2010年5月15日土曜日

治承4(1180)年8月19日~22日 頼朝の「関東事施行の始め」(吾妻鏡) 関東の46武将、頼朝に従い土肥郷に入る

治承4(1180)年8月19日
・頼朝の「関東事施行の始め」
親王宣旨状(令旨)により東国沙汰権(支配権)を認められたと主張。この令旨の存在が頼朝を単なる謀反人と区別する。
蒲屋御厨安堵の下文発給。
北条政子を伊豆山文陽坊覚渕に託し、所領寄進を約束。三島大社に所領寄進。
安房在庁武士安西景益に在庁官人の帰属要請。
江戸重長に武蔵在庁官人・郡司の支配権を与える。
史大夫中原知親の伊豆目代を解官。
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「兼隆が親戚史大夫知親、当国蒲屋の御廚に在り。日者非法を張行し、土民を悩乱せしむの間、その儀を停止すべきの趣、武衛下知を加えしめ給う。邦道奉行たり。これ関東の事施行の始めなり。その状に云く、
下す 蒲屋の御厨住民等の所
早く史大夫知親が奉行を停止すべき事
右東国に至りては、諸国一同、庄公皆御沙汰を為すべきの旨、親王宣旨の状明鏡なり。てえれば、住民等その旨を存じ、安堵すべきものなり。仍って仰せの所、故に以て下す。
治承四年八月十九日
またこの間、土肥の辺より北條に参るの勇士等、走湯山を以て往還の路と為す。仍って多く狼藉を見るの由、彼の山の衆徒等参訴するの間、武衛今日御自筆の御書を遣わされ、これを宥め仰せらる。世上無為に属くの後、伊豆の一所、相模の一所、庄園を当山に奉寄せらるべし。凡そ関東に於いて、権現の御威光を耀かし奉るべきの趣、これを載せらる。茲に因って、衆徒等忽ち以て憤りを慰むものなり。晩に及び、御台所走湯山の文陽房覚淵の坊に渡御す。邦道・昌長等御共に候す。世上落居の程、潛かにこの所に寄宿せしめ給うべしと。 」(「吾妻鏡」同日条)。
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□現代語訳。
「己亥。兼隆の親戚にあたる史大夫(中原)知親は、現在伊豆国の蒲屋御厨におり、日頃から非法ばかり働いて土地の人々を悩ませていたので、それを止めるようにと武衛が御命令を出された。(藤原)邦通が奉行した。これが関東における施政の始めである。その文書は次の通りである。 
下命する 蒲屋御厨住民等の所に。 早く史大夫知親の奉行を停止すべきこと。 右、東国では、全ての国々の庄園・公領はみな(頼朝の)支配下に置くと、親王(以仁王)の宣旨に明らかであるので、住民等はそのことを弁(ワキマ)え、安堵しなさい。そこで、御命令になったところを特に命ずる。
治承四年八月十九日
またこの時期、土肥の辺りから北条にやってくる勇士たちが、走湯山を往還の道としていた。そのため狼籍が多く見られたと走湯山の衆徒が訴えてきたので、武衛は今日、自筆の御書を送られ、お宥めになった。世情が安定したならば、伊豆国で一カ所、相模国で一カ所の庄園を走湯山に寄進すること、関東において権現の御威光を輝かせるようにするとの趣旨をお書きになった。これによって衆徒はみなたちまちに怒りをおさめた。晩になって御台所(政子)が(走湯山の)文陽房覚淵の坊にお渡りになった。邦通と昌長らが御供をした。世情が落ち着くまで密かにここに寄宿されるという。」
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8月20日
・北条・奈古谷・宇佐美・土肥・土屋・佐々木・中村ら46武将、蛭島郷に参集。
頼朝、伊豆を出て相模の土肥郷(神奈川県湯河原町)に入る。21~22日、軍議。 
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「三浦の介義明が一族已下、兼日進奉の輩有りと雖も、今に遅参す。これ或いは海路を隔てて風波を凌ぎ、或いは遠路を避けて艱難に泥むが故なり。
仍って武衛先ず伊豆・相模両国の御家人ばかりを相率い、伊豆の国を出て、相模の国土肥郷に赴かしめ給うなり。
扈従の輩 北條四郎 子息三郎 同四郎 平六時定 籐九郎盛長 工藤介茂光 子息五郎親光 宇佐美三郎助茂 土肥次郎實平 同彌太郎遠平 土屋三郎宗遠 次郎義清 同彌次郎忠光 岡崎四郎義實 同余一義忠 佐々木太郎定綱 同次郎経高 同三郎盛綱 同四郎高綱 天野籐内遠景 同六郎政景 宇佐美平太政光 同平次實政 大庭平太景義 豊田五郎景俊 新田四郎忠常 加藤五郎景員 同籐太光員 同籐次郎景廉 堀籐次親宗 同平四郎助政 天野平内光家 中村太郎景平 同次郎盛平 鮫島四郎宗家 七郎武者宣親 大見平二家秀 近藤七国平 平佐古太郎為重 那古谷橘次頼時 澤六郎宗家 義勝房成尋 中四郎惟重 中八惟平 新藤次俊長 小中太光家」(「吾妻鏡」同日条 改行を施す)。
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伊豆工藤介茂光・下総千葉介常胤・下野小山介朝政は、源氏に味方する。
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平家方は、
①伊豆伊東祐親:本領の久須美荘の領家は平重盛
②上野新田義重:新田荘の領家は平清盛娘婿父の藤原忠雅
③上総千田親正:妻が平清盛の姉
④下野足利俊綱・忠綱父子:秩父氏と合戦を繰返し、女性凶害で足利荘を没収されそうなとこを重盛の口添えで安堵されている。
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8月21日
・清盛、源通親らを伴い厳島と宇佐八幡参詣に赴く(宇佐八幡参詣は延期。10月初に参詣)。
この頃、高倉上皇の病気は回復していない。
福原の造都は軌道に乗り始める。
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8月22日
・三浦義澄・和田義盛軍、三浦衣笠を出発。
「三浦の次郎義澄・同十郎義連・大多和の三郎義久・子息義成・和田の太郎義盛・同次郎義茂・同三郎宗實・多々良の三郎重春・同四郎明宗・津久井の次郎義行以下、数輩の精兵を相率い、三浦を出て参向すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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