2009年9月9日水曜日

昭和12(1937)年11、12月 南京戦中の日本(5) 女子労働者の急増 労働争議は影を潜める 満鉄、北支開発に食指を伸ばす 日本の経済界は北支から全支への進出を目指す

南京戦中(昭和12年11月~12月)、日本国内で何が進行していたのか(一言で云えば、思想、教育、政治、娯楽などあらゆる面での「総動員(体制)化」の進行)、当時の新聞記事によって見てゆく。
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1.11月29日 東京都下の女子労働者数が急増し15万人となる
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「東京日日」29日付。
(見出し)
「軍需工場も彩る 都下の女工十五万 労働史上・空前の盛観」。
(記事)
「支那事変勃発以来、帝都を中心に各工場に働く女工さんの数は鰻上りに増加しつゝあつたが、最近警視庁工場課が調査したところ、管内の女工数は実に十五万人を突破する盛観である、これを昨年十月の女工数八万五千名と比較すれば実に六万五千名といふ驚くべき激増振りで、わが労働史にかつてない女性の産業戦線進出である、
警視庁ではかく女工が激増したのは異常の活況を呈しつゝある軍需工場街が求めて得られぬ男工に代って新たに女軍を大量動員しつゝある結果で戦線に夫を送った主婦や、結婚難に陥った女性が怒涛の如く工場に応募したものと見てゐる、
即ち警視庁管内の工場法適用工場一万四千五百工場中女工を採用してゐない工場とては殆どなく従来女軍は締出しの形であった特殊軍需品工場でさへ進んで女工を募集、磨き工、仕上げ工等に採用してゐる有様である
、警視庁ではこの新情勢に応じて事変終了後の女工軍の動向につき研究を重ねると共に女工は男工と異なり、家庭に乳幼児を残してゐるものや、将来母性として第二の国民を育成しなければならぬ点に鑑み、保健上特に留意し対策を練ることに決定、各工場につき調査を開始した」。(改行を施す)
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2.12月10日、労働争議が影を潜めるとの報道
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「国民新聞」10日付。
(見出し)
「労働界に示唆 影を潜む賃上げ闘争 係官も嬉しい手プラ」。
(記事)
「支那事変を機にわき上った全国民の愛国の至誠はあらゆる階級闘争あらゆる対立抗争をすっかり吹き飛ばしたヾ一筋に戦勝に向つて集中、今更乍ら「皇国日本」の感銘を深からしめてゐる、殊にその中でも著しいのは本年初頭から事変直前まで全国を風靡してゐた賃上げ闘争が全く影をひそめた事で内務省社会局はじめ各関係官庁では「嬉しい手持無沙汰」を卿っている状態にある、
試みに警視庁管下を調べると
昨年後半期だけで百七十件余、参加人員六千余に達する争議を見たが事変下の本年後半期には労働闘争と名のつくものは一件もなく労働闘争の程度に至らず紛争の程度で感嘆に解決したものが僅かに百二十余件、それも主として時局産業に取り残された産業部門の待遇改善によるものが大部分で
中には紛議によって得た手当の中から皇軍慰問費や国防献金を差し出したもの、紛議発生と同時に解決し報告を受けた調停課でも面食ふという有様で今後の労働行政上何ものかを示唆するものとして当局を感心させてゐる、
この喜ばしき現象に対して警視庁では
(一)労資両者共時局認識に立ち相互に無理な要求を出さなかった
(二)加盟労働組合でも従来の闘争第一主義を放棄し産業報国の立場から不拡大解決に専念したこと(三)その結果、警視庁の斡旋を受け入れ、罷業怠業等の最後的手段を採らなかったこと
等の結果によるものと見てゐるがやがて来る可き事変の労働問題解決のためもあり労働課並に調停課では紛議の発生原因、解決の動向に多大の感心を払い詳細な調査を進めてゐる」。(改行を施す)
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3.11月18日、満鉄、北支経済開発に進出するための運動を展開
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「東京朝日」18日付。
(見出し)
「北支進出を目指し 満鉄 俄然猛運動 鉄道、炭礦の担当主張」。
(記事)
「支経済開発問題は戦局の急展開によりこれが根本方針の確立とその急速なる具現はいよいよ焦眉の課題となり、その衝に当るべき企画院においてはさきに現地調査に派遣した田中調査官の帰任を得て北支対策委員会で本格的討議に附する段取となったが、今日最も論議の焦点となった北支経済開発機構問題に関しては所謂松岡総裁意見書を提出することにより逸速く中央に働きかけた満鉄が、其後満洲重工業会社設立を繞る重大情勢の変化に遭遇し、今や北支経済開発問題の成行如何は満鉄の浮沈を決する死活問題として取り挙げ、重役団及び十万社員が結束して中央に死物狂ひ運動を展開せんとするに至って、・・・大勢はこの際満鉄の全面的北支進出の貫徹を以て満鉄に残された唯一の活路であるとの新念は益々固く本月当初来殆ど連日重役会議を開いて協議した結果漸く社議決定、関東軍方面に一応諒解を得たので、いよいよ中央に猛運動を展開すべく、十七日空路奥村産業部次長の入京を先発に、十八日宇佐見中西両理事、宮本東亜課長、高田監理課長等は飛行機を借り切って入京、更に松岡総裁も廿日頃には東上する予定で、満鉄関係首脳部はこゝに全部東京に集合し政府要路と折衝を開始することなった。
而して今回中央に携行する北支開発案はさきに提出せる松岡意見書に対しその後の情勢変化を織り込み相当変更を加へた実際的開発案で、北支における鉄道並びに基本産業としては少く共炭坑を不可分的に満鉄の経営に委ぬべしとするものである、・・・尤もかゝる満鉄側の運動に対し中央においては政府並びに財界方面で各種の批判的意見が根強く蔵されてゐることは勿論であるが政府においても遅く共議会開会迄には最高方針を決定、各方面からの具申案に最後の断案を下すことになるものと観られる」
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4.12月11日、・南京陥落は、日本の経済界が「北支」から「全支」に視野を広げる見通しを与えるとの報道
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「東京朝日」11日付。
(見出し)
「南京陥落に財界明朗 『北支』より『全支』へ 我経済工作の新視野」。
(記事)
「支那事変は究極的意義において、日支経済提携の確立と、これに基く支那経済開発に重点が置かれてゐることはいふ迄もない、従ってわが財界は、七月八日端なくも盧溝橋に事端が発生し、政戦は破竹の猛勢で全支に展開されて以来事態がその全面的具現を許す段階に到達する日を只菅に待望してゐる訳であるが、南京陥落はその漠然たる待望に若干の具体的可能性と模糊ながらも一定の見透しを与へる一段階を画したことは争へない、
支那経済開発は、戦果が急速に収められて行った北支について早くも論議の対象に採り上げられるに至ったが、今日尚根本的論議の域を脱し得ないのは、経済開発方略が結局において依拠すべき新生支那の政治形態に関する確たる方向を捕捉し得なかったことに大部分原因するのであって、いま財界は南京陥落の報を手にし、その政治機構の方向はこゝに大体決したものと観測し、その下に自ら落着くべき日支経済提携の方式を描いて、今後の具体的活動に迄入らんとする準備に取りかゝつた
それは要するに極く最近まで経済的にも単純なる地方的概念の匂ひが強かつた北支は、今次の南京陥落---国民政府の地方政権化に伴って中南支も包摂した全支的北支に内容的に発展したと考へられるやうになったことで、今後の経済工作はこの線に沿うて推進されることは間違ひない
かくして支那経済建設の基礎的条件と言ふべき鉄道、通信、航空、海運等の交通の再建は、この際最も急を要する課題であって、これが経営の機構は日本、満洲国との緊密なる結合の下に北支並に中、南支を統一せる全支的規模において確立されなくてはならない
かゝる交通機関の整備の上に先づその疎通が約束される日支間の物資移動について見れば北支の地位は支那全体から見て案外低位にあることは例へば昨年度におけるわが対支貿易額三億一千四百五十二萬九千円の中北支の占むる部が一億二千九百七十五萬九千円に過ぎない事を以て分明するが、南京陥落による中支の制覇は同方面におけるわが貿易を決定的優位に置くことになることは疑ひない
同年度におけるわが対中支貿易額は一億六千八百七十五萬二千円であって、北支貿易を遥に凌いでゐるが、上海付近における戦禍による荒廃と南京政府軍の長江上流隣居によって上海貿易は一時的には往年の盛況を喪ひ又一部を香港-広東ルートに奪はれることによって支那貿易の地域的分布に多少の変化は免れないかも知れない
しかしながら長江流域の物資集散が揚子江といふ天与の経路を避け人為的にこれを香港-広東-漢口ルートその他に永きに亘って変更し得る筈がないので、わが方の協力による上海復興プランの実行と共に長江貿易は光明ある前途を約束されてゐるものと一般には観てゐる
列国の対支投資額はレーマー氏調査による一九三一年度において三十二億四千二百五十萬米ドルとなって居り、その内我国は十一億三千七百萬米ドルとなってゐるが、これにはわが対満投資が包含されてゐる、従ってこれを除外した支那本土への投資において紡績がその首位にあることは言ふ迄もないがこれを地理的分布について見ると上海は全支日本人紡績の精紡機の七一パーセント、機械は六五パーセントを占め最近天津方面におけるわが紡績の目覚しい進出を以てしても上海の圧倒的地位を揺すことは困難であって江南明朗化の日は上海における百卅萬余の紡機が一斉に動き出す時なのである
上海を舞台にして鮮かに今日まで築かれて来た浙江財閥と欧米資本との癒着が今や南京、上海から青天白日旗の影を没した今後如何なる運命を辿るかは最も興味あるところであるが、この際むしろ日支協力の下、合理的基礎の上にこれら欧米資本をも適宜包擁して新生支那建設が推し進められるべきである」。
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