2009年9月1日火曜日

昭和12(1937)年12月 南京戦中の日本(4) 反戦的・卑猥な映画自粛 映画上映時間制限 新協劇団転向「報道」 「太陽のない街」絶版宣言 中野重治ら執筆禁止

南京戦中(昭和12年11月~12月)、日本国内で何が進行していたのか(一言で云えば、思想、教育、政治、娯楽などあらゆる面での「総動員(体制)化」の進行)、当時の新聞記事によって見てゆく。
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1.12月4日、警視庁と興業界との懇談会
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「国民新聞」5日付。
(見出し)
「国民精神総動員の秋 興行界も九十度の転向 昨日警視庁で業者側と懇談」。
(記事)
「国民精神総動員の秋、警視庁が積極的に乗り出して一肌脱がうと云う懇談会が四日午前十時から警視庁保安部興行係特別室で開かれた
出席者は東宝吉岡社長、松竹井上支配人、吉本興行支配人、内務省館林事務官、東京府廣橋地方課長、それに警視庁側の松澤保安部長、田中同課長等十余名で国民がピーンと張りきってゐる時局に、今後は映画演劇方面でもなるべく反戦的なものや卑猥なものは考慮して欲しいと希望、業者一同も当局の意のあるところを諒とし、今後は専ら演劇報国に直進することになり上演、上映に当つても九十度の一大転向を示さうと云ふことになった、なほ警視庁では六日更に浪花節、落語など色物演芸の人々とも同様懇談を遂げる筈である」。
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2.12月7日、内務省、活動写真の興業時間(3時間以内)・フィルムの長さを制限
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(見出し)
「映画館にも時局のあらし 区々の上映を短縮 一律に三時間制 二月一日から実施」。
(記事)
「時代の寵児映画の統制について研究中の内務省では現在四時間から六時間にわたってゐる映画の上映時間を全国一律に三時間以内(映写フイルム五千米以内)に制限することに決定、一両日中に「常設興行場における映画の興行時間は一興三時間以内とす」との単行省令規則を公布し来春二月一日から全国一斉に実施することになった、
この時間の短縮のねらひは現在映画興行は一興行四時間乃至六時間位に及んでゐるので、九巻物位のものを三本乃至五本を映写せねはならぬことになり、興行者も経済的に楽でないがそれと同時に映画製作会社もフイルムの配給が間に合はぬので粗製濫造をやることになり低調な映画が頻出することになる
そこで時間短縮によって配給を緩和し実の良い映画を製作させると同時にまた興行時間の短縮によって公衆の保険衛生上の効果をもねらってゐる、
しかしこの時間短縮は映画製作会社に対して映画配給を楽にしてやることになるのでその結果会社はそれをいゝことにして今まで通り安物映画を作って金もうけをやらうといふものがないとも限らぬので一方においては検閲標準を高めて営利一点張りの低調な映画に対しては不合格処分に付する方針である

また一年に一二回しか映画が見られない農村地方における小屋掛けの映画興行についてはそんな機会にたっぷり楽しませるために長時間興行を特に許すことになってゐる」(改行を施した)。
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3.12月25日、「新協劇団」転向の報道
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「読売新聞」25日付。
(見出し)
「新協劇団遂に転向す けふ警視庁で左翼清算の懇談」。
(記事)
「わが国唯一の進歩的左翼系劇団として築地小劇場を本拠に華やかな活躍を続けてゐた新協劇団を滂湃たる非常時のいぶきにかねてより百八十度の転回へと画時代的な動きを見せ幹部間で寄々議を進めてゐたが廿四日午前十時同劇団幹部村山知義、長田秀雄、瀧澤修、松本良吉、仁木獨人の五氏は警視庁に出頭、特高一課安斎警部、木村警部補と特別応接室で会見し、同劇団今後の新方針につき種々懇談を遂げた
同劇団はプロット時代からの左翼意識を漸次精算しつゝ大劇場進出を目指して進みつゝあったもので、今回当局との懇談を契機として完全にイデオロギーを洗い落して純文化劇団として再スタートするものと見られる、かくて新生第一歩の正月興行は藤村の〝夜明け前″一本で四十日間のわが国最初の長期興行をすることになってゐる
おそらくこれが機縁となって左翼イデオロギーの諸文化団体の転向は必至とならう
再批判の秋 村山、滝沢両君談
村山、瀧澤両氏は懇談後警視庁で語る
新協は従来左翼劇団として活躍して来たが、戦時国家の大方針に従って進んで来てゐるので今から急に転向したといふのではない、一般左翼といへば悪い意味に解釈されるが私たちが今度左翼とか右翼などゝいふ観念を除いて文化的にいゝ意味の劇作を上演しわが国文化面の再批判をしようと思ふ、今後の上演ものは明治維新の社会面から取材したものを上演し国策に副ひ且つ純芸術的な仕事をしたいと思ふ」。
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4.12月26日、徳永直、「太陽のない街」他の絶版を宣言
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「読売新聞」26日付。
(見出し)
「『太陽のない街』其他著作 絶版を宣言 徳永直氏が大転回」。
(記事)
「日無一派の左翼陣営総検挙を機として左翼系代表的新劇団「新協」の自発的転向申出でなど時代の大きな転回が文化面に最も赤裸に現はれてゐる折からプロ文学一方の雄徳永直氏が左翼物華かなりし頃プロ小説の代表作として洛陽の紙価を高からしめた『太陽のない街』『失業都市東京』他数種の著作について各出版元に対し絶版を申し渡し更に『太陽のない衝』は英、佛、獨、露、支、エス等各語に翻訳され、その他の著書もいづれも二三ケ国語に翻訳発行されてゐるのに対して、出版当時と今日の一般現実は全く時代を異にしこれら著書の内容が今日の日本の一般現実である如く誤解されることを惧れて国際ペンクラブを通じて廿五日付で絶版の宣言を発表した」。
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5.12月27日、内務省警保局、中野重治、宮本百合子、戸坂潤、岡邦雄、鈴木安蔵、堀真琴、林要に執筆禁止措置。
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「一九三七年十二月二十七日、警保局図書課が、ジャーナリストをあつめて懇談会を開く。
その席上、ジャーナリストが自発的に執筆させないようにという形で、執筆禁止をした者、作家では中野重治、宮本百合子、評論家では岡邦雄、戸坂潤、鈴木安蔵、堀真琴、林要の七名があった。
益々その範囲を拡大するという風評と図書課長談として同様の意こうの洩されたことは、事実指名をされなかった窪川夫妻などの執筆場面をも封鎖した結果になっている。
一月十七日中野重治と自分とが内務省警保局図書課へ、事情をききに出かけた。課長は数日前に更迭したばかりとのことで、事務官が会う。
大森義太郎の場合を例にとって、何故彼の映画時評までを禁じたかという、今日における検閲の基準を説明した。それによると、例えば大森氏はその時評の中に、日本の映画理論はまだ出来ていない、しかしと云ってプドフキンの映画理論にふれている。大森氏がプドフキンという名をとりあげた以上、それは日本にどういう種類の映画理論をつくろうとしている意図かということは 『こっちに分る』 のだそうである。
又、同じ映画時評の中に、ある日本映画について、農村の生活の悲惨の現実がある以上それを藝術化する当然さについて云っているが、これは、悲惨な日本の農村の生活は『どうなれば幸福になれるかと云っているのだという意味がある』。従って映画時評であっても人によっていけないというわけで云々。
『内容による検閲ということは当然そうなのですが、人民戦線以来、老狡になって文字づらだけではつかまえどこがなくなって来たので・・・』云々。『一番わるく解釈するのです』 本年は憲法発布五十年記念に当る年である。二月十一日には大祝祭を行うそうである。その年に言論に対する政策が、一歩をすすめ、こういう形にまで立ち到ったことは、実に深刻な日本の物情を語っている。常識の判断にさえ耐えぬ無理の存在することが、執筆禁止の一事実でさえ最も雄弁に告白されているのである」」(宮本百合子「一九三七年十二月二十七日の警保局図書課のジャーナリストとの懇談会の結果」、改行を施す)
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この時、中野重治と宮本百合子は中島健蔵を訪ねるが、よい知恵は出ない。こうして、執筆禁止措置は、抗議も出ぬまま既成事実化される。
宮本百合子の覚え書の末尾。「文藝家協会へ行って様子をきいて見た。予想どおりである。大体今回の執筆禁止は文壇をつよく衝撃したが、全般的にはどこやら予期していたものが来た、その連中はやむを得まい、却ってそれで範囲がきまってすこし安心したような気分もあり、だが、拡大するという威嚇で、やはり不安、動揺するという情況である。文章家協会の理事会は、その動揺さえ感じない、益々わが身の安全を感じて安心している種類らしい。従って、生活問題としても、はっきりそれをとりあげる気組みは持っていないと見られる。文学者の問題として声明を発表するなどということは、存じもよらぬ程度である」。
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中野重治の北川省一宛て葉書、
「小生は去る十二月二十七日午後を以て一切の新聞雑誌に一切のものの執筆を禁止されました。小生の文筆業もここにひとまず終りを告げたわけです」(日付けなし、消印不明、年末~年始と推定)。
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