2009年8月8日土曜日

京都御苑(1) 蛤御門 清水谷家の椋(来島又兵衛討死の地) 薩摩の砲火で天龍寺八度目の焼亡 建礼門

京都御苑シリーズを始めます。ただ、データが完璧でないので、完結までには時間がかかります。
まずは、蛤御門から。
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蛤御門
御所9門の一つで、もとは新在家御門と呼ばれ、
常には閉ざされていたが、
宝永の大火(1708年)の際に初めて開いたといい、
焼けて大きく開くハマグリとようだという事で、蛤御門の名称が定着したと云う。
幕末の「蛤御門の変」については、別途「六角獄舎」の項で
述べてますので、ここでは省略します。
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長州兵の弾痕の跡だとか・・・。
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門をくぐって背後から見ると。
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来島又兵衛の討死の場所だとかいう。
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清水谷家の椋の背後の景色
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御所とは直接関係のない余談ですが、この時、嵯峨の天龍寺は開山以来八度目の焼亡にみまわれます。
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この戦に際して、上洛した長州勢は一部が天龍寺に宿営する。長州兵を破った薩摩藩の村田新八は、長州軍を駐留させたとの理由で天龍寺に砲火を浴びせようとする。
管長滴水禅師は、総門前の大砲に立ちはだかり、「全山を焼くならまず自分を打ち殺してからにせよ」と言う。
村田は、「それでは大義名分が立たない。ただ空砲のみを撃てばよい」と名分をつけるが、実際は、実弾を放ち全山ことごとく焼亡する。禅師は開山の木像を背負い付近の竹藪に難を避けた。(元天龍寺管長関牧翁著「魔禅」より)。
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建礼門
御所の正門、天皇・国賓の来場の際以外は開門されない。
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蛤御門
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「京都インデックス」をご参照下さい。
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