2009年2月8日日曜日

東京 千駄木 鴎外観潮楼 漱石旧宅



観潮楼は森鴎外の家。
この前にある小学校の名前も汐見台小学校なので、高台でもあり昔は品川の海が見えたのでしょう。
歌壇の調停者として観潮楼歌会を主宰。啄木も通ったんだ。
雑誌「めさまし草」の「三人冗語」という持ち回りの書評欄で、鴎外は一葉の「たけくらべ」を評価して一葉を世に出す。
「三人冗語」の斎藤緑雨は、一葉を好きになったようで、しょっちゅう一葉を訪ねたという話。
一葉の葬儀に際し、鴎外は騎馬の礼でもってこれを送ろうとするが、うちはそんな立派な葬儀をあげられないとのことで、断られた悲しい話など、確か関川夏央さんの「二葉亭四迷の明治四十一年」という本にあった記憶あり。
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二葉亭四迷の明治四十一年 (文春文庫)

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漱石旧宅跡。
ここは「猫」を書いた時代のもので実物は確か岐阜県の明治村にあります。それと、確か漱石が住む10年以上前に鴎外が住んでいたはずです。
漱石の弟子の森田草平が、例の塩原事件後、この家で謹慎していたそうですが、夜な夜な外出しては「そこの漱石の家の者だ」ということで無銭飲食を重ねていたエピソードは、江口「わが文学半生記」にあり。
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「わが文学半生記」が出たついでに、ワタシ的に印象に残ったくだり。
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漱石の葬儀の時・・・。
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「鴎外は大かたの名刺を私の前においた。「森林太郎」とあるだけで、ほかに何にもない。私は名刺をそっと芥川の前、におきかえた。芥川の眼が名刺と鴎外の扱とを見くらべた。と、思った瞬間、するどいきん張感が顔一めんにあふれ、そのひとみは異常な光をはなって鴎外の顔を見つめた。・・・
「あれが森さんかあ。」
「そうだよ。森さんだよ。君、いままでしらなかったのかい。」
「うん。はじめてだよ。いい顔をしているな。じつにいい顔だな。」
芥川は指をひろげて長い髪の毛をぐっと一つかき上げると、感嘆おくあたわずという風に、何度も同じ言葉をくりかえした。私はそのずっと前から、奥さんをつれて、根津の夜店を歩いては、古本屋をのぞいている鴎外を、ときどき見かけたことがあったのである。」
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この芥川の初々しさが何ともいい。
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そして、そのあとに以下のシーンが続きます。

「近づいて見ると芥川は手巾を顔にあて、うつ向きがちに歩きながらすすり泣きをつづけている。声を出すまいとして、むりにおさえるせいか、いきをする度に肩が苦しそうにゆすり上る。それを久米がなぐさめようとして、手を肩におき、しきりに顔をのぞきこむ。芥川のフロックの黒と久米のこげ茶の背広とが、白い光の中でくっきりと色彩の対照を示した。
芥川のいたいたしい様子を見ると、私ももう少しで涙が出そうになった。私は思った。今日のこの葬儀で一とうふかい悲しみに打たれたのは、弟子の中のだれよりも芥川ではないだろうか。「鼻」いらい、漱石にあれだけ高く評価され、あれだけ推賞された芥川。漱石からあのようないい手紙をあんなに度々もらった芥川。ふるいお弟子の多くに失望すればするほど、いよいよ漱石にとって新しいホープとなった芥川。そして漱石のおかげでこうしてぐんぐん文壇に出ていった芥川。その芥川にとって心のもっとも大きな支柱がこのようにして倒れたのである。これが全身をゆすり上げるほどの悲しみとならないでどうしよう。今日の芥川の悲しみが私にも一つ一つはっきりわかるような気特がした。そして、そばまでいって、よっぽど慰めの言葉をかけて見ようかとさえも思った。だが、下手にそんなことをすればかえって言葉がうそになる。そう考えて、ついにやめた。」
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江口は、漱石は弟子たちに絶望していて、その分芥川に肩入れしたという見解を持っています。
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余談が長くなりますので、この辺で終わります。
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漱石旧宅再訪版はコチラ
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「★東京インデックス」をご参照下さい
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2 件のコメント:

花園祐 さんのコメント...

 芥川は漱石の門下ですが、作風は歴史に題材を求めるところなど鴎外の影響が強いと言われているだけに、なかなか考えさせられるエピソードですね。

黙翁 さんのコメント...

やはり尊敬、畏敬の念は持っていたでしょうね。漱石のように長編・大作を書かないとこなどは似てますね。短編は簡単といっている訳ではありませんが。