2009年2月23日月曜日

治承4(1180)年記(4) 大輪田泊修築

前回分(2月20日の大輪田泊修築計画の項)の追加
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□この時の修築に関わる平貞能と平重盛。
[平貞能の役割]
石椋築造の為の課役を諸国に充てるよう請う解状の奥に「前筑前守貞能」の加署があったといい(「玉葉」治承4年2月20日条)、これからみて、今回の大輪田泊修築の奉行は貞能であったと推定できる。
また、貞能は「前筑前守」であったことから翌治承5年の鎮西の謀反に対して派遣される(「玉葉」治承5年8月1日、9月6日条)こと、或いは鎮西における平家没官領には、貞能が領家の免を得て知行していた所領が相当数ある(「吾妻鏡」文治元年5月8日条)ことなどからみて、貞能が持つ鎮西~京とを結ぶ交通・軍事上支配の役割をみてとれる。
更に、平氏都落ち後、鎮西に拠を据えている時期の貞能の活動もあげられる。
但し、その後、平氏が鎮西を追われると、貞能は平氏一門と離れてゆく(「玉葉」寿永2年閏10月2日条)。
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[「平家物語」巻3「金渡」(内大臣平童盛が金数千両を宋の育王山に寄進し、後世をとぶらわしめる話)にみる重盛・貞能、奥州の金と日宋貿易]
「惣て此大臣は吾朝の神明仏陀に財を投給のみに非ず、異朝の仏法にも帰し奉られけり、去治承二年の春比、筑前守貞能を召て被云合けるは、・・・貞能入唐して計(ハカラヒ)沙汰仕れと宣ひける、折節博多の妙典と串ける船頭の上たりけるを召て、内大臣の知給ける奥州気仙の郡より年貢に上りたる金を二千三百両妙典に賜て宜けるは、此金百両をば汝に与ふ、二千二百両をば大唐に渡して、二百両をば生身の御舎利のおわします伊王山の僧徒に与へて、長老禅師の請取を可取進、残二千両をば大王に献りて彼寺へ供田を寄て給はるべしと奏よ、とて状を書て妙典に給けり(二本、小松殿大国にて善を催し給事)」(「平家物語」巻3「金渡」)
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(大意)重盛は平貞能をめして相談し、奥州の金を唐に渡すことになり、貞能と繋がりのある博多の船頭妙典にこれを指示する。
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[重盛・貞能の関係]
寿永2(1183)年、都落ちした貞能は再び都に戻り「小松殿の御墓の六波羅に有けるを、東国の人共が馬の蹄にかけさせむ事口惜しかるべしとて、墓堀をこし骨ひろひ頚にかけ、泣々福原へとて落行けり」(重盛の墓を掘り、骨を持ち去る)と伝える。
彼は「故人道大相国専一腹心者」(「吾妻鏡」文治元年7月7日条)と云われ、清盛の筆頭家人であるが、同時に重盛の家人である。重盛没後、子の資盛にも仕え、治承4年3月の伊賀道追討、寿永2年7月、大将軍資盛に従う(「玉葉」治承4年12月2日条、寿永2年7月21日条)。
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[厩と厩舎人]
永万2(1166)年正月、平重衡が後白河院に寄進した大田荘(備後国尾道浦を倉敷とする)の年貢納入を巡る史料を検討すると、大田荘には2系列の支配関係がある事がわかる。
①院を本家と仰ぎ荘務権を握る領家清盛、預所重衡、申次盛国の系列。
②院に付属して年責を収取する院庁(主典代中原基兼)と衛厩(平貞能と舎人)の系列。
貞能は、清盛・重衡の系列ではなく、院庁の側で御厩を管轄する側にあったことがわかる。厩と厩に属する厩舎人が注目される。
摂関家が奥州に金を年貢とする荘園を多く知行していた時、年貢増徴交渉の為に、厩舎人がしばしば派遣されている。厩の馬は奥州と京を結ぶ交通手段であり、馬を駆使する厩舎人は遠隔地商人の一面を持っている。
保元2(1157)、京都の祇園御霊会復興が企てられ、経費を民間の富裕な人々が負担する「馬上役」こととなった時、その第1回の馬上には「後院」の「御厩舎人六郎先生光吉」が差定される。光吉の富裕さは後院の厩舎人としての遠隔地商人であるところから来るものと考えられる。尚この後、治承年間には清水坂の馬借に馬上役が差定される。
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「金渡」にある「内大臣の知給ける奥州気仙の郡より年責に上りたる金」は、かつて左大臣藤原頼長が父忠実から譲られた金を年責とする荘園で、気仙郡近くの磐井郡高鞍荘、本吉郡本吉荘などであり、頼長はこれらの荘の年貢の金をもって日宋貿易に関係していた。保元乱後、これらは後院領に編入されるが、同じ後院領には日宋貿易の根拠地としての肥前国神崎荘がある。
奥州の荘の年貢の金は後院の機構を通じて日宋貿易に役立てられたとみられる。
厩舎人は、そうした奥州の金と博多の唐物の輸送に携わる商人と云えるし、六郎先生光吉はその典型。
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貞能の管轄する厩もこの後院の厩の系譜を引くもの。後院(ゴイン)は天皇の直領(後院とは、在位中の天皇が譲位後の御所として定めた居所のことで、それに付属する所領・荘園などを後院領という。)。
荘園所領をさほど多く伝領しなかった後白河天皇は、天皇管轄下にある後院を重要な経済的基盤とし、保元の乱後には頼長の没収所領などを合わせ後院管轄下に置く。その後院領はやがて院政をしく後白河院院領の中核となってゆく。
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貞能が日宋貿易に関与するのは、後院の系譜をひく院の厩を管轄していた事が大きな意味を持っている。その上で更に、貞能のその地位は、重盛の代官として与えられたと推測できる。これより前、清盛は平治元年(1159)、後院の別当とな、清盛の日宋貿易は本格化するが、その後この地位は重盛に継がれる。重盛・貞能によって管轄されている後院と厩が日宋貿易の重要な機構であったことをみることができる
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[平貞能(生没年未詳)]
家貞の2男。母未詳。大悲山峰定寺(左京区花背)の仁王像2体の胎内に、「平貞能母尼」が長寛元年(1163)6月28日に寄進したと記す。桓武平氏の血を引く郎等。肥後守であった永暦元年(1160)、同国に妙郎中宮社を建立。高倉帝立太子の仁安元年(1166)、左大夫尉(「兵範記」10月10日条)。同2年、左衛門少尉従五位上に復任(「同」8月18日条)。同4年、筑前守(「同」正月11日条)。
養和元年(1181)8月、九州制圧に向かう(「玉葉」1日条等)、目的を達成するが(「同」10月16日、翌2年5月11日条)、都落ち直前の寿永2年(1181)6月の帰還時、期待に反し千余騎の軍勢しか連れていなかった(「吉記」2、18日条)。
7月21日、首都防衛の為、資盛(重盛次男)に従い近江へ向かうが、途中の宇治で敵襲に備えて滞留するうち都落ちの25日を迎え、一旦、都にとって返して源氏と一戦を交える構えを見せたものの、翌朝、落ちて行く(「吉記」「玉葉」)。
九州に入り、出家してその地に留まったとも、生け捕られたとも伝わるが(「玉葉」9月5日、閏10月2日、翌年2月19日条)、「吾妻鏡」は、恩義を与えたことのある宇都宮朝綱を頼って関東へ下向、そのとりなしで助命されたと記す(元暦2=1185年7月7日条)。
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以上、五味文彦さんの「平家物語、史と説話」に100%依拠しました。
同じく、五味さんの「源義経」(岩波新書)でも、奥州の金、厩の管理者、通商を行う人々との関連について書かれています。
to be continued

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