2009年7月10日金曜日

保元の乱(1) 藤原頼長の孤立深まる 後白河天皇即位

「京都のいしぶみ」を訪ね歩くエントリで「東三条院」「高松殿」を扱い、また、頼朝の鎌倉幕府樹立を扱うエントリ(まだ以仁王・頼政の挙兵の段階ですが)では頼政(「源氏揃え」「頼政というひと」)を扱っていますので、保元・平治の乱は避けて通れないところです。
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以下、何回かに分けてまず「保元の乱」についてアップします。
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久寿2年(1155)年
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・この年は飢饉の年。翌3年にかけて都・諸国は不穏な情勢。
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○この年の生没者
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鴨長明、賀茂御祖(かものみおや)神社(下鴨神社)正禰宜惣官(神官トップ)鴨長継の次男として誕生。「方丈記」著者。
承安3年(1173)頃、父が没し、長明(19)は、正禰宜の職を巡り社家内部で確執にあう。父の後ろ盾を失い、幼少の頃から親しんでいる和歌管弦に生きる道を掴みかける。
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平(建礼門院)徳子、誕生。父・平清盛、母・平時子。高倉天皇の中宮、安徳天皇の母。
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・3月2日、千葉成胤、誕生。千葉氏4代。父は3代・千葉介胤正。母は不明。
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・4月15日、慈円、誕生。藤原忠通と加賀局(藤原仲光の娘)の子で忠通の第6子、九条兼実の弟。歴史書「愚管抄」著者。
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・6月1日、藤原頼長の嫡室幸子(44)、没。
5月初頃より病勢つのり、13日、頼長と同居していた土御門殿を出て一条富小路の右少将藤原公親(幸子の弟)の宅に移っていた。
頼長は「諸事式法に任せて更に省略なし」といわれる程手厚く葬り、引き続き喪に服して籠居。
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・6月26日、源義国(65)、上野で没。源義家の子(3男或いは4男)。
義国の次男義康は嫡流を継ぎ、源姓足利氏の祖となる。
長男義重は上野新田の地を領して新田氏の祖となる。
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・12月16日、高陽院(カヤノイン)泰子(61、鳥羽后)、没。
法皇と頼長を繋ぐパイプ役が亡くなり、頼長の孤立は一層深まる。
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「保元の乱」は、
①後白河天皇と崇徳上皇の皇室内部の争いと、
②関白藤原忠通と左大臣藤原頼長(弟)の摂関家藤原氏の争い、が結びついた結果おこる争い。
貴族の無力を暴露し、貴族同士の争いに軍事貴族の武力が必要不可欠であることが露呈し、武士が政界へ進出する大きな契機となる。
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■皇室内部の争い概観
崇徳は鳥羽法皇第1皇子で母は待賢門院璋子。
しかし、鳥羽は、崇徳を祖父白河法皇と璋子の子と信じ「叔父子(祖父の子)」と呼んで忌避し、璋子とも疎遠気味である。
(璋子は、鳥羽法皇の祖父白河法皇の猶子であり、愛人でもあったと言われ、 鳥羽天皇皇后となった後も、白河法皇は璋子の元に通っていたと言う)。
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この時、藤原長実の娘得子(美福門院)が鳥羽に入内、保延5(1139)躰仁親王(近衛天皇)を産むと、鳥羽は生後3ヶ月の躰仁を皇太子に立て、永治元年(1141)、崇徳に無理矢理譲位させる。
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ところが、譲位宣命には躰仁親王は崇徳の「皇太弟」と書かれ院政を行えないことになる。
(院政を行うには天皇家家長の立場が必要であり、直系尊属に限られている。天皇の父・祖父でなければ院政を行えず、天皇の「兄」崇徳に院政を行う資格はない)。
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この年久寿2(1155)年、近衛天皇が没し、崇徳は子の重仁が皇位につくか、自らが重祚(退位した天皇が再び皇位につくこと)することを期待するが、大方の予想に反し鳥羽の第4皇子で待賢門院腹の雅仁親王(後白河天皇)が皇位につく。
雅仁親王を即位させる案は、鳥羽法皇近臣の信西入道(藤原通憲)が考え出す。通憲は妻が雅仁の乳母であり、雅仁(後白河)を即位させて、天皇の乳母の夫として政治の実権を握ろうと考える。
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通憲は「学生(がくしょう)抜群」と評されるほどの政治家であるが、家柄が低く少納言止まり。朝廷での出世を諦め出家、信西と改め、鳥羽法皇近臣グループのトップにのし上がっていた。
こうして後白河は守仁への中継ぎの天皇として即位し、崇徳上皇は完全に政治の場から締め出される。
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■摂関家藤原氏の争い概観
藤原頼長は、「日本第一の大学生(だいがくしょう)」(慈円)と云われる博識の政治家で関白の座を渇望。
父忠実は晩年の子で学才豊かな頼長を偏愛。長男忠通との確執もあり、頼長を摂関の地位に就かせたいと願う。
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忠通は嫡子に恵まれず、20歳以上年齢差の頼長を猶子としていたが、康治2(1143)年に実子基実が誕生、頼長への摂関譲位を躊躇うようになり、忠通・頼長は出世を競うようになる。頼長は、1149年左大臣就任。
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久安6(1150)年、父忠実は忠通(兄)に頼長(弟)への摂政譲位を迫るが、忠通は拒否。
忠実は、忠通の東三条殿に家人源為義・頼賢の兵を派遣し、摂関家累代の宝物を接収し忠通を義絶、頼長を氏長者にする。
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翌年、鳥羽法皇は忠通の関白をそのままに、頼長を内覧(天皇の決済を補佐する役で摂関と同じ権限をもつ)に任命、執政2人が並び立つ異常事態となる。
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しかし、頼長の厳格な政治姿勢は多くの貴族の反感を買い、仁平元年(1151)7月、鳥羽法皇の寵臣藤原家成邸襲撃で法皇の信任までも失う。
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久寿2(1155)年、近衛天皇が没し、忠通と法皇寵姫美福門院の推す雅仁親王(後白河天皇)が即位すると、忠通が関白に任命されたのに対し、頼長に内覧の宣旨は下ず、頼長は完全に失脚。頼長は局面打開の為、かつて鳥羽法皇から譲位させられ失意にある崇徳上皇に接近。
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■藤原頼長という人物:
寛仁4年(1120年)5月生。父藤原忠実(43)、母土佐守藤原盛実(摂関家家司)の娘。関白藤原忠通(24、母は村上源氏右大臣顕房の娘)の弟。
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1121年、院の摂関家分断策により忠実は蟄居、忠通が関白・氏長者となる。
1125年、兄忠通の猶子となる(6歳、摂関家存続の為)。
1130年(11)元服、従五位叙任、侍従、近衛少将、伊予権守等に任官。同年、右近衛権中将。
1131年、従三位。
1132年、権中納言。
1133年(14歳)、徳大寺実能娘幸子と結婚。
1134年、権大納言。
1136年(17歳)、鳥羽院別当・内大臣、右近衛大将兼任。
1137年、雅仁親王(11、後白河)の読書始に参会、作文会の読師を勤める。
1139年、皇太子傅、左近衛大将。
1149年(30歳)、従一位・左大臣。
1155年(36)、失脚。
幼時より令名高く、膨大な和漢の書を読み「この頼長の公、日本一の大学生、和漢の才に富みて、」と学識の高さを評され、一方で酷薄で他人に容赦ない性格で「はら悪しく、よろずにきはどき人なりける・・・」(「愚管抄」)とも評され悪左府と呼ばれる。
但し、慈円は叔父頼長敗死の時は満1歳、この評は、のちの伝承に基くものだが、自らの理念を基準に他を追求する硬骨漢ぶりを言当てている。
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久寿2年(1155)年の動きに戻る
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○藤原頼長の孤立
7月23日
近衛天皇(17)、没(誕生:保延5(1139)/05/18)。
深夜、王者議定(皇位継承者の決定)。
24日、鳥羽上皇と待賢門院の間の第4子(29、崇徳上皇の弟)の雅仁親王(後白河天皇)が践祚。
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鳥羽上皇・関白藤原忠通・美福門院との連携
彼らにとっての後白河の位置付け:崇徳の子の重仁天皇即位を阻止し、守仁親王(13)即位迄のワンポイントリリーフ。
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藤原頼長は、兼長を伴い急ぎ参内し、自分の直廬(控所)に待機するが、蔵人頭藤原光頼(惟方の兄)から、頼長父子が諸卿の参会している殿上の間に出座するのは具合が悪いと申し渡され、やむを得ず内裏から退出(「兵範記」)。
上皇の意をうけ、服喪(6月、妻幸子が没す)と左大臣の辞表提出が理由(口実)にされる。
同日、藤原忠通が引続き関白となり、弟頼長に内覧の宣旨は下りず、頼長は完全に失脚体制は頼長排除の方向に固まる
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9月に忠通の妻が没する際には、法皇は忠通に籠居しないよう再三命じる。頼長の退出は、服喪が絶対的な理由でなく、排斥に利用される。
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後白河即位後も、頼長には内覧の宣旨が与えられず、左大臣のみが元の通り認められるのみ。
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やがて、頼長は、頼長が近衛天皇を呪詛していたとの風聞を知る。
近衛天皇が、巫女の口を通じ、自分が目を患って亡くなったのは、誰かが愛宕山の像の目に釘を打った為である、と語ったとの噂が流れ、鳥羽法皇が調べさせると、5~6年前にそうした事があったとの報告があり、藤原忠通や美福門院がそれは頼長の仕業であると法皇に進言したという。頼長は法皇に弁解を試みるが、その効果はない。
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おまけに、妻の幸子の出た徳大寺家が幸子の没とともに離れてゆく。幸子の父の実能は東宮傳(フ)になり、兄の公能は娘の忻子(キンシ)を後宮に入れている。頼長の孤立は深まる
また、
12月16日、高陽院(カヤノイン)泰子(61、鳥羽后)、没。
法皇と頼長を繋ぐパイプ役が亡くなり、頼長の孤立は一層深まる。
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■後白河天皇選出の背景
この頃の朝廷内実力者は、鳥羽上皇皇后で近衛天皇母の美福門院得子。
次期皇位継承者としては
①崇徳の子の重仁親王、
②崇徳の同母弟雅仁親王(77代後白河天皇)の子の守仁親王(12、のち78代二条天皇)が考えられる。
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守仁親王の生母(待賢門院璋子)は早逝していて美福門院得子が守仁を養育し、守仁は多くの皇子の中でも聡明な皇子として評判。しかし、守仁の父の雅仁が健在なのにその子供を天皇にするのは問題ありとの議論になり、一時的に雅仁を天皇とする決定がなされる。
納得いかないのは崇徳上皇で、自分から帝位を奪った近衛とその生母得子を憎んでいた。その上おまけにに、自分の子が天皇にならずに、品格のない弟が後継となりその子が皇太子となった。
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近衛天皇は、6月に再び病床につき、7月に入り重態が続く。
数日前、生母美福門院が見舞い、最期と悟った様であるが譲位は行われず、近衛は出家することなく没す。
鳥羽法皇と美福門院は臨終に駆けつけようとするが、既に没したとの報告を受け、そのまま鳥羽殿に留まる。
午後4時頃、法皇は、忠通に関白の地位を保証する、高松殿を新しい内裏とする、近衛の葬儀責任者に藤原伊通(忠通派)を充てると忠通に伝える(「兵範記」)。
この時点で、法皇は既に一定の方針を選択。この後、法皇は夜を徹して思案。
鳥羽殿では側近源雅定(元右大臣。前年に出家)・藤原公教(権大納言)が法皇の相手になり、忠通との間で何度も使者が往来し、「王者の議定」が行われ、翌日早朝、法皇4男雅仁親王(後白河天皇)が皇位継承者に決定(「兵範記」)。
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鳥羽法皇は、近衛没を契機に、分裂した摂関家に対する態度を決定。
忠通に関白の地位を保証し「王者の議定」(皇位継承者の決定)に参加させ、忠実・頼長を排除する。
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後年の藤原伊通の回想によると、
鳥羽法皇は女院の希望通り守仁親王(二条天皇)を皇位につけたいと思ったが、親王の父(雅仁親王)の生存中に、王子を皇位につける不穏当なので、一旦雅仁親王を践祚させ、相ついで守仁親王を皇位につけることにしたという。
しかし、法皇が雅仁親王を天子の器でないとみて、簡単にこの親王践祚に踏み切れず、決定が近衛天皇崩御翌日まで延びる。
本来、皇統は近衛天皇に移行し、待賢門院系統の庶子に過ぎない雅仁が即位する可能性は皆無に等しく、この為、彼は帝王学を学ぶこともなく、帝王にふさわしからぬ俗謡今様に明け暮れていた。
中継ぎ故に政治的権威に欠ける上に、立ち居振る舞いや教養においても天皇としての威厳・権威に欠ける存在であった。
しかし、その彼が皇統の中心となり、武士政権と対立する貴族政権の代表となる。
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後白河は、践祚前も践祚・即位(10月25日)後も「今様狂い」。
「大方、詩を作り和歌を詠み手(書)を書く輩は、書き留めつれば、末の世までも朽ちる事無し。声(今様)悲しきことは、我が身崩(かく)れぬる後、留まる事無きなり…」(「梁塵秘抄」口伝集末尾)。
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○「武士」の存在(活動の活発化)
4月3日
・源為義、左衛門大尉・検非違使を解官(子の為朝の乱妨のため)。
 源為義、隠居し、源義朝が家督を継ぐ。
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8月16日
・大蔵合戦。
源義賢、武蔵比企郡大蔵館(埼玉県嵐山町)にて甥の源義平(15、義朝長男の悪源太義平)の夜襲で敗死。
義平は、畠山重能に駒王丸(源義仲)の殺害を命ずるが、重能は不憫に思い、京から武蔵に帰国した斉藤実盛に養育を依頼。
駒王丸・母小枝は信濃(長野県南佐久郡佐久町)から木曽谷の豪族中原兼遠のもとへ逃亡。駒王丸は、一時期、諏訪下社の大祝(大宮司)金刺家(山吹城)で養育され、この時山吹と知り合う。
義賢嫡男の仲家、母(藤原氏下級貴族)の縁で京の源頼政の養子となる。
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to be continued

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