2010年6月19日土曜日

本能寺の変(16) 光秀謀反の動機 「野望説」「怨恨説」「黒幕説」など(その2)

■「謀略説」「黒幕説」
本能寺の変の背後に謀略がある,、光秀を陰で操って本能寺の変を起こした者がいるという説。
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火付け役は、八切止夫「信長殺し、光秀ではない」(1967年)。ベストセラーになる。
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黒幕とされる人々(光秀を操る、或は手を組んだとされる人々
正親町天皇、誠仁親王、公家衆、足利将軍、本願寺、信長の正室、信長の同盟者家康、信長配下の部将秀吉、光秀の重臣斎藤利三、信長に敵対する毛利輝元・上杉景勝・長宗我部元親ら諸大名や高野山の僧徒、かつて敵対した伊賀衆、弾圧された法華宗徒、堺の豪商たち、イエズス会の宣教師など。
事件への関与の度合いに様々なバラエティがある(主犯、共同正犯、教唆犯、幇助犯など)。
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①朝廷黒幕説
正親町天皇の譲位問題
元亀4年(1573)、信長は足利義昭を京から追放し、朝廷に依頼して年号を天正と改めて貰い、その直後の12月、正親町天皇に譲位を勧める。朝廷は、年末年初の天皇主催による諸行事の都合を理由にこれを断り、その後も正親町は天皇であり続ける。
天正9年(1581)、信長を左大臣に任官させようとした際、信長は譲位があって誠仁親王が践阼するなら、これを受けると答える。
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「三職推任」問題
4月25日、武家伝奏勧修寺晴豊と京都所司代村井貞勝が会見、信長が太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかになってはどうかという話が出る。
5月4日、勅使が安土に赴くが、信長は面会を謝絶。
6日には面会するが、推任に関する返事はない(「晴豊公記」)。
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暦への介入問題
6月1日の信長の暦への介入に憤った公家衆などが謀略を企てたという説。
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正親町天皇が、自らの権威を否定しようとする信長に危機感を抱き、光秀に謀反を起こさせるよう仕向けたとする説(小林久三)。
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天皇家の有名無実化をはかろうとする信長を討伐するよう天皇が指令したのではないかとする説(井沢元彦)。
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譲位を要求する信長に不快感を抱いた天皇が、光秀となんらかの密約を結んだうえで、信長を京都に誘い出して討たせたのではないかという説(伴野朗)。
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近衛前久を中心に吉田兼見らが加わり、光秀と結託したという説(桐野作人、のちに撤回し光秀単独犯行説となる)。
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誠仁親王を中心として勧修寺晴豊・吉田兼見ら公家衆による信長打倒計画が存在したという説(立花花子、のちイエズス会黒幕説をとる)。
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光秀の単独犯行説ではあるが、信長の朝廷に対する非道を阻止しようとした事が光秀の謀反の原因とする「信長非道阻止説」もある。
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信長の非道として、
①正親町天皇の譲位の強要と、皇位の纂奪を計画したこと、
②暦に干渉したこと、
③平姓なのに将軍への任官を求めたこと、
④現職太政大臣近衛前久へ暴言を吐いたこと、
⑤正親町天皇から国師号をもらった甲斐恵林寺の快川紹喜(光秀と同じ土岐氏の出身)を焼殺したこと、
が挙げられる。
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天正9年の馬揃え(軍事パレード)。
信長と正親町天皇の親密さを示すものという説と、信長が譲位を強制するための脅迫として実施した軍事的示威行動という説がある。
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正親町天皇は、天正14年(1586)11月に誠仁親王(この年7月に病没)の子(正親町の孫)に譲位(130年ぶりの生前譲位で再びこれが通例となる)。
尚、誠仁親王の病は、父の正親町との不仲が原因の気鬱とみる向きもあるという。
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近衛前久
天文5年(1536)年、5摂家筆頭の近衛家嫡男として誕生(信長の2歳下、秀吉と同年)。
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(5摂家は、平安時代末期の摂政藤原忠実の子孫として鎌倉時代に分立するようになった5系統で、京都にある夫々の屋敷が面する道路の名前をとって、近衛・鷹司・九条・一条・二条と呼ばれ、摂政・関白になりうるのは、この5家の者に限られる。)
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5歳で元服し従五位下に任官、殿上人となる。名前は晴嗣、将軍足利義晴の名の一字を貰う。この事は、室町時代における足利将軍家と摂関家との上下関係を表わしている。
12歳で正二位内大臣。
天文22年(1553)、18歳で右大臣、その翌年には関白に就任、藤原氏の「氏の長者」となり、左大臣となる。
永禄2(1559)年、上洛した長尾景虎(上杉謙信)と盟約を結び、翌年には景虎のもとに下向。しばらく越後に逗留し、景虎の関東出兵に同行して上野厩橋(前橋市)、下総古河に至る。この頃、前久に改名したと云われる。
永禄5年(1562)、京都に戻る。
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(永禄8年、松永久秀らが将軍義輝を暗殺し、その6年後、信長が義昭を奉じて上洛。)
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前久は義輝の後継問題では足利義栄(義輝・義昭のいとこ)を支持し、義昭とは確執があり、関白を罷免され再び下向。
義昭追放後の天正3年(1575)、信長の要請によると思われる九州大名を懐柔する役割を帯びて薩摩島津家のもとに身を寄せる。
(島津氏は近衛家の荘園管理人が出自であり、この下向は、19世紀後半の討幕運動に至る続く、近衛家と島津家との連帯を固める役割を果たす。)
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翌々年、前久は帰京し、以後、信長に昵懇の公家の棟梁として、京におけるその代理人的役割を担っていく。
本能寺の変では、二条御所での信忠の抵抗に明智軍は攻めあぐね、隣の前久邸を利用して攻撃したことから、「変」への関与が取りざたされる。
前久は、追及を逃れるために出家。
のち家康のとりなしで帰京。
今度は新たな権力者秀吉の茶坊主となり、彼を名目上の養子(猶子)にして、「近衛(藤原)秀吉」として関白就任有資格者たらしめる。
前久は、関ケ原後も政界で生き延び、家康のとりなしで子の信伊のために豊臣家から関白の地位を取り戻す。
慶長17年(1612)没。77歳。
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「前久が二度の長期「下向」までして守ろうとしたもの、それは朝廷と摂関家の権威であった。
その象徴が「公事」と呼ばれる年中行事、祝祭カレンダーである。
暦こそは、彼らの生命線であった。
信長が彼らのよってたつ基盤を掘り崩そうとしたとしたら、前久はそれに対して藤原氏のお家芸、先祖伝来の、陰謀という武器を使って立ち向かったことであろう。
・・・彼はためらうことなく、信長を捨てたに違いない。それが公家の棟梁たる者の意地ではなかろうか。」
(小島毅「織田信長 最後の茶会」(光文社新書))改行を施す
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②家康黒幕説
5月14日、家康は、穴山梅雪と共に到着し信長の接待を受ける。この時、接待役光秀と謀議が成立したと見る。
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家康の関与が疑われるのは、家康が孫の3代将軍家光の乳母に抜擢した春日局が、「今度謀叛随一也」と言われた斎藤利三の娘だったためでもある。
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また、家康は、武田氏滅亡で自分の役割が消滅したことへの不安、旧武田領のうち駿河しか与えられなかったことへの不満、信長命令で長男の信康を殺されたことへの怨みなどを抱えており、そこから光秀と共に謀反を企てたという説もある(中津文彦)。
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家康と近衛前久を黒幕とする説もある(火坂雅志)。
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武田滅亡直後、信長は直属家臣滝川一益を上野に派遣し、北関東方面から北条氏勢力の切り崩しにかかる。これまでは、家康が、対今川・対武田の前線に立ち信長の後方を固めていたが、対北条氏では、信長が直接介入する構えを見せる。
理由は、関東地方が持つ頼朝以来の特殊な象徴性のためと推測される。更に、もし滝川一益が北条氏を滅ぼせば、家康の領国は織田家の領土に包囲されることになる。
信長にとっては、武田家を滅ぼした今、家康との同盟は必要ないことになる。
信長の行動を見ていた家康は、過剰に怖れて疑心暗鬼に陥っても不思議ではない。(小島毅「織田信長 最後の茶会」(光文社新書))
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③足利義昭黒幕説

天正元年(1573)、挙兵に失敗して中央を追われた義昭が旧臣の光秀を使って信長を討とうとしたという説(桑田忠親)。
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光秀が幕府再興を旗印とするため、義昭と連絡を取ったのではないかとする説(羽山信樹)。
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義昭が信長打倒のため、光秀に謀反を勧めたのではないかとする説(今野信雄)。
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義昭と朝廷が黒幕だったのではないかとする説(津本陽、百瀬明治)。
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前説に毛利輝元を加えた3者を黒幕とする説(加来耕三)、
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義昭・秀吉・輝元3者が関与したとする説(光瀬龍、山村正夫)。
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光秀家臣団に旧幕臣が多く、事件の根深いところに義昭がいたという説(染谷光廣、但し、謀反自体は、光秀自身の個人的人格の表現とする)。
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義昭と光秀は事前に連絡があり、光秀は義昭を奉戴する形を取っていたとする説(三重大学教授藤田達生氏)。
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しかし、事件直後、同じく義昭の旧臣である細川藤孝に協力を依頼する際、光秀は義昭を奉じたとの格好の大義名分について一切触れていない。
また、義昭が庇護を受けている毛利輝元は秀吉と対峙し事件直後に講和を結ぶが、もし義昭が光秀と繋がっているならば、少なくとも講和せぬよう忠告している筈である。
更に、事件後に義昭は何の行動も起こしていない(9日付け光秀書状で、土橋平尉に宛てて義昭帰洛の協力要請に対して承諾しているが、最初は平尉が光秀にアプローチしたもの)。
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大村由己「惟任退治記」に、
「惟任公儀を奉じ、二万余騎の人数を揃え、備中に下らずして、密かに謀叛を工む」とあるが、この「公儀」は将軍義昭ではなく信長を示すもの。
例えば、秀吉が毛利と講和した際の起請文第1条に、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の身上については、私が請け合ったからには、「公儀」に対して粗略には致しません、とあり、信長を「公儀」としている。また、「信長公記」でも信長を「公儀」と呼ぶ例がある。
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④イエズス会黒幕説。
八切止夫、豊田有恒、立花京子。
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立花説の要旨は、
①南欧勢力に繋がる者が、信長に「天下布武」思想を吹き込む。
②信長は南欧勢力の意向に沿い、その援助を受け天下統一を進める。
③信長が勝手に路線変更したため、南欧勢力は信長を見限り、光秀に討たせる。
④主殺しの汚名を負った光秀を後継者にしてはまずいので、秀吉に光秀を討たせる。
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しかし、信長がイエズス会から銃砲やその他の援助を受けたことを示す史料は一切ない。
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⑤秀吉黒幕説
秀吉が配下の蜂須賀党を使ってやったとする説(広瀬仁紀)。
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秀吉が黒幕となって光秀を謀反に駆り立てたという説(新宮正春、谷恒生)。
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秀吉は事件を予測し、光秀が謀反を起こすように仕向けたとする説(長尾誠夫)、
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光秀と心情的な共犯関係にあったのではないかとする説(羽山信樹)。
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秀吉・光秀・家康の「三人共謀説」(大浦章郎)。
秀吉・義昭・輝元の三人共謀説で、実行犯は秀吉配下の乱波(忍び)とする説(光瀬龍)と、義昭が光秀に密命を下したのを察知した秀吉が、輝元と結んだと見る説(山村正夫)。
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⑥毛利輝元黒幕説
秀吉と交戦中の輝元が、安国寺恵瓊を根回し役として、光秀と組んだとする説。
義昭が光秀に密命を下したのを察知した秀吉が、輝元と密約を結んだとする説、
輝元・義昭・朝廷の3者を黒幕とする説。
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⑦長宗我部元親黒幕説
足利義昭は元親に対しても、予め自身の上洛への協力を促し、光秀も、速やかに長宗我部軍が上洛するのを期待していたとする説。
また、光秀と元親はかねてより交渉があり、元親の妻は斎藤利三の義妹である。利三は、「長宗我部元親記」に、四国のことを気遣って「明智殿謀叛の事いよいよ差し急がれ」たとある(元親のことが心配で、光秀に謀叛を催促した)。
しかし、元親は毛利輝元同様に「変」のことは知らずにいた。
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⑧本願寺黒幕説
本願寺は、元亀元年(1570)~天正8年(1580)の11年間、信長と戦う。
教如(法主顕如の子)は、父の顕如が信長との講和に応じて大坂本願寺を出たあとも、抗戦継続を主張。
信長も佐久間信盛らに宛てた書状で、「信長時節歟、若坊主果候歟、両条の儀超ゆべからず候(俺が参るか、若坊主=教加がくたばるか、二つに一つだ)」と激しい言葉を吐いている(「本願寺文書」)。
講和締結後も、北陸方面では織田勢と一向宗徒の戦いが続き、父に義絶された教如は、各地を潜行したといわれている。
教如は、文禄元年(1592)11月、顕如没に伴い、一旦本願寺法主の座に就くが、翌年、秀吉から、10年後には弟の准如にその地位を譲るよう勧告される。
その際、相続問題の査問にあたって、施薬院全宗らが問題点を11ヶ条にまとめた(『駒井日記』)。
その第2条に「一 信長様御一類には大敵にて候事」とあり、教如が光秀と結んで「変」を起こしたことを指すものとされる。。また、「変」後、本願寺が光秀に使者を送ったことをもって、積極的に光秀に加担したと見る説もある。
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・・・と、まあこれくらいで。
キリがないほどです。
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先回の「怨恨説」の中で、一つ落とした項目がありますので、ここでご紹介。
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快川和尚の仇討ち
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焼き殺された妙心寺の高僧快川紹喜
武田信玄・勝頼父子の帰依を受け、甲斐の恵林寺の住持となる。
信長の武田氏攻撃の際、以前から勝頼に匿われていた六角次郎(近江源氏佐々木氏の一族、近江国南半分の守護、信長の義昭を擁する上洛の際に攻め滅ぼされ甲斐に亡命)が恵林寺に逃げ込む。
六角引き渡しを求める信長に対し、快川は寺院の局外中立性を根拠にこれを拒む。
信長は寺に火を放つことを命じ、「老若上下百五十余人焼き殺されおわんぬ」(「信長公記」)。
快川は、最後の言葉として伝えられる「心頭滅却すれば火もまた涼し」を残し焼き殺される。
快川は妙心寺系僧侶として、また甲斐という地方在住の僧侶としては例のない事であるが、朝廷から国師の称号を得ている。
武田氏にはこれを推挙する力はないと思われ、信長政権の誰かと繋がりがあったと推測できる。光秀と快川との親交は確実と云われている。
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吉田兼見の日記によれば、光秀は本能寺の変の後、安土城から奪った財宝から、五山及び大徳寺に500両ずつを与える。このとき妙心寺にも500両が贈られたの史料もある。
京都の人心収攬のための五山や大徳寺の懐柔なのか、本能寺の変の協力への謝礼か。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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