2009年8月6日木曜日

天文9(1540)年 尼子氏南下、毛利氏と死闘を続ける。 イエズス会認可。 クロムウェル処刑。 [信長7歳]

天文9(1540)年 [信長7歳]
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この年
・この年、畿内で飢饉、疫病蔓延。
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・北条氏康に男子(氏照)誕生。後の武蔵滝山城主・八王子城主。
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・千与四郎(19、利休)、武野紹鷗(舳松(ヘノマツ)町の皮屋)に入門。
また、この年、父の与兵衛(一忠了専)が没し、家督を相続したと考えられる。千家は町人としては今井家・津田家には及ばない規模。
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入門時のエピソード。
与四郎が紹鷗に茶を学ぼうと門を叩いた時、紹鷗は下男に路地を掃除させた上で、改めて与四郎に掃除を命じる。与四郎は、路地には塵一つ落ちていないので、暫く考えた後、傍らの樹木をゆさぶる。はらはらと散る木の葉が掃き清められた路地に落ちて風情があった。これを密に見ていた紹鷗は与四郎の奇才に感じ入り秘訣を授けたと云う。
ちなみに、大正4年、横山大観はこのエピソードを画題として六曲一隻の屏風絵「千ノ与四郎」を出品。
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武野紹鷗邸跡」はコチラ
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・若狭の羽賀寺(勅願所)、明通寺・神宮寺に次いで武田信豊の祈願所となり、武田氏から寺領・諸堂社の供僧・別当職の安堵を得る。
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・ヨーロッパ、ペストが猛威を振るう。各地で労働者の不足から飢饉が発生。激しいインフレ。
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・スペインのコロナード、グランド・キャニオン発見。
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・フランチェスコ・グイッチャルディーニ(57)、没(1483~1540)。「イタリア史」。
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・フランス、ミシェル・セルヴェ、ドーフィネ地方ヴィエンヌでヴィルヌーヴという名で、大司教ピエール・ポーミエの侍医となる。
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1月
・尼子氏の南進に対応して、大内義隆は防府に出陣。3月、岩国に本営を置く。また、同月、義隆は伊予守を許される。村上水軍が尼子方になびき、伊予守受領はこれを押える効果がある。
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ペドロ・デ・バルディビア(イタリア戦役のベテラン、ピサロ腹心)、新たにチリ植民者に任命。兵150率いチリ遠征出発。
アタカマ砂漠を縦断しチリ中部に侵入。コピヤポーでミチマロンコ率いるアラウコ族を破る(「アラウカ」はインカ語で「敵」、インカは勇猛なアラウコ族を征服できなかった)。
1541年、現サンチャゴ市の前身のサンチャゴ・デ・ラ・ヌエバ・エストレマド-ラ市を建設。
1551年、コンセプシオン市を建設。スペイン人の圧政に苦しむ原住民アラウカノ族の反乱でラウダロ酋長に捕えられ、1553年(53才頃)に処刑。
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1月6日
・ヘンリ8世、独クレーヴ公の娘アンと4度目の結婚。半年後離婚。
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宮内庁官トマス・クロムウェルは密かに使者を出し、各国宮廷の后候補を探索。また宮廷画家ホルバインに各宮廷を歴訪させ、后候補の肖像画を集める陽動作戦もとる。
この頃、フランス王と神聖ローマ皇帝は、共に法皇を支持して、イングランドに対抗するという動きを見せる。
イングランドはローマに対抗する大陸諸侯と同盟を結ぶのが良策と考え、その相手にドイツのクレーヴス公を選ぶ。
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2月24日
・皇帝カール5世、ガンの反乱鎮圧。
ガン市民、1536年カール5世のプロヴァンス侵攻の負担金支払い拒否、叛乱、蜂起。
カール5世、首謀者26人処刑と15万フローリンの賠償金を課す。
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3月4日
・天皇、関白近衛稙家を召し、内裏修理につき幕府に申入れる協議。12日、足利義晴に修造命令(「御湯殿上日記」)。13日、幕府は室町第造営中で費用負担できず、近江守護六角定頼と協議。将軍義晴は諸大名に献金上納の触れを廻す。
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3月13日
・フランシスコ・ザビエル(34)、ポルトガル国王ジョアン3世の要請でインドへ宣教に向かうはずの同志が病に倒れたため、ロヨラより代役としてインドへの派遣が命じられ、15日、インド宣教に赴くため、リスボンに向けてローマを発つ。
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3月23日
・ヘンリ8世、ロンドン北東部ウォルサム修道院を解散。
中世以来、英教会の重要な役割を担ってきた修道院が全て姿を消す。
名目は宗教改革の一環、実際は莫大な修道院の財産目当て。
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4月13日
・フィレンツェ、コジモ大公とエレオノーラの間、マリー・ルクレツィア誕生。(42年次女イザベッラ・ロモーラ、43年ジョヴァンニ、44年ルクレツィア、45年アントーニオ、46年ピエロ、47年ガルツィア、49年フェルナンド、54年ピエロ、誕生)
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5月
・織田信秀、伊勢神宮外宮(ゲグウ)仮殿造替費用700貫文を寄進。
これが評価されて、天文10(1541)年9月、信秀は三河守に任ぜられる(伊勢の外宮(豊受宮トヨウケミヤ)社司の記録「外宮引付」)。
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・武田信虎8千、北佐久郡に乱入。佐久郡海の口城(平賀源心、24)に迫る。抗戦強く信虎は退却。
晴信の300、夜襲により占領、源心は没す。武田勢、1日に小城36を攻略。
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5月12日
・管領細川晴元(27)、北野経王堂で施餓鬼を行う。
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5月19日
・将軍義晴、内談衆(義晴の時代には側近衆をいう。本来は訴訟を管理する合議体の構成員)に大津街道の修造を議定させる。
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6月
・犬飼平の戦い。尼子国久らの新宮党3千、備後路より安芸に侵入。毛利元就、五龍城の宍戸元源父子の援けを得て撃退。
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・フランシスコ・ザビエル(34)、6月末リスボン着。リスボン、パルマ、アルメーリンヌなどでの司牧活動。
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6月6日
'・尾張織田信秀、三河安祥城(安城市)を攻略。城主松平長家は敗死。
織田氏は待望の三河拠点を入手、安祥城に信広を入れる。
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6月18日
・英、トマス・クロムウェル、反逆罪で逮捕
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7月28日
・英、ヘンリ8世(49)、キャサリン・ハワード(30歳年下、アン・ブーリン従妹)と5度目の結婚。1542年不貞のため処刑。
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同日
トマス・クロムウェル処刑。ヘンリ8世妃としてグレーヴェ公娘アンを勧めたことを理由とされる。
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8月
・前年末に家督継承した若狭守護武田信豊、代替りに伴う「当御代一度之段銭」(臨時の賦課)を賦課。
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・ジャン・カルヴァン、
ストラスブールで結婚。
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8月1日
・遠江の今川義元、同国浅羽荘を検地する。
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8月2日
・武田信虎、佐久郡海の口郷(南牧村)に伝馬定書を与える(公用伝馬の調達規定、同じ朱印状を持つ者に伝馬利用を許す)。
北佐久郡への侵攻を維持する為の補給路の確保。
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8月10日
・尼子詮久(のち晴久)、出雲・因幡・備前・美作・備中・安芸・石見など8ヶ国半の軍3万率い、月山富田城を出陣。16日、大内義隆の所領の石見銀山を侵略。
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8月23日
・フランスのユマニスト、ギョーム・ビュデ、没。
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9月
・幕臣伊勢貞孝邸での楊弓の会に参会した大野郡司朝倉景高(孝景の弟)と奉公衆の本郷常陸介、将軍義晴の怒りに触れ出仕停止の処罰を受ける。
これを喜ぶ朝倉孝景は、朝廷へ御所修理料100貫文、将軍家へ50貫文を進上して景高追放を幕府へ願い出る(「大館常興日記」9月23日条)。
孝景・景高の不和。
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・神聖ローマ皇帝カール5世、ミラノ公領を帝国封土として王子フェリペに与える。
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9月4日
・鎗分・太田口の合戦。
石見路より侵入し安芸多治北(広島県吉田町)に集結した尼子詮久軍3万、毛利氏のゲリラ攻撃を払いながら毛利元就居城郡山吉田城を包囲、城下に迫る。(翌天文10年1月迄、池の内合戦ほか激戦数次。)
12日、最初の攻撃開始。尼子軍は一方的に敗れ、指揮官本城信濃守や高橋元綱ら討死60人以上の大敗。
23日、尼子軍、本営を風越山から吉田城近くの青山三塚山に移す。
26日、池ノ内の合戦。
尼子軍、毛利方に与する安芸・備後の国人衆を掃討すべく兵1500を湯原弥二郎につけ(広島市坂方面に)出撃。坂を守備する小早川興景、尼子勢を迎撃、これを破る。
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9月23日
・能登守護畠山義総、6代将軍義教百年忌の仏事銭50貫は納めるが、禁裏修理料は出せないと申入れ。翌々日、伊勢国司北畠具教も禁裏修理料は出せぬと申入れ。
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9月27日
・長尾晴景、上杉定憲や長尾長房ら一族の内訌収まらず、父為景に倣い治罰綸旨を発給される。奏者の父広橋兼秀は「私敵治罰綸旨」と呼ぶ。「朝敵」とは見なせず。
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9月27日
イエズス会創設正式許可
対抗宗教改革運動をすすめている教皇パウルス3世、イグナティウス・デ・ロヨラの請願を受けイエズス会の創設を正式に許可。但し、会士は60名以下という制限。
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10月
・橋津川の戦い。
南条宗勝(大永4(1524)年5月尼子経久の城を奪われる)、経久の子国久が守る羽衣石城奪回のため因幡山名氏の重臣武田常信を総大将として兵6千で尼子方の河口城を陥れ馬の山に布陣。
尼子晴久に従い安芸吉田城攻め参加の国久6千は、急遽引き返し橋津川西岸に布陣。
渡りロに向った武田常信の本隊は、尼子国久の子豊久を討取るものの、尼子勢に破れ、常信は上橋津西の上のスクモ塚で自刄。南条宗勝は橋津橋に進撃するも、橋が落ちて川に転落、混乱のうちに敗退。
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この後、南条氏は尼子氏の衰運に乗じて羽衣石城を奪回、毛利氏に協力して尼子氏討滅に尽力。
永禄9(1566)年11月尼子氏滅亡後は毛利氏に属し、吉川元春の下に尾高城(米子市)の杉原氏と伯耆を東西二分して支配。
しかし、天正3(1575)年南条宗勝が尾高城からの帰途急死し、杉原氏が毒殺した疑心から両家は反目。
吉川氏は、馬の山・茶臼山を直轄とし、杉原盛重を尾高城から八橋城に移し、由良城及び泊の河口城に杉原氏縁者を配置する等南条氏抑圧路線をとる。
天正6(1578)年南条元続は織田氏に誼を通ずる。
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10月4日
・大内軍総司令官陶隆房(のち晴賢)、警固船200余で厳島に参詣と称して渡り、祠官棚守房顕の座敷に一泊して毛利氏の吉田城救援に向う。祠官棚守は9月末、毛利元就の御師(祈祷師)に任命。他の祠官の旗色は不明。
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内海水軍の多くは尼子方に傾き、両軍最前線に近接する厳島神社は困難な立場に陥る。
厳島神社神主友田興藤は大内被官であるが、大永3(1523)年の尼子・大内の衝突では尼子に寝返る。
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10月6日
・茨木長隆、興福寺の訴えにより、池田筑後守に宛て奉書を下し、被官の摂州下郡桜井御政所職押領停止を命じる。
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荘園制を否定し、戦国大名を目指して権門と戦う摂津国衆と細川晴元・茨木長隆の荘園領主保護政策の矛盾。摂津国衆の間で荘園制維持を巡り急進派と漸進派との分裂が生じる。
池田氏を中心とする急進派は、摂津越水城(西宮市)城主三好長慶に援助を求め、細川氏綱を擁立しようとする。
晴元・氏綱の細川両家の分裂が再燃し、長隆により父(元長)を謀殺された長慶との管領代を巡る権力闘争となって現れる。長慶は、反茨木派の摂津国人糾合に成功。
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10月11日
・青山土取場の合戦。
新宮党(尼子軍)の尼子誠久ら、大兵力で郡山城下に迫り、民家に火を放ち猛攻。
毛利元就は、篭城の基本方針を大転換し撃って出る。元就は尼子詮久本陣まで迫り白兵戦。
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10月11日
・夜、厳島神社祠官棚守房顕、大内義隆の岩国本営に赴き義隆に面謁。
28日、前年春着工した厳島神社外宮宝殿が10月竣工し、この日遷宮式。
神領内の内紛を恐れ、神主友田興藤は社参せず。神事は棚守氏が主導。
尼子氏と大内・毛利氏が共に参加する形で奉幣が行われる。翌年正月、友田は再び尼子方に寝返る。
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10月20日
・北条氏綱、八幡宮(戦乱で荒廃した東国武士の精神的支柱)の正遷宮を挙行 。
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10月30日
・幕府、京都梅畑郷に対して用木賦課を停止(「梅畑村共有文書」)。
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11月9日
・安芸の武田信実、尼子詮久の援助を受けて毛利元就兵と般若谷に戦い、敗れる。
大内義隆、毛利元就の戦功を大いに賞する。
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11月22日
・三好長慶(19)、丹波八上城主波多野秀忠の娘を妻に迎える。
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11月26日
・毛利元就への大内義隆の援軍1万、山口進発。総大将は陶隆房。12月3日、吉田に来着。
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11月29日
・武田信虎、3女(晴信の妹)禰々を諏訪頼重(頼満の孫)に嫁がせ同盟強化を図る。12月17日、信虎、頼重の館を訪問。
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