2009年5月9日土曜日

パリ・コミューンの革命家 ルイーズ・ミッシェルの生涯(1830~1905)

■ルイズ・ミッシェルの生涯(1830~1905)
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誕生~田舎での生活
1830年5月29日、オート・マルヌ県ヴロンクール村の貴族ドマイ家の女中マリアンヌ・ミッシュルの私生児として生まれる。父はエチエンヌ・シャルル・ドマイとも息子ローランとも言われるが、ルイーズ誕生後暫くして、ローランが家を出て、母マリアンヌ・ミッシェルはそのまま女中として屋敷に残り、ルイーズはドマイ家の娘として養育される。
エチエンヌ・シャルル・ドマイは、大革命前のパリ高等法院弁護士であり、ルソーやヴォルテールの影響争をうけた自由主義者で、サン・ジュストを崇拝している。ルイーズは20年間を、田舎の城館で、ドマイ家の主人夫妻を、「祖父」・「祖母」と呼んで過ごす。
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女中が生んだ私生児とはいえ、ルイーズは当時の女性としては最上の教育を受ける。
「祖父」の思想的影響と、信心深い母マリアンヌの影響もあり、この時期のルイーズはキリスト教的愛他主義の方向に向かう。
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しかし、1845年11月30日、エチエンヌ・シャルル・ドマイが没し、ついで1850年10月23日、ドマイ夫人が没す。夫妻はルイーズに8千~1万フランに相当する土地を残したものの、ルイーズは母と共に自活の道を切り開かねばならなくなる。
当時の女性の自活の道は、修道院に入るか、教師になるかであった。
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1854年よりルイーズは県庁所在地ショーモンの女教員講習所で勉強を続け、小学校教師の免状をとり、1852年9月ヴロンクールに近いオドロンクールの町で私塾を開く(22歳)。公立学校教師になるには、(第2)帝政への忠誠宣誓が必要で、彼女はこれを拒否した。
進歩的新聞に寄稿し、教室では、「ラ・マルセイエーズ」を教え、皇帝を批判し、共和主義的・民主主義的思想を宣伝し、アメリカ合衆国の奴隷制に反対する黒人の戦いを称賛する。教会で司祭が皇帝の為の祈りを始めると、彼女の生徒は立って出てゆくような事件もおこる。
彼女は、やがてこの地方の教育機関全体の長であるファイエ学長に出頭を命じられるが、学長は逆に彼女の思想と人柄に魅せられ、事件を穏やかに収め、彼女の為に推薦状を書いたりしてくれるようになる。
また、ナポレオン3世をローマのドミティアヌス帝に譬える文を新聞に投稿し、警視総監に呼び出されることもあった。彼女は、この私塾を2年で止め、ミリエールでショーモン時代の友人の経営する小学校に勤めることになる。
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パリで
1856年、ルイーズは26歳(自身は20歳と年齢を詐称)でパリに出て、シャトー・ドー通り(現在のレピュプリック)のヴォリエ夫人経営の学校に勤め始める。以降15年間教職を勤める。
ルイーズは生徒の自発性を重んじ、生活に結びついた教育を目指す、型やぶりの教師で、1865年にドマイの土地を売って自分の学校を持つようになってからは、職業教育や、精薄児教育に真剣にとり組む。
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詩人としてのルイーズは生涯を通じて、ヴィクトル・ユゴーの忠実な弟子で、絶えずユゴーに詩を送り、ユゴーはその都度丁寧な返事を返し、またルイーズの政治運動参加後は、しばしばルイーズの身柄引受人として、警察に出向いたりする。
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1858年、ルイーズは、ナポレオン3世暗殺を図ったイタリア人オルシニーの助命嘆願書をナポレオン3世に送る。この頃やこれ以後に参加する「初等教育協会」や、貧困労働者救済の「民主教化協会」の活動は、人道主義的、キリスト教的慈善運動の色彩を脱していない。
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1869年、工場・鉱山にストライキが起り、革命運動が世堺的連帯を持ち始め、女性解放運動が盛んになり始めた頃、ルイーズは帝政反対派の新聞に協力し、ヴァレス、ヴァルラン、ウード、フェレなど革命思想を持つ詩人・活動家と共に政治的に参加する。
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1870年1月、ルイーズは、ヴィクトル・ノワールの葬列に、男装し、伯父から盗んだ短刀を抱いて参加。この時には、彼女は、権力に対する民衆の恨みを自分の心情とするブランキストである。
9月18日、ストラスプール防衛に参加する為、武器を与えよと要求したデモの参加者たちは、彼女とアンドレ・レオを市庁に代表として派遣、彼女はそのために逮捕される。
10月31日の蜂起で再び逮捕されるが、モンマルトルの労働者たちの武装行動の威嚇で釈放される。
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1870年12月、ルイーズは第18区監視委員(モンマルトル)となり、昼間はウード街の自分の学校で飢えた子供たちの教育や給食の為に力を注ぎ、夜は政治クラブで活躍し、議長を勤めたりする。
この頃、生涯の同志(恋愛関係ともいう)フェレと知り合い(コミューン後処刑)、モンマルトル区長ジョルジュ・クレマンソーとも知りあう。
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1871年1月22日事件に際しては、市庁舎のそばで国民衛兵の軍服を着て攻撃に参加。
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3月18日、正規軍の裏切りを知り、民衆の先頭に立ち、騎銃を外套の下に隠して、モンマルトルの丘を駆け登る。
http://mokuou.blogspot.com/2008/11/187132.html
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パリ・コミューンの日々
コミューンの間は、クラブや街頭に立って革命を説き、救護班を組織する一方、国民衛兵第61大隊の一員として銃をとり、小学校教師として職業教育や孤児院設立を勧める。この間、母親の待つ自宅で寝たのは1日のみという。
ルイーズは、エリザベート・ドミトリエフやナタリー・ルメルらと「パリ防衛と負傷者看護のための婦人同盟」を結成するが、彼女は自分の行動を「婦人」の範囲に限定していない。
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また、ルイーズは、ヴェルサイユへの即時進撃を主張し、プランキ主義者の友人たち(フェレとリゴー)に自分をヴェルサイユに派遣して、ティエールを暗殺する事を提案するが、彼らはこの提案を拒否。彼女は、これを思い止まるが、もし実行していればあの5月の虐殺を防げたのではないか、との思いに生涯につきまとわれる。ルイーズは、暗殺がコミューン側に不利に作用するとの忠告に納得するが、実行不可能という意見に反撥し、変装てヴェルサイユに赴き兵士にコミューンの宣伝をするという冒険を敢行。
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ヴェルサイユ軍侵入後は、ルイーズは殆ど国民衛兵と共に行動し、イシやクラマールの第一線で戦う。ルイーズが憲兵やヴェルサイユ兵を数名殺害したこと証明するコミューン側文書が残されている。
ルイーズは、クリニァンクール通りのバリケードで最後まで戦い、ついでモンマルトルの墓地の戦いに参加し、ここが陥ちるとピガールのバリケードに駆け付ける。
ルイーズは、母親が自分の身代りに逮捕されたこと知り、自ら出頭し、ヴェルサイユ軍に捕えられる。こうしてルイーズは、フェレ、ヴァルラン、J・B・クレマンらが立て籠るコミューン最後のバリケードの終りを告げる一斉射撃を、サトリの監獄で聞くことになる。
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ルイーズは、獄中で神父を介して銃殺を待つテオフィル・フェレに対し、赤いスカーフの切れ端で作った花に詩を添えて手紙を書く。注意深い読者にはルイーズのフェレにかんする記述が特別の輝きをもっていることに気づく筈と云われる。
フェレは第18区選出議員で、コミューンの間、2人はモンマルトルで同志として闘う。ルイーズは、15歳年少の小柄で醜男のブランキ主義者にサン・ジュストの面影を認めた。
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1871年12月16日、ルイーズは軍事法廷で、
「私は社会革命に全身をささげております。そして自分のおこなったすべての行動にたいして責任を引き受けることをはっきり申しておきます。・・・
自由のために鼓動をうっている心臓はすべて、数発の鉛の弾に貫かれる権利しかないのです。そして私もその弾丸の分け前を要求いたします。もし私を生かしておかれるなら、復讐の叫びをあげることをやめないでしょう。・・・
もしあなたが卑怯者でないなら、私を殺しなさい!」と発言。
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ユゴーは、ルイーズに詩を送る。
「君は、無数の虐殺と、戦闘と、十字架にかけられた民衆と、
病の床についたパリを、その目で見たから、
君の言葉には深いあわれみがこもっていた。
君の行為は偉大で熱狂的な魂のおこなう行為であった。
そして、闘争と、夢想と、苦悩に疲れはて、
君は言った- 「私は殺した!」と。なぜなら君は死にたかったのだ。」(ユゴー)
(文末に別訳で掲載)
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ニューカレドニア流刑
ルイーズはオペリーヴの監獄で20ヶ月を過し、1873年8月24日、ニューカレドニアに流刑となる。フリゲート艦「ヴィルジニー」号には友人ルメル夫人がおり、併走する船にはアンリ・ロシュフォールがいる。12月10日ニュー・カレドニアに到着。
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流刑地でルイーズは、到着そうそう男の流刑者と同じ待遇を要求し、最後には特赦を拒否する。自分の衣類他を他の流刑者に与え、仲間の間で最も苦しい生活を選び、読書・詩作に没頭する。
また現地のカナカ人の中に入り、カナカ語を学び、彼らの伝説を記録する(後に「カナカ人の伝説と武勲詩」として出版)。
1878年、フランスの統治に対するカナカ人の反乱を支持し、流刑の終り頃は流刑地の学校で教え、カナカ人の教育も始める。
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アナキストとして
流刑地での彼女の勇気と善意に溢れた生活は、脱出に成功したジャーナリストのロシュフォールらによって伝えられ減刑により帰国を許される。
1880年11月9日、彼女(50歳)がパリのサン・ラザール駅に着いた時の歓迎は熱狂的なものであった。帰国後、小説「悲惨」を発表、好評を博す。
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ルイーズは帝政とコミューンの苦い経験から、普通選挙の虚偽性を悟り、また法の下における男女平等を主張する女性解放運動にもあきたらず、既に流刑地に向う前から政治的信条はアナーキズムに傾斜(ニュー・カレドニアに向う船中でこの事を友人のナタリー・ルメルに告白)。
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1881年、彼女は、エドウィン・ダンやクロボトキンが主宰する国際アナーキスト大会に参加し演説。
1882年1月、ルイーズは、ブランキの命日の記念集会で逮捕され15日間の拘留うけ、その後数回にわたり投獄される。
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1883年3月9日、失業者のデモの先頭に立ちパン屋を襲撃。
ウドコック「アナーキズムⅡ運動篇の記述。
「一八八三年三月九日、廃兵院の近くで行われた失業者の青空集会は警察によりけちらされ、黒旗を持ったルイズ・ミシェルとプジェに率いられた五〇〇名のデモ隊はサンジェルマン大通りに向かって出発した。
カネット街において、デモ隊は”パンを、仕事を、さもなくば弾丸を!”と叫びながら一軒のパン屋を略奪した。他の二軒のパン屋も同様に強奪され、そこにあったパンはデモ隊に配布された。・・・
この事件は、”革命を助けようと決意した兵士”に彼らの兵舎を焼き、彼らの将校を殺し、警官と闘っている反乱民に加われと呼びかけたビラがプジュの部屋から発見されたことによって複雑な様相をおびてきた。・・・
ルイズ・ミシェルは、証拠はほとんどないのに、パン屋略奪を扇動したと論告された。彼女は六年間の独房監禁を宣告され、プジェは八年の判決を受けた」。
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投獄中に、母親マリアンヌが没し、ヴィクトル・ユゴーも没した。母親の没に際しては仮出所を許され、最後を看取ることができたが、自殺を恐れたクレマンソーやロシュフォールが、精神病院入りを勧める程の錯乱ぶりであった。
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この頃、ポール・ヴェルレーヌは、ロラン夫人、シャルロット・コルデー(マラーを暗殺)、自由のアマゾンと云われたテロワーニュ、カミーユ・デムーランの妻リュシル、ジャンヌ・ダルクを想起し「ルイーズ・ミッシェルを讃えるバラード」を作る。
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母没後1年の1886年1月に恩赦により釈放されると、直ちに活動に復帰、同年8月にはゲードやラフォルグと共にドカーズヴィルのストライキ中の坑夫支援に赴き、殺人教唆煽動の廉で、禁固4ヶ月・罰金100フランの刑に処せられる。11月、厳刑、釈放。
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1887年1月、友人ドュヴァルへの死刑判決に対し、死刑反対の立場を表明。
1888年1月22日夕方、ル・アーヴルのゲイテ劇場で演説を終えた後、「ふくろう党」を名乗るブルターニュ人ピエール・ルカスに襲撃され、頭部を負傷。しかし、ミシェルはこの襲撃者を告訴せず、その釈放運動に尽力する。ルカスや家族は、彼女に謝罪の手紙や礼状を送る。
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1890年4月(60歳)、サン・テティエンヌでの演説とヴィエンヌでの暴力デモの発端となった集会に参加しており、後に逮捕される。1ヶ月後、ミシェルの仮釈放が決定するが、同時に告訴された者が拘置されている為これを拒否。彼女が、独房を破壊するようになった為、医師は精神異常として措置入院を要請するが、政府はトラブルを恐れこれを却下。
最終的には釈放され、6月4日、ヴィエンヌからパリに移る。
7月、ロンドンへ亡命し、現地で自由主義の学校を運営。また、「パリ・コミューン」(邦訳「パリ・コミューン 女性革命家の手記」)などの著作や講演活動を続け、クロボトキンやエマ・ゴルドマンなどと接し、一方で、亡命者子弟の為の学枚設立を試みる。
5年間のロンドン滞在後、1895年11月13日に再び帰国。この時も彼女を歓迎する群集がサン・ラザール駅に集まる。
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1893年、アナーキスト破壊分子取締を狙う「兇悪法」が制定され、また社会主義者がアナーキストと一線を画すようになり、アナーキストは孤立する。
ルイーズは活動を続けるが、以前とは異なり少数の聴衆に対して語ることが多くなる。
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ドレフュス事件は、ルイーズとアナキストには痛手となり、アナキストは完全状態に陥る。ルイーズのコミューン時代からの友人で、彼女が獄中にある時には母親の世話を引受け、彼女に経済的援助を惜しまなかったロシュフォールは熱烈なナショナリストとして反ドレフュスの側に立ち、彼女を窮地に陥れる。
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1895年、無政府主義者セバスティアン・フォールと共に新聞「絶対自由主義」を発刊。
1896年7月27日、ロンドンで開催された国際社会主義労働者・労働組合会議に参加。
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晩年は、クロボトキンやニーチェ、ロシアのニヒリストに共感を寄せ始め、近い将来のロシアでの「革命」を信じるようになる。フランスやヨーロッパに絶望し始め、ルイーズにとってロシアは希望であり慰めであった。
ロシアでは「壮大な事件がおこるであろう・・・、革命がどのように成長しているか、ツァーリといっさいのその大公たち、スラヴ的官僚制を一掃し、この巨大な〔死の家〕のすべてをひっくりかえすこの革命が、どのように成長しているかを、わたしはもう感じている」と述べる。
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1904年3月20日、ツーロンの海軍工廠の労働者にストライキを呼びかけようとするが、言葉を発することができないままに危篤状態に陥る。警察は彼女の没に際して起るであろう大示威運動の対策を始めるが、この時は奇蹟的に生きのびる。
ツーロンの半年後、アルジェリアの民族運動にも共感を示し、若いアナキストと共にアルジェリアに渡りプロパガンダを続ける。
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1904年12月28日、ルイーズは、既に肺炎の兆候がありニースでの講演を途中で中止するが、2日後、再びニースの集会で演壇に立ち、日露戦争反対と世界的反戦運動組織を訴える。南仏の労働者は気の乗らない拍手を送っただけという。
1905年1月5日、マルセイユのホテルで没。74歳。22日、パリでヴィクトル・ユゴー以来の盛大な葬式が行われる。
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クララ・ツェトキンは、ルイーズが「感情における革命家、本能的な婦人社会主義者であったこと・・・彼女が献身的な人民の護民官であり、熱烈な歌い手であり、すばらしい未来の朝あけをつげる人びとを魅惑するような予言者である」と指摘。
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彼女の著書「パリ・コミューン」は、リサガレーの「パリ・コミューン」とともに、コミューン戦士によって記された最も優れた著作であるが、対照的な傾向をもっている。。
①リサガレー:「事実を目撃し、惨劇を体験」した者として、事実と体験の可能な限り冷静な客観化を目指し、感情移入や革命伝説は排除する。
②ルイズ・ミッシェル:パリ・コミューンを「ふたたび生きる」ことを試み、知られていない事実や体験を後世に伝える。
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「リサガレー、ルイズ・ミシェルの描くコミューン市民、女性たち」はコチラ

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日本でのルイーズ
ルイーズの没年の明治38年、平民文庫「革命婦人」は、全2章の1章(第2章「仏国労働者の女神、ルイズ・ミッセル」)をルイーズ・ミッシェルに充てる。
「『仏国労働者の女神』と唱えられ、『革命の化身』と称され、『善良なるルイズ』『恐怖を知らざるルイズ』と呼ばれたルイズ・ミッセルは、本年一月九日、肺炎のために、ついにマルセイユの客舎にたおれた。彼は仏国平民のために、主義のために、永き戦を闘ってたおれた。ああ、彼の七十五年の生涯、四十余年の革命運動の、いかに難戦苦闘して、いかに華々しかりしよ。ああ彼のいかに慈愛深く、いかに豪膽なりしよ。乞う、吾人をして少しくこれを語らしめよ」、
「彼の一生の事業は乞食と施与とであった、すなわち有る者より取りて無き者に分ったのであった」、
「彼の有せるは炎ゆるが如き反抗心であった。彼の使命はこれを平民の胸中に移して、不正不義に対する憤怒の焔を炎すにあった。
彼はかくのごとく熱烈なる精神を有し、熱烈なる無政府主義、革命思想の宣伝者であったが、これすなわち彼が情の人たるが為めで、我らはその情の優しく細やかなるを見て、そぞろに崇仰の念に堪えぬ」。
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大杉栄は自分の4女にルイズ(伊藤ルイ、平成9年没)という名をつける(ちなみに3女はエマ・ゴールドマンからとってエマと名付ける。
松下竜一さんの著書に「ルイズ 父に貰いし名は」がある。
ルイズ―父に貰いし名は (講談社文庫)
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【追加】
ルイズ・ミシェルの流刑の宣告の翌日、ヴィクトル・ユゴーは、『男まさりに』という讃歌をルイズに贈る。しかし、ルイズがこの詩を読んだのは、17年後の1888年であった。
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VIRO MAJOR(男まさりに)
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塗炭の苦しみをなめる人民 地獄と化したパリ
果てしもない大虐殺 うちつづく死闘を見て
きみの言葉のなかには 怖るべき同情があった
きみは熱狂した偉大な魂のように振舞った
殺し夢み苦しむことに疲れて きみは言った
「わたしは殺した おまえが死にたかったからだ」
怖るべき 超人的なきみは 我にもなく嘘をついた
あの暗いユダヤ女のユーディットもローマ女のアリアも
きみの倫破するあいだ 手を叩いて讃えただろう
きみは裁判官席に言った「わたしは宮殿を焼き払った」
きみは踏んづけられ搾りとられる人たちをほめ讃えた
きみは叫んだ「わたしは人殺しだ わたしを殺すがいい!」
群衆は倣慢な女(キミ)が自らの罪を自白する声に聞き入っていた
きみはまるで墓石に接吻(クチヅケ)を投げ送ってるように見えた
きみの眼は蒼ざめた判事どもをじっと見据えていた
そして厳めしいエウメニデスのように夢想に耽った
きみのうしろには蒼白い「死神」がつっ立っていた
広い法廷じゅうが恐怖の念でみち溢れた
血にまみれた人民は内乱を憎悪しているからだ
外部からは 町のざわめきが聞こえていた
彼女はいかつい拒絶の態度で 倣然と胸を張って
そとから聞こえてくる雑音に耳を傾けていた
そして敵への気高い侮蔑と従容とした死を思いながら
不吉にも彼女は 墓穴への足どりを速めていた
判事たちが囁いた「彼女は死刑だ! それが正当だ」
「恥知らずな女だ!」 「こんなに堂々とさえしていなければ」
判事たちの良心がつぶやいた そうしてもの思わしげに
判事たちは二つの暗礁のあいだをさまようように
諾(ウイ)か否(ノン)か ためらいながら 厳然と構えた罪人を見つめた
だがきみは 英雄主義と勇気以外のものには似合わない
そう私同様に知っている人たちは また知っているのだ
もしも神が「お前はどこから来たのか」と尋ねたなら
きみは答えただろう「みんなが苦しみもがいている
あの暗闇のなかから わたしはやって来たのです 神よ
あなたが作られた義務という深淵から 出て来たのです」と
その人たちは知っているのだ きみのふしぎな優しい詩を
万人に捧げたきみの夜を昼を きみの心づかいを涙を
ほかのひとびとを助けるために 我を忘れた働きぶりを
使徒たちの炎の言葉にも似た きみの火のような言葉を
風通しの憩い パンも火もない家に住み 粗末なベッドや
樅(モミ)のテーブルで暮らす その人たちは知っているのだ
庶民の女としての きみのひとの善さと 誇りの高さを
きみの怒りの下に眠っている ほろりとさせる優しさを
人でなしどもに向けた きみの憎悪のまなざしを
子供たちの足を温めてやった きみの手のひらを---
きみがその口のべに 苦々しげな皺を浮かべようと
きみを呪い憎むやからが きみに襲いかかり
法にも似合わぬ叫びを きみに投げつけようと
きみが最後のかん高い声で自らの罪をあばこうと
その人たちは 荒々しくも威厳にみちたきみを前にして
メドゥサの姿から輝きでる天使の姿を見たのだ
法廷のなかに きみはすっくと立って異様に見えた
というのは その場の判事たちがなんともみすぼらしかったからだ
二つの魂をひとつに合わせ持ったたましいほどに---
仮借することない偉大な心の底にかいま見られた
ぼんやりとした星雲のような 塑なる渾沌(カオス)ほどに---
そして燃え上る炎の中に見えた一条の光ほどに
その場の判事たちを困惑させたものはないのだ
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①ユーディット:ユダヤの寡婦。敵将ホロフェルネスの陣営に自ら進んで入り、その油断に乗じて敵将の首をきり、同胞を救う。
②エウメニデス:エウリピデスのギリシャ悲劇の人物。主人公オルステスは、父の仇を報ずるために母とその情人アイギストスを殺す。オルステスは、母を殺したために、復讐神エリニュエスに追われてアテネに着く。アテナは、復啓の女神たちの怒りを静めるために、怒りの女神たちを祀ることにする。かくて怒りの女神たちは「エウメニデス」(善意女神)となる。
③メドゥサ:ギリシャ神話で、見るものを石に化したという蛇髪の魔女。
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1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

さすが年表オタクを自称されるだけに、詳細なあと付けに脱帽 ただ、ヴェルレーヌがバラードを捧げた背景には、彼のchild Wifeたるマチルドがルイーズの教え子だった縁で、結婚式に参列してもらったうえ、祝婚歌を贈られた事実があります(floraamica)