2009年5月16日土曜日

源三位入道頼政というひと 1. 人物概観

「我が身三位して、丹波の五箇庄・若狭の東宮河を知行して、さておはすべかりし人の、由なき謀叛起いて、宮をも失ひ参らせ、我が身も子孫も、亡びぬるこそうたてけれ。」と、「平家物語」(巻4)に嘆かせた源三位入道頼政(ゲンザンミヨリマサ)について、「平家物語」の説話もまじえて徐々に書いてゆきたい。
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1.人物概観
摂津渡辺(大阪市中央区)を本拠とする摂津源氏の武将。清和源氏の摂津源氏の始祖・頼光から5代目。参河守頼綱の孫。従五位下兵庫頭仲正(仲政)の息子。
曾祖父の頼国は関白道長に仕えて、讃岐・美濃・三河などの国司を歴任、娘を摂政師実や鳥羽上皇の寵臣藤原家房の室にする。
祖父の頼綱も娘を師実の嫡子摂政師通の妾とし、早くから宮廷社会に接近し「都の武者」として活躍。
父仲政も白河・鳥羽の両院に仕え、検非違使・皇后宮大進・兵庫頭などを歴任し従五位に叙任されている。
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永久・元永年間(1113~1120)、下総国守の父に同行。
天治年間初め(1124)頃21~22歳で妻帯、その頃、白河法皇の恩顧を得て検非違使庁の判官代に任ぜられる。
保延年間、父より所領を譲られる。保延2(1136)年4月、蔵人。同年6月、従五位下。
仁平3(1153)年、美福門院の昇殿を許される。
久寿2(1155)年10月(51歳)、兵庫頭(父と同じ官職)。
保元元(1156)年7月、保元の乱に際し、譜代の郎等の渡辺党ら200余騎を率い後白河天皇方に従い、白河北殿の東門への攻撃に参戦するが、格別な恩賞にあずからず。
保元3(1158)年12月、二条天皇即位の折に禁中に闖入した狂人を取り押さえた功績により、後白河院の昇殿を聴される(自身は更に内の昇殿も希望する)。同4年正月、兵庫寮勤務の功労により従五位上となるが身分は兵庫頭のまま。
12月、平治の乱でも、初め義朝の陣営に加わるが、二条天皇の内裏脱出後は平家側に投じ、その勝利に貢献するが、何の恩賞もなし
7年後の仁安元(1166)年10月(63歳)、正五位下。12月、ようやく内昇殿を聴される。
同2年、従四位下、同3年高倉天皇の大嘗会に際し従四位上に進む。嘉応2(1170)年正月、右京権大夫。承安元(1171)年12月、正四位下。
治承2(1178)年12月、平清盛の奏請により従三位に叙任。同3年11月28日(清盛のクーデタの2週間前)、出家
同4年4月、高倉宮以仁王の令旨を請い、翌月、平氏政権に対し挙兵。三井寺より南都へ向かうが、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、5月26日、宇治川に敗れ平等院に切腹。
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「保元の乱」についてはコチラ
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頼政が清盛の奏請により三位に進んだ際の「玉葉」(治承2年12月24日条)の記録。
「・・・今夜頼政三位に叙す。第一の珍事なり。これ入道相国の奏請と云々。その状に云はく、源氏平氏はわが国の堅めなり。
・・・源氏の勇士、多く逆賊に与(クミ)し、・・・頼政独りその性正直勇名世に被(カウ)ぶり、未だ三品に昇らず。・・・尤も哀憐あり。何(イカ)に況(イハ)んや近日身(ミ)重病に沈むと云々。黄泉に赴かざる前、特に紫授の恩を授くといへり。この一言に依り三品に叙せらると云々。入道の奉請の状賢しと雖も、時の人耳目を驚かざる者なきか。・・・」。
平治の乱以来の頼政の平家に対する協力とその忠実な奉仕の姿勢に対する、清盛の深い信頼と憐憫の思い。
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[挙兵の動機]
頼政は、清盛の推挙で三位に叙されたとはいえ、平氏の勢力に押され続け、嫡子仲綱は伊豆守、兼綱は検非違使にすぎず、その後の出世も期待できない。
清盛が実力で法皇を排除して政治を切り盛りしている事態や、南都北嶺の衆徒が蜂起しようかという状況において、諸国の源氏を誘えば、きっと挙兵するであろう、と考えたと見られる。
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「源三位頼政、叛乱を説く 「源氏揃」」はコチラ
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