2010年2月21日日曜日

本能寺の変(3) 天正10年(1582)5月17日~29日 秀吉の高松城水攻め完了 信長上洛 信忠上洛 家康大坂着 光秀の愛宕百韻 信孝の四国方面軍大坂に集結

天正10年(1582)5月
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5月17日
・信長、明智光秀・細川忠興・池田恒興・塩川吉大夫・高山重友・中川清秀に中国の秀吉救援を命ず。
光秀、家康の饗応役を解かれ近江坂本(大津市)に帰る。他もそれぞれ帰国して、出陣の用意に掛かる。
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5月17日
・朝、津田宗及、安土での松井友閑の茶会に招かれ、そのまま安土に留まる。
19日には、信長の招きで上洛した家康饗応の席に相伴。
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5月19日
・信長、家康一行の道中の労をねぎらい、安土山惣見寺で幸若八郎九郎大夫の舞、丹波猿楽・梅若大夫の能を舞わせる。
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近衛・信長・家康・穴山梅雪・長安(楠木政虎)・長雲・友閑・夕庵(武井爾云)・宗及・小姓衆・馬廻・年寄衆・家康家臣衆などが、見物。
舞2番・能3番があり、梅若の能が不出来で、梅若を折檻。改めて幸若舞があり、信長の機嫌が直り、幸若は黄金10枚を与えられる(「信長公記」巻15)。
この「幸若先・猿楽後」という格式・序列は江戸幕府においてもそのまま踏襲される。
信長は幸若好きで、特に「敦盛」を好み、自らも舞ったという(「信長公記」巻1)。
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5月19日
・秀吉の高松城水攻めの堤防、完成。数日で満水となり、城は孤城となる。
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5月20日
・信長、惟住五郎左衛門、堀久太郎、長谷川竹、菅谷玖右衛門に家康接待の用意を命ず。高雲寺御殿で家康、穴山梅雪、石河伯耆、酒井左衛門尉、その外家老に食事を出し、信長自らも膳を共にし敬意を表す。家康と供の人達を安土城に案内。
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5月20日
・鈴木孫一、岸和田の織田軍に参上し忠節をつくすことを誓う。
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5月21日
・家康一行(穴山梅雪が同行)、2千を率いる信忠に付添われ安土城発。
織田方の重臣長谷川秀一を案内役に、大阪での接待を織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門に命ず。
同日、信忠、上洛。二条室町の妙覚寺を宿所とする。信忠は信長名代として朝廷関係者から接遇され、正親町天皇や誠仁親王と幾度も贈品をやり取りする。
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5月21日
・丹羽長秀、織田信孝を奉じて四国征伐に向かうため大坂に出陣。
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5月21日
・清水宗治救援軍4万到着。毛利輝元、高松城まで5里の猿掛城に本陣。
小早川隆景、高松城西南30町の日差山。吉川元春、日差山北方岩崎山。
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5月22日
・柴田勢に追われた能登正院の旧城主長景連(上杉景勝家臣)、海路七尾対岸宇出津上陸。棚木城落すも前田利家勢(長連竜・前田安勝ら)の攻撃に全滅、開城。
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5月23日
・信長の命により滝川一益、上野より越後に攻め入ろうとして三国峠を攻める。
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5月25日
・高松城水攻めのための秀吉の堤が満水。高松城周辺が水浸しになる。
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5月25日
・滝川一益、伊達輝宗家臣遠藤基信へ、東国警固のために上野厩橋在城を報じ近日中の対談を要望(「建勲神社文書」)。
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5月26日
・織田信忠・家康・穴山信君、「清水」で能興行を見物、暮れに宿所へ帰る(「日々記」)。
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5月26日
・明智光秀、近江坂本城より丹波亀山城に移る。
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「明智軍記」では、亀山城の光秀のもとに、信長使者青山与三が訪れ、「出雲・石見2ヶ国を与えるが、丹波・近江の志賀郡は召し上げる」との信長命令を伝えた。光秀・家臣らは、「闇夜に迷う心地しけり」という。
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5月27日
・織田信孝、丹羽長秀・織田信澄ら部将と「はなはだ華美で規律正しい」兵1万4千を率い安土を発つ。途中京都を経て、29日、摂津住吉に泊まり、軍勢は堺に陣取る(フロイス「日本史)。
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5月27日
・織田信忠、京都より森成利(森蘭丸)へ、近々信長の中国方面出馬あり予定の堺の見物を遠慮し、信長上洛を待受ける信長御諚を得て通達するよう要請(「小畠文書」)。
29日、森成利、信長上洛出迎えの者たちに「御迎各無用」の旨を通達(「兼見卿記」2)。
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信忠は、「中国表近々お馬を出でらるべく侯条、我々堺見物の儀、先ず遠慮致し侯、一両日中にご上洛の旨に侯間、是に相待ち申し侯」と信長へ書き送る。
信忠を迎える準備を進めていた堺の町衆は大いに落胆。千利休は、「殿様(信忠)御下向成られず侯に付きて、我等式を初め、南北名々力をうしなひ侯、茶湯面目を失ひ侯」と嘆く。
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5月27日
・明智光秀、愛宕山愛宕権現に戦勝祈願。
何度もおみくじをひく(「信長公記」)。決断に揺れる光秀の心境を示すとされる。
謀反の前々日。28日、愛宕山愛宕山西坊で連歌百韻興行。里村紹巴(じょうは)・同昌叱らと戦勝祈願の連歌会を催す。
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□「愛宕百韻」
(発句)「ときは今天が下しる五月哉」(光秀)、
(脇句)「水上まさる庭の夏山」(行裕)、
(三句)「花落ちる池の流れをせきとめて」(紹巴)。
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行裕の脇句は、1年前の天正9(1581)年4月12日の丹後宮津での連句会(連衆は光秀と秀満父子・藤孝・忠興と興元父子・行裕・里村紹巴・津田宗及・山上宗二・平野道是)で藤孝が詠んだ句「夏山うつす水のみなかみ」のひっくり返しの句。
天正9年の連歌会=愛宕百韻の主旨は信長を討つことで、愛宕には藤孝も参加する予定であったことを示す。
「愛宕百韻」には藤孝が欠席したので、亭主行裕が藤孝の気持ちを推量して、前年の藤孝の脇句を本歌取りの元句に選ぶ。細川藤孝=信長打倒メンバー説。
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□「ときは今天が下しる五月哉」:
「天が下しる」は「天皇が天かを支配する」との解釈(津田勇)。治承4(1180)年5月23日宇治川の合戦、承久3(1221)年5月10日後鳥羽院の決起、元弘3(1333)年5月10日足利高氏の京都入り。朝廷を蔑ろにする平氏政権を下す源氏武将の出陣が5月であることを踏まえての句とする(津田勇説)。
「とき」は光秀の家系土岐氏、「あめが下」は「天下」、「しる」は「統る」を暗喩し、光秀が天下を治める決意を示すもの。(樋口晴彦)
謀反の意思がわかるような句をわざわざ詠むことはありえないとの批判(鈴木真哉・藤木正行)あり。
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□紹巴の「花落ちる流れの末をせきとめて」:
紹巴が光秀の胸中を察し光秀を諌言したものだとも云われる。
のち、秀吉がこの連歌会のことを知り、紹巴にその時の懐紙を持参させる。紹巴は、光秀の発句の「下しる」の「し」を消して再び書き込み、初めは「時は今あめが下なる五月かな」とあったものを、何人かが紹巴を陥れる為に「下しる」と改竄したのだと弁明し、事なきを得たと云う。
しかし、この事の典拠は必ずしも明確でない。紹巴は、「変」当日、二条御所から誠仁親王が内裏に逃れる際に、洛中の新在家から荷輿を用意して、これに乗って内裏に移る(「兼見卿記」)。親王を守るために事前に紹巴が用意したとも考えられる。6月9日夜、紹巴は吉田兼見邸で、愛宕山における連歌会メンバー里村昌叱・同心前、光秀と夕食を共にする。秀吉との一戦を前に、光秀の前途を憂える晩餐会であった(「兼見卿記」)。
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■光秀にとって突然の偶然のチャンス
連歌会に集まった里村紹巴などの連歌師たちが、この日(27日)、信忠が急遽大阪行きを取り止めたとの情報を光秀に伝える。
光秀は、後に細川藤孝宛て書簡で「不慮の儀」と説明する突然の閃きを得る。
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①信長は小人数で防備手薄な本能寺に泊まる。
②信長後継者信忠も妙覚寺に泊まる。
③自身は中国出陣命令で、京都に近い亀山城に公然と軍隊を集めることができる。また、信長の閲兵という口実をつければ完全武装で京都に向かうこともできる。
④秀吉は毛利軍対応により備中で釘付け。柴田勝家は上杉景勝と対陣中で北陸に釘付け。滝川一益は東国経営を担当し不在。丹羽長秀は織田信孝と四国攻めのために大坂にいる。織田信雄は居城伊勢桧ケ島にいる。家康は小人数で上洛しその後堺に行く予定。
光秀にとって、謀反の妨げになる者はいない、また決行後もすぐに反撃できる者もいない。
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5月27日
・秀吉に水攻めにされている毛利方、安国寺恵瓊を通じ、備中・美作・備後・伯耆・出雲5ヶ国の織田方への譲渡を条件に備中高松城将兵を助命する要望書を秀吉に申し入れる。
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5月27日
・津田宗及、京都に住む薬師竹田法印の茶会に赴く。
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5月28日
・細川忠興、一色義清の丹後弓木城を落とす。
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5月29日
・信長、上洛(前年3月以来1年2ヶ月ぶり)。70人。午後4時、本能寺入り。吉田兼見は信長を出迎えるため山科まで出向き数時間待つが、信長は現れず、正午頃には雨も降り出す。信長到着前には森乱(蘭丸)が出迎え無用と知らせたので、急いで帰宅(「兼見卿記」)。粟田口まで出かけた勧修寺晴豊も帰宅(「晴豊公記)。
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5月29日
・家康一向、長谷川秀一の案内で大坂に下り、ついで堺に到る。
代官松井友閑、堺での家康一行接待の分担を決め手配。
津田宗及ら堺衆は、松井友閑の指示により交替で接待役をつとめる。
家康一行、津田宗及宅で昼茶席の接待を受け、松井友閑宅に泊る。家康は滞在中頻りに茶会に出席し堺衆の間に人脈を築こうと努める。
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宇野主水(顕如の右筆)は早速、酒肴三種五荷を贈って音信を通じる。
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5月29日
・明智光秀、中国出陣のため弾薬・長持を西国へ発送(「川角太閤記」)。偽装工作・逡巡説などあり。
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荷物を西国に送る話は、光秀家臣山崎長門守(のち前田利家に仕え重臣となり、大坂の陣にも参加)や林亀之助(豊臣秀次、福島正則、松平忠明に仕えたという)の遺談だという。
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5月29日
・四国攻めの大将神戸信孝、堺の北の住吉着。副将丹羽・信澄は大坂、蜂屋は岸和田に軍を集結。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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