2009年11月23日月曜日

東京 本駒込 吉祥寺 二宮尊徳の墓 川上眉山の墓 お七・吉三比翼塚 あさ香社跡 与謝野鉄幹と落合直文

長禄2年(1458)、太田道灌が江戸築城の際、井戸を掘ったところ「吉祥増上」の刻印が出たので和田倉門に「吉祥庵」を設けたのが始まり。
家康の関東入部後の天正19年(1591)、これを水道橋に移すが、明暦3年(1657)の明暦の大火で焼失し、現在の位置に移る。
中央線の吉祥寺は、この吉祥寺の門前の農民が新田を開いたことから名付けたという。
吉祥寺は曹洞宗の修業所となり、その広い境内に学舎・寮舎を設け、常時千人の学僧がいたという。
教科は内典(仏教)と外典(漢学)に分かれていたが、やがて漢学が強化され武士が聴講するようになる。
お寺には、二宮尊徳、榎本武揚、鳥井耀蔵、川上眉山の墓所がある(但し、鳥井さんのお墓は見つからず、榎本さんのお墓は「勲一等」とて、柵の奥とても遠く写真は遠慮した)。
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山門をくぐるとすぐに銀杏並木がある。
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銀杏並木が途切れた所で、山門側を見たところ。
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山門を入ってすぐ左にあるふゆざくら
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「お七・吉三郎 比翼塚」
(のちに西鶴「好色五人女に触発された人が建立したもの。
比翼塚というのは相愛の男女や心中した男女を葬った墓のこと)
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落合直文「あさ香社跡」
(吉祥寺の向って右隣、吉祥寺の通用門前)
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「★東京インデックス」をご参照下さい
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八百屋お七の物語
本郷追分けの八百屋八兵衛の青果の大店は、天和2(1682)年の大火で焼け落ち、一家は吉祥寺に避難する。この時、八兵衛の一人娘お七は、寺小姓の美少年吉三と知り合い恋仲になる。
しかし、二人は母親に引き離され、実家が再建され家に戻ると監視下におかれ、吉三と逢うことが叶わなくなる。
お七は、火事で混乱すれば吉三に会えると重い詰め、放火をし、捕らわれて火あぶりの刑に処せられる。この時、お七は17歳。
お七の物語は井原西鶴『好色五人女』で取り上げられ江戸のベストセラーとなる。
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実際の七の一家の避難先は白山(地下鉄白山駅近く)の円乗寺で、吉三郎も円乗寺の寺小姓であ、お七の墓も円乗寺にある。
吉祥寺の比翼塚は文学愛好者が建立したもの。
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与謝野鉄幹、落合直文、あさ香社
明治25年(1892)9月、19歳の鉄幹は初めての上京を果たし、本郷菊坂の異母兄大都城響天(警察官)の家に寄宿する。しかし、余りの貧困のため、自分で本郷駒込の吉祥寺内の寄宿舎を見付けてそこに住む事にする。
鉄幹はここに住みながら上野の帝国図書館に通い自習していたというが、絶食する事もしばしばという貧困状況であったという。
翌26年2月、吉祥寺の学寮の道を隔てた隣に、落合直文が転居して来る。
直文は、鉄幹の余りの貧困ぶりを見かねて、鉄幹を自分の家に寄宿させる。
その日、師の直文と鉄幹は共に銭湯に行く。帰宅すると、真新しい下着と着物が用意されていた、という有名なエピソードがある。
直文の「あさ香社」は和歌革新を主張する結社であるが、鉄幹はこのあさ香社での活動をステップボードにして、自ら新詩社を設立し、一大勢力を形成すことになる。
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