2009年1月20日火曜日

京都のいしぶみ 六角獄舎 平野国臣外数十名終焉址 山脇東洋観臓地 蛤御門の変 残念さん












■六角獄舎:中京区六角通神泉苑西入南側
①平野国臣外数十名終焉趾、②山脇東洋観臓地
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■山脇東洋解剖碑所在墓地:中京区新京極通三条下る東入(誓願寺墓地入口)
六角獄舎跡に行くと言ったら、知人に「あの辺だけは昼間でもスーット寒いよ」と言われた。あいにく、その日は、京都全体が凍えてました。
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元治元年(1864年)7月19日     「黙翁年表」より
蛤御門の変(禁門の変)。
久坂玄瑞(25)・真木和泉(52)自尽。来島又兵衛(49)戦死。京に大火。会津・桑名・薩摩兵。古い尊攘派壊滅。戦火で京都市内811町に渡る民家27511戸・土蔵1207棟・寺社253などが焼失。
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諸廷臣・京都守護職松平容保・所司代松平定敬・摂海防御徳川慶喜・水戸藩主徳川慶篤弟松平昭武ら在京の諸侯、相次いで参内。警守諸兵、9門を閉ざして内外を厳守。
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[戦闘]
午前0時過ぎ、福原越後隊700、伏見街道北上、大垣・彦根藩兵に丹波橋付近で敗北、山崎方面に遁走(入京できず)。
午前2時頃、嵯峨野の国司・来嶋隊800余、市内に突入、三手に分かれ、国司隊は中立売御門を、来嶋隊は蛤御門を、児玉隊は下立売御門を目指す。禁裏周辺守備は、中立売御門に筑前藩、蛤御門に会津藩、禁裏台所門に桑名藩、堺町御門に福井藩、乾御門に薩摩藩が配置。
午前7時頃、諸隊の一斉攻撃。国司隊は中立売御門の筑前兵を破り、児玉隊も下立売御門の桑名兵を破り、来嶋の攻める蛤御門(会津藩兵1500)へ向かう。来嶋隊は一旦会津藩を突破、御所に侵入するが、乾御門守備の薩摩藩兵(西郷指揮)が来援、激戦の末、来嶋(48)が戦死、長州勢は崩れ山崎方面へ敗走。
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大山崎の久坂玄瑞・真木和泉隊600余、前夜から西国街道を北上、午前8時、堺町御門に到着。久坂は堺町御門横の鷹司邸裏門から邸内に入り、参内同行を求めるが、鷹司は遁走。久坂らは堺町門内の鷹司邸に立て篭もる。越前・彦根兵がこれを攻めるが抜けず、会津藩砲術家山本覚馬が大砲をもってこれを粉砕。入江九一(28)戦死。久坂玄瑞(25)・寺島忠三郎(22)、自決。
後、真木和泉は残兵を率いて鷹司邸の南裏門から逃げる。鷹司邸の火炎は、長州の残党狩りの為に幕府軍が民家に放った火と砲撃により、更に煽られ京都を焼き尽す。家屋3万軒が焼失という。
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「どんどん焼け」「鉄砲焼け」:
手の施しようもなく燃え広がる有様をいう。火災被害は、北は丸太町通、南は七条通、東は寺町、西は東堀川に至る区域に及ぶ。21日に鎮火。800ヶ町、2万7千世帯、他に土蔵・寺社(東本願寺・本能寺・六角堂など)などが罹災。
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因州藩邸の桂小五郎は、同藩河田佐久馬が「有栖川宮を擁し長州・因州藩士が天皇を守る」計画実行の機会を窺がう為、有栖川宮邸に向かったのでその結果を同藩邸で待つ。しかし、有栖川宮は昨晩参内したまま帰邸せず、宮廷内の様子もわからず、夜明けとなる。桂は待ちきれず、出撃、兵を2手に分け、時山直八が1手を率い、別の経路から今出川御門に向い、桂は馬屋原二郎・田村甚之允ら6~7名と共に今出川門から有栖川宮邸に入る。
ここで戦端が開かれた以上約束を果たせぬとの河田佐久馬と決別、有栖川邸から下鴨社に向う(天皇が難を逃れてここに遷座するとの情報があり)。しかし、その兆候も無く、桂以外は蛤御門・鷹司邸での戦闘に合流する為に夫々駆けつける。その後、桂は、鷹司邸の方角から大砲の轟音を聞き、堺町門までたどり着くが、既に鷹司邸は火炎に包まれようとしているため、天王山に向う。途中、天王山の兵も散り散りになるとの情報を聞き、再び京都に引き返す。のち、但馬出石に潜伏。
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・夜、六角獄舎で平野国臣(37)・古高俊太郎(36)・丹羽正雄・河村季興・長尾郁三郎・水郡善之祐ら志士33名殺害
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松平慶永の禁門の変への論評。
「元治元年九月二日付 前々七月十九日、鳳京へ長毛人乱入、終に宮掖に向ひ奉り発炮す、高示の如く、長賊本心を顕はし、先々一時の動乱、速かに静定す、この上なく恐悦と存じ奉り候。実に長賊は悪むべきの甚敷、第一朝敵の名号、赫々明白、共に天を戴かざるの仇□と存じ奉り候。千古無比の大変、往古乱臣賊子これ有り候得共、斯の如く、王城に向い奉り、発砲等の儀はこれ有る間敷、尊氏・北条にもまさり候大姦大悪と存じ奉り候」(「続再夢紀事」)。
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禁門の変後の会津藩による敗残兵狩りと残虐行為
勝海舟、憂慮する。「聞く京地にて会藩、生捕りの者、残らず斬首と云う。・・・或いは私怨に出づるか」(7月23日付け日記)。
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「会津及び近藤勇が率いる新選組等凶暴至らざるなく、或は客月(7月)19日の騒乱に乗じ、平野二郎、国臣以下在獄の義士を濫殺し、或は日に尊王憂国の志士を捕らえて之を殺し、或は獄に下しての非道の苛責を加え死に至らしむる等の惨酷は枚挙に遑(いとま)あらず。余の知己橋本半助もこの毒手に陥り、終に囚中に没せり。…是を以て天下の志士等会藩新撰等を蛇蝎視すること一層を加え、長藩を憐れむの情も亦其度を高め、是より諸侯中にも長を援くるもの日を追ふて多きに至る傾きあり。」(「尾道市史」第2巻「維新前後に活躍した尾道の豪商」、竹内要助履歴書の脚注)
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朝敵長州藩に対して、京都・大阪・江戸の長州藩邸没収。26日、幕府、庄内藩酒井家に対して江戸の長州藩邸の接収を命じる。酒井左衛門尉ほか4大名が指揮の騎兵・歩兵が、日比谷御門の上屋敷、麻布の中屋敷に殺到。残留藩士120名を拘束し神田橋外旧陸軍所に閉じ込める。8月8日、取り壊し。3万6千余坪の敷地に建てられた建物は全て1日で取り壊され、藩士たちは掛川、大垣新田、沼津、牛久保など諸藩の江戸屋敷に預けられる、扱いは過酷をきわめ、慶応2年(1866)5月に釈放される迄の2年間に51名が没。また、長州へ逃げ帰る途中で幕府方捕虜となった60余の長州藩士も非情な扱いをうけ、半年余で刑死者6・牢死者39名に及ぶ。
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民衆の長州への同情と「残念さん」
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「元治元年(一八六四)末ごろから翌慶応元年(一八六五)にかけて、畿内の庶民のあいだに「残念さん」や「無念柳」の参詣がひろまった。禁門の変(蛤御門の変)で敗走し、仲間からはぐれた一人の長州藩兵が、尼ケ崎で捕らえられ自害した。これに同情した土地の人々は、誰いうとなく「残念さん」と称し、墓をたてて参詣するものが絶えなかった。それも尼ケ崎だけでなく、三里ほど離れた大坂からも参詣にでるものが増した。
将軍進発の五月ごろには、これに願かける群集がおびただしく、連日大混雑であった。大坂町奉行所や尼崎藩では道を通行止めにしたり、渡しを止めたりしたが、参詣ブームは少しもやまなかった。そのためついに大坂町奉行所は五月十七日、参詣を禁止した。それは民衆の長州藩への同情と、幕府への抵抗のあらわれであるとみることができよう。
類似のケースはほかにもある。大坂市内では、尼ケ崎での参詣が禁止されるとまもなく、長州藩兵が禁門の変で捕らえられて切腹した東御堂と千日墓所への参詣が始まった。尼ケ崎での参詣が禁止されたことへの代替行為である。
またこれより以前、大坂から遠く離れた大和国吉野では、文久三年(一八六三)に天誅組の指導者吉村寅太郎が処刑されたが、翌元治元年(一八六四)末には参詣者が多く、河内・伊勢からも参詣者がおしかけたという。残念さん参りの先駆である。五条代官は吉村の碑をこわして河中に投じ、吉村を祭った責任者として大庄屋ら二〇人を閉門にするなど処罰した。
大坂の長州藩の蔵屋敷(現西区土佐堀二丁目)は、禁門の変直後に破壊された。ところが慶応元年(一八六五)五月になると、蔵屋敷跡の柳の木に参詣することが大流行した。蔵屋敷内にあった稲荷が柳の木にのり移り、柳の葉をせんじて飲めば何病でも治るというのである。柳の葉がなくなると、人々は柳の木を切りけずるようになり、参詣人は夜どおし続いたのである。その柳はまた「無念柳」とよばれた。役人がいくら制しても群集がおしよせるので、参詣を禁止し、柳は切り払われた。そして、以後参詣するものは捕らえて厳しく処分すると令している。
したがって、吉野の碑詣り→尼ケ崎の残念さん→大坂の東御堂・千日墓→同長州藩蔵屋敷跡(無念柳)とつづく一連の民衆行動は、長州藩支持-反幕府の表示であるとみなすことができよう。」(南和男「維新前夜の江戸庶民」(教育社歴史新書))。
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「長州藩の天誅の闇の世界を、京都藩邸の指導者、木戸孝允や久坂玄瑞が統率していた。一八六四年二月下旬の大坂本願寺南御堂で起きた実例だが、長州藩尊王撲夷派は、天誅を実行し、なおかつ 「攘夷の赤心〔いつわりのない心〕」を吐露して切腹した志士を「演出」していた。
大坂でイギリス向け綿花を買い集めて長崎へ向かい、長州上関に寄港していた薩摩商船の船頭を暗殺し、首を持って上坂した長州藩在地の二人の無名の草莽がその主役である。深夜、久坂玄瑞や品川弥二郎ら十数人が、黒装束でガントウ(龕灯)をもって、木戸番を脅迫して南御堂の路地をとざし、船頭の首を梟首し、立札を立てた横で、本人の意に反して、その二人に「切腹させた」のである。実は、一度は長州へ逃亡した草莽を品川らが追跡、連れ戻していた。草莽は、肉親に、「切歯にたえない」が、もはや免れないので、「何卒々々、ご許容」と便りを残した。二人は、切腹の翌年、流行神「残念さん」になって、大坂市民の共感を集める。このように、激派草莽は、長州藩の尊摸運動の下部に組織されていった。・・・」(井上勝生「幕末・維新」(岩波新書))。
冷血の「長州ブランド」クリエイター。
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一方、明治元年の「堺事件」で切腹させられた11人に対しても、民衆は・・・。
「堺では十一基の石碑を「御残念様」と云い、九箇の瓶(かめ)を「生運様(いきうんさま)」と云って参詣(さんけい)するものが迹(あと)を絶たない。」(森鴎外「堺事件」)。
大岡昇平さんにも「堺攘夷始末」なる詳細な研究所あり。幸運にも私は「中公文庫」(だったと思う)でこれを持っている。
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一番下にある碑は、「新京極東入る」とありますが、通常「裏寺町」と言われる通りのことです。通称か正式名かは知りません。
昔、四条通からこの裏寺町への入口近くに、「アルサロ」とかいう店がありまして、妙に下品で派手で、いつも背広のお兄さんがお店の前に立っている所がありました。もっともお兄さんにはガキに全く用事はなかったようで、チラとも見て貰ったことないですが。刑事モノのテレビドラマなんかで、「ガイシャはアルサロのオンナでっせ」とかのセリフがでようものなら、「ふーん、ああいうお店にいる女のヒトやな。ボク知ってるよ」と、ヒト知れず納得したものでした。
そのうち、名前がどんどん変わり、「長じゅばんサロン」ていうのもあり、想像を逞しくしても全然イメージできない名前もありました、当時は。
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