2009年9月19日土曜日

天文14(1545)年 信玄の再度の伊那侵攻 三条町の相論 第2次河東一乱(義元、駿東・富士2郡を回復) 織田信秀の三河進出 [信長12歳]

天文14(1545)年 [信長12歳]
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この年
・ポトシ銀山発見。
スペイン、ボリビア高地ポトシで新大陸最大の銀鉱脈発見。
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ペルー副王トレドの3大政策
(①ワンカベリ水銀鉱山の購入と独占(1570)、
②水銀精錬法導入(1574)、
③ミタ制という原住民の徴用制(1720年廃止))のもとで、1570年代中葉以降「ポー時代」と呼ばれる一時代を画す。
16世紀末のポトシ市人口は16万人で、メキシコ市を凌ぐ新世界最大の都市という。
ペルー副王領産銀はスペイン本国に送られる貴金属の2/3以上を占め、初期の金銀比率を逆転させ、銀の比率を99%に高める。
この莫大な銀の流入はヨーロッパに1世紀以上に渡る物価騰貴(超インフレによる価格革命)をもたらし、それに伴う企業者利潤の増大が資本の蓄積を容易にし、来たるべき資本主義体制への移行の基盤を築くことになる。
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・~1564、皇帝カール5世、ネーデルラントでの新教徒弾圧を強化。
「32ヶ条の布告」(カトリック公認教義の大略を示すた)。「禁書目録」。
1521年以来手段を問わない異端排撃(ドイツと異なり最初から強硬な態度で臨む)。1529年には検閲強化、聖書についての議論を禁止、異端者を匿うことを禁止。
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1月
・駿河臨済宗の禅僧太原崇孚(タイゲンスウフ、雪斎)、天皇より京都妙心寺の居公文(イナリノクモン、赴任しないで辞令だけを受ける住持)に勅請される。今川義元の軍師。
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1月5日
・山科言継、従二位に昇叙。
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1月20日
・古河公方足利晴氏、下総国の法華経寺を諸法華宗の本寺とする。
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2月6日
・山科言継、廬山寺(上京区廬山寺通大宮西入ル付近、天正移転後は同区寺町広小路上ル)の懺法講(「言継卿記」同日条)、千本遺教経(「同」2月9日条ほか)の聴聞に出かける。
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3月13日
・山科言継、恩人の後白河上皇の祥月命日にあたり、長講堂に参詣、陪膳にあずかり、後白河院ゆかりの法住寺・蓮華王院などへ参拝(「言継卿記」同日条)。例年の恒例となる。
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3月16日
・今川義元(27)、北条氏康(31)と狐橋で合戦。
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3月26日
・京都、誓願寺の梵鐘を北野経王堂で鋳造するというので混雑を極める。
「誓願寺の鐘、北野経王堂にて鋳るの間、予・・・同道し見物に参詣す。都鄙の貴賎男女道を去らざるなり。何万人とも数を知らざるなり。」(「言継卿記」同日条)。
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4月
・肥後の相良長唯が宮内少輔に、子の為清が右兵衛佐となる。
兵衛佐は頼朝の初任された官職、室町期でも管領及び足利一門に限られていた。官位インフレ進む
しかも、相良父子任官の口宣案を太政官弁官局の官務(事務次官)を掌握する下級公卿(大宮家)小槻伊治(オヅキノコレハル)が勅使として携帯し肥後に下向。
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官務職は壬生・大宮の両小槻家が数年交替で勤めることになっているが、大宮家の家計は窮迫、壬生家が官務を勤める間、伊治は周防の大内氏を頼り山口に在国(公卿が田舎に流遇すること)。伊治の娘は義隆の妾となっており、伊治は義隆の岳父である。
相良長唯に第12代将軍義晴の一字(偏諱)を拝領させて義滋と改名させ、宮内少輔に任ずる案は義隆が仲介したもので、交渉過程で大宮(小槻)伊治の肥後下向となる。
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4月2日に口宣案は発給。
5~6月頃、伊治は京都を出発、夏の間は山口に滞在し、和歌・蹴鞠の授業料稼ぎなどを行い、10月24日、ようやく伊治は肥後に向かう。
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勅使の肥後下向の噂は、10月末には九州各地に聞こえ、肥後北辺の土豪菊池義武は10月29日、長唯へ宛てて「御面目に候」と、肥前の有馬晴純も11月21日、「御面目の至、珍重に候」と祝福。
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11月27日、伊治は肥後徳淵湊(八代市球磨川河口)に到着。
翌日、長唯は家宰稲留清右衛門を接待使として派し、伊治を八代城下の立城寺へ案内し「風呂会釈(入浴の饗応)」を行ない、その後東泉寺を勅使旅館として接待させる。
11月29日、長唯自ら東泉寺へ出向き、伊治を八代城の居館に招じ、12月2日、伊治は城中で口宣案を長唯に渡す。
長唯は近江守から従五位下宮内少輔に、嫡子為清は従五位下右兵衛佐となり、別途将軍からの偏諱によって、長唯は義滋、為清は晴広と改名。義滋には朝廷から従五位下の礼服(衣冠束帯)が授与される。
翌3日、義滋・暗広父子は東泉寺に出向き改めて勅使伊治に御礼を言上、5日には城下荘厳寺にて伊治を饗応。
翌6日は、義滋は下賜の装束に着替え、城下の鎮守の白木妙見社(八代市妙見宮)に参拝、帰途東泉寺に立ち寄り伊治と歓談、9日は再び城内に招待して最後の酒宴。
義滋は官位拝受と勅使饗応を通じ、城下に対する示威行動を十二分に誇示できた。
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伊治は相良家に対し、朝廷・幕府への礼物の指南を示す礼物注進状を示達。
それによれば、天皇へは銘物の太刀1腰と馬代3貫、口宣案の礼銭30貫、「このほか御進物、御随意たるべく候」(相当額の名産などを献上するよう仄めかす)。その他、伝奏・上卿・職事以下への礼物見積りも細々記し、斡旋した大内氏への礼物も「御意に任さるべく候」と念を入れる。
伊治個人は、京都から持参の茶を相良家へ贈ったのみであるが、相良氏からは太刀1腰、馬1疋、漆2桶、茶道具一式、白鳥1翼1双など多くの引出物をせしめる。
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12月14日、徳淵湊を出帆、義滋父子はこれを見送る。同日夕三角浦(宇土半島先端)に入り、翌日有明海を横切って島原湊に到着、ここで3日間風待ちの滞留。島原より有明海を北上し、17日晩に竹崎(佐賀県太良町竹崎)に到着。風波が強く数日逗留。22日、藤津(佐賀県太良町)を発して陸路山口に向かう。
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こうして伊治の九州旅行は終るが、相良の国許では、翌天文15年正月16~20日、八代城下で「侍中ならびに寺社・山伏寺」において「御祝」(官位の祝典)。正月23日、義滋は球磨川を遡り人吉城でも「御祝」。4月21日、義滋が八代へ戻る。また、4月4、5日は、八代と人吉で官途を記念した千部経会が行なわれる。
相良氏の叙位任官は文書・記録とも豊富に残っていて、戦国大名が天皇の権威を領民にどのような手段で誇示し、宣伝したかを詳細に知ることができる。
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4月
・フランシスコ・ザビエル(39)、サン・トメ(インドの南東側)に滞在。
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4月5日
・フランス、勅令による異端者弾圧。16日、南フランス、プロヴァンスで、ヴァルド派の大量処刑。エクス・アン・プロヴァンス高等法院議長メニエ・ドペード指揮軍隊、リュブロンの24ヶ村を襲いヴァルド派3~4千人虐殺。1月1日メランドル勅令(1540年発令)執行許可を国王より得る。2月13日エクス到着。4月12日国王の許可を高等法院に提示。4月16日~5月5日、歩兵4千人・騎兵100人が急襲。
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4月11日
信玄の再度の伊那侵攻
武田晴信4千、高遠攻略出陣。14日、上原城着。15日、諏訪郡杖突峠より高遠城包囲。17日、高遠城を攻略。高遠頼継、逃亡。20日、武田晴信全軍、福与城(藤沢頼親、1,500、前年降伏後に叛く)攻撃に向かう。包囲攻撃中に、5月20日、藤沢頼親の義兄(信濃守護)小笠原長時、後詰行動を起こして龍ヶ崎城(辰野町)に出陣。22日、今川・北条の援兵300、晴信陣着。
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4月23日
・山科言継、副業の財源稼ぎのため、漢方の百草黒焼き薬を製するため吉田山で薬草を採取し、吉田社神主吉田兼右邸に1泊。帰りにも鴨川原で薬草採取草(「言継卿記」4月23、24日条)
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5月
・フランシスコ・ザビエル(39)、マラッカへ渡る。
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5月24日
・細川氏綱方の上野元全が山城南方の井手城を攻撃したため、この日、細川晴元、山城宇治に出陣。25日、山城宇治に細川氏綱軍を破り、田原郷を焼き打ち。26日、細川晴元の部将三好政長と三好長慶、山城大鳳寺に陣を張り放火。京都石田伏見を却掠し、醍醐山科へ矢銭を賦課。
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山科言継が記す晴元軍の編成。
「京兆(晴元)宇治俵(田原)退治たりと云々、今暁月出に発向すと云々、今日宇治・山城辺逗留、明日俵へと云々、三吉(好)孫二郎(長慶)千五百・香西与四郎五百・柳本又二郎三百・池田筑後守千五百・三宅---五百・三吉甚(神)五郎(政長)入道三百・伊丹三百・多田塩川百・山城諸侍四千・播州明石・串(櫛)橋両人七百・河内野尻五百・大和衆五百・江州青地・下笠・馬淵・勢田・山岡以下一万計立つと云々、今日山城の寺田退治すと云々。」(「言継卿記」3月24日条)。
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晴元政権の軍勢動員範囲(勢力圏)。
山城を中心に、大和・丹波(香西・柳本の軍)・摂津・河内・南近江・東播磨・和泉が畿内政権の最大勢力圏といえる。このうち、長慶の指揮下に入ったのは直系軍1,500のほか、池田筑後守1,500、三宅某500、伊丹300、多田塩川100の計約4千とみられる(晴元軍1万中に長慶の兵が4千)。
この行軍表に隠退した筈の三好神五郎入道政長が入っており、摂津国衆を長慶と政長が取り合いする形勢が推測できる。
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「今日宇治俵へ発向、甚五郎人数八十人計り討ち死すと云々。」(「同」25日条)。諸勢は残敵を掃討しつつ宇治田原(京都府綴喜郡宇治田原町郷之口付近)を放火して引き上げる。「帰陣の衆宇治辺・木幡・石田・伏見辺悉く乱妨すと云々。名字の地の辺は矢銭懸くと云々。二万疋計り出すと云々。醍醐・日野・勧修寺同前と云々。今日各帰陣す。」(「同」28日)。
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山科七郷には矢銭2万疋(200貫)が賦課され、山科家雑掌の大沢氏らは金策に奔走。
矢銭を拒んだ宇治・木幡・岩田・伏見(殆ど摂関家領)辺は、軍兵の掠奪と乱入にさらされる。
細川軍は軍隊を動かす毎に放火で脅迫し、諸郷に礼銭・矢銭を賦課していたと推測される。
このような財源調達方式は反面、彼らが荘園制依存から脱しきれていないことを物語る。
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■この頃の三好長慶の位置
太平寺の戦いで木沢長政が亡んだ後、幕府内の公事(裁判関係)は政所執事伊勢貞孝、軍事は三好政長・三好長慶が大きな位置を占める。また長慶は、太平寺戦いの前に丹波八上城主波多野秀忠の娘と婚を結び、摂津の北方の安全とした(のち離縁)。
天文11年末、細川氏綱(木沢長政に殺害された細川尹賢の遺子)が和泉堺で挙兵し、細川高国の跡目と称し幕府に叛旗を翻す。
氏綱は高国の残党、木沢の残党、紀伊根来寺衆徒らを糾合し、和泉の槙尾寺(西国三十三番の札所)に籠城するが、和泉守護細川元常麾下の松浦興信らの奮戦によって堺からは撃退される。この時、長慶は晴元の軍勢催促を受けて、堺へ出陣。
この年10月にも、興信らは氏綱勢を和泉菱木(現、堺市菱木)に破り、氏綱軍は和泉山間部に逃亡するが、この後もしばしばゲリラ戦により蠢動をくり返す。
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天文13~15年頃は、長慶はあたかも晴元の走狗のような役割を黙々と演じるが、その間に、長慶の軍事的才幹はとぎすまされ、畿内国人の間に大きな声望と勢威をかちとり、急速に戦国大名としての地歩を堅めていく
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6月1日
・武田晴信、板垣信方に命じて信濃守護小笠原長時の拠る龍ヶ崎城を落とす。藤沢頼親支援の小笠原長時、引上げ。10日、武田晴信・藤原頼時和議。11日、頼親、弟を人質に出し再度降服。13日、武田晴信、塩尻に兵進め小笠原領地を蹂躙(信濃府中に乱入し、放火)。17日、甲府凱旋。
上伊那郡域が信玄支配領域となり、高遠城を拠点とした伊那郡支配が始まる。
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6月11日
・京都、三条町の相論
京都祇園御霊会で三条の町衆が喧嘩沙汰により山鉾警固衆を勤める幕府の小舎人雑色を殺害。細川晴元の内衆(茨木長隆配下)が三条町を焼き討ち。
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立腹した足利義晴は高倉永家、政所執事伊勢貞孝、侍所開闔松田盛秀、神祀大副吉田兼右、山科言継らに人夫徴発を命じ、6月16日を以て三条一町に発向しようとする(「言継卿記」6月14日~16日条)。
人足調達は醍醐三宝院にまで触れ出され、醍醐理性院の厳助僧正は、内衆や北小栗栖(伏見区小栗栖岩ケ渕町・牛ケ渕町)・笠取(宇治市東笠取・西笠取)の郷民ら50余を召し進める(「厳助往年記」6月14、16日条)。
しかし16日の発向は延引され、各荘園領主からの人足は退散命ぜられる(「言継卿記」「厳助往年記」16日条)。
そして翌17日、侍所開闔松田盛秀の手勢300により三条一町は焼払われる(「言継卿記」17日条)。
「厳助往年記」には、「京兆内衆巳下悉くこれを焼払ふと云々」とある。罪科の追及が下手人の人身のみならず、三条一町という町組全体(焼打ちの範囲を厳助は「三条町一町之内」と記し、言継は「他分こほし(壊)取て五六間これあり」と記す)に及ぼされていることは、近世五人組の連帯責任制度へ繋がる処分事例として注目される。
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6月23日
・パリ最高法院、新教・異端書発売禁止。
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7月24日
第2次河東一乱
今川義元、河東地域の奪回のため、関東管領山内上杉憲政と結び、駿河善徳寺に出兵(北条氏を挟撃)。義元は甲斐の武田家に援軍を要請、さらに山内上杉家にも呼びかける。10月24日和睦がなり、北条氏(氏康)の駿河東部支配圏は大きく後退、今川氏は駿東・富士2郡を回復し、北条領国を伊豆国境まで押し戻す。義元は西部戦線に専念できる。
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7月27日
・三好長慶・政長、細川氏綱の与党内藤顕勝の拠る丹波関城を攻略。
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8月7日
・幕府(細川晴元)、洛中洛外の土倉による酒麹売買を禁じ、北野社神人の酒麹製造専売件を安堵(「北野文書」)。
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8月11日
・今川義元と武田信玄が義元本陣の善得寺で会見。武田家は今川家への支援を約束。
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8月16日
・今川義元軍、北条氏康軍を攻撃。北条軍は三島まで撤退。22日、駿河今井狐橋(富士市)で戦う。遠江犬居の天野安芸守一族が軍功をあげる。
その後(9月15日、下記)、三島の北の長久保城(静岡県駿東郡長泉町下長窪字城山)で戦闘となり、今川軍がそれを陥落させたところで、信玄が仲介に入り、義元と氏康が和睦する段どりとなる(10月24日和睦)。
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9月9日
・武田晴信、北条氏康に侵攻されている今川義元に援軍要請をうけたため、駿河吉原に布陣。15日、甲駿同盟に基づき大石寺出兵。16日、今川義元、武田晴信の加勢を得て北条氏康を駿河吉原(富士市)に破る。19日、北条氏康方属城駿河長久保城(駿東郡)を包囲。 同じ頃、武田晴信は駿河千本松まで南下、北条方に睨みを効かす。
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9月20日
・清田畷の戦い。
松平広忠(家康父、三河岡崎城主)、安祥城(松平氏本拠)奪回を謀り三河清田畷で織田信秀と戦うが敗れる。矢作川以北の西三河は信秀に帰し、勢力圏は東三河に及ぶ。
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9月26日
・関東管領山内上杉憲政、扇谷上杉朝定とともに東国勢6万5千を率い、北条方の勇将北条綱成の守る武蔵河越城(守備兵3千)を包囲。 (城攻めはなく、綱成は反撃準備を進める)
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10月
・越中の争乱。再び畠山義続が仲裁。
この和睦によって乱はようやく収まりはじめ、神保長職の支配範囲は飛躍的に増大。以後、長職は富山城を居城にして最盛期を迎える。
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10月8日
・三好政長の「取持」で施行された北野経王堂の万部経会。
山科言継も広橋・高倉・中御門・薄の諸卿と共に参詣、「以ての外群集、市屋共数知れずこれあり。種々勧進筆舌を尽くし難し」という大群集(「言継卿記」同日条)。
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10月10日
・北条氏康、鶴岡八幡宮に願書を奉納 。
(河東の合戦で武田信玄が今川家に加勢、河越城では山内・扇谷の二大上杉家が城を包囲、安房の里見氏も不穏な動き)
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10月24日
第1次3国同盟成立
武田晴信のかねてよりの斡旋による関東管領上杉憲政・北条氏康・今川義元の三者和睦の誓紙が晴信のもとに届く(「矢留」成立)。後の甲相駿三国同盟の伏線となる。
北条氏康が、駿東地区で武田・今川同盟軍に、武蔵川越城で上杉憲政・朝定の攻勢により窮地に陥り、晴信の和睦を承認。暫くは駿・相間の抗争はなくなり、今川氏は三河攻略に、北条氏は北関東攻略に、武田氏は信濃侵攻に向う。
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10月27日
・古河公方足利晴氏、1万5千を率い河越城を包囲中の山内上杉憲政らに合流、北条氏康に宣戦布告。
扇谷上杉朝定、抗争していた山内上杉家(上杉憲政)・古河公方(足利晴氏)と手を結び、10月~翌年4月、軍勢8万で川越城(北条綱成)を包囲。
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11月30日
・毛利元就夫人(47)、没。
この時、元就(49)、長男隆元(23)、長女五龍(19)、2男元春(16)、3男隆景(13)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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