2010年1月3日日曜日

明治17(1884)年11月3日(3) 栄助後退 宮川寅五郎捕縛 大宮郷、自衛を始める 天長節祝賀会、鹿鳴館夜会

明治17(1884)年11月3日(3)
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・憲兵隊に随行した兵事課長2等属村田譲吉、巨魁は大宮郷田代栄助らであるなど概略を報告。
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「三日、隈元少尉ノ隊ニ尾行シ、糧食ヲ連送シテ本野上ニ至り、警察分署ニ就キ賊ノ景況ヲ問ハントスルニ、空署ニシテ一人モ在ルヲ見ズ、夫ヨリ戸長役場二至り
・・・偶秩父郡大宮郷ノ隣村大野原村聯合戸長富田左平治、役場ノ書類ヲ携へ乱ヲ避ケ来ルニ会ス 同人ハ昨二日賊ノ一群小鹿野峠(小鹿坂峠)ヨリ大宮郷ニ進入スルヲ目撃セシ由、其他賊魁田代栄助等ノ挙動ヲ詳ニスルヲ得タリ(「兵事課長二等属村田譲吉出張経歴書」)。
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・午後3時、田代栄助後退
栄助は、持病の胸痛を発し、常次郎・熊吉ら数名と大野原に戻り民家で静養。
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栄助は、後退する際も、兵の配備に気を使う。
「栄助ハ自分外十二名程ヲ連レ、秩父郡黒谷村ノ橋ニ至リ、ソコヲ防戦ノ地卜定メ、甲隊(乙隊の誤リカ)破ルレバ此地ヲ防グ事トナシ、栄助ノ子分姓名知レザル横瀬村辺ノ者ガ人夫八名ヲ引連レ、花火筒ヲ卓ニ乗せ挽キ来り、橋ノ真向ヒニ備へタリ、此破烈丸十一程持来りタリト云ヘリ、
茲ニ於テ同村ノ者及ビ皆野・黒谷辺ノモノガ集り来り、総勢二百名程ニナリタリ、夫ヨリ三ヶ所ニ見張リヲ十人程ヅゝ出シ、自分ヲ其場ニ残シ、栄助ハ夫ヨリ壱丁程大宮ノ方寄リノ人家ニ至リ休息セリ(「小柏常次郎訊問調書」)。
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また、山田村の撃剣家が指揮する140名が助力に駈けつけて来る。
「自分一人ニテ栄助ノ所ニ至り、手配ノ模様等噺シ居ルトキ、大宮郷ノ方ヨリ鯨波ヲ揚ゲ釆ルモノアリ、
茲ニ於テ栄助ガ自分ニ云フニ、アレハ味方デアロウカラ、御前ガ行ツテ皆野ニヤラズ、茲ニ留メテ夕飯デモ与へ呉レロトノ頼ミニ付、自分往来ニ出向キタルニ、秩父郡山田村撃剣家加藤某ガ先生トナリ、両三人帯刀、跡ハ残ラズ竹槍ヲ持チ、総勢六十三名、引続キ八十五名ガ来リシ故、加藤ニ面会シ、夕飯ヲ与へ、一同ハ近傍ノ民家へ宿泊セシメタリ、此時己ニ一番鶏(四日朝)トナリタリ(「小柏常次郎訊問調書」 改行を施す)。
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栄助後退後も、参謀長菊池貫平、小隊長高岸善吉、大隊長落合寅市らの指揮により、活溌な動きは継続。
皆野本隊の数百人は荒川を越えて大淵村に押し出し、金穀を奪って皆野に運び、また、児玉口警備のため数百人を下日野沢村に配備。
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・午後5時、小笠原憲兵大尉は内田憲兵中尉指揮の1個小隊とともに上尾停車場で下車し、その夜のうちに川越町に進出。
午後6時10分、影山憲兵少尉指揮の1個小隊、熊谷停車場で下車、右半隊は松山町に向い、左半隊は停車場前の小松屋旅館を営所として待機。
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熊谷に待機の隊は児玉方面進出を予定していたが、この日午後、親鼻の銃撃戦で憲兵第1陣が敗退した為、吉田県令は急拠寄居に進出させることにし、午後9時この旨を伝える。
午後11時、午前零時すぎ、午前2時の3回に分乗で熊谷を出発し、午前4時40分までに全員寄居に進出。同時に、松山の右半隊も寄居に移動。
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・午後7時、宮川寅五郎捕縛
寅五郎は、前日襲った上田野村高利貸三上重左衛門より証書類を取上げるべく向う。大宮郷からの伝令で本陣の皆野移動と帰還命令が届くや、周囲が寅五郎に背き、戸長三上薗次らに捕縛。14日の横瀬村豪農襲撃の罪で極刑15年判決、北海道樺戸監獄の送致。明治31年大赦出獄(53)。身元引受人なく数ヶ月監獄に滞留。
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○宮川寅五郎(40):
「静岡県遠江国浜松出生/平民 日稼業 当時無籍」。
「被告ハ明治十七年九月以降、埼玉県武蔵国秩父郡上吉田村石間村ニ流寓中、明治十七年十月下旬田代栄助、加藤織平、高岸善吉等ガ世間高利貸ノ無情ニシテ窮民ノ困難ニ陥ルヲ救ハントテ秩父郡ニ於テ暴動ヲ企チタルコトヲ聞知シ大ニ感慨ヲ惹起シ、且ツハ織平等ノ勧メニ依リ共二事ヲ為サンコトヲ決シ・・・」。
蜂起の際は「軍用金徴収方」。
小鹿野町襲撃後、高岸善吉・犬木寿作等と三山村に行き、ここで隊を2分し、寅五郎は犬木寿作と共に、薄村戸長役場に押しかけ「村吏ヲ斬殺ス」と脅かして村民募集と炊きだしを迫る。
2日朝小森村に進み、109円70銭を強奪、続いて同村戸長役場に押かけ、ここでも村民募集を迫り、ついで贄川村に進み、磯田忠君を脅して刀4本・小銃2挺を奪い、上田野村戸長役場に対しても村民募集を迫り、午後5時頃大宮郷に引揚げる。掠奪した金員のうち80円を田代栄助に、5円を犬木寿作に渡す。
ここで寅五郎は栄助から4円40銃を貰い、この夜、土地事情に明るい堀口幸助の案内で再び荒川上流に向い、上田野村の高利貸三上重左衛門方に押しかけ、抜刀で脅かして貸金証書・軍用金の差し出しを迫る。重左衛門は「手元ニ所持セズ、家族ノ出先ヨリ持参スペシ」と言うので、組合の者3名を重左衛門に随行させ、4名を人質とするが、同人は戻らず。
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寅五郎は「上田野村三上重右衛門宅ニ於テ調整シタル自由党屯所宮川寅五郎卜書シタル旗ヲ建テ大宮郷ニ立帰ル・・・」。
翌3日も重左衛門から証書類を取りあげるべく、3度上方に上るが、大宮郷から使がきて「田代栄助等皆野村ニ進発シ、指揮スル者無之、速ニ来会セヨ」と伝えると、周囲の者は態度を一変し寅五郎に反き、午後7時頃、戸長三上薗次らに捕縛(「宮川寅五郎裁判言渡書」)。
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・午後7時頃、親鼻の渡しの銃撃戦の負傷者が大宮郷に後送されるが、医師は治療を拒む。
この頃、大宮郷では火災と暴徒の掠奪を防ぐため槍・竹槍・鉄砲・刀剣を持った者が、相詞を用いて市中巡回を始める。矢尾商店でも数名が竹槍や刀剣を持って、自衛のため警戒を始める
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・夜、山県・柱野警部指揮の巡査隊、城峯峠を守備するが、柱野警部は部下数名を率い石間村に潜行する。
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・夜、大宮郷では困民党は秩父神社境内に20名程度となり、町内の火の番を強化し、「自衛団」結成の動きを示す。
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・山県内務卿の川越方面への注意喚起に応じて、川越警察は士族53名を募り夜のうちに秩父へ向わせる。
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・午後11時頃、甲隊(織平・周三郎)、昼に襲った下吉田の高利貸須藤弥平を再度襲う。
「東京憲兵七十四名が矢納迄出張セリ」の報告が入り、大隊長新井周三郎は500名程で別動隊2隊を編成。1隊は「千鹿谷の大将」島崎嘉四郎が指揮して日野沢村より、他の1隊(新井悌次郎指揮)は石間村より進撃させて、矢納村から来る憲兵の挟撃作戦をとる
(その後、日野沢村に進んだ隊は矢納村で、石間村に向った隊は半納の横道耕地で、群馬県警の偵察隊と遭遇して激闘を展開する。また、嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する)。
3日夜、甲隊本隊は大淵村~野巻村の中産以上の民家に分宿、大淵村の長楽寺を本営とし、新井周三郎・加藤織平ら幹部はここに泊る。東京憲兵隊70余が矢納入りとの情報で、新井周三郎は島崎嘉四郎と新井悌次郎に夫々250を与え、日野沢と石間から矢納挟撃をさせる。嘉四郎はこの地方でゲリラ的に大活躍する
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・この日、上日野沢村小隊長村竹茂市、新井周三郎より指揮権を剥奪され後任を柴岡熊吉とされる。しかし、4日周三郎が重傷に陥ると、そこに駆けつけ本営まで護送。その後、信州転戦組に加わり12月9日の軍壊滅まで従軍。
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秩父困民党の衝撃波
この日、横浜本署、八王子警察署(署長平田東馬警部)に警官40を急派。また、豆州・駿州・遠州・上州・信州へ広がる。
上州・信州の一部は秩父に加わり、飯田の愛国正理社・田原自由党は戦闘準備。11月下旬、豆州君沢郡・田方郡、駿州駿東郡東部など蜂起前夜の様相。
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・この日は天長節。東京では祝賀式のあと、日比谷の鹿鳴館で政府高官による華やかな夜会
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(見出し)「紅の幕は切って落されたり 天長の佳節 鹿鳴館の夜会」 
(記事)「井上伯には、其北方と共に主人となりて、夜会の盛宴を鹿鳴館に張られたり、
・・・庭上の音楽は園外の烟火と相応じ、満堂の燭光は晝よりも明らかに、週廓の球燈は球を貫ぬくかと疑われたり、挿花の風流なる、粧師の閑雅なる、實に宏麗と清逸とを併せ、中々の見物なりき。取分きて勝れて見えたるは、御息所を始めとし参らせ、北の方奥方娘君たちの御出立と云ひ、御振舞の優にやさしくあり、自ら気高くもありて、能く内外の交際に慣れ玉ひたる様の迥(ハル)かに去年に勝れて、實にも斯る會場の光を増すことの、外国の貴婦人にも劣り玉はざるぞ貴かりけれ。
主人の井上伯御夫妻は、平素ながら内外の来賓に遣る方なくもてなし、・・・舞踏と立食とに何れも歓を盡し、楽を極めて夜の深行くも知らず、十二時頃に至りて散ぜられたり。尤も横濱の来賓の為とて、別仕立の汽車を用意せられてありぬ」(11月5日「東京日々新聞」 改行を施す)
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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鹿鳴館跡の碑
(現、日比谷公園南側 大和生命ビル前)


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