2009年4月30日木曜日

鎌倉 稲村ケ崎古戦場 十一人塚の碑 コッホの碑 ボート遭難の碑












①稲村ケ崎を望む
②江の島を望む
③④古戦場の石碑
⑤十一人塚の碑
⑥コッホの碑
⑦ボート遭難の碑
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新田義貞の鎌倉攻めについては、「洲崎古戦場跡」のところに記してありますので、下記を参考にしてください。
④はこの時、新田軍の大館宗氏ら11人が、鎌倉軍中に攻め入り、討ち死にしたのを埋葬し霊を弔った場所とのこと。
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「未刻ばかりに、義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼払ふ煙みえければ、鎌倉中のさはぎ手足を置所なく、あはてふあめきたる有様たとへていはんかたぞなき。高時の家人諏訪・長崎以下の輩、身命を捨てふせぎ戦ける程に、当日の浜の手の大将大館、稲瀬川にをいて討取、其手引退いて霊山の頂に陣を取、同十八日より廿二日に至るまで、山内・小袋坂・極楽寺の切通以下鎌倉中の口々、合戦のときのこゑ矢さけび人馬の足音暫も止時なし。・・・」(「梅松論」元弘3年5月18日条)。
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稲村ケ崎から僅かに極楽寺寄りの所にあります。
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⑥は、明治42年、コッホと北里柴三郎が鎌倉を訪れた際、コッホが富士山の眺望にいたく感動したのを記念した碑。(コッホは、日本から帰国してすぐに亡くなった、という事情があるようですが、ちょっと動機が弱い?)
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⑤は、「真白き富士の嶺 緑の江ノ島」で始まる「七里ヶ浜の哀歌」にちなむもの。明治43年1月23日、七里ヶ浜沖合で遭難した逗子開成中学校生徒ら12人が題材。彼らの遺体は、友をかばい、兄は弟をしっかり抱きかかえた姿で発見されたそうです。昭和39年、遭難した徳田兄弟をモデルにして建てられたそうです。
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季節によっては、②の江の島のすこし右側に富士山が見えるそうです。
朝日、夕日なども美しいんではないかと思います。

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