2009年10月4日日曜日

治承4(1180)年5月18日~23日 三井寺、反平家の行動を呼掛ける。「山門牒状」「南都牒状」。 源三位頼政挙兵。

治承4(1180)年
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5月18日
・右大臣兼実、後白河院に伺候。後白河院の憂愁深い。
「(十八日)所悩軽カラズト雖モ、不忠ノ恐レヲ謝センタメ新院ニ参ル。上皇出御ス(御小直衣小袴等ヲ着御ス)。竜顔憔悴シ、気力衰へ給フ。去冬以来、御悩隙無ク、重キニアラズト雖モ、旬月ヲ積ム間、筋力疲レ給フカ。尤モ不便。今日門徒ノ僧綱ヲ三井寺等ニ遣ハシ、ソノ左右ヲ申スト云々。隆李、時忠等ノ卿参上ス。頃(シバラク)之アリテ余退出ス。ソノ後神心弥悩マン。」(「玉葉」)。
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5月18日
・三井寺から延暦寺と興福寺への働きかけ。
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□三井寺側からの牒状工作(「山門牒状」、「南都牒状」(「平家物語」巻4))。
18日付の山門(比叡山)宛の牒状。
「(前略)入道浄海欲しいまゝに王法をうしなひ、佛法をほろぼさんとす。愁嘆きわまりなきところに、さんぬる一五日の夜、一院第二の王子(以仁)、ひそかに入寺せしめ給ふ。ここに院宣と号して出したてまつるべきよし(後白河法皇の命令だといって、以仁王を引き渡せといってきた)、責めありといへ共、出したてまつるにあたはず。よって官軍を放ちつかはすべきむね、聞こへあり。当寺の破滅、まさにこの時にあり。・・・」。
三井寺は六波羅の攻撃をうける危険にある、「門跡二に相分るといヘども、学するところは是円頓一味の教門」であるから、「年来の遺恨を忘れて当寺の破滅」を助けられたいと訴える(本来同じ天台宗で、兄弟のよしみがあると訴える)。
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山門側は前年秋のクーデター時に座主を明雲に替えてあり、平家側からの事前工作が入っている(清盛から、近江米2万石、北国の織延綿3千疋が届き衆徒に配布される)。
大勢としては三井寺の牒状に冷ややかな反応を示す。「こはいかに、当山の末寺でありながら、鳥の左右の翅のごとし、また車の二の輪に似たりと、おさへて(低くみて)書くでう奇怪なり。」として、結局、三井寺へは返答せず。
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□興福寺(藤原氏の氏寺)に向かっては、清盛を王法・仏法破滅の首魁として責め、関白基房の官を奪って「罪なき長者を配流」したことの無法を強調し、同心して「悪逆の伴類」を退けん、と呼びかける。
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21日付け興福寺の返事:
三井寺の呼びかけの2倍半の長さの返事。
平氏が微賤より成上り、身のほど知らぬ僭上と専権とに朝廷・貴族を悩まし、ことに「太上皇のすみかを追捕し、博陸公の身ををしなが」し、「反逆の甚しいこと誠に古今にたへたり」と攻撃し、われわれは「鬱陶をおさへて光陰を送」っていたところであった、そこへ三井寺から「青鳥飛び来って芳翰を投げ」、「数日の鬱念一時に解散」したと返答。
返事の書き出しに「抑清盛入道は平氏の糠糟、武家の塵芥なり」と書いたのは興福寺の学匠、信救得業であるという。これが清盛の知るところとなり、指名手配され、容貌を変えて南都から逃れ、後に源義仲に属して大夫房覚明と称して書手を勤めたと伝えられる。
興福寺は、平氏と真正面から対立・対抗し、この年12月の南都の大災厄に繋がる。
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5月19日
・昨日三井寺に派遣された僧綱は誰も宮中に出仕せず、大僧正房覚のみ報告に伺候。三井寺の大衆は、宮を出し奉る訳にゆかぬと云い切った、大衆の張本人の名もわかった、とのこと。また、朝廷から、山門が王に与力せぬよう再び命令が出る。
三井寺が南都に牒状を送ったとの噂が流れるが、真実のほどは不明。
三井寺の反逆的態度により、円恵法親王には、検非違使の監視が付けられる。
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5月20日
・噂によると昨日派遣の僧綱が、三井寺の大衆に、王を寺の外に出すよう申し入れ、大衆はこれを承諾。
円恵法皇親王が迎えの人を派して、王を受けとろうとすると、王は憤然として、「汝、我を捕へんと欲すとも、更に手にかゝるべからず」と言う。同時に、武装した悪僧7~8人が使僧を追い帰す。
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「(二十日)人伝ニ云ハク、留守スル所ノ僧綱、子細ヲ衆徒ニ示ス。衆徒各宮ヲ出シ奉ルベキ由承諾ス。仍ツテ昨日八条宮御迎へノタメ人ヲ進ラセラル(有職二人並ビニ房官等相副へラルト云々)。カノ宮ノ在所ニ就キ出シ奉ラントスル処、宮色ヲ作シテ云ハク、汝ワレヲ搦メントス。更ニ手ヲ懸クべカラズト云々。爰ニ甲冑ヲ着クル恵僧七八人出デ来タリ、カノ有職己下ヲ追ヒ散シ、殆ド凌礫ニ及ブト云々。仍ツテ空シク以テ帰洛ス。事ノ体僧綱ノ制止ニ叶フベカラズト云々。又云ハク、在京ノ武士等、懼悚保極マリ無シト云々。」(「玉葉」)。
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5月21日
・ようやく園城寺攻撃の命が下る。以仁王追討軍(平家・源頼政軍)園城寺攻略へ派遣決定。明後23日出兵の準備のために指揮官を決定。
総大将宗盛を総大将、頼盛・教盛・経盛・知盛ら清盛の弟たち、維盛・資盛・清経・重衡ら平氏一門、それに頼政が加えられる。頼政の隠密はまだ保たれている。京都は戒厳状況下に置かれ、王に関連する人々の逮捕が続く。
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・頼政挙兵。
・夜、源頼政、邸宅に火を放ち、嫡子仲綱以下一族(源兼綱ら)の軍勢を率い、以仁王を奉じて挙兵、園城寺へ向う。22日、源頼政、園城寺到着。頼政軍50余騎(源有治ら)と園城寺大衆1千。平家軍は平知盛(総大将)・平忠度(副将軍)が率いる。園城寺焼失。
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頼政の加担が露見し、頼政が挙兵するのは、「平家物語」では16日、「吾妻鏡」は19日、「玉葉」「明月記」「山槐記」では、21日。
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以仁王脱出以降の平氏の対応。
16日、平氏は以仁王が三井寺に逃れたことを知り、翌17日、50騎を従える使者を三井寺に派遣し宮の差出を要求するが、寺はこれを拒否。18日、三井寺は延暦寺と興福寺に牒状を送って協力を求めるなど敵対的な姿勢を明確にしたので、21日、軍兵をもってこれを攻撃する決意を固める。
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「高倉宮去る十五日密々に三井寺に入御す。衆徒法輪院に於いて御所を構うの由、京都に風聞す。仍って源三位入道、近衛河原の亭に自ら放火し、子姪・家人等を相率い、宮の御方に参向すと。」(「吾妻鏡」19日条)。
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三井寺を攻める大将の一員とされた源頼政が近衛河原の家を自ら焼いて、息子の仲綱らを率いて三井寺に向かい、宮に参じ、叛乱の大要が判明。
京には、山門の大衆が与力したとか、興福寺の大衆が蜂起したなどの情報が伝わり、武士も慌てて家中の雑物を運び、女性を他所に移す支度を行う。
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「(二十一日)今日園城寺ヲ攻ムベキ由、武士等ニ仰セラル。明後日発向スベシト云々。前大将宗盛卿己下十人。所謂大将、頼盛、敦盛、経盛、知盛等ノ卿、維盛、資盛、清経等ノ朝臣、重衡朝臣、頼政入道等卜云々。
人語リテ云ハク、大衆一同出シ奉ルベカラザル由、議定申シ了ンヌ。宮曰ハク、衆徒縦ヒワレヲコノ地ニ放チ、命ヲ終フベント雖モ、更ニ人手ニ入ルベカラズト云々。意気衰損無シ。太ダ以テ剛ナリト云々。見ル者感歎セザルナシト云々。コノ間カノ宮ニ親昵スル輩、及ビ一度参入ノ人知音等卜雖モ、併シナガラ尋ネ捜サレ、人多ク損亡スベント云々。但シ余ニ於テハ、消塵モコノ恐レ無キ者ナリ。仏天知見アルべキカ。園城寺ノ仏法滅尽ノ時至ルカ。悲シムベン。悲シムベン。但シ又所詮人ノ運報ニ依ルベキカ。非道ノ横災ヲ免ルルニ若カズ。恥辱顕サズ病死セバ、末代ノ人コレヲ以テ望ミトナスべキカ。」(「玉葉」)。
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「(二十二日)去夜半頼政入道子息等ヲ引率シ(正綱、宗頼相伴ハズ)、三井寺ニ参籠ス。己ニ天下ノ大事カ。余コノ事ヲ尋ネ聞キ、病ヲ相扶ケ院ニ参ル。今夕当時ノ院ノ御所ニ行幸シ、院八条ノ御所ニ渡御スト云々。
--夜ニ入り南都ヨリ入来タリテ云ハク、奈良大衆蜂起シ、己ニ上洛セントスト云々。者(テ)へレバ左右スル能ハズ。叉前将軍以下、京中ノ武士等、偏ニ以テ恐怖シ、家中ノ雑物ヲ運ビ、女人等ヲ逃ゲシム。大略逃ゲ降ルベキ支度カ。太ダ不吉ノ想ヒナリ。疑フラクハカノ一門、ソノ運滅尽ノ期カ。但シ王化空シカラズ、深ク憑ムベキカ」(「玉葉」)。
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「廿二日、今朝云々ノ説、頼政<入道、年七十七>子姪ヲ引率シテ三井寺ニ人ル云々・・・頼政卿ノ家ニ火ヲ放ツ云々」(「明月記」)
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□「競」(きおう)(「平家物語」巻4):
「さる程に、同じき十六日の夜に入って、源三位入道頼政・嫡子伊豆守仲綱・次男源大夫判官兼綱・六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光以下、混甲三百余騎、館に火かけ焼き上げて、三井寺へこそ参られけれ。」
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頼政と行を共にするのは、頼政の嫡子の仲綱と次男の兼網、頼政の養子の仲家とその子仲光。兼綱は、頼政の弟頼行の子で頼政の養子。仲家は六条の判官為義の次男帯刀先生義賢の嫡男で木曽義仲の兄で、父義賢が甥の悪源太義平に殺害された後、頼政引きとられていた。
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