2009年11月7日土曜日

治承4(1180)年5月26日 宇治川の戦い 源頼政自害 以仁王、奈良へ落ちる途上で敗死

治承4(1180)年5月26日
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宇治川の合戦
以仁王(30)・源三位頼政(76)ら、追尾する平氏の軍と宇治川に戦って敗死。
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25日、探索の結果、以仁王と頼政は、去夜、南都に逃げたことが確認される。
南都大衆上洛の噂などがとんでいるが、平氏は南都方面に進軍。
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検非違使源季貞の報告によると・・・。
頼政軍は、南都に赴く以仁王の後衛部隊として、王が興福寺大衆と合体するまで援護するため、宇治平等院を本拠とし、宇治橋を引いてこれに備える。平知盛・重衡・行盛以下の追撃軍と、渡辺党・三井寺の大衆の頼政方が、橋桁を引いた宇治橋を中に激戦を展開。圧倒的な兵力をもつ平軍は、馬筏を組んで河を渡り、頼政・仲綱・兼綱・仲家・仲光らは戦死もしくは自害。
(頼政は討ち取られる説や自害説あり。年齢からして討ち取られた公算大であろうが、エントリの表題は敢て自害説をとった)
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検非違使の藤原景高・忠綱が、軍勢300余を率い追尾し、宇治の橋を引いて待ち受ける反乱軍を攻める。
橋の上で合戦し、あるいは歩いて瀬を渡り、また馬筏を作って川の瀬を渡るなどして、軍勢200余は、平等院の前で合戦。景高が頼政の首を取り、忠綱も検非違使の源兼綱の首を得るという。
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☆「山槐記」著者中山忠親は平維盛自身に取材して、三井寺に赴いた頼政の軍勢は50余、追討に向かい馬筏を組み宇治川渡河したのは200余とする。「平家物語」「源平盛衰記」は追討軍2万8千、頼政軍1~2千とする。
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藤原忠清以下17騎は、宇治川を強行渡河し、橋頭堡を築く。
のち、この功により忠清の子忠綱は従五位下、同じく子の忠光は左兵衛門尉に任命。景家(忠清の弟)の子景高は従五位下に叙任。
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源頼政、平等院の庭で自害。辞世「埋れ木の花さくこともなかりしに 身のなる果てぞ哀しかりける」。
源仲綱、深手を負い平等院殿上で自害。
源兼綱・源仲家、討死。
源有治、出家。
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足利義清・足利判官代義房は、源頼政に与力し、宇治で平氏軍に敗れる。義房は梟首。義清は逃落ちる。
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以仁王、討死。
南都興福寺僧兵と合流するため木津川東岸を南下、追尾の平家の武士と戦い、山城綺田の光明山鳥居前(京都府山城町綺田字神ノ木・高倉神社の地)において討死。
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以仁王は、頼政らの奮戦の間に、以仁王は興福寺衆徒と合体すべく南都へ急ぐ。
飛弾守藤原景家(検非違使景高の父)は、宇治川の戦に加わらず王を追撃、30騎ばかりで落ちて行く王に光明山の鳥居前で追つき討ち取る。(「吾妻鏡」)
南都大衆7千が迎えに出動していたが、宮の最期を聞いて引き返す。「いま五十町ばかりまちつけ給はでうたれさせ給ひけん、宮の御運のほどこそうたてけれ」(「平家物語」)。
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平等院の殿上の廓に自殺した者3人ありとの報があり、内1人は首がないので以仁王ではないかということになる。
「愚管抄」は、「宮ノコトハ確カナラズトテ、御頸ヲ万ノ人ニミセケル」と、宮を知る人にその首を見せたところ、宮の学問の師日野宗業(ミネナリ)が宮であると見定めたという。
「吾妻鏡」は、宮は光明山の鳥居の前で討死と記す。
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従二位権中納言中山忠親が26日の閣議で報告された内容を日記「山槐記」に書き留める。
飛騨守景家が頼政を、上総守忠清が兼綱を打ちとる。その外、平等院廊下に自害者3人の死体があり、そのうちに浄衣を着て頚のないのがあって何人とも判定がつかなかった。
頼政の子の仲綱の消息は不明、以仁王は南都に入る、とこの段階では伝えられる。
この合戦中に、後詰の重衡・維盛軍が宇治に到着。南都攻撃が議論されるが、藤原忠清が、地理不案内の南都に暗くなってから到着して合戦するのは危険なので、攻撃は見合わせた方がよいと主張。結局、30余の首を持って帰京した。
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□「吾妻鏡」同日条
「卯の刻、宮南都に赴かしめ給う。三井寺無勢の間、奈良の衆徒を恃ましめ給うに依ってなり。三位入道の一族並びに寺の衆徒等、御供に候す。仍って左衛門の督知盛朝臣・権の亮少将維盛朝臣已下、入道相国の子孫、二万騎の官兵を率い、宇治の辺に追い競い合戦す。三位入道・同子息(仲綱・兼綱・仲宗)及び足利判官代義房等を梟首す(三品禅門の首、彼の面に非ざる由、謳歌すと)。宮また光明山鳥居の前に於いて、御事有り(御年三十と)。」
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「丁丑。快晴。卯の刻に宮(以仁王)は奈良へ向けて出発された。三井寺だけでは軍勢が足り興福寺の衆徒をあてにしてのことである。三位入道(源頼政)の一族と三井寺の衆徒が御供に参じた。そこで、左衛門督(平)知盛朝臣・権亮少将(平)維盛朝臣をはじめとする入道相国(平清盛)の子や孫は、二万騎の官軍を率いて競って一行の後を追い、宇治の辺りで合戟となった。頼政とその子息仲綱・兼綱・仲家、および足利判官代義房らの首がさらされた。しかし頼政のものとされた首は頼政ではなかったという噂が立った。以仁王もまた、光明山の鳥居の前で御最期を遂げられた。享年三十歳という。」。
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□「玉葉」同日条
「(二十六日)三井寺に坐す宮、頼政入道相共に、去る夜半ばかりに逃げ去り南都に向かう。その告げを得るに依って、武士等追い攻めると。
・・・午の刻、検非違使季貞前の大将の使いとして参院す。時忠卿に相逢い、申して云く、頼政が党類併せて誅殺しをはんぬ。彼の入道・兼綱並びに郎従十余人の首を切りをはんぬ。宮に於いては慥にその首を見ざると雖も、同じく伐ち得をはんぬ。その次第、寅の刻ばかりに、逃げる者の告げを得る。即ち検非違使景高(飛弾の守景家嫡男)・同忠綱(上総の守忠清一男)等已下、士卒三百余騎これを遂責す。時に敵軍等宇治平等院に於いて羞喰の間なり。宇治川の橋を引くに依って、忠清已下十七騎、先ず打ち入る。河水敢えて深み無く、遂に渡り得る。暫く合戦するの間、官軍進み得ず。その隙を得て引いて降ち去る。官軍猶これを追い、河原に於いて頼政入道・兼綱等を討ち取りをはんぬ。その間彼是死者太だ多し。
・・・敵軍僅かに五十余騎、皆以て死を顧みず、敢えて生を乞うの色無し。甚だ以て甲なりと。その中兼綱の矢前を廻るの者無し。恰も八幡太郎の如しと。」(「玉葉」同日条)。
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「玉葉からは、僅勢ながらも、頼政党の奮戦ぶりが窺える。
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「謀反ノ輩、三井寺ノ衆徒ヲ引率シテ、夜中ニ山階ヲ過ギ南京ニ赴ク。官軍之ヲ追ヒ、宇治ニ於テ合戦ス」(「明月記」5月26日条)。
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「飛騨守景家・上総守忠清等宇治ニ発向スルノ間、宮先ヅ橋ヲ渡り給フ。彼方ノ甲兵橋ヲ引ク」(中山忠親「山槐記」)
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