2009年4月28日火曜日

明治17(1884)年11月1日(3) 秩父困民党、小鹿野を占領す

■明治17(1884)年11月1日(3)
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・午後8時
総理田代栄助、出陣下知。半鐘を鳴らし、竹法螺を吹き、閧を揚げ、西南戦争にならって「新政厚徳」の大旗を立て、甲乙丙大隊に別れ、繰り出す。
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甲隊(副総理加藤織平、大隊長新井周三郎、大野苗吉・坂本宗作・井上伝蔵指揮)1,500、吉田川を遡る方向をとる。下吉田村・井上耕地の高利貸吉川宮次郎宅を焼き討ち。
本隊は吉田川を渡り、巣掛峠を越えて小鹿野を目指し、坂本宗作指揮の隊150はそのまま吉田川を遡り日尾村方面駆り出しを行う(宗作は役割表では伝令使だが、影の参謀長ともゲリラ隊長ともいえる働き。自分の戒名を書いた白鉢巻。後、死刑)。
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吉川宮次郎宅襲撃について。
まず新井周三郎が踏み込んで、「貸金四十年賦ニスルヤ否ヤ、若シ年賦ニセザレパ焼払フガ如何哉」と迫る。吉川は、「仮令焼払フトモ年賦ニハナラヌ」ときっぱり拒否。周三郎は、「焼払へ」と周囲の者に命じる。放火に先立ち「瓦礫等ヲ家内へ投入レテ」日頃の鬱憤を晴らす者もいる(「引間元吉訊問調書」)。
上吉田村では戸長役場を襲い、「地所売買譲渡公証割印帳」4冊と「地所質入書入公証割印帳」16冊を焼く。
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新井貞吉(小板橋禎吉、のち死刑)ら上州勢第4陣9名、小鹿坂峠で蜂起軍主力に追いつく。
貞吉は引続き1日も、「マダ風邪ガ全快セズ、六三トカ云フ病ニテ左ノ手ガ痛ミ伸ビザル程」だったので、村の小柏山養明寺住職の祈祷を頼みに行く。そこに若者3人が中食をとっており、挨拶すると、その3人は北甘楽郡天引村の古館市蔵、白倉村の竹内嘉市、秩父郡下日野沢村の新井牧次郎(新井蒔蔵)ということで、初対面であったが、相手はこちらを知っていて「オ前サンガ貞サンデ御座ルカ」と云い、「秩父ニ於テ自由党ノ式ヲ挙ルモ今日ニテ、既二今夜ハ大宮郷へ入込ム日ナレバ、御前モ是非同道シテ呉レロ」と強く誘われる。
貞吉は「六三ノ祈祷ヲ頼ミニ参ル程故腕モ利カズ難渋」していると言って断るが、「達テ」と強請され同道することになる。
一行は村の者4名を加え、午後1時頃出発、夜中12時秩父郡石間村加藤織平宅に立寄り夕食をとり、新井蒔蔵は自宅へ刀を取りに行こうとするが、「モウ家へ行ッタトテ何モアリマスマイ、皆繰出シテ刀ヤ何力皆持出シタ様子ダ」と忠告され諦めて、直ちに蜂起軍主力の後を追い、小鹿坂峠で追いつく(「新井貞吉訊問調書」)。
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乙隊(総理田代栄助、大隊長飯塚森蔵、落合寅市指揮)1,000余は南の小鹿野町へ進軍。銃砲隊長新井悌次郎(石間村、44)率いる銃手30余が先鋒。
下小鹿野村信濃石の高利貸平喜十郎宅を襲う。家人は逃げて「空家同様」なので放火、火は隣家の住宅・物置。
11時30分、小鹿野警察分署には警官はいなくこれを襲撃。ついで、甲隊も合流し高利貸7軒放火・打壊し。小鹿野占領
この間、高岸善吉の隊は三山村から河原沢へ長駆駆り出し。
宮川寅次郎の隊は薄村~小森村へ、長駆、贄川・白久方面に駆け抜ける(困民軍は多数の両神村困民を巻き込んで更に増殖する)。
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□小鹿野襲撃の詳細
まず、下小鹿野コースをとった田代栄助の隊が突入。
「十一月一日午後十一時三十分、下小鹿野村ノ方ニ当り鯨浪声響クト均シク、暴徒大凡三百人余り押シ来り、百余挺ノ猟銃ヲ以テ警察分署ヲ取巻、一斉ニ発砲シ、椅子時計ヲ毀シ、書類ヲ焼ク」(「宮下米三郎謄本及御届書」)。
次いで加藤織平の隊が反対方面から突入。
「又、一部ノ暴徒西ノ方ヨリ四百人余鯨浪声卜共二襲来シ、上原町ニ込入、猟銃凡ソ百挺程一声ニ放チ町内ニ押入、槍刀ニテ雨戸ヲ突キ貫キ暴威ヲ示シ「戸ヲ明ケザレパ放火スル」ト声々ニ呼ル、暴徒ハ白キ木綿ヲ以テ鉢巻及襷トナシ、何々組ト書タル木綿ノ旗ヲ立テ、法螺貝ヲ吹キ、抜刀、鎗・薙刀及竹槍ヲ携へ」(「同」)。
警察分署の次に高利貨を襲撃。
「中田賢三郎ヲ放火シ、柴崎佐平・加藤恒吉・柴崎得祐・磯田縫次郎・坂本徳松・丸山篤重郎宅ヲ毀ス、総テ同時ナリ」(「同」)。上目野沢村の河野武七(57)は、日頃の怨念を晴らすのはこの時とばかり、柴崎佐平(「山二」)の店と座敷を、火縄銃をふるって打ち毀す(「河野武七訊問調書」)。
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甲乙両隊に遅れて高岸善吉指揮隊が、「東西北ノ三方ヨリ」(「秩父暴動被害渚村概況 小鹿野町」)突入。
新井周三郎尋問調書では、「下吉田村ノ椋神社ニ集合シ、此処ニテ総勢三千人以上モアル者ヲ三隊ニ分チ、風布村平民大野苗吉ハ自分卜両人相持ニテ甲ノ隊長トナリ、石間村平民落合寅市ハ乙ノ隊長トナリ、上吉田村平民高岸善吉ハ丙ノ隊長トナリ、某日即十一月一日夕方三隊共小鹿野町へ乱入シ」という。
高岸善吉の説明では、「自分ハ間道ヨリ人数ヲ連レ岡野(小鹿野)ニ至ルニ田代ハ先ニ参り居り」とある(「高岸善吉訊問調書」)。
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勢いに乗った困民軍は、打ちこわした高利貸の柴崎佐平・加藤恒吉宅をも放火しようとするが、近所の者が「悲声ヲ発シ災害ヲ免レン事ヲ」訴えたので、これは取り止める。
高利貸襲撃後、困民軍は商家から白木綿を奪い襷・鉢巻を作り、また古道具屋から槍・刀・薙刀を奪い武装を強化する(「桧山省吾記小鹿野町ニ暴徒乱入ノ状況」)。
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・午後10時
皆野に集結の警察官は70余。江夏警部長は県庁笹田参事官宛に県下全警官の出動要請。(憲兵隊派遣を内務卿に申請するよう県令に電報で要請し、1警部を報告の為に県に送る。2日午前2時、寄居から電報を打つ)
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・午後10時20分
鈴木巡査ら、本庄経由藤岡へ急行せよとの命令受ける。翌朝7時、藤岡着。山県・柱野警部指揮で秩父に向う。
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・夜、柳原正男の脱落
大隊長新井周三郎から携帯武器が短刀・竹槍だけなのを咎められる。初期から指導的立場にいながら、後からきた幹部に傷つけられたため。12月4日東京で禊教祖井上祐鉄に付き添われ千住警察に自首。上吉田村女形出身。山林集会では拘留の経験あり、大宮郷治安裁判所と高利貸との関係釈明を求めたり、風布村オルグとしても活躍。この日も阿熊の警官隊を襲撃、サーベル・制帽を奪う。
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[詳細経緯]
甲大隊長新井周三郎、柳原正男を叱咤。
「サテ小鹿野ニ参り候処、新井周三郎ニ出逢ヒタリ。シカルニ自分ハ短刀卜竹槍ノミヲ持ツテ居タルニツキ、周三郎大イニ怒り、貴様ハ何ラノ不心得ゾヤ、ト申シ候ニツキ、飯田村ノ新井甚作ニ乞フテ六尺バカリノ手槍ヲ借り受ケ、コレヲ提ゲ居タルモ周三郎ノ隙ヲミテコレヲ棄テタリ。」(柳原正男の証言)。
2日朝、小鹿野町と上吉田村の間の巣掛峠に行き、夕方まで昼寝。夕方、小鹿野町に戻り、3日朝、自宅に帰り、饂飩粉一斗を団子にして持ち、近くの山に10日程潜伏。身の危険を感じ、山伝いに群馬県~東京に行き、12月4日自首。
「大宮郷ノ田代栄助卜云フ者ガ総理トカ申シ候得テ、自分ハ面会不致・・・博徒ガ追々人ヲ集メ、既ニ暴挙ニモ及バントスル景況有之、穏便ニ県庁迄出頭シ歎願スルコトハ到底不行届、此地ニ居り博徒等卜同一視サレテハ一大事卜心得」と脱落の動機を語る。
困民党に加った動機。
「四年据置キ四十ケ年賦ニ致サバ貧民大ニ活路ヲ得、サモナクバ貧民ハ益窮シ、此先餓死スルノ外無之、等閑スルニ忍ビズ」と述べる。
山林集会では、駆け付けた警官に抗弁して拘留されたことがあり、集団による対高利交渉において、大宮郷治安裁判所裁判官と高利貸との黒い噂をきくと、大衆を率い裁判所に押しかけてその釈明を求め、蜂起直前にはオルグとして風布村に派遣され、その蜂起を指導。
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11月1日
・「郵便報知新聞」上海駐在特派員尾崎行雄の「特別通信」。
「今日の勢を以て推せば台湾島は到底清国の有に非ざるが如し。仏国之を取らざるも必ず他国の取る所と為る可く、之を取る者は東海を控御して非常の勢力を東方亜細亜に有するに至るぺし。台湾島の取捨は我が政治家の決して等閑視す可らざる所に御座候」。
この頃、政府部内でも駐露公使花房義質清仏対立の機を利用して台湾占領すべきと論じる
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11月1日
・社説「日本ハ東洋国タルべカラズ」(「時事新報」3回掲載)。執筆者は在ロンドンの松浦生こと日原昌三。
欧亜の区別は「天然の地形」によらず、「社会全般人為ノ有様」による。欧米人にいじめられてもアジアにいるから如何ともしがたいとか、清国のような惰弱な国と国運を共にしなければならないとかいう理屈はない。
「或人ガ興亜会ナルモノヲ設ケタルハ日本人ノ馬鹿律義ニ出デタルモノニテ自ラ好ンデ其位置ヲ損スルモノト云フべシ。余ハ興亜会ニ反シテ脱亜会ノ設立ヲ希望スル者ナリ」。今後謀るべきことは「亜細亜ヲ脱シテ欧羅巴ノ仲間ニ入ルコトナリ」。
翌年3月発表の福沢「脱亜論」の先駆をなす。
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to be continued

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