2009年11月1日日曜日

昭和13年(1938)3月3日 「黙れ」事件(2) 佐藤賢了の戦後の言い訳

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今回は、当事者佐藤賢了の戦後における言い訳について。
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■佐藤賢了(明治28年~昭和50年):
石川県出身。大正6年陸軍士官学校卒業、砲兵少尉任官。14年陸軍大学卒業、約3年間アメリカ駐在。その後、軍務局国内班長、新聞班長。「黙れ事件」後、17年には軍務局長、東條首相の腹心として勢力を振るう。第37師団長としてタイに駐在中に終戦。東京裁判ではA級戦犯として終身禁固刑。31年釈放。
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□佐藤賢了の証言(東京12チャンネル報道部編「証言 私の昭和史」2 昭和44年)。
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「・・・
---法案が議会に提出された時の審議の模様は・・・。
佐藤 まず本会議に出されまして(昭和一三(一九三八)年二月二四日)その時の質問の第一陣に立ったのが牧野良三議員でした。牧野さんは、ジェスチュアたっぷりにですね、違憲論をひっさげて・・・。
---ああ、憲法違反であると。
佐藤 ええ、憲法違反だとして堂々の論陣を張りました。私も思わず拍手しました。
---そうですか。やはりデモクラシーの立場からいえば、憲法違反は当然でしょうねえ。
佐藤 ええ、それは議会の賛成を得なきゃならないことを、政府の命令一本でどしどしやるんですから、これは政府が議会に白紙委任状を出せというものだと、これは当然起る議論であります。それに対して、総理大臣が立ってですね、そしてこの違憲論を堂々と受けて立たれたら、非常によかったと思うのであります。
ところが近衛さんは、少し都合が悪いと出てこない。われわれは「近衛公のメンス」といったものです。大事な時に議場に出ておられないので、そこで滝法制局長が答弁に立とうとすると、「総理大臣が答弁しろ! 国務大臣が出ろ!」というわけで、議場騒然と・・・。
---それは当然でしょうね。
佐藤 ええ、これはもう騒然。だから、政府側としては第一歩からつまずいたわけで、なっちゃいない状態でありました。
・・・
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---では、「黙れ!」の模様を伺うことにいたしましょう。その前後のことを、かいつまんでお話しいただけませんか。
佐藤 ちょうど今ごろのように、ぽかぽかと春を身近に感じまして、委員の出席も少ないし、政府側の代表の役目を務める塩野司法大臣のごときは、こっくりこっくり舟をこいでおる時にですね、板野友造議員(政友)が立って、「この法案は、若い官僚や軍人達の作ったもので、大臣はわかっちゃいないんだ。だから、だれでもいい、わかっている人が出て説明してくれ」といった。議員の方からだれでもいいから説明せよというんですから、これは私にとっては”渡りに舟”で、そこでバネ仕掛けの人形のようにとび立って、説明に出たわけなんです。
---どのくらい説明されました。
佐藤 三〇分くらいやったです。今までは空理空論でさっぱり本論に入らないんで、私は実務を例に引いて、まあ私の口からいうのもおかしいが、とうとうとやったですな。とにかく三〇分も説明員の説明を、議員が黙って聞くというようなことは、めったにないことなんです。
ところがそこへ、やにわにですね、宮脇長吉議員(政友)が立って、「委委員長、この者にどこまで答弁させるんですか」ということをいわれたんで、そこで私は「やめろとおっしゃるなら、やめます。続けろとおっしゃるなら、続けます」というて、私は神妙に自分の席へ帰ったんです。そうすると、「説明を続けさせようか、やめさせようか」と小川郷太郎季員長は委員会にはかったわけです。
そしたら、「やらせ! やらせ!」というわけで、社会大衆党の人達までも大いに声援してくれたように記憶しています。それで小川委員長から「続けろ」といわれましたので、私が立って、再びその説明を始めますと、また宮脇議員が立ってガナリたてた。そこで思わず「黙れ! 長吉」といおうとしたのを場所がらを考えて、「長吉」の二字は飲みこんだようなわけで。
---結局、「黙れ!」って。
佐藤 「黙れ!」だけ。
---なるほど。しかし相当、興奮されたんでしょう。
・・・
その説明員にね、「黙れ」といわれた時の議場内の模様はいかがでしたですか。
佐藤 議場は、もう大混乱です。
・・・
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---どうですか、その時のお気持は。今、振り返ってごらんになって。
佐藤 若気の至りで、まことに申しわけないと思っております。
---で、やはり多少は謹慎されましたか。
佐藤 ええ、自発的に登院停止をいたしまして、謹慎しておりました。
---直接のおしかりというものはなかったんですか。
佐藤 いや、おしかりはなかったですね。(・・・)      」(聞き手 三国一朗)
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□佐藤賢了の証言(「総動員法問答事件」(「昭和の35大事件」文藝春秋臨時増刊昭和30年8月5日発行))。
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「・・・
総動員法案の紛糾が予想されたので、近衛首相に、成る可く此の法案の審議に出席せぬよう進言した人があったと云う事である。
・・・
だから総動員法案が本会議に上程された際近衛首相は出席して居なかった。質問の第一陣に立ったのは牧野良三議員である。
・・・
・・・肝腎の首相が居らず、広田外相が代って立ち、事は憲法上の重大問題だから、法制局長官をして答弁せしめる旨を答えたから、議場はおさまる筈が無い。忽ち混乱に陥り、休会が宣せられた。
・・・
議場に在った私も大に政府の不誠意に憤慨した。而も政府は爾後の審議に当り、総動員法案は法律問題であるからと云うので、塩野司法大臣を質問の矢面に立てた。
・・・
其後も政府側は押され勝ちで、議会側の反対気勢は日に日に昂まった。
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・・・委員会の総動員法案審議は、本会議における政府側の不手際に引き続いて、反対論は議場を圧するものがあった。
反対論の主なるものは本会議以来の違憲論と、本法は国民を犬猫同様に扱わんとするもので、日本人の忠誠心を無視するものだといったような類で、水掛論的悪口であったが、政府の不用意な答弁から法の実質に触れるやっかいな問題がおこった。
政府は、反対気勢を緩和する意味で、本法は支那事変に発動する意志は無く、さらに大なる戦争を予想して準備のために制定するものだとの意味の答弁をした。
私(佐藤)は直ちに滝法制局長官に、
『あんな答弁をしては困る。現在の情勢でも一部の発動は予期されるし、将来大戦争がおこらんでも、支那事変だけでも全面発動の必要がおこるかも知れぬから、答弁を訂正してもらいたい』とネジ込んだ。
君、法案が通りさえすれば、必要がおこれば何時でも発動すりゃいいんだよ。答弁なんかに拘泥する必要はない。通しさえすればそれでいいんだ
・・・
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日は忘れたが二月末の或日板野議員が実施規定削除論を強調した後、
「此の法案は若い軍人や官僚達の起案したもので、政府諸公は分っちゃ居ないから、適切な答弁が出来ないのであろう。誰でもよいからに分った人が説明して呉れ。」と云った。之に応じて私はバネ仕掛けの人形のように立ち上った。
私は当時陸軍省軍務課の政策班長で中佐であり、政府委員の資格が与えられて居らず、説明員であった。説明員は議員の質問に応じて自ら進んで答弁の資格を有せず、国務大臣や政府委員の指示に依り、且つ委員会の同意があって始めて或る限定された事項の説明が出来るだけであった。
・・・
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・・・私は実務を例証しっつ滔々(?)と説いた。・・・議員もよく傾聴して呉れた。三十分近く長広舌を振って、愈々問題の核心に這入ろうとした時、宮脇長吉議員が立って、
「委員長ッ此の説明員に何処まで発言を許すのか」と喰ってかかった。私は、
「誰でもよいから脱明して呉れとの要請に応じて説明して居るが、止めろと云うなら止めます」と述べた。
小川郷太郎委員長は説明を継続さすべきや否やを委員会にはかったところ、殆んど全員が継続に一致したので、委員長の指示に依り私は説明を再開した。
すると宮脇氏が更に立ち上って、私の発言を妨害したので、勘忍袋の緒が切れ、
「黙れ長吉ッ」
とドナリツケた。但し場所柄に気が附き、「長吉ッ」だけは辛うじて呑み込んだ。
委員会は混乱し、休憩が宣せられた。
私は杉山陸軍大臣に叱られ、また塩野司法大臣(其時の委員会出席大臣)に御詫びして、爾後自発的に登院を遠慮した。此の事件の後法案の審議は極めて順調に進み、成立した。だから、総動員法の成立には怪我の功名とも謂われた。
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・・・宮脇氏は私が士官学校の生徒の時工兵の区隊長であった。
あの時宮脇氏が私の発言を妨害したのには理由がある。私が初からウッセキして居った不平不満をプチマケたから、説明と云うよりも寧ろ大声叱咤するが如くであったそうだから、宮脇氏が「小僧生意気だッ」と思ったのも無理は無かった。・・・」
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□前回取り上げた「国民新聞」記者木道茂久の証言
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「決して偶発的な失言などではなく、倣慢無礼な佐藤の一言は陸軍の政治上の態度を端的に表現したもの」
「佐藤は単に一説明員に過ぎないのに、その態度は倣慢不遜、政党などあたまからなめてかかったような口吻、あたかも小学校の先生が頭ごなしにものわかりのわるい生徒を教えるような態度であった。質問者の宮脇長吉(政友会)、板野友造(同)らの間から『そんなことはわかっている。われわれは君の説明を聞きにきたのではない。やめろ、やめろ』と中止を求めた。佐藤は耳を貸さず、強引に説明を続けた。委員会は騒然として、宮脇は立ち上がって委員長に説明のストップを要求した。腹を立てた佐藤は『黙れー!』と叫んで、委員会は大混乱に陥った。顔面蒼白となった佐藤はいつの間にか退席した」
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宮脇長吉議員というのは、先ごろ亡くなられた鉄道作家宮脇俊三さんのお父さんだということです。
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2 件のコメント:

花園祐 さんのコメント...

 今回引用されている昔の文芸春秋の記事ですが、もしかしたらこの記事で佐藤賢了を取材しているのは昭和史家の半藤一利氏じゃないでしょうか。というのも数年前の半藤氏の同じく文芸春秋の記事にて、

「佐藤賢了に巣鴨プリズンで会った時、思っていたほどいかつい感じの人間には見えなかった。しかし「黙れ事件」や戦中の自らの行動については終始弁明するばかり(自分の責任へとしない)だった」

 というような内容の記事を読んだ事があります。
 私はこの佐藤賢了は「黙れ事件」よりも、あまり具体的に勉強までしていませんが、その後東条英機の腰ぎんちゃくとなっていたとい言われているので、そっちの歴史の方が彼にとって問題があるんじゃないかと見ています。
 それにしても、こういう歴史の証言者に半藤氏は生前に会う事が出来ていろいろとうらやましいものです。

黙翁 さんのコメント...

花園さん
コメント戴いているのに気付かずにいました。もともとは、日中戦争関係の資料集みたいな本から引用ですが、半藤さんの今売れているという「昭和史」(平凡社ライブラリ)にも引用されています。宮脇俊三さんのことは、この本で知りました。
まあ、能吏というか「ヒラメ」というか、・・・。