2010年1月9日土曜日

明治17(1884)年11月4日 群馬県警の進出 栄助の精神的虚脱 自衛始める大宮郷

明治17(1884)年11月4日
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11月4日
・朝鮮、朴泳孝・洪英植・金玉均・徐光範ら開明派、日本公使館で島村書記官と密談。
実力行使詳細(日、場所、暗殺対象など)決定。
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11月4日
・群馬県警の進出。
午前1時頃、群馬県警察山形警部は、警部補2・巡査40名を率い、鬼石町~杉ノ峠~埼玉県警の太駄見張所に進出。
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山県警部は、埼玉県警側に
「我輩ハ皆野村屯集ノ賊ヲ砲撃、接戦セント計画ス、共ニ進撃スルハ如何」
と申し入れると、浜田警部補(八幡山分署長)は、
「縦令警郡長ノ命令ナキモ、戦地ニ於テ進退スルハ我職権ナリ、何ゾ命令ヲ俟ツノ遑(イトマ)アンヤ、群馬県警ノ警官我卜力ヲ戮(アワ)セ、我県内ノ賊ヲ掃攘セント云、是進ムベキノ好機ナリ」
と、応じようとする。
しかし、既に埼玉県側では、5日早朝大宮郷一斉進撃が決っており、浜田警部補は群馬県警の申し入れを謝絶。群馬県警のみでの進撃となる。
その後、哨兵巡査から「賊已ニ金沢村出牛マデ来り、当所ヲ襲フ形勢アリ」の急報が入ると、埼玉県警は態度を一変し群馬県警を追い、出牛から合同して金崎村国神の荒川堤畔に進出。
途中、「道ニシテ賊ノ間諜二人ヲ捕フ、其言ニ曰ク「皆野ノ暴徒ハ約三千人アリ、尚且大渕ニモ屯集セリト」」と判明し、両県警察隊は、衆寡敵せずと判断し、太駄村に引きあげ。
群馬隊は自県に引きあげ、埼玉隊も太駄の見張所を元田村に後退させる(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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・朝、久島村聯合戸長肥土三郎平(42)、大淵村の長楽寺前で困民軍甲隊に捕われ、皆野村の本営に連行される。
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秩父郡久長村を中心とする「久島村聯合」は、蜂起根源の阿熊村・上日野沢村・野巻村を管轄地とし、1日の久島村は激しい人足狩りだし、武器徴発を受ける。
「十一月一日正午頃、暴徒等血に染ミタル刀槍又ハ銃砲等ヲ携へ、民家ニ乱入シ、男子タル者ハ兇器ヲ持シテ悉ク出ヅベシト脅迫シ、又同日午後七時頃凡ソ七十名許リ、抜刀又ハ銃砲ニ切火縄ヲ付シテ、戸長ノ宅ヲ始メ近隣ノ民家ニ侵入シ、男子ヲ捜索シテ、必ズ山間等ニ潜伏シ居ルベシ、因ッテ放火セント申威シ、村内ヲ横行セシ事数回ニシテ、銃砲等ヲ掠奪シ去レリ(「秩父暴動被害諸村概況久長村」)とある。
聯合戸長肥土三郎平は、蜂起根源地が自分の管轄であることに責任を感じ、自ら県庁に暴動の実況を報告するため浦和に向うが、途中の児玉町で伊藤警部(本庄警察署長)に会ったので、これに状況を報告して引き返途上での出来事。
皆野では田代栄助が、「汝等が聯合内ヨリ加盟ヲ出サザルハ不屈至極ナリ、近来国政紊乱、四民塗炭ニ苦ム、依テ貧民ノ救助ニ努メツツアルニ拘ラズ、汝等ハ微職ニ甘ジ、却テ我輩ニ反対スルハ愈々其罪大ナリ、誅伐スルノ外ナシ」と問詰。
肥土は、「此如キ壮挙ナルヲ知ラザルガ故ニ、生等ニ加盟セザル而己ナラズ、村人ヲ制止セリ、今后努メテ賛同スベシ」と巧言を用いるが、栄助は肥土を抑留して人質とする。
その後、午後には栄助らが逃亡し、肥土は隙を見て逃げ帰る(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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・朝、田代栄助、菊池貫平に迎えられ、大野原から皆野の本陣に出向く。胸痛のため「栄屋」という安宿で横になる。
午前10時頃、柴岡熊吉・高岸善吉・落合寅市・小柏常次郎ら12~13人が来て、親鼻の渡しでの憲兵隊撃退の報を伝える。
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「昨日総理ノ出発後、荒川ヲ隔テ憲兵隊卜聊(イササカ)戦闘ヲ為シタル処、憲兵隊ハ本野上村マデ引揚ゲタリ、同村ニハ道々兵士繰込ミタル様子ニ有之、且矢納峠ニモ兵隊繰込ミタル模様ニモ有之ニ付、是非本陣角屋マデ来り呉レ」と言うので、栄助は「角屋」に戻る。
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・田代栄助、本陣「角屋」に移り作戦を練る。
憲兵・警官隊による包囲・封鎖が徐々に進み情勢は悲観的。
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「本陣ニ至り兵ノ配置ヲ尋ネタル処、皆野村渡船場近傍ハ銃砲二挺、其他竹槍ヲ携ヘタル者合セテ十二、三人ニテ固メ居タルモ、菊池貫平、井出為吉、堀口幸助等ハ何レへカ遁逃所在詳ナラズ、竹槍ヲ携へタル者ハ大勢アリト雖モ、恃(タノ)ムベキ鉄砲方ハ僅力七、八人ニテ久ク難支(ササエガタキ)ヲ歎キ居ル所へ、只今井戸村・藤谷淵村ニ於テ両三人ノ敵ヲ見受ケタリ、用心可致トノ注進アリ、尋(ツイ)デ坂本村ヨリノ注進ニハ、憲兵及ビ巡査百五十人許り繰込ミタリト、為メニ軍中大二勇気砕ケタリ、時ニ三男八作来り告テ云フ、大宮郷モ昨夜来大ニ味方ヲ失ヒタル故用心専一ナリト、言終ラザルニ大淵村ノ報ニハ、赤旗ヲ樹テ警部巡査四十人許り繰込ミ来ル、為ニ降ル者多シト、斯ク八方敵ヲ受ケタル上ハ討死スルノ外ナシ、併シ一時寺尾村へ引揚ゲ、山中ニ潜ミ、運命ヲ俟ント述べタレバ、何レモ同意ニ付」(「田代栄助訊問調書」)と言う。
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栄助が兵の配置を尋ねる。皆野の渡船場には銃2挺・竹槍12~13人、本陣の周りには竹槍隊は多いが銃砲隊は僅か7~8人、と頼りない限り。
整備された県警・軍隊の作戦配置は、郡内部に向けて無言の圧力をかけ、大宮の自衛隊も背後からの圧力となる。
そのうち、寄居口から憲兵・巡査隊150が侵入との報が入り、外秩父の坂本村からは来援を求める使者がくる。
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(この後)
栄助が皆野防備を固める為に呼ぼうとした甲隊では、長楽寺前で出発まぎわに周三郎が負傷。
この日、栄助3男八作が父を訪ねて来て、しばらく親子の対話が続く。この倅の訪問は、栄助の精神的虚脱状態を一層深める。
状況は悲観的で、戦術的には包囲されつつあるが、主軍はまだ一戦も交えていない。
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・東京鎮台第3大隊第3中隊、児玉着。この夜、困民軍と戦闘。
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自衛を始める大宮郷
この日午前7時、上影森からの使者2人が大宮郷の重立ちに対し、大宮郷の暴徒に対する弱腰を批判。
大宮郷の重立ちは、これを受けて各町内に相談すると、「暴徒ノ防禦」に異議なく、「先ヅ暴徒ノ攻メ寄セザルウチ、此方ヨリ進撃スベシ」ということになる。
この旨を使者に返答すると、使者は「然ラバ其加勢ニ入方ヨリ鉄砲方ヲ差向クベシ」と言って帰って行く。
この頃になると大宮郷の住民は、下の方から上ってきた困民軍兵士を捕えるようになる。
午前10時、大宮郷は、改めて上・下影森村や浦山など上方の諸村に鉄砲方の出動を要請、諸村はこれを快諾。
正午頃、上方から鉄砲方が駆け付け、大宮郷の者達と合同し自衛隊を組織する。
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山狩りをしながら、
午後4時、大野原村蓼沼の構瀬川べりに進み布陣し、近くの山林に潜伏する残徒6~7名を捕える。
午後5時頃、応援の鉄砲方は、兵食が届かないのを怒って自村へ帰り始め、夜に入ると自衛隊主力も大宮郷に後退し、帰宅する者が多く、自然解散となる。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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