2009年5月20日水曜日

比企能員一族の悲劇(1) 1.概観 2.頼家誕生

JR「鎌倉駅」から歩いても10分ほどのところに妙本寺があります。
ここは、建仁3年(1203)9月2日、北条氏によって滅ぼされた比企能員の屋敷跡です。
唯一京都に落ち延びた能員の末子能本が、学問で身をたてたあと日蓮に帰依し、日蓮門下最初の寺として、寺号「長興山妙本寺」を創建したもの。この寺号は、日蓮より父能員の法号に「長興」、比企尼(能員の養母)の法号に「妙本」を授かり、これに由来する。
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「妙本寺」についてはコチラ
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この比企能員一族の悲劇の物語を、頼家の悲劇、政子の決断などを交えながら年表ふうに書いてゆくつもりです。
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1.「比企の乱」概観
比企能員は、養母が頼朝の乳母比企尼(伊豆流人時代、頼朝に米などの仕送りを続け支援)。
頼朝の旗揚げ以来、側近として活躍。
妻は2代将軍頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻で、子の一幡を生む。
将軍の外戚としての能員は、北条時政と並ぶ権力者だが、関東御家人の将軍頼家への不満をベースに、重病に陥った頼家の(将軍)後継ぎ問題に端を発し、時政との不和が表面化。
時政は先手を打ち、仏事と偽り能員を自邸に招き謀殺。
この報を受けた比企氏一族郎党は小御所(一幡の館)に篭城し抗戦の構えに出る。
これに対し、政子は、北条氏中心の比企氏追討部隊を派遣し、1日のうちに、一幡・若狭局共々比企氏一党を滅ぼす。更に兵を比企の屋敷(現妙本寺)に差し向け、比企一族を皆殺し。
直後に、頼家は病から回復するものの、出家を強要され、将軍職は弟実朝に移る。
その後、頼家は伊豆修善寺に幽閉され、時政に暗殺される。
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2.頼家誕生
寿永元年(1182)7月12日
・北条政子、出産の為に比企能員の屋敷に移る。
「御台所御産気に依って、比企谷殿に渡御す。・・・千葉の小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景季等御共に候す。梶原平三景時、御産の間の雑事を奉行すべきの旨、仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□現代語訳「十二日、庚辰。御台所(政子)が御産気のため、比企谷殿(比企能員の屋敷)へお移りになった。輿を用いられた。これはあらかじめそこが指定されていたという。千葉小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景李等が御供した。梶原平三景時は御産の間の雑事を取り計らうようご命令を受けたという。」。
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8月12日
・北条政子、鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷にて頼朝嫡男の万寿(のちの源頼家)を出産。18日、御七夜の儀。千葉常胤が奉行、妻・秩父重弘娘、子息6人がそれに従う。
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「晩に及び、御台所御産気有り。武衛渡御す。諸人群集す。またこの御事に依って、在国の御家人等近日多く以て参上す。御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・筥根両所権現並びに近国の宮社に立てらる。所謂、伊豆山 土肥の彌太郎 筥根 佐野の太郎 相模一宮 梶原の平次 三浦十二天 佐原の十郎 武蔵六所宮 葛西の三郎 常陸鹿嶋 小栗の十郎 上総一宮 小権の介良常 下総香取社 千葉の小太郎 安房東條寺 三浦の平六 同国洲崎社 安西の三郎」(「吾妻鏡」同11日条)。
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「酉の刻、御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は師岡兵衛の尉重経・大庭の平太景義・多々良権の守貞義なり。上総権の介廣常は引目役。戌の刻、河越の太郎重頼が妻(比企の尼女)召しに依って参入し、御乳付に候す。」(「吾妻鏡」同12日条)。
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頼朝が信頼を寄せる比企能員
比企尼(頼朝の乳母、頼朝が伊豆に流されてからも20年間支援を続ける)の甥で猶子の比企能員が頼家の乳母父に選ばれる。頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の3女(平賀義信室)、能員の妻も頼家の乳母になる。
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「若公誕生の間、代々の佳例を追い、御家人等に仰せ、御護刀を召さる。所謂、宇都宮左衛門の尉朝綱・畠山の次郎重忠・土屋兵衛の尉義清・和田の太郎義盛・梶原平三景時・同源太景季・横山の太郎時兼等これを献ず。また御家人等が献ずる所の御馬、二百余疋に及ぶ。」(「吾妻鏡」同13日条)。
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「若君三夜の儀、小山の四郎朝政これを沙汰すと。」(「吾妻鏡」同14日条)。
「鶴岡宮の六齋講演を始めらる。」(「吾妻鏡」同15日条)。
「若君五夜の儀、上総の介廣常が沙汰なり。」(「吾妻鏡」同16日条)。
「七夜の儀、千葉の介常胤これを沙汰す。」(「吾妻鏡」同18日条)。
「若君九夜の御儀、外祖これを沙汰せしめ給う。」(「吾妻鏡」同20日条)。
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〇比企尼
「・・・能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。而るに永暦元年豆州に御遠行の時、忠節を存ずる余り、武蔵の国比企郡を以て請け所と為し、夫掃部の允を相具す。掃部の允下向し、治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。今御繁栄の期に当たり、事に於いて彼の奉公に酬いらるるに就いて、件の尼、甥能員を以て猶子と為し、挙げ申すに依って此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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源義朝が鎌倉にいる頃、比企掃部允は義朝の家人となっており、義朝が武家の棟梁として京都で活躍するようになると、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝側近として奉公する。
久安3年(1147)、頼朝が誕生し、妻の比企尼がその乳母に選ばれる。
平治元年(1159)、平治の乱で義朝が清盛に敗れ、頼朝(14)が伊豆国に流罪となる。
武蔵国比企郡の代官となった比企掃部允は比企尼と共に比企郡中山郷へ下り、治承4年(1180)秋まで20年間頼朝に仕送りを続ける(「吾妻鏡」寿永元年10月17日条)。
比企尼は男子に恵まれず、家督は甥の比企能員を尼の猶子として迎える
文治年2年(1186)6月16日と文治3年(1187)9月9日、頼朝・政子の夫妻は尼の屋敷を訪れて、納涼や観菊の宴会を催す。
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比企尼には3人の娘があり、
①長女:二条天皇に仕える丹後内侍で、すぐれた歌人として知られ、惟宗広言に嫁ぎ、島津家先祖島津忠久を生む。また、平治の乱後、比企掃部允夫妻が武蔵に下ると、り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚(その娘は頼朝の異母弟範頼の妻)。
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②二女(頼家乳母):武蔵の有力豪族河越重頼の妻(その娘は頼朝の異母弟義経の妻)。
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③三女(頼家乳母):伊豆の有力豪族伊東祐清に嫁ぎ、祐清が討たれた後、平賀義信と再婚(子は朝雅で、北条時政の女と結婚)。
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また、比企能員の娘(若狭局)は頼家と結婚し、一幡竹御前を生む。
一幡は比企の乱で殺害(異説あり)され、竹御前は政子没後、九条家の将軍頼経と結婚するものの若くして没。 
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一方、頼家の弟千幡(実朝)は北条氏が掌握
政子の妹阿波局が乳母になり、その夫阿野全成が乳母夫になる。
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頼朝・政子の2人の男子は、夫々比企氏・北条氏を乳母父関係に持ったことで、抗争の火種を宿す結果となる。
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to be continued

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