2009年7月29日水曜日

昭和13(1938)年2月15日~28日 ジョン・ラーベ、南京を離れる。 日本海軍機、重慶を初空襲。

昭和13(1938)年
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2月15日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は、下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。」
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2月15日
・「学生狩り」。
警視庁、3日間にわたり盛り場のサボ学生3,486人を一斉検挙。改悛誓約書提出させ宮城遥拝ののち釈放
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2月15日
・福沢桃介(70)、没。
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2月16日
・大本営政府連絡会議、6個師団完成する7月迄は、黄河以北平定の北支那方面軍の作戦以外の新作戦展開しない方針決定(参謀本部起案「当面対支消極持久の方針」)。占領地域の治安維持・新政権育成に専念する。この間、中支那方面軍から、第16、114師団を北支那方面軍に移す。
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しかし、現地では、前年末に黄河の線まで到達した北支那方面軍と、南京占領後停止していた中支那派遣軍(2月に呼称を改める。軍司令官畑俊六大将)が、南北の占領地区を繋げる為、天津~浦口を結ぶ津浦線に沿って南北両側から進撃開始。
また、3月1日、参謀本部作戦課長にこの決定の推進者河辺虎四郎(24期)に代わり、対支作戦に積極的な稲田正純中佐(29期)が就任。3月13日の台児荘の戦闘で戦面不拡大方針を一擲
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2月16日
・米、新農業調整法(AAA)可決。余剰農産物貯蔵の政府援助により価格の安定をはかる。
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2月17日
・三多摩の右翼団体「防共護国団」600、政友会・民政党本部襲撃、占拠。
襲撃者は、「数日分の食糧まで用意、地下室に陣取って炊き出しまで」始める。
政党は暴徒排除を末次内相に要求するが、末次は「党員同士の争いに官権が介入するのはどうかと思う」と腰を上げず、「警視庁は十時間ばかり黙認していた」あと、重だった者を検束して暴徒を解散させる。
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2月17日
・スペイン、テルエルの戦い。叛乱軍のテルエル包囲作戦開始。
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2月18日
・南京安全区国際委員会、難民区を解消したいとの日本当局の要請をうけ、南京国際救済委員会に改称。
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2月18日
・日本軍の非行に関するアリソソ書記官の報告。
この日の「南京の状況は著しく改善された。難民区の中国人が続々と自宅へ帰りはじめた」という電報を最後に、アメリカ外交文書ファイルから姿を消す。                      、
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2月18日
・「二・一八空戦」。日本海軍機、重慶を初爆撃
翌19日付「東京日日新聞」は上海発の1面記事で前日の初爆撃を「長駆、重慶初空襲」「重慶市民狼狽」の見出しで報じる。12月26日、本格的重慶空爆開始。
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2月18日
'・「日本評論」4月号、第2次人民戦線事件の検挙には無理があるという記事掲載、削除。
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2月18日
・オーストリアの内閣改造。シューシュニク首相、ザイス・インクボルト(オーストリア・ナチス指導者)、内相兼警察長官に任命。19日、国内で入獄ナチス党員釈放。
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2月19日
・「国家総動員法案」、衆議院に提出。
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2月20日
・ヒトラー、満洲国承認声明。政府声明ではない。
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2月21日
・英アンソニー・イーデン外相、チェンバレン首相の対伊妥協政策(スペイン内戦の解決よりもイタリアとの協定を優先)に抗議辞任。後任ハリファックス。
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2月22日
・スペイン、テルエルの戦い。
共和国軍エルナンデス・サラビア将軍、テルエルに撤退下命。エル・カンペシーノ指揮の共和国軍脱出。遺棄死体1万、捕虜1万4千5百。叛乱軍、テルエル再占領。
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2月23日
・中国のソ連義勇空軍、台湾の日本軍航空基地を空襲
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2月23日
ジョン・ラーベ、南京を離れる。27日午後2時、上海着。3月16日、上海発。4月12日、ジェノヴァ着。15日、ベルリン着。
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2月24日
・衆愚院本会議に国家総動員法案、上程。
近衛首相病臥につき広田外相が提案理由説明。余りに短く、議場の反感を買い、又も議場混乱。民政党斎藤隆夫・政友会牧野良三、衆議院で国家総動員法案を憲法違反と批判。25日、各派質問の後、委員46名に付託。委員長は小川郷太郎(民政)。
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2月24日
・シュシュニック・オーストリア首相、オーストリアの独立を強調する演説を行う。3月9日、独立問題で人民投票実施を公告。
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2月24日
・アメリカのデュポン社、ナイロンの商品化に成功。
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2月25日
・改正兵役法公布。学校教練修了者の在営期間短縮特典が廃止
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2月25日
・蓑田胸喜・松田福松『国家と大学−東京帝国大学法学部の民主主義無国家思想に対する学術的批判』刊行。3月、東京帝大法学部一部学生の法学部教授攻撃、始まる。
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2月25日
・スペイン、テルエルの戦い。共和国軍戦線維持の反撃開始。~27日。
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2月26日
・「内鮮一体」をスローガンにした特別志願兵令、公布。
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2月26日
・内務省警保局、輸入禁止洋書に対し、今後は港で抑え発送元へ返送し、輸入業者の損害を救済する方針を決定
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2月26日
・大日本航空婦人会、航空殉職遺家族の相互扶助組織「荒鷲の会」の発会式を行う。
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2月28日
・郭沫若、長沙を発ち武漢に戻る。「抗戦日報」の田寿昌(田漢、のち文化部戯曲改進局長)と同行。第3庁を組織し、4月1日~開庁。
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郭と主任秘書陽翰笙で第3庁の組織人事を計画。
第5処(動員工作担当)の第1科は文書編纂、第2科は民衆運動、第3科は総務と印刷、を担当することとする。処長胡愈之(のち民主同盟幹部)、第1科長に徐寿軒(東北救亡協会代表)、第2科長に張志譲(のち最高人民法院副院長)、第3科長に尹伯休と決める。
第6処は芸術宣伝担当、第1科で演劇音楽、第2科で映画、第3科で絵画を担当。処長を田寿昌とし、第1科長に洪深、第3科長徐悲鴻(画家)にし、映画の科だけは、前武漢行営政訓処の遺産を引きつぎ、中国映画製作所の所長鄭用之に第2科長を兼ねてもらう。
第7処は対敵宣伝を担当で処長は范寿康に、企画と日本語翻訳の第1科科長に杜守素〔杜国痒、のち広東省人民政府文教庁長〕、国際情報をつかさどる第2科の科長に董維鍵、日本文の製作をつかさどる第3科の科長馮乃超〔後期創造社の作家、のちの広東省人民政府委員〕を任命。
鹿地亘・池田幸子夫妻を第3庁第7処の顧問とする(この後、8年間中国に留まる)。
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「各処、各科および秘書室は正式名簿の上では三百余人、それに付属団体として、児童劇団、抗戦宣伝隊四隊、抗敵演劇隊十隊、漫画宣伝隊一隊があり、さらに各科処の雇員、雑役、守衛などを合わせると二千人前後になった。ほかに映画製作所の数百人、上映隊の五隊が漢口の楊森花園に駐在していた。
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しかしこの片隅の静かな場所も、まもなく敵の爆撃の目標になった。空襲で周囲に弾が落ちて犠牲者も少なくなかった。」(「抗日戦回想録」)
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2月28日
・業績不振のため東京発声映画製作所が解散。
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(謹告)
昨年11月18日より、「南京戦」の項目(ラベル)で、昭和12年12月1日からの年表を続けてきましたが、一応昭和13年2月でこの項目は終了させます。
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尚、次回は、年表では触れていない昭和12年12月の国内の状況について、同じく「南京戦」の項目としてやや詳しく扱いますが、それ以降は、「昭和××年記」というスタイルで進めようと思っております。
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