒布を禁止できる)との条項に違反するが、東條はそんな事には構っていない。陛下の御親任によって首相の任にある者に対する批判中傷は、陛下に対する中傷である、と本当にそう信じている。憲兵隊は、この時から中野正剛監視を命じられる。また、監視は、ときに「法律違反」の捏造を意味する。
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「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」、題字を「毎日新聞」に統合。
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朝日系グラビア写真雑誌「ジャワ・バルー」創刊
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ソ連軍、ヴェルキエ・ルーキ奪回
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アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ「星の王子様」出版。
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サルトル「存在と無」「蝿」出版。
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1944(昭和19)年
元水上機母艦の空母「千歳」「千代田」の改造終わる。
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仏、統治権をレバノン政府に移管。レバノン、主権回復。
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独軍、東部戦線(ウクライナ)より撤退開始
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ワルシャワで共産党系の国内国民評議会結成会議。
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ロンメル、B軍集団の指揮をとる
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1945(昭和20)年
戦時最後のプロ野球試合、在阪4球団で5日間、甲子園球場で行われる。
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フィリピン、アメリカ軍、ミンドロ島で進撃開始。また、この月、アメリカ軍機、ルソン島北部のバギオを空爆開始。
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ポーランドのルブリン委員会(国民解放委員会)、ポーランド臨時政府と改称。ポーランド共和国臨時政府樹立(ルブリン)。18日、ワルシャワに移る。亡命政府(ロンドン)、抗議。
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ドイツ「ボーデンプラッテ(敷石)」作戦(空軍残存戦力による北西欧州連合軍航空基地空襲作戦)。独空軍、連合軍飛行場を奇襲。
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ドイツ軍、アルザスで「ノルト・ヴィント作戦」
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ドイツ軍、アルデンヌで後退
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ドイツ軍、ブダペスト救出作戦を開始。2日、ドイツ軍、ブタベストで反撃。
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End

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