2009年3月14日土曜日

天文5(1536)年(2) [信長3歳]

■天文5(1536)年(2) [信長3歳]
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4月(日付なし)
・弁護士ヒメネス・ド・ケサーダ、900人率いサンタ・マルタ(コロンビアのマラカイボ)を出発、コロンビアの内陸部、ボゴダ征服に向かう。
小型帆船でマグダレナ河を遡上、難破・インディオの襲撃などによりサンタ・マルタに戻る。
陸路部隊は8ヶ月後、トーラに到着。出発して1年後にはベレスに到着。部隊はスペイン166人のみとなる。
ケサーダは現地のインディオを破り、1537年サンタ・フェを建設、大量の黄金とエメラルドを入手。
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・フランソワ1世、ピエモント公国首都トリノに達する。ピエモンテ攻略に手間取ったブリヨン元帥(エタンプ公爵夫人派)を更迭、モンモランシー元帥(ディアンヌ・ド・ポワチエ派)を任命。サヴォワ、ピエモンテを占領。
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・ジャン・カルヴァン、フェラーラに赴き、エルコーレ・デステ妃ルネ・ド・フランスの庇護をうける。
下旬、フェラーラを去り、7月ジュネーヴ着。
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4月4日
・ヘンリ8世、ウェールズ併合法制定。
「ウェールズの悪しき慣習」廃止。司法・行政を完全にイングランド化(分割相続制廃止、法廷でのウェールズ語の使用禁止、ウェールズに対する国会議員選出権付与、1543年大巡回裁判制度設置)。
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4月14日
・陸奥守護伊達稙宗、「塵芥集」を制定。
「御成敗式目」の方式に倣いながら奥州守護法の性格を濃厚にもつ。地頭・百姓間に家父長的関係を残す筈の奥羽においても、両者間に厳しい緊張敵対関係が生まれる。
地頭=国人の利害を代表して農民支配体制を強化するに至る伊達氏の立場・存立意義をその条文(76~82条)に示す。
更に1538年、稙宗は信夫・伊達・長井など7郡その他をあわせる伊達領国の段銭帳を作製する。それは、国人領主=地頭の分限調査を前提とするもので、伊達氏が国人領に対する検地を実施したと云える。国人領主層が、その分限=知行に基づき軍役・棟別段銭等の諸役を伊達に勤仕する態勢が整備される。但し、この段階では、伊達氏は、検地増分=出目を直轄地に編入する方式を採るには至っていない。
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稙宗は、これと前後して棟別段銭制度を整備するが、子の実元の越後入嗣を契機に、晴宗(実元の兄)らの叛乱に悩まされる。国人に対する棟別段銭賦課強化への反発とみられるこの乱は、近隣の大名・国人ー蘆名・岩城・相馬・田村・畠山などをまきこみ、1542~47年に及ぶ大乱となり、奥羽の戦国争乱展開の一画期をなす。
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4月17日
・神聖ローマ皇帝カール5世、ローマ教皇パウルス3世の前で1時間にわたる大演説。フランソワ1世の侵攻に対し、教皇パウル3世に神聖同盟結成を要求。
教皇パウル3世、神聖同盟で皇帝カール5世の威信向上を恐れ、中立を決め込む。
カール5世、教皇・枢機卿・各国代表の前でフランソワ1世非難演説。
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4月18日
・スペイン人の傀儡インカ帝王マンコ2世、再びクスコ脱出、クスコ北西のウルカバンバの谷のラレスで挙兵。兵力10~20万。クスコのスペイン人は190人。
インカ軍は5月6日にクスコ包囲攻撃を開始、サクサワン砦でスペイン軍を脅かすがクスコ陥落には至らず、1539年クスコ北のビルカバンバに退く。
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4月24日
・英、アン・ブーリン(ヘンリ8世の2番目の妻、エリザベス1世の母)の不貞の真相を調査する特別委員会を組織。ヘンリー8世がアンを不貞の罪で陥れる罠をかける。
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5月2日
・英、ヘンリ8世王妃アン・ブーリン兄ジョージ・ブーリンと4人の宮廷関係者、突然逮捕。内1人が、拷問に耐えかねてアンとの密通を自白。
3日、アン・ブーリン(29)逮捕、ロンドン搭に送られる。
15日、5人の男と姦通したという理由で死刑を宣告。
17日、ロンドン搭広場の処刑台で斬首。処刑前、先妻キャサリン娘メアリー(後のメアリー1世)に詫び状をしたためる。
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5月16日
大内義隆、大宰少貮に任ぜられ、同時に義隆の昇殿も決定。
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5月21日
・ジュネーブ、市民総会。宗教改革宣言を採択
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5月23日
・法華宗徒、比叡山徒と争い相国寺に布陣(「鹿苑日録」)。
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5月29日
・英、アン・ブーリンを処刑したばかりのヘンリ8世、新しい愛人ジェーン・シーモア(27)と正式に(3度目の)結婚。
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6月(日付なし)
・後奈良天皇、勅使広橋兼秀を山口へ下向させ、大内義隆の即位費献上を賞し剣を下賜。
大内義隆の太宰少弐就任は、律令官制上は資元の大内氏への臣従を意味する。直ちに、陶興房が肥前に出兵、多久城(佐賀県多久市)に資元を包囲。9月陥落。
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6月1日
・比叡山山門三院集会議、江州米などの京都への運送停止。京都七口の関所押える。この日、比叡山延暦寺・東寺ら、法華宗徒追討を奏す。
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6月2日
・ローマ教皇パウルス3世、公会議開催教勅発布。カール5世とフランソワ1世との戦争で3回延期していた。
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6月8日
・今川氏家督争い(「花倉の乱」)。
武田信虎、玄広恵探(義元異母兄)に味方した甲斐前島一族を成敗。奉行衆、ことごとく国外退去。
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6月19日
・オーストリア公女マルガレーテ(カール5世庶出娘)、フィレンツェ入り。
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6月29日
・クロムウェル、玉爾尚書
に就任。
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7月(日付なし)
・武田信虎、今川義元の斡旋により、公家三条公頼の次女を嫡男晴信(16、信玄)の正妻に迎える(「甲陽軍鑑」)。信虎の貴種志向による。これを契機に中央貴族・京都大寺院との交流が活発になる。
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[信玄の妻妾]
①最初の妻は、武蔵川越城主上杉朝興(トモオキ)の娘。信虎が北条氏綱に対抗している扇谷上杉氏を支援する過程で、政略結婚を取り付ける。信玄は元服前の13歳。天文3(1534)11月、この上杉氏娘は懐胎し没したとの記録あり(「勝山記」)。
②三条公頼の次女は信玄と同年齢。天文7年に嫡男義信を生み、他に2男竜芳(リュウホウ)・長女(後の北条氏政夫人)・3男信之・次女(後の穴山信君夫人)を生む。夫人の姉は管領細川晴元夫人、妹は本願寺法主顕如夫人。
天文19年(1550)、勝沼の大善寺本堂修築に際し、当主晴信・御北様(大井夫人、晴信の母)に次いで「御前様 百疋」を奉加。
弘治4年(1558)3月の有野郷免許状に郷役免許(免除)対象者に「御方様御小者」助八の名がみえ、こうした独自の小者を抱え、表向きの職制としても「御料人様衆」として五味新右衛門ほか家臣10名を付与される。
永禄9年(1566)11月、武田家公文書(竜朱印状)で「御前様より御祈祷」として具足1両が二宮神主に奉納、同10年10月16日、信濃の飯縄神社と松原神社に長刀を奉納。
永禄11年(1568)6月、「上様御奉公を相勤めるについて」として、国内の番匠(大工)宛てに家1間分の普請役を免除。同文のものが6通あり、武田館内での大規模普請のため夫人の要請で職人が集められている。
元亀元年(1570)病没(50歳)。
③「諏訪御料人」:最初の側室で諏訪頼重の娘、母は頼重の先妻麻績(オミ)氏。天文11年(1542)7月、諏訪頼重を滅ぼし、12月、その娘(13~14)を側室に迎える。
信玄の家臣らは反対するが、「甲陽軍鑑」の説では、山本勘助は賛成したとする。天文15年、4男勝頼を出生、その後1年余を甲府で過ごし、弘治元年(1555)11月6日病没。
④油川(アブラカワ)氏の娘:側室としては、ほかに5男盛信・6男信貞・3女(後の木曾義昌夫人)・5女於松・6女於菊らの母で、武田一族。
⑤禰津神平の娘:天文18年(1549)頃、信濃小県郡の地侍禰津氏が、信玄に帰属、その娘が側室になる。永禄6年(1563)、7男信清を出生。
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・土岐頼芸、美濃守となる。
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・ジャン・カルヴァン、ジュネーヴ着。ジュネーヴでギョーム・ファレルの改革事業に協力開始。たまたま立ち寄ったジュネーヴで、ギョーム・ファレル(52)に強引に説得される。
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7月4日
・「番匠を入れて、南の釘貫を修補する矣。」(「鹿苑日録」同日条)。相国寺の釘貫は、この時点でも本所側が管理。
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7月10日
・足利義明に小弓城を奪われ遁世していた原胤隆、下総相馬の府河(茨城県北相馬郡利根町布川)没。
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7月12日
・エラスムス(71)、バーゼルで没(1469~1536)。
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7月17日
・本願寺、山門三院へ銭300貫文を寄せる。
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7月20日
・近江の六角宗頼・義賢父子、三雲資胤、蒲生定秀ら3万は、東山一帯に布陣。比叡山山門5万は、東山山麓に展開。
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7月22日
・法華宗徒、松崎城を攻撃(「後奈良院宸記」)。山門宗徒、洛北松ヶ崎構および田中構を攻略(「策彦入明記」)。
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7月25日
・神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世軍、アルプスを越えプロヴァンス地方に侵入。フランスのモンモランシーは焦土戦術をとる。9月23日、再びヴァール河を渡りイタリアへ敗走。
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7月27日
天文法華の乱
比叡山延暦寺(天台宗)僧兵と同調する近江・六角氏の軍勢、早朝、四条口から京へ乱入、各所に放火。
洛中の法華宗(日蓮宗)の21本山が全て炎上。あおりを受けて、上京一帯が焼け、革堂行願寺、百万遍知恩院、誓願寺(浄土宗)も炎上(「御湯殿上日記」同日条)。
この頃、誓願寺近辺には、千本釈迦堂末寺の末寺の栢尾閻魔堂引接寺(浄土宗)再興のための勧進所(募金集め場所)があり、これも類焼。
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京都の町衆に日蓮宗が流行し、3月の宗論では洛中で叡山の天台僧が日蓮僧に説破され、叡山など旧仏教側の日蓮宗への反撥強まる。
一方、この前後、町衆は大規模な地子不払い運動を展開。
茨木長隆らは、山門衆徒・近江六角軍に檄を飛ばし、山僧は諸権門に働きかけ、権力側による日蓮衆徒包囲戦線を結成。
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京都の都市住民は、一方で細川晴元政権に妥協しつつも洛中から荘園領主権力を排除し、新たな都市共和制とでもいうべき自治体制を模索。
しかし、度重なる一向一揆殺戮・郷村焼打ちによって周辺農村から全く孤立し、洛外代官請・洛中地子末進等により諸荘園領主、ひいては晴元政権の猜疑を受け、遂に天文5年の宗論によって旧勢力挙げての大弾圧を受ける。
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以降、町組・町衆による自検断・在地裁判権行使はなくなる。
晴元政権崩壊の天文18年までは、茨木長隆ら晴元の奉行人や山城守護代木沢長政、山城下5郡郡代高畠長信・同甚九即、幕府侍所開闔松田頼康・同盛秀らが洛中の検察にあたる。
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「四(ヨツ)の時分に、三条のきぬ屋(ヤ)破れて下京悉く焼く。東よりも出で、声聞師村焼きて、報恩寺に陣取る衆逃げうせて皆討たるゝ。悉く落居してめでたしめでたし。武家より・・・日蓮退治めでたきよし申さるゝ。」(『御湯殿上日記」この日条)。
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天文法華一揆に至る経緯については、次回掲載とします。
to be continued

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