2009年4月1日水曜日

治承4(1180)年4月9日(2)源三位頼政、叛乱を説く 「源氏揃」(2)

治承4(1180)年4月9日(2)
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[「源氏揃」で頼政が挙げた諸国に散在する源氏一族]
①「出羽前司光信」:
源頼光の長子頼国の6男国房の孫、出羽守光国の子。もとは京都を基盤とする武者であったが、祖父の国房の頃に美濃国を本拠とし、美濃七郎を称し美濃源氏の主流となり、土岐氏の祖とされる。
天承元(1131)年6月、国房の子の光国は出羽守に任ぜられ、嫡子の光信もその職を継ぐ。
子に光基・光長・光量・光能らがある。
「殿上の乗合(「平家物語」)に、重盛が「頼政・光基など申す源氏どもに、嘲られても候はんは、まことにー門の恥辱にても候べし」と言うとあり、光基は、この頃頼政と並ぶ有力な源氏勢力と推測できる。
光長は、「信連合戦」(「平家物語」)に、以仁王(高倉の宮)追捕の為にその御所に押しかける検非違使の1人としてあげられている。。
②「十郎義盛」:(別途詳細あり)
源氏嫡流の六条判官為義の第10子。為義が第15代の熊野別当長快の娘の鶴との間に儲けた子。母方の祖父の家のある新宮で育ち、新宮十即と名乗る。のち高倉の宮の御所に召され、蔵人に任ぜられ、行家と改名。頼朝・範頼・義経・義仲らの伯父に当る。この後、高倉宮の令旨を諸国の源氏に伝達する役割を果たす。
③「多田蔵人行綱」:(別途詳細あり)
鹿の谷事件で裏切り非難されている。
頼国の第5子、国房の兄の頼綱の末裔、摂津源氏の一族。
弟の朝実は摂津国多田圧、高頼は同国豊島郡に住み、夫々その在名を名乗る。
④「大田太郎頼基」:
頼光の弟頼親から8代目に当たる頼資の子、摂津の大田保の住人。「平家物語」巻12の「判官都落」では、鎮西へ落ちようとする義経を河辺郡の河原津で襲撃し敗れる。
⑤「武蔵権守入道義基」:
八幡太郎義家の第6子の義時の長子、父の遺領の河内国石川庄を伝領し石川を称す。河内源氏の中心的存在。
治承5(1181)年2月、平家に背いて源大夫判官季貞らに攻められ討死(「平家物語」巻6「飛脚到来」)。
子の義兼は、院の庁の事務を担当する判官代に任じられるが、同じく石川城攻防戦で負傷、捕縛される。
⑥「宇野七郎親治」:
頼光の弟の頼親の末裔、大和源氏の一族。3代の後胤の頼治が大和国字智郡宇野郷に住んで宇野を名乗り、親治はその頼治の孫。
保元の乱の際、崇徳上皇方に加わる為に上洛しようとして宇治で検非違使平基盛に捕えられる(「保元物語」)。そこでは、「清和天皇十代の後胤、六孫王の末葉、摂津守頼光のおとゝ、大和守頼親に五代、中務丞頼治が孫、下野守親弘が嫡子、大和国の住人、宇野七郎親治」と名乗る。
子に有治・清治・成治・義治らがある。「尊卑分脈」注記に、有治は「斎院次官」、成治は「宇野三郎業治」とある。
⑦「山本・相木・錦織」:
義家の弟の新羅三郎義光の末裔、近江源氏一族。
義光の嫡男の義業の第2子義定の子義経(九郎義経とは別人)が近江の山本保(滋賀県東浅井郡朝日町山本)に住み、山本を名乗り、その子供が柏木義兼と錦織義高。「柏木」は甲賀郡水口町、「錦織」は大津市。
「平家物語」巻5「都還」に、治承4年11月23日、知盛以下の平家軍勢が近江に発向し、山本・柏木・錦織ら「あぶれ源氏」を討伐したとある。
⑧「山田次郎重広」以下の6名:
満仲の弟の満政を祖とする源氏の支流で、重広・重直・重頼は信濃守重遠の子。重光は重直の、重資・重高は重頼の、重行は重高の子。
「山田」は尾張国春日井郡山田庄(名古屋市北区付近)、「河辺」は同国河辺庄(愛知県海部郡七宝町川部)、「浦野」は同国春日井郡浦野(名古屋市北部)、「安食」は同国春日井郡安食庄(名古屋市北区・春日井市)、「木太(キダ)」は美濃国方県(カタガタ)郡木田郷(岐阜市木田)、「開田(カイデン)」は同国本巣郡開田(岐阜市改田)、「矢島」は同国方県郡八島郷(岐阜市八島)が地盤の一族。
⑨「逸見冠者義清」以下:
新羅三郎義光の血筋を継ぐ甲斐源氏の一族。
「義清」は義光の子で、父義光の居館のある甲斐国巨麻郡逸見(ヘミ)郷(韮崎市)に住み、逸見を名乗る。
信義・遠光・義定は義清の嫡男清光の、忠頼・兼信・有義・信光は信義の、長清は遠光の子。
「武田」は同国巨麻郡余部郷武田(韮崎市神山武田町)、「加々美」は同国巨麻郡加々美庄(山梨県中巨麻郡若草町)、「一条」は同国山梨郡一条庄(甲府市蓬沢町)、「板垣」は同郡板垣庄(甲府市善光寺町)、「逸見」は同国巨麻郡逸見庄(韮崎市西北部)、「安田」は東山梨郡神金村大字小田原安田(塩山市上小田原)を拠点とし、その在名を名乗ったもの。
この一族は、頼朝挙兵以来これに協力し源平合戦に活躍する。
⑩「大内太郎維義」以下:
逸見の冠者義清の弟の平賀盛義の一族。
親義は盛義の弟、義信は盛義の子、維義はその義信の嫡男。
新羅三郎義光の4男の盛義は、信濃国平賀郡(佐久市平賀)を所領として平賀を名乗るが、その孫に当る維義は頼朝に仕え、平氏旧領の伊賀の大内庄(上野市大内)を与えられ、大内を名乗る。
⑪「木曽冠者義仲」:
頼信から4代の孫の六条判官為義の次男の帯刀先生義賢の子。
「平家物語」巻6「廻文(メグラシブミ)」に、「彼は故帯刀先生義賢が次男なり。然るを、父義賢は、去ぬる久寿二年八月十二日、鎌倉の悪源太義平が為に誅せられぬ。其の時は未だ二歳なりしを、母抱へて泣く泣く信濃へ下り、木曽中三兼遠(ノチュウゾウカネトホ)が許に行きて、これ、如何にもして、我に見せよと言ひければ、兼遠かひがひしう請取って養育す。漸々長大するままに、容儀帯佩(ヨウギタイハイ)人に勝れ、心も双(ナラビ)なく剛なりけり」とある。
幼い頃同族の争いで父を失い、木曽の中原兼遠に預けられ、「木曽」を名のる。「冠者」は、元服して冠をいただいた若者のこと。
⑫「前右兵衛佐頼朝」:
義朝の3男。母が熱田大宮司季範の娘で正室であったので、嫡子とされる。
13歳の時、平治の乱の敗戦後、捕われ伊豆に流され、この頃は配所の伊豆の蛭が小島に幽閉の身。
乱の緒戦の勝利で右兵衛権佐となるが、敗北の為その官位を奪われ、「前右兵衛佐」と呼ばれる。
⑬「信太(シダノ)三郎先生義教」:
義朝の弟、頼朝・義仲・義経らの叔父。
常陸国信太郡(茨城県稲敷郡桜川村浮島付近)に土着し、霞が浦の南・西部が勢力圏。
のち義仲と行動を共にし、義経とも親しいが、頼朝によって滅される。
⑭「佐竹冠者正義」:
新羅三郎義光の孫、刑部太郎義業(ヨシナリ)の子。常陸源氏の一族。
常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に住み、常陸一帯に勢力を持つ。
治承4年11月頼朝の襲撃をうけ、正義の嫡男忠義は討たれ、以下の人々はその軍門に降り臣従する。
⑮「九郎冠者義経」:
義朝の第9子、幼名牛若。平治の乱後、鞍馬寺に預けられ、のち脱出して奥州平泉の藤原秀衡の許に身を寄せる。兄頼朝の挙兵を聞き、馳せつけその代官として源平合戦に活躍。
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「六孫王」:源氏の祖とされる経基の通称。清和天皇の6男貞純(サダズミ)親王の子であることから、こう呼ばれる。
「苗裔(ベウエイ)」:「苗」は、草の茎や葉で根の生ずるところ、「裔」は裾のことで衣の余り。遠い血統の子孫のこと。後胤、末葉をいう。
「新発意(シンボチ)」:発心して新たに仏門に入った人のことで、出家して間がない者。多田満仲は、その晩年に僧籍にあった子息の導きによって武士としての悪行を悔い、剃髪して出家をとげる。
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[頼政の説得]
頼政は、平家の世盛りの中で不遇な境遇に甘んじているこれらの源氏の人々は、声かければ直ちに馳せ参じるであろうと説得。
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「「朝敵を平げ、宿望を遂ぐる事は、源平何れ勝劣(ショウレツ)なかりしかども、今は雲泥交を隔てゝ、主従の礼にもなは劣れり。国は国司に随ひ、庄は預所に召使はれ、公事雑事に駆り立てられて、安い心もし候はず。つらつら当世の体を見候ふに、上には従うたる様なれども、内々は一向平家を猜まぬ者や候。君若し思し召し立たせ給ひて、令旨を賜(タ)うづる程ならば、国々の源氏ども、夜を日に継いで馳せ上り、平家を亡さん事は、時日を廻らすべからず。其の儀にて候はば、入道も年こそ寄って候へども、若き子どもあまた候へば、引き具して参り候ふべし」
とぞ申しける。宮は此の事如何あらんずらんと、思し召し煩(ワヅラ)はせ給ひて、暫しは御承引もなかりけるが、こゝに阿古丸(アコマル)大納言宗通卿の孫、備後前司(ビンゴノゼンジ)季通が子に、少納言維長と申ししは、勝れたる相人(サウニン)の上手にてありければ、時の人、相少納言とぞ申しける。其の人此の宮を見参らせて、
「位に即(ツ)かせ給ふべき御相まします。相構へて天下の事思し召し捨つな」
と申されける折節、此の三位入道も、か様に勧め申されければ、
「さては然るべき天照大神の御告やらん」
とて、ひしひしと思し召し立たせ給ひけり。」
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(文意)
「朝敵を平定してかねての昇進の望みをなし遂げた事は、源氏も平家も優劣はなかったが、今は天地(雲泥)ほどの開きが生じ、主従の関係よりもなお劣った間柄となっている。」
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平氏一門は、まず院領荘園支配を支える武力として預所などに多数配置され、保元の乱後は、摂関家の政所・預所などの荘園支配機構にも進出し、これらの荘園支配機構を媒介に在地領主を編成し、自らの権力基盤を強化拡大してきた。
そして、しだいに知行国・国守の数を増加させ、その国衙支配において在地領主層の把握と編成(家人化)に努めている。
しかし、国衙や荘園支配機構を通じて在地領主を組織し、その支配を展開すると、その権力組織から外れた在地領主・農民層との対立が生じる。在地勢力の中で、とりわけ反平氏気運を漲らせるのは、平氏隆盛に伴い中央政界への道を閉され圧迫され続けてきた各地の源氏武士団である。
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迷う高倉の宮に挙兵を決意させるのは、「相少納言」とあだ名される人相見の達人維長。「帝位につく相が出ている。そのことを念頭に置いて、決して天下の事を諦めないように」と彼は言う。
維長は、藤原氏の北家頼宗の末裔で、白河法王の寵臣阿古丸大納言宗通の3男の備後の前司季通の子。
九条兼実「玉葉」治承4年(1180)6月10日条では、南都に身を隠していた維長が捕らえられ宮に関して種々尋問されたと記す。「件の男、年来好んで人を相る。彼の宮、必ず国を受くべきの由相し奉る。此の如き乱逆、根源は此の相に在る歟、云うべからず」とある。
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「源三位入道頼政というひと」はコチラ
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to be continued

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