2009年7月30日木曜日

鎌倉 鶴岡八幡宮 源平池の蓮の近況

鶴岡八幡宮の7月30日現在の蓮の状況です。
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もともと花の写真は苦手なのと、今日はメインのターゲットは他のところでしたので、下の3枚しか写真はありません(しかも、平氏池のみです)。
7月7日に写した別のエントリに、多くの方からアクセスを戴いておりまして、状況は更新しておくべきと考え、取り敢えずアップします。ご参考になれば光栄です。
花はたくさんありました。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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「★鎌倉インデックス」も作りました。
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京都 町小路(新町通)を歩く(7) 明倫舎跡 明倫小学校跡 柳池校碑 石田梅岩邸跡

京都の新町通り(中世の町小路)を御池通りから五条通りまで下っています。
ただ、新町通りだけでなく、東は烏丸通り、西は西洞院通りくらいの幅をもたせての「そぞろ歩き」です。
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前回(6)で、四条通りを渡ってその下手まで行ったのですが、今回は、少しあと戻りします。
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明倫小学校跡(京都芸術センター)
(室町通り錦小路上ル)
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(明倫小学校の設立経緯)
明治元年(1868)の「小学校建営の布達」に基づき、翌明治2年5月21日、日本で最初の小学校として京都で上京第27番組小学校(柳池校)と下京第14番組小学校(修徳校)が開校。その後、年内に64の小学校が建設されます。
この明倫小学校も、明治2年、石田(梅岩)心学教化の拠点であった「明倫舎」の土地・建物を転用し、下京第3番組小学校として建設されたもの。このため、明倫舎は新町二条上ルに移転したとのこと。
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平成5年、明倫小学校は閉鎖されますが、昭和6年建設の校舎は、京都市が10億円の改修費をかけて京都芸術センターとして生まれかわったとのこと(平成12年にオープン)。
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「番組」:
伝統的な京都の町組を、明治2年、27程度の町組を1番組として、上京に33、下京に32の番組に再編成したもの(上京・下京の境は三条通り)。
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当初の京都の小学校では、儒書の講釈や心学の講義が行われていましたが、その後は、徐々に洋学に変わってゆきます。
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以下は、新町通り・室町通りとは離れていますが、テーマの関連事蹟として、ご参考まで。
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日本最初小学校「柳池校」の碑
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石田梅岩邸跡
(堺町通り蛸薬師上ル東側)
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石田心学は町人・商人の精神的支柱となる「哲学」で、当時越後屋(三井家)・大丸(下村家)と肩を並べるほどの呉服屋「大黒屋」当主も門下生になるほど普及していたそうです。
全くの門外漢ですが、資本主義の発展に寄与したというプロテスタンティズムの倫理と相似するような位置関係にあるのでしょうか。
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「京都インデックス」をご参照下さい。
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2009年7月29日水曜日

昭和13(1938)年2月15日~28日 ジョン・ラーベ、南京を離れる。 日本海軍機、重慶を初空襲。

昭和13(1938)年
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2月15日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は、下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。」
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2月15日
・「学生狩り」。
警視庁、3日間にわたり盛り場のサボ学生3,486人を一斉検挙。改悛誓約書提出させ宮城遥拝ののち釈放
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2月15日
・福沢桃介(70)、没。
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2月16日
・大本営政府連絡会議、6個師団完成する7月迄は、黄河以北平定の北支那方面軍の作戦以外の新作戦展開しない方針決定(参謀本部起案「当面対支消極持久の方針」)。占領地域の治安維持・新政権育成に専念する。この間、中支那方面軍から、第16、114師団を北支那方面軍に移す。
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しかし、現地では、前年末に黄河の線まで到達した北支那方面軍と、南京占領後停止していた中支那派遣軍(2月に呼称を改める。軍司令官畑俊六大将)が、南北の占領地区を繋げる為、天津~浦口を結ぶ津浦線に沿って南北両側から進撃開始。
また、3月1日、参謀本部作戦課長にこの決定の推進者河辺虎四郎(24期)に代わり、対支作戦に積極的な稲田正純中佐(29期)が就任。3月13日の台児荘の戦闘で戦面不拡大方針を一擲
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2月16日
・米、新農業調整法(AAA)可決。余剰農産物貯蔵の政府援助により価格の安定をはかる。
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2月17日
・三多摩の右翼団体「防共護国団」600、政友会・民政党本部襲撃、占拠。
襲撃者は、「数日分の食糧まで用意、地下室に陣取って炊き出しまで」始める。
政党は暴徒排除を末次内相に要求するが、末次は「党員同士の争いに官権が介入するのはどうかと思う」と腰を上げず、「警視庁は十時間ばかり黙認していた」あと、重だった者を検束して暴徒を解散させる。
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2月17日
・スペイン、テルエルの戦い。叛乱軍のテルエル包囲作戦開始。
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2月18日
・南京安全区国際委員会、難民区を解消したいとの日本当局の要請をうけ、南京国際救済委員会に改称。
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2月18日
・日本軍の非行に関するアリソソ書記官の報告。
この日の「南京の状況は著しく改善された。難民区の中国人が続々と自宅へ帰りはじめた」という電報を最後に、アメリカ外交文書ファイルから姿を消す。                      、
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2月18日
・「二・一八空戦」。日本海軍機、重慶を初爆撃
翌19日付「東京日日新聞」は上海発の1面記事で前日の初爆撃を「長駆、重慶初空襲」「重慶市民狼狽」の見出しで報じる。12月26日、本格的重慶空爆開始。
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2月18日
'・「日本評論」4月号、第2次人民戦線事件の検挙には無理があるという記事掲載、削除。
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2月18日
・オーストリアの内閣改造。シューシュニク首相、ザイス・インクボルト(オーストリア・ナチス指導者)、内相兼警察長官に任命。19日、国内で入獄ナチス党員釈放。
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2月19日
・「国家総動員法案」、衆議院に提出。
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2月20日
・ヒトラー、満洲国承認声明。政府声明ではない。
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2月21日
・英アンソニー・イーデン外相、チェンバレン首相の対伊妥協政策(スペイン内戦の解決よりもイタリアとの協定を優先)に抗議辞任。後任ハリファックス。
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2月22日
・スペイン、テルエルの戦い。
共和国軍エルナンデス・サラビア将軍、テルエルに撤退下命。エル・カンペシーノ指揮の共和国軍脱出。遺棄死体1万、捕虜1万4千5百。叛乱軍、テルエル再占領。
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2月23日
・中国のソ連義勇空軍、台湾の日本軍航空基地を空襲
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2月23日
ジョン・ラーベ、南京を離れる。27日午後2時、上海着。3月16日、上海発。4月12日、ジェノヴァ着。15日、ベルリン着。
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2月24日
・衆愚院本会議に国家総動員法案、上程。
近衛首相病臥につき広田外相が提案理由説明。余りに短く、議場の反感を買い、又も議場混乱。民政党斎藤隆夫・政友会牧野良三、衆議院で国家総動員法案を憲法違反と批判。25日、各派質問の後、委員46名に付託。委員長は小川郷太郎(民政)。
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2月24日
・シュシュニック・オーストリア首相、オーストリアの独立を強調する演説を行う。3月9日、独立問題で人民投票実施を公告。
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2月24日
・アメリカのデュポン社、ナイロンの商品化に成功。
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2月25日
・改正兵役法公布。学校教練修了者の在営期間短縮特典が廃止
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2月25日
・蓑田胸喜・松田福松『国家と大学−東京帝国大学法学部の民主主義無国家思想に対する学術的批判』刊行。3月、東京帝大法学部一部学生の法学部教授攻撃、始まる。
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2月25日
・スペイン、テルエルの戦い。共和国軍戦線維持の反撃開始。~27日。
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2月26日
・「内鮮一体」をスローガンにした特別志願兵令、公布。
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2月26日
・内務省警保局、輸入禁止洋書に対し、今後は港で抑え発送元へ返送し、輸入業者の損害を救済する方針を決定
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2月26日
・大日本航空婦人会、航空殉職遺家族の相互扶助組織「荒鷲の会」の発会式を行う。
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2月28日
・郭沫若、長沙を発ち武漢に戻る。「抗戦日報」の田寿昌(田漢、のち文化部戯曲改進局長)と同行。第3庁を組織し、4月1日~開庁。
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郭と主任秘書陽翰笙で第3庁の組織人事を計画。
第5処(動員工作担当)の第1科は文書編纂、第2科は民衆運動、第3科は総務と印刷、を担当することとする。処長胡愈之(のち民主同盟幹部)、第1科長に徐寿軒(東北救亡協会代表)、第2科長に張志譲(のち最高人民法院副院長)、第3科長に尹伯休と決める。
第6処は芸術宣伝担当、第1科で演劇音楽、第2科で映画、第3科で絵画を担当。処長を田寿昌とし、第1科長に洪深、第3科長徐悲鴻(画家)にし、映画の科だけは、前武漢行営政訓処の遺産を引きつぎ、中国映画製作所の所長鄭用之に第2科長を兼ねてもらう。
第7処は対敵宣伝を担当で処長は范寿康に、企画と日本語翻訳の第1科科長に杜守素〔杜国痒、のち広東省人民政府文教庁長〕、国際情報をつかさどる第2科の科長に董維鍵、日本文の製作をつかさどる第3科の科長馮乃超〔後期創造社の作家、のちの広東省人民政府委員〕を任命。
鹿地亘・池田幸子夫妻を第3庁第7処の顧問とする(この後、8年間中国に留まる)。
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「各処、各科および秘書室は正式名簿の上では三百余人、それに付属団体として、児童劇団、抗戦宣伝隊四隊、抗敵演劇隊十隊、漫画宣伝隊一隊があり、さらに各科処の雇員、雑役、守衛などを合わせると二千人前後になった。ほかに映画製作所の数百人、上映隊の五隊が漢口の楊森花園に駐在していた。
・・・
しかしこの片隅の静かな場所も、まもなく敵の爆撃の目標になった。空襲で周囲に弾が落ちて犠牲者も少なくなかった。」(「抗日戦回想録」)
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2月28日
・業績不振のため東京発声映画製作所が解散。
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(謹告)
昨年11月18日より、「南京戦」の項目(ラベル)で、昭和12年12月1日からの年表を続けてきましたが、一応昭和13年2月でこの項目は終了させます。
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尚、次回は、年表では触れていない昭和12年12月の国内の状況について、同じく「南京戦」の項目としてやや詳しく扱いますが、それ以降は、「昭和××年記」というスタイルで進めようと思っております。
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2009年7月27日月曜日

東京 旧近衛師団司令部 録音盤事件

東京北の丸公園内の歴史的建造物。
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重要文化財「旧近衛師団司令部」(明治43年)
(現、国立近代美術館工芸館)
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すぐ近くの乾門
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近衛歩兵第二聯隊記念碑(北の丸公園内)
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近衛歩兵第一聯隊記念碑(北の丸公園内)
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大銀杏(弾薬庫跡、日本武道館向い)
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田安門
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近衛師団で反射的に想起するのは、竹橋事件、二・二六事件及び秩父宮と歩三、録音盤事件(近衛師団の森中将殺害)ですが、今回は録音盤事件の年表をピックアップ。
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昭和20年(1945)年
8月11日
・この日の「木戸幸一日記」。天皇のラジオ放送を提案、天皇は承知する。
「昭和二〇年八月一一日 午前九時染井に墓参したる後出勤。九時五十五分より十時十分迄御文庫にて拝謁。十一時東郷外相参内面談。十一時四十五分佐治謙譲氏、徳川義親氏の手紙を持参す。錦旗革命云々なり。正午、鈴木(貫太郎)首相来室面談。其後の経過をきく。十二時半下村(宏)国務大臣来室面談。一時三十五分より二時半迄御文庫にて拝謁。二時半安倍(源基)内相来室面談。三時石渡(荘太郎)宮相を居室に訪ひ、ラジオにて御放送被遊ては如何との意見につき懇談す。三時五十五分より四時十五分迄拝謁ラジオの件に対する聖上の思召は何時にても実行すべしとの御考へなる旨を伝ふ。」
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8月12日
・午前8時、クーデタ首謀者たち(椎崎二郎中佐、畑中健二少佐、竹下正彦中佐)が、クーデタに関して陸相に説明しようとしていると、閣議から帰った大臣に呼ばれ、陸相官邸に行き、後から来た荒尾興功、稲葉正夫、井田正孝と合流。たとい逆臣となっても永遠の国体護持の為、断乎明日(13日)これを決行すると告げる。
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(首謀者たちの作戦)
クーデタは国軍一致蹶起が必要で、友軍相撃に陥らぬことが特に重要。
明朝、陸相、参謀総長が協議し、意見一致すれば、7時から東部軍管区司令官、近衛師団長を招致し、4者完全な意見一致を見た上で起つ。1人でも不同意なれば潔く決行中止。
近衛師団長は大命に非ざる限り、たとい大臣命令なりとも絶対に起つことなし。もし然る場合は、大臣室に招致し、聴かざれば監禁し、来らざる場合は師団へ行き、師団長を斬って、参謀長によって事を行なう。
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8月13日
・夜9時頃、青年将校ら、陸相官邸で陸相に、14日午前を期してのクーデタ計画実行の諒解を得ようとする。
陸軍省軍務局軍事課長荒尾興功、軍務課井田正孝・推崎二郎・畑中健二ら佐官級が中心の徹底抗戦派は、阿南に緊急非常措置としての具体的な兵力使用許可を求める。
彼らの計画は、東部方面軍と近衛師団で宮中と和平派を遮断し、国体護持の保証をとりつけるまで降伏しないというもの。
阿南はこのクーデタ計画に同意せず、梅津は全く関心を示さず。
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8月14日
・午前7時、梅津参謀総長は陸軍省軍務局課員らが計画立案した戦争継続の為の兵力使用に不同意と明示。
阿南陸相は、東部軍管区司令官田中大将を陸軍省に招致し、警備を厳にし治安を確保すべしと要望。
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戦争継続の為のクーデタ計画は潰えるが、推崎二郎中佐・畑中健二少佐は近衛師団参謀石原貞吉・古賀秀正両少佐を誘い、近衛第1師団の兵力を使用し初志貫徹すると協議決定。
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午後8~9時、終戦詔書の文面が完成し、天皇が署名。閣僚副書。
午後9時、NHKラジオ、「明日(15日)正午重要ナ発表ガアリマス。昼間配電ノ無イ所ニモ此時間ハ配電サレル事ニナッテオリマス」と予告。
午後11時、政府、ポツダム宣言受諾を連合国側に打電。大詔(天皇の詔勅)渙発(詔勅を広く発布すること)。
午後11時20~50分、天皇、宮内省での玉音放送「終戦の詔書」のLPレコード録音。レコード盤は宮内省に保管
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録音は14日深夜、宮内省内廷庁舎2階の御政務室で行われる。
下村宏情報局総裁「終戦秘史」によれば、
「やがて午後一一時二〇分ごろであったろうか、三井、戸田侍従を従へ、陛下の出御あり、スタンドの前に立たれた。石渡(荘太郎)宮相、藤田(尚徳)侍従長らがデスクの前にならび、私はスタンド近く三歩ばかりの所に侍立し、やがて恭しく頭を下げるを合図に第一回の放送(録音)が行われた。
御下問のままに普通のお声で結構でありますと御答えしたが、少し低いかと伺われた。陛下からも今のは少し低かったようだからもう一度と仰せられるままに第二回のテストをお願いした。
今度は声が高かったが接続詞が一字抜けた個所があり、さらにもう一度という話もあったが御辞退申上げた。
陛下の入御は午後一一時五〇分ごろであったがこの第二回目の分があくる一五日の放送に使用されたので録音盤は二回分共四枚全部、荒川(放送協会)理事から筧(素彦、宮内省)庶務課長に手渡され」、課長から徳川侍従が預かって皇后宮事務官室の軽金庫に保管。深夜に万一のことがあっては、との配慮から宮内省に置き、15日朝放送局に運ぶ手筈となる。
ところがこの頃、偽の近衛師団命令で出動した近衛第2連隊が、既に宮城と外部とを遮断。
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8月14日深夜~15日早朝
陸軍の軍務局員、尊攘同志会らによるクーデタ。
近衛第1師団長森赳中将ら殺害(玉音盤事件)。
午前2~5時頃、陸軍将校ら反乱軍、皇居を占拠。玉音放送録音盤を捜索。放送会館(NHK東京放送局)も占拠。このため早朝の報道が不可能となる。
7時頃、第12方面軍東部軍司令官陸軍大将田中静壹(せいいち)が反乱軍鎮圧。首謀者4人自殺。また未明、一部右翼・軍人が鈴木貫太郎首相・木戸幸一内大臣などの私邸を襲撃、いずれも目的を達せず。
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竹下中佐は、畑中少佐に計画中止を勧めるが容れられず、軍務局課員畑中健二少佐・椎崎二郎中佐・軍事課員井田正孝中佐らは、14日夜半近衛師団司令部へ行き、師団参謀石原貞吉少佐・古賀秀正少佐とクーデタの連絡をとり、師団長森赳中将に会い、師団蹶起を要請。
森中将は「聖断」が下ったからには、軽挙妄動は断じて許されないとして要請を拒絶。
そこへ、陸軍通信学校将校が入って来て、更に強硬に申入れるが、森師団長が頑として拒絶したので、畑中らは拳銃と軍刀で師団長を惨殺。
(井田中佐は計画当初の中心人物だが、「聖断」が下った時点で計画を断念するが、平泉澄博士の門で兄弟弟子である畑中少佐が、井田中佐の説得が効を奏さなければ決起を断念すると約束をとりつけ同行)。
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畑中らは、石原・古賀らの起案した師団命令を森師団長名によって近衛歩兵第2連隊長芳賀豊次郎大佐に交付。芳賀はそれが偽命令とは知らず、命令通りの部署に就く。
命令には「宮城内を堅固に守備し、外部との連絡を遮断すべし」とあり、宮内省の電話線を遮断。そして、録音を終えて退出する下村総裁ら情報局関係者(山岸重孝放送課長ら)、大橋八郎会長ら放送協会関係者を捕えて監禁し、訊問によって録音盤が宮中にあることを知る。
しかし、録音盤押収の為に、各部屋を探すが、発見できず。
2時頃、宮城内の異変を知った東部軍管区司令官が動き始める。
3時過ぎ、井田中佐が行動中止を説得。
4時頃、徳川侍従、反乱軍に掴まり暴行をうける。
4時過ぎ、近衛歩兵第2連隊長、偽命令であると知り、畑中中佐らに退去要請。
5時頃、東部軍司令官田中静壱大将自ら鎮圧に動く(反乱将校の全軍蹶起の構想潰える)。
午前8時頃には宮城内は平静を取戻す。
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4時過ぎ、1個中隊が放送会館包囲。兵隊が建物入口に立って交通を遮断。
5時前、畑中少佐らしき将校が、5時のニュースの準備をしている館野守男アナウンサーに放送させよと要求。「東部軍の許可」をたてに拒否され果せず。
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畑中健二少佐・椎崎二郎中佐らは、全軍蹶起の計画潰え、録音盤奪取にも失敗。
憲兵隊で取り調べを受けるが、犯行を認めた上で、「陛下にお詫びして自決する」と誓約したので釈放され、15日午後宮城前広場で自決。
古賀秀正大尉(28)は、同日森師団長の葬儀終了後、近衛師団司令部において自決。古賀は東條英機の女婿。
石原少佐は上野公園に立籠ろうとするかつての教え子水戸陸軍航空通信学校生徒を説得中、兇弾に斃れる。
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・未明(5時30分過ぎ)、阿南惟幾陸軍大将、割腹自殺。遺書「一死以て大罪を謝し奉る」、「神州不滅を確信しつゝ大君の深き恵にあみし身は言ひ遺すべき片言もなし」(16日付「朝日新聞」)。
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「歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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「★東京インデックス」も宜しく。
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天文8(1539)年 三好長慶、父の仇敵細川晴元に一旦は従う [信長6歳]

暫く中断していた信長生誕年以降の年表。
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天文8(1539)年 [信長6歳]
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この年
・越後一国内乱。
管領細川高国没後、高国を後援者とした長尾為景の権威が低下。
1831、33年の再度、上条定憲が失意の越後守護上杉定実を擁し、揚北衆を主力として挙兵。苦戦の連続の内に36年為景は没し、翌年嗣子晴景は定実の守護復活を認めて講和。
しかし、定実の後嗣が伊達実元とされると、晴景は色部・黒川など揚北衆と共に反対し、この年、越後一国の内乱(天文の内乱)。
内乱の中で晴景・景虎(謙信)兄弟の対立が激化(守護代長尾家の内紛)。
上田長尾政景以下上郡(頸城・魚沼)の国人は晴景に党し、中条藤資ら中郡(蒲原・古志)・下郡(揚北)の国人らは景虎を支持。
48年(天文17年)、定実の調停の結果、景虎が長尾の家督をつぐ
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・佐々成政兄の政次、織田信秀に仕える 。
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・足利12代将軍義晴、将軍邸「今出川御所(北小路御所)」を構築。北が上立売通、南が今出川通、東が烏丸通、西が室町通に囲まれた一角。かっては足利義満造営の「花の御所」、後に足利義教再築の「室町殿」があった所。
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・ガンの反乱。
反乱者は、仏フランソワ1世に援助求めるが、フランソワ1世はカール5世と和解。鎮圧軍のフランス領内通過認める。叛乱は鎮圧され大量処刑。
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・サマランカ大学教授・神学者フランシスコ・デ・ビトリア、インディオ及び戦争法に関する講義を行い征服の正当性問題に取組む。
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・ヘンリ8世、大修道院の解散法、制定。
ヘンリ8世、6ヶ条、制定。
英国国教会の基本的儀式についての法令。聖餐、司祭の独身、貞潔の誓願、個人ミサ、聴聞告白など、内容はカトリックと変化なく、ルター派・カルヴィン派の教義を否定。
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・リヨンの印刷工ストライキ。~1540年。
職人に労働者階級意識が生じ近代的なストライキの性格を備える。
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・ブランデンブルクのザクセン選帝侯、新教を許可(ブラウンシュバイク侯を除く北ドイツ諸侯が宗教改革実施)。
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・ストラスブール、ジャン・カルヴァン、大学神学科講師兼任。「フランス人小委員会」設立。カルヴァニズムの典礼の根本定まる。同志デュ・チーエはフランスに戻りカトリックに再改宗。
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1月
・在る幕府吏僚、その公的記録(内閣文庫蔵「御状引付」天文8年正月条)の余白に、
「ていしゆのるすなれば となりあたりをよぴあつめ 人こといふて 大ちやのミての 大わらい いけんさまふさうか」と、
小歌を書きとどめる。
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1月14日
・三好長慶、兵を率いて上洛。25日、細川晴元に河内十七箇所の代官任命要請し、拒否される。
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2月8日
・今川義元発給文書で官途名「治部大輔」が使われる初見。これ以前に治部大輔に任官している。
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2月13日
・マントヴァ公爵夫人イザベッラ・デステ(65)、没(1474~1539、フェラーラ候エステ家出身、フランチェスコ・ゴンザーガの妻)。
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3月
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ、ナポリ副王ドン・ペドロ・デ・トレードの公女ドンナ・エレオノーラと結婚。
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4月
・アヴィニョン、穀物騰貴により暴動。小麦を積み出す船が襲撃される、即日鎮圧。
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4月18日
・陶興房(周防国守護代)、没。隆房(19)が家督を継ぐ。
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4月19日
・大内氏の遣明使、五島を出帆。医師吉田宗桂が明に渡り医を学ぶ。
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5月3日
・スペイン、ヘルナンド・ド・ソト、「7つの都市」を求めてフロリダ・シャーロット湾に上陸、42年まで3年間北米内陸部を探検。
グランド・キャニオンからテキサス州北部、カンザス州東部まで進むが、何も見つからず。
別の探検隊はルイジアナ州やアーカンソー州にまで入り込むが、やはり何も見つからず。
彼らが持ち込んだ「天然痘」が猛威をふるい、インディアン達は自分の土地を捨てなければならなくなる。
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6月1日
・阿波三好党頭領三好長慶(17)と兵4千、摂津越水城(西宮市)を出て京都に向かう。
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6月2日
・幕府内談衆大館尚氏、長慶が呈出した幕府御料所河内十七箇所の代官職の競望(自薦状)を正当と認め、将軍義晴に、長慶の要望然るべしと答申するが、細川晴元はこれに応ぜず。
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長慶の亡父元長は、「大物崩れ」の戦功により、北河内の大荘、北野社領八箇所の代官職を与えられた。長慶も、本願寺との講和を仲介し、晴元政権の危機を救う戦功があったと自負し、元服後しきりに畿内の大荘園を望む。
十七箇所は、八箇所の隣庄(現、守口市の大半を占める大荘)で、かつては畠山政長、畠山義就らが代官を歴任してきた由緒ある荘園。
晴元は、長慶の祖父長秀(伊勢多気館で殺されている)の従兄弟にあたる三好政長を帷幕に重用しており、長慶の要請を即座に拒絶。
長慶は、晴元の拒否の背後に、自分の一族の三好政長の影を見て、亡父元長の仇敵、政長や晴元に対する憎悪が蘇り、密かに阿波の国主持隆と示し合わせ、晴元打倒の兵を挙げようとする。持隆は長慶を後援。
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6月14日
・三好長慶、禁制を発給。
長慶は晴元政権内で隠然たる勢力を誇り、軍事的には晴元軍の中核としての活動を始める。
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「禁制 大徳寺 
一当手軍勢甲乙人濫妨狼籍(藉)の事 
一山林竹木を伐採する事 
一矢銭兵粮を相懸くる事 
右条々、堅く停止せしめ訖んぬ。若し違犯の輩これあらば、厳科に処すべき者なり。
仍て件の如し。 
天文八年後六月十七日 三好(長慶)利長(花押)」
*
閏6月1日
・近江守護六角定義頼は、長慶謀叛の報に、幕府に対策を要請。
義晴は、六角定頼・木沢長政らに調停を命じ、自重を求めて内書を晴元、長慶双方に送る。
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6月中旬
・三好長慶、本陣を摂津島上に進出。先鋒は西岡向神社進出。細川晴元、山間(山城高尾)へ避難。
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7月14日
・細川晴元、三好政長・波多野秀忠に出陣させ三好長慶軍に対抗。
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7月23日
・細川晴元、山城西岡に徳政令を発令することを足利義晴に乞う。
同25日
・幕府、京都の土倉の要請により徳政令を停止。
京都土倉衆、賄賂を以て徳政を阻む(「親俊日記」)。
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7月28日
・六角定頼や幕府政所代(大蔵次官相当のポスト)蜷川親俊らの斡旋により、三好長慶・細川晴元の撤兵が実現。
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8月
・武田晴信(19)、冷泉為和を招いて府中で歌会を催す。この年、北条氏との争いが再発。
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8月4日
・夜、大風洪水。17日、京都、大雨大洪水。天皇、「さてはこの御所、大破に及び候」(阿蘇惟豊宛の女房奉書)という。
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8月13日
・北条氏綱、娘(芳春院)と古河公方足利高基嫡男の晴氏との結婚を古河公方重臣簗田高助に依頼。
後に、足利義氏が誕生、氏康・氏政政権下の傀儡となる。
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8月14日
三好長慶、撤兵。近江守護六角定頼らの停戦斡旋受け、摂津芥川城を出て越水城に戻る。摂津半国の守護大名となる。
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長慶が形の上では晴元に屈伏して越水城主に納まったのを見て、河内北半国守護、飯盛城主畠山在氏の守護代として信貴山城を預けられ、山城下五郡という畿内最要地の守護代をも兼任する木沢長政は、自分こそ畿内最強の武将と思いあがる。
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9月
・山城国土一揆、徳政令を求め蜂起。
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・出雲富田城主尼子経久の孫晴久、安芸併呑を呼号して南下、吉田城(広島県吉田町)の毛利元就は孤立。
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9月6日
・細川晴元、洛外に徳政令を発す。
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9月6日
・茨木長隆、土一揆が東福寺に乱入するのを阻止。
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9月28日
・三好政長、京都八幡郷に徳政令を発するも、幕府はこれを停止。
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11月11日
・本願寺(証如)、天文7年の諸公事免許を楯に、山中氏の段米賦課を拒否(「天文日記」天文9年11月11日)。
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摂津闕郡の郡代山中藤左衛門が細川氏の下知と称し、闕部の段別米2升を「寺内出分之衆」に賦課しようとするが(「天文日記」11月7日)、証如は、先年寺町(細川氏家臣)が段米を課して来た時も、以前に山中が半済を課してきた時も、この出作分については、「諸公事免許」の成敗にもとづき撤回させている。
「諸公事免許」は、寺内住民を対象とする属人主義の考え方で、寺内の外での出作分まで及ぶという拡張した判断を示す。
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11月28日
・京都北野社が竣工、遷宮が実施(「御湯殿上日記」)。
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12月24日
・京都で町組「小川一町」が確認できる幕府奉書。
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「誓願寺雑掌申す当寺門前小河々上の事、観修寺(尚顕)家これを相談し進止すと云々。然る上は、千本閻魔堂(引接寺)ほか諸勧進所等再興の儀、堅くこれを停止せられ訖んぬ。存知すべきの由、仰せ出さるゝ所の状件の如し。 天文八 十二月廿四日 (飯尾)貞広(花押) (松田)頼康(花押) 小河一町中」(「誓願寺文書」)。
元亀3(1572)年「上下京御膳方御月賄米寄帳」に小川組十町のうちの町名として上小川・中小川・誓願寺町等が見え、天文10年にも「小河七町々人中」に宛てた細川晴元の右筆茨木長隆の奉書がある。
天文8~10年、上京小川組に七ヶ町の町組が存在していた。
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幕府文書でも、町組ではなく町人・町衆に宛てた文書は早くから見出される。
「金山民部少輔孝実申す六角東洞院屋地口十丈奥廿丈今は畠の事、当知行の旨に任せ去る天文三年奉書を成さるゝの処、事を左右に寄せ地子銭無沙汰せしむと云々。言語道断の次第なり。所詮速やかに孝実の代に沙汰渡すべきの由仰せ出さるゝ所の状、件の如し。 天文八 五月十一日 (諏訪)忠通 (治部)光任 当地百姓中」(「八坂神社文書」)。
洛中に居住し地子銭を領主に納入する農民・町衆をこのように「地百姓」「地上衆」などと呼び荘園領主配下の町人のみを指す。
対して、「小河一町中」は、純粋に地縁的共同体「小河一町」居住の町衆全員を指し、荘園領主と無関係に幕府から法人格と見なされている。また、町組を行政単位の末端として利用しようとする幕府の意図が背後に見て取れる。
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戦国期の京都:
上京・下京2つの集落に分かれ、夫々周囲に堀・土塀をめぐらした「構」(かまえ)となっている。
2つの「構」を結ぶ道が室町通り。
中心は「六町」で、上京東南隅に位置する内裏近辺に成立、発展した町々(「一条」二町・「正親町」二町・「烏丸」・「「橘辻子」など6町)が、結成した町組。
この付近は、かって仙洞御所であったが、応仁の乱後、零落公家・新興商工業者が集落するようになったのが町々の始まり。
社会的身分・地位、職業など異なるが、住人たちは一致協力して盗賊に抵抗し、また町焼討ちなどの事件を未然に防ぐなど、自分たちの手で生活空間を守り育てる。町衆の自治が発展。
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12月30日
・京都上京・下京夫々10人ずつの土倉・酒屋の宿老・有力者20人、納銭方に加わり、酒屋・土倉役などの徴収の問題について幕府と交渉。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。

2009年7月26日日曜日

京都 町小路(新町通)を歩く(6) 化粧水(小野小町別荘跡) 幸野楳嶺生誕地 菅家邸址(菅大臣神社)

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「化粧水」
(四条西洞院東南角)
(説明板)には、
「「化粧水は西洞院四条の南にあり 
いにしへ この所に小野小町の別荘ありしなり」
 都名所図會(安永九年)より引用
 小野小町は平安時代の代表的女流歌人にて出羽國(山形県)の生れ 
小野篁の孫とも伝えられる六歌仙の一人で百人一首に
  花の色はうつりにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに
と詠まれている。
西洞院の清流の当地に井戸があり 
小町が生活の場として使い以来「化粧水」の名称で親しまれ 
よってこれを永く後世に伝えるものとする
       昭和六十一年八月 妙傳寺町々内会    」
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幸野楳嶺生誕碑
(新町四条下ル西側)
幸野楳嶺(ばいれい)は、円山四条派の継承者で、
竹内栖鳳、菊池芳文、都路華香、川合玉堂などの画家を育てた人。
竹内栖鳳は、東の横山大観に対する京都画壇を代表する画家となり、
円山四条派の筆法を生かしながら西洋画の写実表現を融合する画風を拓く。
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江戸中期以降、京都では各町内に絵描きが最低一人はいたという。
竹内栖鳳の生家は、御池油小路の料亭「亀政」である。
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菅家邸址(菅大臣神社)
(新町通り仏光寺西入ル 南側と北側)
この辺りは「菅大臣町」の町名に残るように、菅原道真の邸宅址で、
没後に創立された「菅大臣神社」がある。
邸宅には、紅梅殿・白梅殿・菅家廊下(かんけろうか)といわれた学問所が含まれる。
邸宅の広さは、仏光寺通を中心に南北2町、東西1町といわれる。
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菅原道真が藤原時平のために大宰府に左遷させられた際、
自邸を出る時に、
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
なるじなしとて春なわすれそ」と詠んだことは有名。
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菅大臣神社は、鎌倉期には南北両社に別れ、
南社(菅大臣神社)を白梅殿社と称し、北社を紅梅殿社と呼んだが、
次第に衰退。

慶長19年(1614)、再興されるも、
天明の大火(1788)・禁門の変(1864)で焼失、
その都度再興されて現在に至るという。

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北側(紅梅殿)
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南側(白梅殿)
今も菅大臣神社として残る
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明治17(1884)年11月2日(4) 大宮郷での軍資金調達 火薬購入と破裂弾製造。

■明治17(1884)年11月2日(4)
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○大宮郷での軍資金調達(蜂起後の戦略転換と軍資金調達)。
当初、
「先ズ郡中ニテ軍用金ヲ整へ、諸方ノ勢卜合シテ埼玉県ヲ打破り、軍用金ヲ備へ、且、浦和ノ檻獄ヲ破り、村上泰治ヲ援ヒ出シ、沿道ノ兵卜合シ、東京ニ上り、板垣公ノ兵卜合シ、官庁ノ吏員ヲ追討シ、圧政ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安欒ナラシム」(田中千弥「秩父暴動雑録」)との構想であったが、
その後、栄助は、
信州組の来援の影響もあり、「兵ヲ挙ゲタル上ハ、警察官及ビ憲兵・鎮台兵ノ抗撃ヲ受クルハ必然ナリ、右ニ抗敵スルニハ金ヲ要スレバ、大宮郷中ニ於テ壱万円ノ金ヲ強奪シ、軍資ニ当テ、当地方ハ東京ニ接近致シ居ル故ニ、直ニ信州へ引揚ゲ、更ニ大兵ヲ挙グルノ目的ナリ」(「田代栄助訊問調書」)と、退守の姿勢をとりつつ、挙兵の長期維持を図るという方針に切り換えたとみられる。
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この為の備えとして、また大兵の維持の為にも、軍資金調達が必要となる。
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前夜の小鹿野町では軍用金集めをせず、初めから目標を大宮郷においていたとみられる。
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栄助は、軍用金徴収について、軍用金集方の井出為吉に命じ、町内の豪家・大店を訪ねさせ、
「今般我等高利貸ヲ潰シ、貧民ヲ救フガ為メ兵ヲ挙ゲタル処、追々警察官及ビ憲兵隊繰出シニ相成タル趣キ、是非戦闘ヲ為サゞレバ貧民ヲ救助スル能ハズ、因テ軍用金無心致シ度、首尾能ク本望ヲ遂ゲタル上ハ悉皆返弁可致、不幸ニシテ戦死シタル場合ニ於テハ、香莫トシテ恵投ニ預りタシ」(「田代栄助訊問調書」)
と口上を述べさせ、献金は本営の郡役所まで持参させることにする。
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栄助は、大宮郷に入った当初は、「群馬県人相馬義広」と仮名を用いていたが、軍用金の受取証を発行するときから本名を使用。
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「(栄助が、松本六蔵と升屋利兵衛に発行した)受取証ヲ見テ、暴徒ノ巨魁ハ当郷字熊木平民農田代栄助ナルヲ知り、人々二度喫驚セリ、且ツ切歯扼腕ヲナス者アリ」(「秩父暴動事件概略」)
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集められた軍用金。
柿原吟三郎500円、逸見藤三郎3円、逸見助五郎20円、井上伴七100円、新井峰吉80円、松本六蔵200円、矢尾利兵衛300円、久保道蔵100円、岡幸八400円、大森喜右衛門800円、根岸藤太郎500円、福島七兵衛100円の計3,103円。
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○火薬購入と破裂弾製造
桜沢村の「官軍善」木島善一郎は、大宮郷の塩ノ谷薬店からエンサンカリとケイカンセキを購入、これを横瀬村の銃砲鍛冶職の町田代蔵宅へ運び、風布村の宮下沢五郎と破裂薬を製造(「大宮郷警察署長より警察本署雨宮警部宛報告書」)。
この砲弾は4日午後、粥新田峠を越えて坂本村に進出した際、「官軍善」らが携行。その他にも、命じられて火薬購入に奔走したとの証言あり。
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2日夜、蒔田村逸見福二郎は、栄助に命じられ、8円をもらい、25名を引率して秩父神社を出発、田村郷で合薬2貫500目を購入、13名で大宮郷へ運ばせ、次に久長村で3貫目を「強求」して大宮郷へ運搬。福二郎は、困民党の「勢力ヲ逞カラシメ」たとして、重禁錮2年を科せられる。
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3日、白久村贄川村小隊長坂本伊三郎(34、竹細工職人、軽懲役6年)は、「田代栄助ヨリ弾薬購求ノ命ヲ受ケ」、15円を受取り、袴をはき威厳をととのえ、浅見伊八(横瀬村、重禁鍋5年)・新井紋蔵(下日野沢村、軽懲役6年)ら数十人を率い、贄川村に行き、15円分の火薬を購入し大宮郷へ運ばる。
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2日夕方
信州南佐久郡北相木村に、秩父困民党井出為吉の「出発を促す書簡」が着。自由党員菊池恒之助・井出代吉ら8人が、秩父へ出発。途中挫折。
このうち菊池恒之助のみが貫平の軍と共に信州に戻ってくる。
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2日夜
山県・柱野警部指揮の巡査隊、太駄村に入り、鳥羽村戸長役場で夕食。
小柏ダイ・新井チヨらの煽動を聞き、昼夜兼行強行軍にもかかわらず、続いて上州保美濃山に向かい、更に、3日坂原村に向かい、小柏ダイらを保美濃山戸長役場に引致。夜は城峯峠を守備する。
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小柏ダイ(常次郎妻)・新井チヨ(19、新井蒔蔵妹)、1日夜、恩田宇一の指令により同じ日野沢村黒沢ウラと共に三波川へ鉄砲を借りに行く。
途中、矢納村高牛~鳥羽辺~尾根外の三波川までの未参加部落を訪れ参加を要請。拘留後、各罰金2円・1円50銭・無罪で放免。拘留は4日朝群馬の鬼石町でという説が主流。
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チヨの供述。
「二日、村方ヲ立ツテ、途中、因民党へ加ハレト触レテミヤウト、ダイノ言ニヨリ、
・・・鳥羽ニテ一軒へ立寄り、吉田ノ方へ困民党ガ寄合ツタル故、其方へ出ナケレバ、後カラ多人数参ルカラ出ルヤウニト申シ触レタリ。
・・・戯レニ(高牛ニテ)触レタルトコロ、五人バカリ出テ来ルト申スニ付、飛ンダコトヲ致シタト思ヒ、帰りニ一緒ニ行カウト申シ、態々三波川ニ泊リタル次第ナリ」。
三波川不動尊へのお参りが本当の目的と口裏を合わせる。
また、「飛ンダコトヲシタ」と恐縮しながら、「果シテ後悔セシモノナレパ、再ビ鳥羽へ到り其事ヲ触レル訳ナシ、如何?」と刑事に突っ込まれると、チヨは、「困民党卜申スハ好キ事ニ承り居リタル故、鳥羽ニテモ申セシナリ。飛ンダ事ヲ致セシト申セシハ間違ヒニ有之侯 日歩貸ヲ毀シタル話ハ聞キタレドそ、借リタ金ナドハ返サズトモ良キ訳ダト申ス故悪シキコトトモ心得ズ」と答える。
刑事が、「良キコトト心得シ故、方々フレ歩行キシ訳カ?」と訪ねると、チヨは断乎として「左様ニ御座候」と答える。取調べはここで打ち切り。
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2日夜
堀口幸助、かつて奉公した代書人宅に宿泊、忠告を受け逃亡を決意。翌3日皆野への途中で脱走、4日群馬県緑野郡三波村の知人宅で7、8泊。後、富岡町~故郷渋川駅~曲輪町、21日午後8時横山町で逮捕。
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午後8時50分
清浦警保局長より埼玉県庁へ、憲兵派遣の報入る。
これを受けて、笹田書記官は、本庄から寄居までの憲兵輸送の手配を、大里郡役所に訓電。
「憲兵一小隊春日少佐是ヲ率ヒ同夜十一時発本庄駅マデ別仕立汽車ニテ派遣ス」。
「今夜十二時憲兵百名許り其地へ着スル筈ニ付賄ヒ方手当シ、且ツ其地人力車残ラズ雇上置クベシ」。
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・秩父事件の初めての新聞報道(「東京横浜毎日新聞」)。
見出し「茨城暴動も概ね縛に就き、負債党の如きも漸く鎮静に帰したりしに、昨日又左の報を得たり」。
掲載電報「多数の人民、埼玉県秩父郡富市村の山中に集合し、各武器を携へ、中には銃砲を携ふるもありて、暴挙に及ばんとする有様なり。」。
多数の人民というのは、茨城暴徒のごとき者か、または負債党のごとき者か、いまのところ不明であると解説。
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・「秩父暴動雑録」にみるこの頃の動き。
*この日(2日)、上日野沢の小さな高利貸の弟が、前日、駆出されたが逃げ帰る途中と言い、筆者(田中千弥)の家に立寄る。
千弥が聞き取った暴徒の情報。
まず秩父で軍用金を集め、諸方の勢と一緒に埼玉県庁を打破り、浦和監獄から村上泰治を解放し、東京に上る。「板垣公卜兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変ジテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ人民ヲ安寧ナラシムべシ・・・今般ノ一挙ハ専ラ天下泰平ノ基ニシテ、貧民ヲ助ケ、家禄財産ヲモ平均スル目的ナレバ、金穀銃器ヲ供シテ兵力ヲ助クべシ。」。
4日、近所の部落の役割表に名もない農民2名が、数部落の人足を集め、神社の前で、「我輩既ニ大宮裁判所ノ書類ヲ焼キ其庁ヲ毀テリ、朝廷ヨリ置ク庁ヲ毀ツ、既ニ朝敵ナリ」と、アジ演説し、進めや進めとくり出す。千弥は憤懣やるかたなく「聞腹のたつ蟷螂のじわざかな」。
*
①幹部でもない農民が、自由党の言葉のパターンを使用し、政治的自由民権の概念を語る。
天下の政治を改革し、人民を自由ならしめるとの変革意識が、高利貸征伐という具体的行動に綜合(秩父事件は自由民権運動の発展線上にあるという見方)。
蜂起のスローガンは、農民にとって直接的な要求、負債据置・年賦返済・減租運動から発展した高利貸打毀し・証書と奥印書の焼き捨てであるが、その目標は政治改革に連なり、それに裏打ちされているとの自覚が表明されている。
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②負債農民が、人民の自由と安楽を語る時、自由党的な枠に止まろうとする幹部の意に反し、社会的意味を帯びざるを得ない。
自由とは最も直接的には借金からの自由、借金からの解放であるが、これを拡大すると徴兵・酒税・印紙税からの自由である。
困民党において、「世直シ」は「世均シ」に発展する。
困民党において、政治的自由民権は社会的自由民権に発展する。
恩田卯一(宇市)と坂本宗作のオルグを受けて参加した上州多胡郡上日野村の新井貞吉は、卯一が、高利貸や銀行をつぶし、「平ラナ世」にするから参加してもらいたいと説いたと述べる。
「金のないのも苦にしやさんすな いまにお金が自由党」。
「雑録」は、「貧民ヲ助ケ、家禄財産ヲモ平均スル」と云う。
貫平は信州侵入の際、南佐久郡海瀬村で1戸1人の人足を強要した上、「天のその斯の民を生ずる、彼れに厚く、此れに薄きの理なし」と天賦人権の平等を説き、「拙者等は富者に奪ひて貧者に施し、天下の貧富をして平均ならしむと欲するなり」と主張。
「朝野新聞」社説「貧富平等論」は、「社会ノ組織ヲ一変シテ、財産ノ均一ヲハカル」という社会主義と理解し、秩父事件も「経済上弱ヲ扶ケ強キヲ挫ク」主張であったと批判。
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・投書「百姓の困難」(「土陽新聞」)。
「抑も百姓が明治十二、三年の頃米の十円にも売れし頃は、始めて藩制以来の愁眉を開き、・・・漸く人間の仲間入をなすに至れり。此の時に当て、事を解せざる者は、農家の地位の斯く次第に進むを悪んで、動もすればヤレ百姓が奢るの、田舎が華美に流るるのとて、最少し地租を重くするも可なりとの諭ありけれども、我輩は之れと反対にて、如何に米価が十円に至りしと雖も、農家の税は軽きに非ず、実に他諸税よりも重くして、農家は実に困難なり、と云へり。何となれば、地税は営業税杯と違ひ、其財本に賦課せられたるものなれば、百円の地所を持てば年々必ず二円五十銭を私はざるを得ず。・・・乾損水損の差別なく、初手から定った課税なり。・・・農家が独り此の税に堪へて其業を落さざるものは何ぞ。これ非常の節倹が慣習となって、水を呑み襤褸を衣ても敢て意とせざるの境遇に甘んずるものなればなり。然るを、今論者が農家が僅かに人間の仲聞入をするや否之れを答めて奢侈に流るると云ふは、此れ実に百姓なるものは牛馬同様の者なれば、藁に寝て水で腹を張らせと云ふものなるべし。何と無礼千万な云ひ分ならずや。」
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2009年7月25日土曜日

京都 京都府庁旧本館 京都守護職上屋敷跡 京都府庁周辺の風景

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京都守護職上屋敷跡(京都府庁内)
(説明板)
「幕末京都の警備を命じられた、京都守護職は市中に数カ所の広大な屋敷を構えました。
現在の京都府庁にあたる敷地もその一つで、この敷地は上屋敷跡にあたり、度重なる増改築を経て、慶応元(1865)年に完成しました。
規模は現在の府庁の敷地ほぼすべてを占め、正門や敷石、玄関等はたいへん豪華なものだったといわれています。」
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重要文化財「京都府庁旧本館」(明治37年築)
京都府のHPの「旧本館」に関する説明
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エントランス付近
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正面階段を上がり、エントランス方向を見返したもの
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二階にある旧知事室(昭和46年まで使用)
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一階の廊下(一部の部屋では現在も執務されている)
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京都府庁周辺の風景(1)
府庁裏にある、或る家の壁のレリーフ
(特に、商売をされているような形跡はない普通のお宅でした)
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京都府庁周辺の風景(2)
京都府庁から丸太町通りまで下ったところ
(丸太町新町角)にある関西では有名な「めしや」さん。
この「めしや」さんの正面には、この「めしや」さんと同名を持つ方を
昔、ボスに頂いていた政党の府本部がある。
(モチロン、全くの無関係ですが・・・)
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「歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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2009年7月24日金曜日

横浜 フランス山 フランス領事官邸跡 横浜米軍機墜落事件(愛の母子像)

フランス山の歴史は、文久3年(1863)にフランス海兵隊が駐屯したことに始まる。
フランス軍の駐屯は、明治8年(1875)に終わるが、その後明治27年(1894)、ここにフランス領事館、領事官邸の建築が始まる。
明治29年(1896)3月に領事館が、同12月に領事官邸が完成。
しかし、大正12年の関東大震災で、領事館・領事官邸ともに倒壊し、昭和5年(1930)に再建される。
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昭和46年(1971)、横浜市がフランスよりこの地(山手185、186番)を購入し、翌年には「海の見える丘公園フランス山地区」として整備、開業となる。
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マリンタワーから見たフランス山
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フランス領事官邸遺構
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横浜米軍機墜落事件犠牲者母子の像
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墜落事件と像の設置経緯は、Wikiを是非参照下さい。
米兵は勿論パラシュートで安全に脱出したこと、像の設置には当初行政側は難色を示していたことなどが書いてあります。
決して忘れてはいけない事件です。
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フランス山
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「横浜 山手洋館(1)」に続く
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「ホテルニューグランド」もご参照下さい。
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また、以前にご紹介した「ヘボン博士邸跡」は、フランス山入口近くにあります。
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「★横浜インデックス」をご参照下さい
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2009年7月23日木曜日

京都 町小路(新町通)を歩く(5) 廣野了頓邸址 木下順庵邸址 林道春邸址 小結棚町会所 武野紹鷗邸址   

京都の町小路(新町通り)を御池通りから五条通りまで南下してます。
前回(4)では、たまたま祇園祭に遭遇したため新町通りとお隣の室町通りの山鉾をご紹介。
前々回(3)では、かなり四条通りにまで接近してきましたが、今回は、六角通りまで戻ります。
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廣野了頓邸 将軍御成門跡
(新町六角東入ル北側)
了頓邸は、この六角通りから北の三条通りまでの広さをもっており、
了頓は、一般人が六角通り~三条通りまでの自邸内を通り抜けることを許し、
この小道は「了頓図子(ずし」と呼ばれたという。
この辺りの町名は、了頓図子町と呼び、この了頓の計らいを今に残す。
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木下順庵邸址
(烏丸錦小路西入ル南側)
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林道春邸址
(新町蛸薬師下ル東側)
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小結棚町会所(放下鉾)
(四条新町上ル東側)
「放下鉾」は、前回(4)で紹介済み。
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武野紹鷗邸址
(四条室町上ル東側)
「菊水鉾」について前回紹介済み。
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武野紹鷗は千利休の師。
利休の弟子山上宗二の「山上宗二記」では、師利休の話として、紹鷗は30歳まで連歌師で、公家の三条西実隆より「詠歌大概」(定家の著書)の序を聞いて茶湯を分別し、極意を悟り名人になったという。
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また、紹鷗は、連歌師心敬の唱える、連歌は枯れかじけて寒かれ、という枯淡の美の理論に心酔し、茶湯の本質もそうありたいと、常々語っていたという。
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利休は19歳(その頃は与四郎という名)で紹鷗の門をたたく。
紹鷗は、下男に路地を掃除させたうえで、与四郎に掃除を命じる。しかし、路地には塵ひとつない。与四郎は暫く考え、傍らの木を揺すぶる。木の葉がはらはらと散り、掃き清められた路地に落ち、その様は非常に風情があった。
この様子を密かに見ていた紹鷗は、与四郎の奇才に感じ入り、ことごとに秘訣を授けた、という。
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千利休 (講談社学術文庫)
千利休 (講談社学術文庫)
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四条通りに達した。
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四条新町の風景
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