2009年6月11日木曜日

明治17(1884)年11月2日 秩父困民党、大宮郷を無血占領す(2)

■明治17(1884)年11月2日(2)
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・午前、皆野を撤退した江夏警部長ら、寄居到着。
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・午前11時、埼玉県庁笹田少書記官、秩父からの特使到着を待って、内務卿山県有朋宛に憲兵派遣要請電打つ。
「県下秩父郡ノ暴徒既二千人ニ及ビ、抜刀銃器ヲ携へ、同郡小鹿野町ニ火ヲ放チ、大宮郷ニ向ケ押出ス模様アリ、其勢猖獗、為ニ巡査七名死傷セリ。因テ警部巡査ヲ以テ速ニ鎮静シ難ク、遷延久キニ亘レバ他ノ地方ニ波及ノ恐レアルノミナラズ、都下ニ近接セルニ依リ、若シ影響スルコトアリテハ容易ナラザルニ付早ク鎮定シタシ。至急憲兵ヲ御派遣アレ、此段上請ス」。
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・午後、各地に派遣されていた別動隊が、狩り出しを行う。農民らが続々と大宮郷に入り、大宮郷はこれら農民兵士たちで溢れる。
「午後、暴徒等益々加ハリ、当店前へモ際限ナク蟻集セリ、但シ秩父神社境内ヲ最多数トス、該当ノ総理ハ群馬県人相馬義広(当初栄助が用いた名前)卜云由、使者ヲ以テ慇懃ニ通知シ来リタリ」(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
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・「午後一時交、遁逃セシ巡査ガ、十弐番山ニ潜伏スルト聞キ、暴徒等多人数ニテ捜索ニユク」(矢尾利兵衛「同上」)
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・午後3時頃、宮川寅五郎、大宮町より荒川上流の入方と呼ばれる広い地域に押しかけ、上流地方まで侵入。
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・午後3時20分、埼玉県庁笹田少書記官、警視総監宛に警視庁巡査100名応援要請。憲兵派遣決定のため受入れられず。
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・午後4時頃、田代栄助は側近と共に秩父神社に入る。柴岡熊吉が大宮郷を見て廻り、仮の本陣の地蔵院にいる栄助に「最早町内ニ気遣ヒハ無之」と報告。秩父神社で栄助らは作戦会議。
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栄助は、加藤織平・宮川津盛・新井周三郎・菊池貫平・井出為吉・高岸善吉・井上伝蔵・坂本宗作・千嶋周作・磯田左馬吉・柴岡熊吉ら幹部と今後の作戦を協議。
高利賃については、「高利貸ヲ喚出シ、是迄取置キタル証書ヲ取返シ、以後高利貸ヲセヌト云フ書面ヲ差出スモノハ其儘存命致サセ、潜伏シテ其場所ニ出ザルモノハ命ヲ絶ツ」と決め指示。
栄助は、「自分等ノ望ヲ達セザル内ハ、警察官及兵隊ヲ向ケラル共、屈セズ戦争ヲナシ大願成就シテ御処分ヲ請ケルノ覚悟ナリ」と決意を披歴し、一同も同意したという(「柴岡熊吉訊問調書」)。
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・作戦会議後、秩父神社のすぐ前にある大宮郷戸長役場を襲う。
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「六、七人抜刀ニテ入来り、地所建物書人割印帳ハ勿論、其他諸書類ヲ可差出旨強迫セシガ、欺イテ割印帳ハ数冊ヲ隠匿シ、其他ノ書類ハ目下必用ナラザルモノゝミヲ出セシ也、幸ヒニ賊之ヲ知ラズシテ其儘受取焼棄シ去レリ」(戸長斉藤安兵衛の記録「秩父暴徒之節書類控」)。
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・午後4時頃、大宮より武甲山下の村々に150名規模のゲリラ隊が派遣され駆出しを行う。2~3日に大宮に集合した暴徒7~8千(1万とも云われる)に達する(井上幸治著書)。動員数については、下記に諸説をあげる。
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横瀬村(大宮郷に隣接):
白木綿の旗を立て、鉄砲・刀・槍を携帯した150名余が戸長役場を囲み、その指揮者が、「此方共ハ自由党員ニシテ、今般困窮人ヲ引連レ、高利貸ノ輩へ懸合中、巡査ノ手当ヲ受ケ、既ニ即死・負傷ヲ受候ニ付、政府へ直訴可致ノ積リ、又高利貸ノ者共片端ヨリ焼払可申、依テ壱戸壱名宛人夫可差出、承諾無之ニ於テハ、当役場ヲ手始メトシテ、村落ノ人家ヲ不残放火ニ可及」(秩父「秩父郡横瀬村聯合戸長若林又右衛門の郡長あて報告書」)と強談。
すぐに「挨拶ニ応ズベシ」と返答すると、困民軍兵士は、「然ラバ我目前ニ於テ、銃器其ノ他長刀ヲ携へ、速ニ大宮郷へ可罷出ノ達状ヲ相認メ、村内へ急報可致」(右前)と要求。
役場はそれに応じて村内に達しを出すと、困民党はそれを確かめて引き揚げる。
役場は、この達しに「一時賊ヲ欺カンガ為メ賊徒ノ求ニ応ジタルモ、容易ナラザル次第ニ付、必ズ不法ノ所業無之様相慎ミ、夜ニ紛レ窃ニ可立戻」と添える。
翌3日午前7時頃、困民党数十名が再び現れ、「当村ノ人夫ハ一卜先繰出シタルモ、夜ニ入テヨリ荒増(アラマシ)立戻リ候ハ如何ナル心得ナルヤ、次第ニ依リテハ放火ニ及ブベシ、因テ再ビ触レ致セ」と要求。役場は再び人足差出しを村内に触れる(「秩父郡横瀬村聯合戸長若林又右衛門の秩父郡長あて報告書」)。
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②風布村:
地元の石田伝次郎や石田造酒之助ら20人余が入り、「高利ヲ借リン者モ出テ加勢シロ」と狩りだしを行う。結局、「三分ノ二は三十一日ヨリ出デ、三分ノ一ハ二日迄出ズニ居リタリ、此者ハ先ヅ借金ノナキ者ナルガ、二度目ノ催促ニテ二日ニハ残ラズ出タリ」というように、借金の有無に拘わらず挙村参加となる(「風布村宮下牧蔵訊問調書」)。
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③石間村半納:
30名程が鉄砲を持って入り、「徳川ノ世ニスルカラ加勢ニ出ヨ、徳川ノ世ニナレバ無年貢ニテ三ヶ年作ラセル、出ザルニ於テハ火ヲ掛ル、切ル」と言って狩りだしを行う。結局、「私モ出ル積リナリシガ、家内モ七人アリ、私ガ出ルトキハ跡モ差支ヘル故、壱戸壱人宛出タラバヨイトノ事ニ付、弟ノ広吉ヲ出シ置タルニ・・・村内ニ残り居ル者ハ火縄ヲ拵へ、暴徒ノ方へ送ル様ニト触ガ回リ、夫ヨリ鎮守ノ森ニテ火縄ヲ拵ラへ居タリ」と、挙村参加となる(「石間村半納新井浅次郎訊問調書」)。
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④金沢村(児玉郡との境の天沢峠の近く):
「大宮郷ノ郡役所ニ押込ムニハ人足ガ必要ナルガ故ニ、白ノ木綿ニテ鉢巻ヲ為シ、竹鎗ヲ持チ出ロ」と言い継ぎがあり、夜12時頃までに、隣の下日野沢村と合わせて70人程が集まる(「木村市太郎訊問調書」)。
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⑤小鹿野町の南の長留村、その隣の般若村にも同様狩りだしがあり、「壱戸壱名宛」が出ることになる。
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■動員数に関する証言
①「二日午後六時、暴徒新加入者追々加ハリ、凡ソ三千人余モ見受ケタリ、是ヲ甲乙ノ二隊ニ分チ、当店の表通り及ビ秩父神社境内、並ニ新築ノ学校舎等へ配シ、陣取ヲナス、市中ハ暴徒ノ往来シテ途切レズ、且ツ夜ニ入り兇徒等道々来襲シテ其数ヲ不知(矢尾利兵衛「秩父暴動事件概略」)。
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②たまたま大宮郷で大工仕事をしていて、焚き出しを命じられ、それを手伝い、握り飯を秩父神社に運んだという男の証言。「三日ノ人数ハ、凡ソ三千人モアリタリト思レタリ」((「長浜仙太郎訊問調書」)。
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③栄助側近の木戸為三。
「問 暴徒ノ惣人員ハ凡ソ幾人程居リシャ
答 一時盛ナル時ニハ凡三千人位ハ居リシモノト見受ケタリ
問 其三千人ノ内、銃砲ヲ携へ居リシモノハ何人程居リシト思フヤ
答 三千人トシテ銃器ヲ携へシモノハ弐百名位ニシテ、其余ハ抜刀隊卜竹鎗ニ御座候」(「木戸為三訊問調書」)。
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④鎌田警部の見込み。
「暴徒ノ人員ハ、其正確ナル数ハ得テ知ルベカラズト雖、六、七千人ニ下ラザルベシ、最初ハ秩父郡内ニ於テ卅余町村、男衾郡二ケ村、上野国南甘楽郡・多胡郡ニテ数ケ村、信濃国南北佐久両郡内ノ数ケ村ニテ会員二千五、六百人ナリシモ、漸ク強迫随行セシモノ多ク加ハリタルモノゝ如シ、而シテ秩父郡八十四ケ村ノ内十六ケ村ハ暴徒ニ加ハラズト雖モ、六十八町村ハ其一ケ村ニシテ五百人ヲ出シタル所モアリ、少クトモ六十九町村ニシテ五千五、六百人、此外男衾郡、上信ノ数郡内ヨリ出デタルモノヲ合セテ、其人員六千以上タルベキハ素ヨリ論ナキナリ、総理栄助ハ大宮郷ニ集リタル者大凡一万人ナリト申供ス、是元ヨリ其大数ナリト雖、又甚ダ速力ラザルハ、彼是ヲ綜合シテ以テ推知スルニ足レリ」(鎌田沖太「秩父暴動実記」)。
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⑤「田代栄助裁判言渡書」では、「此日四方ヨリ来集スル者、大凡万ヲ以テ数フ」としている。
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・午後6時頃、参謀長菊池貫平の発案で、秩父郡役所を本営、大宮小学校を分宮と定める。
栄助は、護衛を郡役所前に整列させ、羽織・袴に大小を差し、幹部を従えて乗り込み、「以後総理ヲ秩父大将卜唱へヨ」「今日ヨリ郡中ノ政則ヲ出スコト大将ノ権ニ在り、各々其意ヲ体セヨ」と宣言、酒肴をもって開衙の祝宴をあげる(「秩父暴動雑録」)。
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栄助は、正面2階の部屋で指揮。
初め「群馬県人相馬義広」と名乗っていたが、この日、軍用金徴収に対する領収書には本名を使用。
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大宮郷(秩父)
*大宮郷は現在の秩父市。矢印は一旦困民党幹部が集結した秩父神社。
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to be continued to (3)

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