2009年2月12日木曜日

1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・(9)

前回(3月29日)の追加
○[コミューン群像:シャルル・ロンゲ(1833~1903)]
商人の家庭に生まれる。1860年代初めからパリで、雄弁家、ジャーナリスト、共和主義的諸新聞の寄稿家として有名になる。長く小プルジョア的社会主義(ブルードン主義)の影響を受ける。
1865年5月編集していた新聞「ラ・リヴ・ゴーシュ」の禁止後、ベルギーに行き、6月23日からこの新聞発行を再開。1865年秋、リュージュでの国際学生大会に出席。警察から逃れる為ロンドンに移住しインタナショナルフランス人支部に入る。
1866年1月9日、総評議会員に選ばれ、1月16日、ベルギー担当通信書記に任命される。マルクスの要請により、ブリュッセルで(1866年)、国際労働者協会創立宣言の新訳を準備発行、初版(パリ版)の誤謬・歪曲を修正。1866年夏、フランスへの旅行中逮捕され8ヶ月投獄。
1867年10月28日、パリで、ジョヴァンニ・ガリパルディ支持、フランス軍のローマ法王援助抗議のデモに参加して逮捕される。
1870年9月4日革命後、20区中央共和委員会委員になり、国民軍第248大隊長になる。この大隊が10月31日蜂起に参加した為罷免される。
1871年3月27日~5月21日パリ・コミューン『官報』編集長。4月16日の補欠選挙で、第16区のコミューン議員に選出され、27日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、コミューンの「少数派」宣言に署名。コミューン敗北後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
第1インタナショナル・ロンドン協議会(1871年9月)、ハーグ大会(1872年9月)の代議員。マルクスの方針を支持。コミューンの経験に基づき、社会主義変革を実現するには、団結したプロレタリア党が必要であると主張。
その後、改良主義的見解に戻り、ポシビリスト(最大限綱領主義者)に接近。1880年恩赦後、フランスに帰国。1868年、市参事会員に選出される。
1872年からマルクスの長女イェンニーの夫。
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3月30日
・仏、家賃、及び公設質屋に預けられた物品の販売に関する布告(3月29日署名、3月30日公布)。
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未納家賃支払い免除措置。
「パリ・コミューンは・・・布告する---
第一条、借家人に対し、一八七〇年一〇月、一八七一年一月および四月期限の家賃の全般的延期が行なわれる。
第二条、借家人が過去九ヵ月間に支払った全金額は、将来の支払分から控除されるであろう。・・・」。(パリでは家賃は、3ヶ月毎に先払いで支払われる。家賃の支払いの9ヶ月間(1870年10月1日~1871年7月1日)停止すつ事で、パリ住民は、総額4億フランの負債を免れる。戦争と龍城の犠牲は勤労市民だけでなく、資産家・家主も負わねばらぬという原則に立脚。唯一の欠点は、全借家人にこれが適用された為、投機業者などこの間に利益を稼いだ者の家賃支払も免除されるという点。
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「パリ・コミューンは布告する-単独条項。公設質屋に預けられた物品の販売は一時中止される。」
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・コミューン選挙委員会、被選出議員(全選挙民の投票数の1/8未満も含め)を確認し、「コミューンの旗は世界共和国の旗である」ことに基づき外国人でインタナショナル会員レオ・フランケルの選出を確認。
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・コミューンの決定。
コミューン議員テイスを郵政局長に、コミューン議員ベレーをフランス銀行代表委員に任命。コミューン議員が各区の行政権力を持ち、公民的行為の遂行権限を持つと決定。
保険会社の帳簿・金庫の没収についての決定。
コミューン諸委員会に広範な全権を与える決議。
パン焼業者の手持現金を、ヴェルサイユに送付させないように没収する決定。
反革命新聞「フィガロ」発行停止。
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日常業務の一般的管理のため常任執行委員会を任命、その下に9専門委員会を組織(4月20日~この常任執行委員会は廃止、専門委員会代表者会議がこれに代わる)。
専門委員会の活動は、コミューン議員中から任命された1、2名の代表がこれを管理。
郵便業務管理は指物師テイス、造幣廠管理は青銅匠カムラン、病院管理は老革命家トレリアール、財政業務ジュールドとヴァルラン。
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・パリ第20区中央委員会、コミューン諸法令を完全に承認すると声明。セイヌ県砲兵隊中央委員会はコミューン参加を声明。
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・国民軍中央委員会、クリュズレ将軍を陸軍省代表委員として派遣し、国民軍を再編し、適当な指導機関をつくる任務を与える。国民軍、パンテオン(フランスの偉人を合祀するパリの寺院)上に赤旗を掲げる。
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・インターナショナル派フランケル、マルクスに宛てて、達成された革命は「未来のあらゆる革命の起る余地を奪うだろう。なぜなら、社会の領域において要求すべきものはもはやなくなるであろうから」と書く。
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○[コミューン群像:レオ・フランケル]
宝石工。60年代末から労働者運動に参加。インタナショナルパリ諸支部連合評議会委員、パリ在住ドイツ労働者支部を組織。
1870年7月、インタナショナルパリ組織裁判事件で禁錮・罰金判決。
ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍に勤務。1月22日蜂起に参加。3月18日蜂起指導者の1人。3月26日コミューン議員に当選(第13区)。3月29日から労働・工業・交換委員会委員、4月5日から財政委員会委員。4月20日から労働・工業・交換委員会代表委員、執行委員会委員。労働者、事務員の労働保護、失業一掃のためにコミューンの政策を指導。4月28日コミューン会議で、パン焼工場の夜業禁止法案審議にあたり、「われわれは自治体の諸問題を擁護するためだけでなく、社会的改革を実施するためにもここにいるのである」と述べる。コミューンの注文を受けている裁縫工場主たちが、労働者を搾取している事を暴露し、今後は注文を労働者団体に与えるよう提案し、「三月一八日の革命が、もっぱら労働者階級によって遂行されたということをわれわれは忘れてはならない。平等を原則とするわれわれが、この階級のためになにもしないならば、わたしはコミューンの存在に意義をみとめない」と強調。
コミューンに入った僅かなマルクス主義者の1人で、マルクスと文通し、労働者立法問題でマルクスと相談。公安委員会設置に賛成するが、5月15日コミューンの「少数派」宣言には署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン弾圧後、イギリスに亡命。軍法会議(欠席裁判)で死刑判決。
ロンドンで、インタナショナル総評議会に補充され、オーストリア・ハンガリー担当通信書記になる。ロンドン協議会(1871年)、ハーグ大会(1872年)の代議員。バクーニンとギヨームの除名に賛成。1875年ドイツに移住、更にオーストリア・ハンガリーに移住。ハンガリー総労働者党創立者の1人(1880年創立)。社会主義宣伝の為に3度裁判にかけられる。1883年オーストリアに移住し、1889年からパリに居住。第2インタナショナル創立に参加、第1回パリ大会(1889年)で議長。ブリュッセル大会(1891年)とチューリヒ大会(1893年)代議員。
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○[コミューン群像:アルペール・プレデリク・フェリクス・テイス(1839~81)]
労働者、金属切断工。1867年、製鋼工ストライキに参加。製鋼工協会を代表してインタナショナル・ブリュッセル大会(1868年)代議員。パリの職業組合を連合会議所に団結する発起人。インタナショナル第3次裁判(1870年)で禁固2年・罰金判決をうける。
1870年9月4日革命後、国民軍第152部隊に勤務。20区中央共和委員会委員。同職組合連合会議所の指導者。ドイツ軍のパリ攻囲中、労働組合とインタナショナル諸支部を政治闘争に組織的に参加させる。
1871年3月26日、同時に2区(第21、18区)からコミューン議員に選出される。3月30日郵便局長に任命され、通信事務を整え、高級事務員のサボタージュを粉砕。4月5日から財政委員会委員。4月3日から労働・交換委員会委員。公安委員会設置に反対投票し、「少数派」宣言に署名。「五月の一週間」の戦闘に積極的に参加。コミューン崩壊後、ロンドンに亡命。欠席裁判で死刑判決。
1871年8月8日、インタナショナル総評議会員に選ばれ、会計係になる。ロンドン協議会(1871年9月)の代議員として、コミューン経験にもとづく労働者階級の政治行動についての決議を支持。1871年秋、マルクス参加の下にロンドンにつくられた「社会調査サークル」の一員。セクト主義的冒険主義的な「一八七一年、ロンドン在住フランス人支部」が、テイスを総評議会反対闘争に引き入れようとするが失敗。1880年恩赦でフランスに帰国、社会主義運動に参加。
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・連盟軍50、イシ砦を通り、ムードンの東方クラマール(シャティオンとともにヴァンヴ砦の前哨地)に出現。彼らは住民たちに直接選挙を実施させる。
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・ヴェルサイユ軍が偵察。ヌイーの橋上でサーベルをかざすド・ガリフェ将軍は、部下を従えず、連盟兵にとり囲まれるが、釈放される。
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・マルセイユ。臨時県委員会が綱領的宣言を採択。マルセイユ市会、革命勢力に反対する「秩序」勢力支持を呼び掛ける。
to be continued

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