2010年6月28日月曜日

江戸城 平川橋 平川門 当時のままの「ぎぼし(擬宝珠)」

江戸城 平川門。
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竹橋から見た平川橋。
これで6月24日の午後5時44分です。
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同日昼間の平川橋と平川門。
スケッチされている方がたくさんおられたところをみると、このアングルが一番いい顔らしい。
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平川橋上から竹橋をみたところ。
正面のメガネの片方みたいのが竹橋。
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平川橋を渡って振り返ったところ。
毎日新聞社のあるパレスサイドビル。
「ガンバレ毎日」
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欄干の飾り、これを「ぎぼし(擬宝珠)」と呼ぶ。
これには、工事を請けた棟梁の名が刻まれている。
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「寛永元年」が読み取れる。
1624年、三代家光(21歳)の頃。
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こちらは慶長19年と読める。
1614年、大坂冬の陣の年である。
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これが平川門
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不浄門とも呼ばれ、浅野内匠頭もこの門から出されたと云う。
大奥(コチラ)からはこの門が一番近く、奥女中の通用門でもあったため「お局御門」とも云われたそうだ。
家光の乳母、春日局がある時何らかの理由で入門時刻に遅れ、門外に一晩野宿させられた逸話があるとも云われている。
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「★東京インデックス」をご参照下さい
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2010年6月27日日曜日

京都 高瀬川に沿って木屋町通そぞろ歩き(3) 加賀藩邸跡 二之船入跡 武市瑞山先生寓居之跡 吉村寅太郎寓居址 三之船入跡 池田屋騒動之址

今回は、高瀬川に沿って木屋町通を御池通りから三条通りまで下ります。
まず、木屋町御池南西角に加賀藩邸跡。



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その少し南に「二之船入跡」
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武市瑞山先生寓居之跡
もう少し南に行くと土佐藩邸があり、この辺りは土佐藩の人達の遺蹟が多い。
これは、土佐勤皇党の武市半平太。
吉村寅太郎の天誅組が壊滅する頃、武市らの土佐勤皇党は土佐藩により弾圧され始める。
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吉村寅太郎寓居址
こちらも土佐藩関連。
天誅組に殉じた人。
27歳の文久3年9月27日、大和鷲屋口で藤堂藩兵銃隊乱射を浴びて戦死。
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桜の頃のこの辺りの高瀬川
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三之船入跡
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そして、三条通りに達してから少し西に入ると
池田屋騒動之址
宮部鼎蔵、吉田稔麿ら大物が新撰組に襲撃され殺害されます。
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「★京都インデックス」をご参照下さい
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明治6年(1873)1月 司法卿江藤新平、大蔵省の予算削減に抗議し辞表提出 [一葉1歳]

明治6年(1873)
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1月7日
・(露暦12/26)チャイコフスキー、ペテルブルクのリムスキー・コルサコフの夜会訪問
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1月9日
・4鎮台を6鎮台、3万1,690を平時常備現役とする。
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1月10日
徴兵例発布
国民皆兵。士族の常職廃止(家禄支給の根拠は抹消。職業階層としての斉一性が士族から剥奪)。
しかし、財政的制約と山県の少数精鋭主義により広範な免役条項あり、軍主力は旧藩兵の寄集めとなる。
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1月10日
・京都府参事槙村正直、地方官が裁判権管轄する建白書「京都裁判所の弊害」を太政官正院へ提出。
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1月12日
・正院、敦賀~京都~大阪の鉄道は大蔵省の意見を入れて民営化の決定。
これまで京都中心に「西京鉄道株」として募集していたが、社名も「関西鉄道会社」と改め、追加70万円を募集。応募少ない。
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1月13日
・吉田清成、ロンドンでオリエンタル・バンク(英国東洋銀行)を引受け先とする契約調印。募集は好調、1,083万円余の実収を確保。
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1月14日 
・大蔵大輔井上馨、三条・大隈・渋沢らに説得されてしぶしぶ再出勤。
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1月14日
・足羽県(もと福井県)、敦賀県へ併合される。県庁所在地を巡る対立、惹起。
決着つかないまま、9年8月21日、敦賀県が消滅、越前7郡は石川県に、敦賀郡と若狭3郡は滋賀県に編入。 
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足羽県職員が全て同県内出身者で占められ、特に県庁は旧福井藩士の牙城の観を呈しており、これを除去したいとの政府の意図があると云われる(宮武外骨「府藩県制史」)。
実際、合併後、旧足羽県職員の多くが県庁を去る。
この敦賀県の成立は、越前7郡と若狭3郡及び敦賀郡との間に県庁の位置を巡る対立を起こすことになる。
前足羽県権大属富田厚積は、併合の非を訴える建白書を政府へ提出。
「県都」は、港湾都市としての将来性に疑問のある敦賀よりも、人口稠密で文化的伝統の蓄積された「閑静」な都市(福井)に置かれるべきであるとする富田の建白は、横浜で発行されている「日新真事誌」にも掲載され反響を呼ぶ。
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1月15日
・政府、各府県に公園候補地を選出する旨の指示
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1月19日
・大久保・木戸に召還勅命。
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1月21日
・(朝鮮)外務大丞花房義資、対馬厳原滞在外務省七等出仕(領事相当)守山茂宛に三越社員3名の釜山公館訪問伝える。厳原商人は朝鮮側商人と組んで、三井排斥に取り掛かる。
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 1月22日
・尼僧の蓄髪・肉食・婚姻・帰俗が自由となる
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1月24日
・江藤新平司法卿、大蔵省の予算削減に抗議し辞表提出(4千字の長文)。大蔵大輔井上馨・三等出仕渋沢栄一と対立。
司法大輔福岡孝弟・明法権頭楠田英世ら司法省官員、司法卿擁護の意見書、正院へ提出(江藤・井上の対立は、予算問題と大蔵省管轄地方官から裁判権と司法省に移管する司法権問題)。
2月5日、太政官正院、辞表却下(司法省の言分に根拠ありと認めたことになる)。
正院が歳入歳出を見直した結果、大蔵省の歳入見込みが過少であることが判明、各省予算減額に固執していた井上の面目失墜する。
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1月26日
・国際労働者協会分離派のロンドン大会、開催。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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「紅旗征戎、非吾事」(「明月記」)と堀田善衛

前回の私の「治承4年記」は、堀田善衛さんの「定家明月記私抄」で有名な「紅旗征戎、非吾事」の部分であった。
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改めてご紹介しようと思って読み直したところ、やはりこの部分は原文そのままがよいと思いましたので、以下に引用致します。
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堀田善衛「定家明月記私抄」の冒頭部分です(読み易くするために改行を施す)
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「序の記

国書刊行会本(明治四十四年刊)の『明月記』をはじめて手にしたのは、まだ戦時中のことであった。
言うまでもなく、いつあの召集令状なるものが来て戦場へ引っ張り出されるかわからぬ不安の日々に、歌人藤原定家の日記である『明月記』中に、

世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ。

という一文があることを知り、愕然としたことに端を発していた。

その当時すでにこの三巻本を入手することはまことにむずかしかった。私は知り合いの古本屋を、いつ召集されるかわからぬのに、この定家の日記を一日でも見ないで死んだのでほ死んでも死にきれぬ、といっておどかし、やっとのことで手に入れたものであった。

定家のこの一言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどのものであった。

自分がはじめたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されをかもしれぬ時に、戦争などおれの知ったことか、とは、もとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張裂けるような思いを経験させたものであった。

ましてこの一言が、わずかに十九歳の青年の言辞として記されていたことは、衝撃を倍加したものであった。
しかもこの青年が、如何にその当時として天下第一の職業歌人俊成の家に生れていて、自分もまたそれとして家業を継ぐべき位置にあったとしても、この年齢ですでに白氏文集中の詩の一節、「紅旗破賊吾ガ事ニ非ズ」を援用して、その時世時代の動きと、その間に在っての自己自身の在り様とを一挙に掴みとり、かつ昂然として言い抜いていることは、逆に当方をして絶望せしめるほどのものであった。

そうしてその当時に私が読んでいた解説書などもがどういうものであったかはすでに記憶にないのであるが、

「紅旗」とは朝廷において勢威を示すための、鳳凰や竜などの図柄のある赤い旗のこととをいい、「征戎」とは、中国における西方の蛮族、すなわち西戎にかけて、関東における源氏追討を意としていること、

つまりは自らが二流貴族として仕えている筈の朝廷自体も、またその朝廷が発起した軍事行動をも、両者ともに決然として否足し、それを、世の中に起っている乱逆追討の風聞は耳にうるさいほどであるが、いちいちこまかく書かない、と書き切っていることは、戦局の推移と、頻々として伝えられて来る小学校や中学校での同窓生の戦死の報が耳に満ちて、おのが生命の火をさえ目前に見るかと思っていた日日に、家業とはいえ彼の少年詩人の教養の深さとその応用能力などとともに、それは、もぅ一度練りかえすとして、絶望的なまでに当方にある覚悟を要求して来るほどのものであった。」
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しかし、実際には定家は、「之ヲ注セズ」としながらも、あちこち情報をよく集めている。
現実は、定家にとっては、また堀田さんにとっても、我々にとっても、「紅旗征戎」は重大な「吾事」なのである。
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この一節、承久3年(1221)5月に定家が筆写した『後撰和歌集』奥書にも記されていることなどから、後世の補筆であろうと指摘する論者がおられるという。
若い定家には出来過ぎた一句とも思われたのか。
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これに対し、
「若い時に覚えた好きな文章の一節は長く口ずさまれるものである、とそれには答えておきたい」の反論も勿論ある(五味文彦「明月記の史料学」)。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)
定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)
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定家明月記私抄 続篇 (ちくま学芸文庫)
定家明月記私抄 続篇 (ちくま学芸文庫)
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2010年6月25日金曜日

北の丸公園 ロケ中の石ちゃんにバッタリ 木瓜の実 ハナゾノツクバネウツギ クチナシ キョウチクトウ

本日(6月25日)の北の丸公園。
科学技術館前でロケ中の石ちゃんにバッタリ。
科学技術館見学直前の小学生は大喜び。
可愛い声で名前を呼ばれると、さすがに売れっ子石ちゃん、愛想よく応答されてました。
科学技術館の中はこれまた大騒ぎになったんではないでしょうか?

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散歩中に見付けたボケ(木瓜)の実
残念ながら花が咲いているときには気付かなかった。
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ハナゾノツクバネウツギ
これはよく見かけます
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クチナシ
千鳥が淵を望む石垣上の林の中で見付けました。
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余り自信がないのですが、キョウチクトウだと思います。
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池の辺りの風景。
眠そうな夏の昼さがりというところでしょうか。
両脇の石のベンチは、昔の高射砲の台座を利用したものとか、聞いたような・・・?
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2010年6月24日木曜日

江戸城 北桔橋門辺りのアジサイは見頃に  梅林坂に梅の香りほのかに漂う

梅雨の晴れ間の今日(6月24日)、江戸城へ。
午後からは快晴に近いお天気になりましたが、昼休みまでは曇り空。
北桔橋門を入った天守閣裏のアジサイは、そろそろ見頃ではないでしょうか。
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北桔橋門から梅林坂に至る手前の坂上にも、道の両側にアジサイ。
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坂を下りる辺りから、ほのかな梅の香りが漂う
こちらの梅は、今年は何度も記事にしました。(一例はコチラ
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梅の実は・・・、と探すと、アルワアルワ、あっちにもこっちにも。
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しかし皆さん、気を付けて下さい。
警備の方が、じっと見てますよ。
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「★東京インデックス」  「★四季のうつろいインデックス」をご参照下さい。
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2010年6月22日火曜日

大村益次郎像を見に靖国神社へ行って、沖縄で役目を終えた大砲を見た。明日は6月23日。

昨日(6月21日)、靖国神社にゆきました。
先般の記事で大村益次郎の遭難地の碑を紹介した際、 この人の像が靖国神社にあるのを思い出したので。
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靖国神社についても、過去何度か記事にしてます。
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靖国神社の前身の東京招魂社は、明治2年6月29日、大村益次郎の建策によって創建。
戊辰戦争での朝廷側の戦死者を慰霊する目的であった。
その後、明治12年に靖国神社と改名。
・・・という訳で、大村益次郎さんがここにいるという訳です。

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昼休みとはいえ、やや時間があったので、脇にある宝物館みたいなところの「無料」エリアだけに立ち寄って来ました。
沖縄で最後の役目を終えた大砲が展示されていました。
狙って来た訳でもないんですが、6月23日という日に、沖縄にあったこの大砲の周囲で何が起っていたかを自分なりに想像しました。
下の説明を読んで下さい。
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ゼロ戦。
重慶爆撃では、「敵」をバンバンやっつけたみたいな自慢が看板に書いてありました。
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鳥居の脇に大きな看板。
上の宝物館の奥に展示会場があったようです。但し、金300円也。
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つい先日、わがカン新首相が、靖国参拝に関する記者質問に答え、A級戦犯が合祀されているので、靖国には行かないと、このヒトらしい無難な答えをしていました。
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まあ、A級戦犯合祀も一つの理屈ではありますが、この神社が主張する、あの戦争は「正戦」「聖戦」という意見に与しないと云うべきでしょう。
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戦争で身内や友人を亡くした人にとって、その戦死が侵略戦争による犬死(失礼)とは云われたくない、思いたくないのは良く判るのですが、そこにつけこむヤツラがいるんですね。
侵略戦争による犬死では、兵士の後釜がいなってしまうしね。
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「万朶の桜」も、同列線上にある。
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あの戦争で召集されて行った父や友が、「息子よ友よ俺に続け」と、言った例はあったのだろうか?
無言の人々をもてあそんではいけない。
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2010年6月20日日曜日

北の丸公園 木陰の下、小川が流れる アジサイ ハナショウブ

北の丸公園
久しぶりです
この時期、公園の花ばなには際立ってご紹介できるものはありません。
ただ、夏日となった梅雨の晴れ間でも、豊富な木立や小川の流れが、涼しさを呉れます。
下の写真は全て6月17日現在のものです。
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千鳥が淵側の林の中に、小川が流れています。
小さな滝からの水音も涼しげです。


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下の写真は小川の下流側
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林の風景
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工芸館前の池にハナショウブ
池の畔のアジサイ
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小川近くにあるガクアイサイ
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明治17(1884)年11月4日(6) 落合寅市の最後の戦い 粥仁田(新田)峠の戦い 小川口の官憲側の動き 住民の自衛

明治17(1884)年11月4日
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・午後、落合寅市、困民軍80~100を指揮し粥仁田峠越え、坂本村に進出。
2手に別れ、南は皆谷・白石村、北は大内沢村に働きかける。
この地方の警官隊37に加え、猟師38・壮丁83で補助隊を編成。
夜、補助隊が困民軍に取込まれ、警官隊は挟撃の危機を辛くも脱出。
この日夜11時、鎮台兵1半隊が小川に到着(小川には自衛団400が結成)。
翌5日午前2時、鎮台兵・警官隊、坂本に向かい出発。
粥仁田峠をはさみ交戦。困民軍は後退。
農民52を捕縛し、5日午後、官兵は大宮郷入り。
落合寅市は皆野本陣壊滅を知り姿を消す。
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□困民軍の坂本進出
3日、乙隊主力が大野原村から皆野村に進出した際、途中の大野原村・黒谷村境の蓼沼にある横瀬川に架かる下小川橋には、後方の固めとしてかなりの人員が残置される。
風布村の学務委員で花火師の宮下沢五郎(32歳)、桜沢村の木嶋善一郎(34歳)、三沢村の反町嘉平、横瀬村の千嶋周作らが隊長分となり、横瀬村の花火師町田代造方から借りてきた烟火筒(花火の打ち上げ用の筒)や、自製の破裂弾を持って布陣。
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木嶋善一郎:
男衾郡桜沢村の博徒で綽名は「官軍善」、「木島伊豫守源ノ善一」とか「信勝」と自称。蜂起前は榛沢郡のオルグに当り、黒谷橋では「白ノ唐縮緬ニ紋ヲ書キタル」指揮旗を持つ。
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4日午前10時頃、伝令が、「本野上ノ憲兵巡査ガ押来りタルニ付、此ノ蓼沼ニ於テ陣ヲ取ルガヨカラン」と伝えたので、官兵阻止の為に橋を焼くことも予想し、石油を買いに大宮郷に走ったり、堀を掘るなどして陣地を構築。
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また、この日この頃、ここで「諸隊長ノ会議」が開かれて軍用金の分配があり、参謀長菊池貫平は、
「速カニ信州ニ赴キ、同所之暴徒卜合併シテ大事ヲ謀ラン」
と部下を集めて大宮郷に向い、
大隊長落合寅市は、
「坂本村ヲ初メ、小川最寄ニハ同盟ノ者モ有之ニ付、速カニ広地ニ出デザレバ、此狭隘ナル山中ニテハ迚(トテ)モ滞陣難相成、且ツ兵糧攻メニセラル、憂ヒアラバ、迅速出張スベシ」
と主張して、この方面への進出を指揮することになる。
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この時、落合寅市は、宮下沢五郎らに対し、
「本野上ニ来ル憲兵巡査モ皆ナ寄居町へ逃ゲ去りタルヲ以テ、皆野ニ屯集シタルモノ本野上村ヲ経テ寄居町ニ押出シ、大野原村ニ堅メ居ルモノハ坂元村ヨリ小川町ヲ襲撃シ、今市村ヲ経テ熊谷駅ニ繰出ス手配ナリ」
と指示し、4日正午頃、人員50~60名、火縄銃30挺・木砲1門を持って、三沢村~坂本村に向う。
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落合隊は、蓼沼出発前、坂本村戸島役場の筆生で自由党員福島敬三が差し向けた特使の飯田米蔵(46歳)から、「警部巡査四〇人程坂本村戸長役場に出張」と聞いているが、「我隊ガ進メバ皆ナ逃ゲ去ル」と軽視。
午後6時頃、粥新田峠に到着。
坂本村の鉄砲組4、5人が待っていて、「我々是処ニ見張スルト雖モ、固ヨリ我ガ村内之者ハ貴殿共へ味方ヲ致ス心得ニ付案内致スベシ」と先導を買って出る。
落合隊はここで休憩し、月の出になって坂本村に進出することにし、夜間の仲間識別として「天卜言ヒバ地卜答フル」ことを定める。
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日暮になり、峠の頂上で烟火筒を発砲して気勢をあげ、鯨波をつくり、「先ハ鉄砲、次ハ大砲、次ハ抜刀、次ハ竹槍、其後ガ人足」の隊列で、「暗夜ノ事ナレバ火縄三〇モヒカヒカ」させながら、「鉄砲ヲ打チ打チ」峠を下り、午後9時頃坂本村に入る。
村の入口にも鉄砲方数人がいて落合隊を迎える。
落合隊は村の前後に哨兵を配置し、人の出入を検問し、近村に働きかけて人足の狩りだしを行う。
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□小川口の警備
3日午前1時、松山警察署長吉峰警部(1日の下吉田村戸長役場で敗退し小川分署に退避中)は、寄居本部の警部長から
「暴徒ハ四隊ニ分レ、一ハ小川ヨリ松山ヲ襲フノ形勢ナルニ由り、該地ヲ防禦スベシ」
との命令を受ける。
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しかし同警部の手許には、共に敗退してきた巡査数人(含む、負傷者)だけのため、「僅々ノ巡査ニテハ防グ術ナシ、故ニ松山マデ引揚ゲ十分ニ部署」することにし、松山の自署に戻り、郡長・戸長と協議し、土地の士族や壮者、月ノ輪村撃剣会の応援を求めるなどの対策に奔走。
この時、再び警部長から「松山ヲ引揚ゲ、西平ロヨリ嶺ヲ越へ、暴徒ノ脱漏ヲ防ギ、大宮郷ニ進入スベシ」との命令が伝えられる。このため、午後4時、吉蜂警部は松山を発して小川に戻り、寄居本部から来援の警官隊を待つ。
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比企郡ノ月輪村の撃剣会は、「左右社」と呼ばれ流派は甲源一刀流。社長大塚奓恵八は、剣士数名を率い吉峰警部を追い小川村に進出し、警部らは西平村に出撃していたので、8日まで小川町警備につく。
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小川口から大宮郷への道には、
①坂本村間道と
②西平村間道があり、
3日正午頃、寄居本部から、
①坂本村間道の警備要員として山室警部(熊谷警察署長、宮崎県士族、30歳)と安岡警部補(警察本署詰、熊本県士族、27歳)指揮の巡査35名が、また
②西平村間道の警備要員として深滝警部補(小川分署長、新潟県士族、29歳)と巡査25名が派遣されてくる。
吉峰警部は西平村間道警備を指揮し、吉峰警部と共に後退して来た斉藤警部(大宮郷警察署長 埼玉県士族、43歳)は小川分署に残留することになる。
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①坂本村間道の警備の模様。
3日正午頃、小川分署に入った山室警部は、斥候を出して動静を探り、「賊未ダ粥新田峠ヲ踰(コ)へズ」と知り、午後6時、坂本村戸長役場に進出、戸長役場を本営と定め、落合と粥新田峠と定峯峠に通ずる要路に哨兵を配置。
更に、戸長役場に依頼して猟師と人夫を募り、皆谷村・坂本村・大内沢村からの応募者111人(猟師37、人夫82)をこれら各哨所に分配。
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翌4日、定峯峠の斥候から、暴徒に附随した者から得た情報として、「金崎村ニ往ク途中憲兵ノ砲撃ニ遇ヒ、暴徒二人ノ斃ルルヲ見テ驚テ遁レ来ル」の報告がある。
その後、小川分署に残留の斉藤警部から「皆野ロノ憲兵防グ能ハズ、賊二千人象ケ鼻ニ進行ス」との急報が入る。
すると、応募の猟師・人夫全員が帰宅してしまう。
撃剣家田中峰三郎が、警官隊本営に来て協力を申し出るが、山室警部はその挙動を怪しみ謝絶。
すると間もなくこの田中峰三郎は「長刀ヲ構へ、袴ヲ穿チ、村民数名ヲ率ヒ、大内沢の間道ヨリ皆野ロノ賊軍ニ赴ケリ」との報告が入り、山室警部は「村民ノ侍ム可ラザル」の疑念を抱く。
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この時、戸長役場の筆生・福嶋敬三(自由党員)が来て、「粥新田峠ノ斥候ヲ為シ、且村民飯田米蔵ニ命ジ、賊ノ状況ヲ偵ハシムルニ、三沢村以南賊氛絶へテナク、何ゾ速ニ営ヲ三沢ニ移シ、民情ヲ鎮圧セザルヤ」と申し入れてくるが、山室警部はこの進言を退ける。
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その後、小川分署の斉藤警部から、「暴徒二百名横瀬ロヨリ定峰ニ出デ小川ヲ襲フノ状況アリ」との飛報が入る。
山室警部は、「村民款(ヨシミ)ヲ賊ニ通ジ、我ヲ三沢ニ誘ヒ鏖殺セントス、而シテ我ノ応ゼザルヲ以テ、方向ヲ転ジテ一ハ小川ロノ要路ヲ遮断シ、一ハ我前面ヲ衝キ、前後爽撃ノ策ヲ立テリ」と判断。
賊軍が御堂村に進出し小川口を扼すると、「我軍宛モ釜中ニ陥ル如ク、進ントスレバ前面ノ攻撃ヲ受ケ、退ントスレバ背後ノ敵ニ迫ラレ、進退維(コ)レ谷(キワ)マル、鳴呼我部下三十五名ノ生命ハ風前ノ燈火ノ如シト謂フベシ、実ニ危嶮ノ極度ニ達セリ」と判断。
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山室警部は、部下に「事甚ダ急ナリ、坂本ハ守ルベキノ地ニアラズ、速カニ退クノ愈(マサ)レルニ如力ズ」と指示。
この時、寄居本部に連絡に行って戻った巡査が、「賊勢猖獗、寄居急ナリ」と伝え、続いて「賊数百人粥新田嶺ニ来ル」の報が入る。
村民には、「何ゾ速ニ賊軍ニ応ゼザル」と聞こえよがしに言う者もあり、山室警部は、「村民皆賊軍ニ応ジ、却テ我ヲ攻撃セントス」と思う。
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午後5時、警官隊は坂本村脱出と決め、小川村へは危険なので大内沢村の山道から、西ノ入村を経て鉢形村を過ぎる。
ここで、進軍して来る小川口派遣の棟方歩兵大尉指揮の鎮台兵1中隊に行きあい、勢を得て引き返し、鎮台兵を誘導して午後11時50分小川村に入る。
間もなく、「坂本村ノ暴徒将サニ小川ヲ攻撃セントス」との飛報が入り、鎮台兵と警官隊は腰越の切通しに進出し、警備の地元自衛隊と交代。
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翌5日午前4時、鎮台兵・警官隊は腰越を出発し坂本村に進撃、粥新田峠に退いた賊を追うと、山腹で木砲と鉄砲の射撃を受けるがこれを追い散らし、峠を越えて大宮郷に向う。
捕縛72人、押収木砲1門、指揮旗2旈、火縄1括、刀槍数10本。
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「小川ロノ警備隊長山室警部ハ安岡警部補卜巡査三十五名ヲ卒ヒ、宗像中尉ノ一小隊ヲ嚮導シテ大宮郷ニ入ラントシ、峠ノ半服ニ至レハ、暴徒ハ直ニ木砲卜鳥銃ヲ併発シテ之ヲ防ク 宗像隊応放シ続ヒテ戦ハントスルモ、彼レ俄ニ辟易退散セルヲ以テ或ハ詭計アランカヲ慮リツツ宗像隊卜共ニ追撃ニ移りタルニ、難ナク大野原ヲ経テ大宮郷ニ着スルコトヲ得タリ 此日互ニ死傷ナシ捕虜七十二人アリシ」(「秩父暴動実記」)
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②西平村間道の状況。
西平村口警備の吉峰警部指揮の警官隊は、4日午前6時、大宮郷に向って進撃。
大野峠を越えたところで大宮郷からの逃亡農民を捕え、「今朝マデ横瀬村卜芦ケ久保村トノ間ニ暴徒ノ哨兵三〇名」がいるとの情報を得たので芦ケ久保村に進出。しかし、暴徒は発見できず。
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この時、大宮郷からの急使が、「片時モ早ク出張アレ」と伝えたので、急進して午後4時大宮郷に入る。
これが官兵の大宮郷一番乗りで、吉峰警部らは破壊された警察署に入り、飯能口の警官隊に早期進出を促す特使を出す。
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□小川口(坂本村の後方、小川村を中心とする各村)での自衛の動き
小川村から坂本村にかけては、
小川村聯合(小川村・西大塚村・角山村・原川村・下里村、聯合戸長大塚範親)、
腰越村聯合(腰越村・青山村・上古寺村・下古寺村・増尾村・飯田村・笠原村、聯合戸長横川重石衛門)、
坂本村聯合(坂本村・大内沢村・皆谷村・白石村、聯合戸長白石保次郎)の諸村があり、
標高600~700mの山稜を境に秩父郡と接し、二本木峠・粥新田峠・定嶺峠を交通路に、商業上の取引も盛ん。
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10月以来、「秩父郡人民不穏ノ挙動」が伝わり、10月31日午後、小川分署長深滝警部補以下分署主力が、寄居街道を寄居町に向って急遽出動して行くのを見た小川村住民は、秩父地方の異変について噂し合い、夜には号報用花火も聞こえ、不安を抱き始める。
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2日午後4時頃、前日に下吉田村で困民党と戦って敗れた松山警察署長吉峰警部・大宮郷警察署長斉藤警部・小鹿野分署長太田警部補らが、平服で疲れきって小川分署に辿り着くのを見て、住民は、いよいよ恐怖にかられてくる。
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3日になると、「暴徒ノ襲来セバコレニ加担セン」と公言する者も出て、富豪や金貸しは証書・金品の隠匿を始める。
比企郡月ノ輪村の大塚奓恵八が、自分の主宰する武道結社「左右社」の剣士数名を率い小川村聯合戸長役場で警備を申し出たのは、この頃のこと。
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4日、小川村聯合と腰越村聯合の戸長は、警察と連絡を密にするため、小川分署脇に仮戸長役場を設置。
この日午前10時頃、西平村から「暴徒ノ一手ハ秩父郡大野村へ押来ル」の急報が入り、小川村聯合と腰越村聯合の戸長は、自衛策を協議、「各村剛勇ノ壮丁」を募る。
1~2時間のうちに腰越村90人、増尾村40人、青山村90人、上古寺村60人、下古寺村20人と、5村で計300余が応募、富豪・質屋から銃・刀剣を借りて武装させる。
この自衛隊は、坂本口の腰越村の切通しと、西平口の上古寺学校に布陣。また、前日、横田村で打ち上げる予定の天長節を祝う花火の大筒2個を切通し口、1個を松郷峠へ配置。
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この夜、腰越村の切通しに布陣した自衛隊が夕飯をとっていると、先に坂本口に入った山室警部指揮の警官隊が後退してきたので「此所ニ踏止り防ギ給へ」と声をかけると、警官隊は見向きもせず小川村方向へ退いて行く。
続いて、坂本村聯合戸長をはじめ奥沢村・御堂村・安戸村の「屈指ノ人々」も逃げてきて、「暴徒ノ猖獗ナル如何トモスル事能ハズ、坂本村ノ人民大体暴徒ニ加ハリ、只今奥沢村ニ来リテ強迫中ナリ。暴徒ハ直チニ小川村へ侵入セントノ勢ヒ」と伝えたので、自衛隊の中にも「暴徒ノ強勢ヲ聞キ少シク躊躇スル」者が出てくる。
これを知った小川村の住民は、不安におののき小川分署前に集合、「雑沓一方ナラズ」の混乱となる。
この時、小川村の青木伝次郎は、「危急ノ時迫レリ、此機ヲ誤ラバ大事立ドコロニ到ラン、他日悔ルモ及バズ」と進み出で、「諸君憂慮スル莫レ、規律ナキ草賊何ゾ怖ル々ニ足ラズ、余ガ其衝ニ当ラン、諸君、青木既ニ死シタリト聞カバ始メテ用意スベシ、生キテ此地ヲ蹂躙サスノ憂ヒナシ」と演説し、銃手9人を率い坂本口に向う。
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腰越村聯合では1日~5日に警備費175円を費消したが、戸長横川重右衛門の50円をはじめ富豪の寄付で賄う。
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□粥新田峠の戦い
5日朝、坂本村の人達の向背に変化があり、落合隊は朝食調達もままならなくなる。
午前7時頃、隊長落合寅市は、「憲兵二百名来ル」の報告を受けるが、味方の人員は50人前後、鉄砲は僅か11挺。
寅市は、「之ニテハ憲兵二百人ニ対シ応ズル事能ワズ」と判断し、皆野村の本隊と合流のため、昨日越えてきた粥新田峠の道を引き返す。
朝食代りに峠の入口の酒屋で、寅市が1円を出して一同が酒を飲み始めると、憲兵接近の報が入り、急いで峠の道を上り、追尾する官兵を銃撃し、木砲を発射するなど抵抗しながら退却。
三沢村の「三方の辻」に出た時、婦人から「貴下方ハ何処へ御出ナサル」と声をかけられ、「我等ハ皆野ニ至ル」と答えると、婦人は「オ止シナサイ、貴下方ノ組ハ皆逃ゲタリ或ハ縛ラレタリシテ一人モイマセン、憲兵卜巡査バカリ」と伝られる。
寅市は主力の潰減を知り、もはやこれまでと観念し、部隊を解散、自らも逃亡の道を選ぶ。
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「坂本村戸長福島慶蔵役場ニテ夜明ケタリシ時、報知ニ憲兵弐百名来ルトノ報アリ、人員調査シテ見レハ五十人前後鉄砲十一ナリ、之ニテハ憲兵二百人ニ村シ応スル事能ハス引返シ皆野ニ至ルベシト引返ス、けひにた峠登り口酒店ニテ朝食、酒一口飲ントスル際坂本村人飛来リシ者アリ、之ヲ木島善一郎桑ノ木ニ志ばり付白状シロトセメ、答ヒ憲兵二百人モ来リシニ付坂本村人居タラ逃サント考へタル次第卜申シ、多衆ニ早ク峠ケ逃ケ登レト命シ、後方ニハ憲兵見へタレハ石間村新井喜市外一人大滝村人鉄砲打卜謂フ折、止テモ止メス鉄砲打テ憲兵打一合戦、其間ニ我等峠ケ頂上ニ登り大砲方人員打卜云フ、止メテ我解散ヲ命シテモ止メス打卜謂フニ付、我大滝ノ人二名卜三沢村ニ出時、婦女貴下ハ何所へ行クト申サレ、皆野村卜申シタレハ、御よしナサレ皆野ニハ貴殿等友ハ逃ケタリ志ばられタリ一人モ居ナイ憲兵計リト教へラレ、是レ幸運ナリ」(「寅市経歴」)
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井上善作は、この寅市の粥新田峠侵攻隊に参画していたと云われるが、その後の行方は不明。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい。
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京都 高瀬川に沿って木屋町通そぞろ歩き(2) 高瀬川一之船入 角倉氏邸址 兵部大輔従三位大村益次郎公遺址 佐久間象三遭難之碑 大村益次郎遭難之碑 桂小五郎・幾松寓居跡

高瀬川一之船入。
前回の「高瀬川源流庭園」のすぐ向かいにあります。
「船入」は、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う場所のことで、
この二条通りから四条通りまでの間に、「一」から「九」までの9ヶ所あったそうです。
この「一之船入」はずっと前にもご紹介したことがありました。



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角倉氏邸址
この地点は、高瀬川が川として一般の目に触れる起点にあります。
石碑の意味は、前回の「源流庭園」と同じです。
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兵部大輔従三位大村益次郎公遺址
司馬遼太郎が「花神」で描いた村田蔵六こと大村益次郎が、明治2年9月4日、このあたりの旅館で襲撃され重傷を負い、11月5日、40歳で亡くなります。
兵制改革で薩摩の某々と対立しており、その某々が襲撃の黒幕とも云われている。
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佐久間象三遭難之碑
元治元年(1864)7月11日、攘夷派により暗殺。
下手人は肥後の河上彦斉と云われている。
この月19日には禁門の変が起りますが、その直前の長州兵が続々京都を包囲しつつある騒然とした状況下でのことでした。
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上の佐久間象三の碑と並んで置かれている大村益次郎遭難之碑
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木屋町三条の角にある、佐久間・大村遭難碑を案内する石碑
この石碑の少し北方に上でご紹介した佐久間・大村遭難碑があります。
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桂小五郎・幾松寓居跡
のちに木戸孝允と改める桂小五郎が、これも後に正式に結婚して木戸松子となる祇園の芸妓幾松と暮した場所といいます。
現在は料理旅館。
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次回は、木屋町御池から三条通りまでをご紹介の予定です。
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「★京都インデックス」をご参照下さい
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