2010年2月11日木曜日

本能寺の変(2) 天正10年(1582)5月1日~15日 三職推任勅使、安土到着 秀吉、清水宗治の備中高松城を水攻め開始 長宗我部氏攻撃の四国方面軍編成

天正10年(1582)5月
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この月
・信長から上野を与えられた滝川一益、関東に入国(3月)、居城を上野箕輪、次いで5月、上野厩橋城へと移る。
上野の諸将の出仕が相次ぎ、織田家の関東支配が現実のものとなる。
常陸の佐竹家、下野の宇都宮家、安房の里見家ら関東の有力武将、さらに陸奥の伊達家や芦名家も臣従の姿勢を見せる。
北条氏の危機。
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5月1日
・秀吉、黒田官兵衛の案により「水攻め」を決定。
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5月2日
・秀吉方の宇喜多忠家、備中宮路山城を陥落。
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5月3日
・安土下向の信長への三職推任勅使一行(勧修寺晴豊ら)に「いか様の官にも任ぜられ」とする誠仁親王の信長宛消息が下される。勅使下向に際し、立入宗継が路次賄い者として随行。
4日、勅使、安土城登城。信長は会おうとせず森蘭丸に用向きを尋ねさせる。使者は、誠仁親王の意思(「いかようの官にも」任命する)を伝え、口上として「関東を打ち果たされ珍重に候間、将軍になされるべき由」と答える。
信長は、楠長諳(ちょうあん)を介し、「御返事を申し入れないで、お使者のお目にかかるのはいかがなものか。その事を心得えなさるように」と伝えさせ会わず。
6日、ようやく、信長は琵琶湖の舟上で勅使に面謁、三職推任の朝廷の意志を受け取る。勧修寺晴豊(「日々記」の筆者)、同行。信長は返答保留し、上洛の意志を伝える。
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安土城に到着した勅使は、天皇と親王からの御書と進物を渡す。
親王の消息は、「天下いよいよ静謐に申し付けられ候。奇特日を経てハなお際限なき、朝家の御満足、古今比類無き事候へハ、いか様の官にも任ぜられ、油断無く馳走申され候ハん事、肝要に候。余りにめてたさのまま御乳をもさしくだし侯。この一包見参に入れ候」。
その後、森乱丸が現れ、何のための勅使なのか、と尋ねる。先月23日にも勅使を迎えているのだから、これは当然の質問。
晴豊は、「関東打ちはたされ、珍重に候間、将軍ニなさるべきよし」(晴豊の個人的な回答であろうが、三職のうち「将軍」と特定している)。
この後、乱丸が信長の返事を持ってくるが、内容は否定的なものであったようだ。
さらに右筆で側近の楠木長諳が、返事をしないのにお目にかかるのはどうか、晴豊はどう思うかと信長が言っている、ということである。
晴豊は、いずれにしても、一度会ってほしい、と申し入れる。
すると、重ねて天皇・親王宛てに返事を出してきた。
翌々日の6日、信長は勅使に会うが、返事は既に済ませてあるので、官職に関する話は出なかった。その夕方、勅使と晴豊は、舟で大津まで送られる。
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「その事を心得えなさるように」:勅使下向に先立ち、信長と朝廷の間で推任されても受諾しない密約が交わされていたと考えられる(立花花子説)。信長は勅使派遣のみを要求(後に、状況好転の時に補任にこぎつける積り)、従って、「いか様の官にても任ぜられる」と手紙を書ける。
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(黒幕説)親王は限りなく黒いとする立花花子説:
親王は実現不可能な信長の三職推任を許すが、一方でそのための準備を整えていない。その必要もない。信長は上洛の翌々日に討たれる。(「新説・本能寺の変」)。
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5月3日
・吉田兼見、誠仁親王の推挙により従三位に上階。
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5月3日
・小早川隆景、村上元吉(能島)へ、昨日秀吉自身が備中加茂城を攻撃した、警固について乃美宗勝が通達と通知(「村上文書」)。
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5月4日
・村井貞勝、吉田兼和より、節句の礼を受ける(「兼見卿記」)。5日、留守中、山科言経と冷泉為満の訪問を受ける(「言経卿記」)。7日、禁裏より鯉を賜る(「日々記」)。21日、勅使を受ける(「日々記」)。22日、天皇・皇太子への信長の献上品を献上(「日々記」)。23日、天皇・皇太子より物を賜る(「日々記」)。25日、栂尾高山寺に対する神護寺の要求を斥け、高山寺に寺領を安堵(「高山寺文書」)。27日、勅使勧修寺晴豊より、信忠への贈品を預かる(「日々記」)。
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5月6日
・織田軍北陸方面軍、魚津城の二の丸占領。
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5月6日
・秀吉、亀井茲矩へ、備中巣蜘塚城・河屋城・加茂城・亀石城攻略を通知し備中平定を予告。
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5月7日
秀吉、高松城(岡山市)水攻め開始
秀吉、毛利方の清水宗治を高松城に囲む。周囲に昼夜兼行で水攻め築堤作業を開始。
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5月7日
・信長、3男神戸三七信孝に四国征伐命ず。後見は惟住(丹羽)長秀。信孝に讃岐、三好康長に阿波を与えることを約す(残りの伊代・土佐2国については、信長が淡路に出陣したときに決めることとする)。
9日、先陣三好康長、阿波勝瑞城(徳島県藍住町)入り。一宮、夷山(蛮山)城(ともに徳島市内)攻略。
11日、神戸(織田)信孝、出陣。
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天正3年(1575)、長宗我部元親が土佐を統一、明智光秀を仲介して信長に誼を通じ、信長は元親に四国切り取り次第の朱印状を渡す。
後、長宗我部氏とは阿波・讃岐で争う三好康長が投降し、信長はこれを重用、元親に土佐と阿波南半国の領有を許すが他は認めないと通告。
明智光秀は長宗我部氏説得を試みるが元親は応じず。
天正9年、信長は三好康長を阿波に派遣、長宗我部氏に属する息子(岩倉城主式部少輔)を説得工作。
天正10年2月、再度三好康長を四国に派遣して長宗我部氏を押える。
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神戸信孝:
2男信雄より20日ほど早く生まれるが、母親(坂氏)の身分が低く3男にされたという。
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5月9日
・毛利輝元、村上武吉・村上元吉(能島)へ秀吉が備中国境に布陣している旨を通達(「村上文書」)。
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5月11日
・神戸信孝(織田信孝)、織田信澄・丹羽長秀らを従えて摂津住吉に集結。
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5月11日
・家康、御礼言上のため穴山梅雪とともに浜松を発って安土に向かう(甲斐征討の論功行賞で家康は駿河を、穴山梅雪は旧領を安堵)。本多平八郎忠勝、同行。
15日、安土城着。15日~17日、明智(惟住日向守)光秀、接待の任につく。
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穴山梅雪(信君)は、母が信玄の姉、妻が信玄の娘という武田家の重鎮。織田軍の攻撃に崩壊する武田軍前線の中で、駿河方面の総指揮官として対徳川の前線を守備していたが、2月15日、甲府に人質として預けていた妻子を脱出させ、徳川勢を駿河に引き入れる。
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5月11日
・秀吉、本陣を石井山に移す。
日幡城、毛利家上原の裏切で城主日幡六郎兵衛を失い落城。小早川隆景、城を奪還。
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5月12日
・信長、安土の一角に摠見寺を創設し、ここに、みずからを日本絶対君主であり、地上に神のいのちを持った不滅の主とまつり礼拝せよと命令(フロイス「回想の織田信長」)。自分の誕生日を「聖日」として布告し、緒将に総見寺を参詣するよう命じる。
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「信長は創造主にして、世のあがない主であるデウスのみに捧げられるべき祭祀と礼拝を横領した。あまりに途方もなく、狂気じみた暴挙に及んだ…」(フロイス「日本史」)
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「・・・更に彼は領内の諸国に触れを出し、それら諸国のすべての町村、部落のあらゆる身分の男女、貴人、武士、庶民、賤民が、その年の第五月の彼が生まれた日(5月12日)に、同寺(摠見寺)とそこに安置されている神体を礼拝しに来るように命じた。諸国、遠方から同所に集合した人々は甚大で、とうてい信じられぬばかりであった。
しかるに信長は、創造主にして世の贖(アガナ)い主であられるデウスにのみ捧げられるべき祭祠と礼拝を横領するはどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので、我らの主なるデウスは、彼があの群衆と衆人の参拝を見て味わっていた歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった。」(「回想の織田信長」)
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5月14日
・信忠、甲斐から凱旋。上洛の途中、ばんばに立ち寄り暫く休息。惟住五郎左衛門が酒肴の接待。丹羽長秀と酒を呑む(米原)。信忠はその日の内に安土へ出発。
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5月15日
・秀吉、毛利方清水宗治の備中高松城を包囲、足守川を堰止めて水攻め
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景軍が高松城来護の報がもたらされる。この日、高松城落城を見越して、信長に出陣要請の使者をたてる
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5月15日
・上杉景勝、魚津城救援のため越中天神山(魚津市)に陣を置く。
27日、関東口より滝川一益、美濃口より海津城城主森長可5千、越後に侵入、攻撃したため、越中を棄てる覚悟で景勝は軍を返す。6月3日、魚津城。落城。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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