2010年6月19日土曜日

明治6年(1873)1月 農民暴動の頻発 太政大臣三条実美の岩倉具視への手紙(島津久光問題、大蔵省問題、台湾問題、朝鮮問題) [一葉1歳]

明治6年(1873)
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この年より、一葉の父則義(東京府権少属、社寺取調掛)、金融・不動産業に手を出す。
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この頃の国内の一般的状況
性急に断行された諸改革政策への反動が生じ、民衆は永年なじんだ生活慣習を乱されて戸惑い、上からの改革押しつけに反発。
更に、生活不安が重り抗議の暴動に発展。
新法反対、改租反対、徴兵反対、学校反対などを掲げた農民暴動が、柏崎、山梨、大分、北条(岡山)、福岡、名東(徳島)等の各県で発生し、軍隊が出動した場合もある。
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しかし、なかには封建領主復帰要求の一揆、解放令反対を唱えて被差別部落を襲撃するなどの事件も発生する。
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先駆的な事例としては、熊本県の横井小楠派の豪農が、産業結社「耕転社」を組織。
同社は主穀農業を商品作物農業に切りかえ、試験農場の共同経営など農業経営の近代化を試みる。
指導的社員の一人竹崎律次郎の建白書草稿は、自生的ブルジョア的発展を擁護しない明治政府を批判。
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1月
・プロイセンのフィルヒョー、下院選挙政見アピールでカトリック教会との戦いを「文化のための闘争」と呼称。
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1月1日
・太陽暦実施
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1月1日
・ブダとペシュトの合併。ブダペスト、ハンガリー側首都となる
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・ゴッホ弟テオ、セント伯父の紹介によりグーピル商会ブリュッセル支店に就職。
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1月6日
太政大臣三条実美、この日付で在欧州の岩倉具視に手紙
①島津久光問題、②大蔵省問題、③台湾問題、④朝鮮問題。
(農民暴動などは彼の関心の外にあるのだろう)
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①島津久光問題とは:
「西郷参議十一月十日より御暇相願い帰省仕り候、右は彼是(カレコレ)従二位(*久光)と同人の間に内情も之れあり、同人も頗る心痛、情実拠(ヨンドコロ)無き次第」(西郷が久光に会うため休暇をとって帰県せざるを得ない事情を述べる。)
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前年夏の天皇鹿児島巡幸も久光の反政府感情を和らげることはできず、その時の久光の建言を政府が黙殺したため、久光は一層怒り、西郷を政府から追放せよと執拗に迫る。
そして、三条は、「然る処、同人帰国後、従二位にも面会」したところ、「意外に氷解相成り、頗る好都合」となり、「当春は一同上京との事に内々相定り侯趣」と楽観的観測を述べている。
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しかし、現実は・・・。
西郷は、帰県後直ちに久光の執事宛に謝罪の書状を提出。
去る6月、天皇巡幸に供奉して鹿児島に帰った際に久光に拝謁願わず、「等閑に罷り過ぎ侯儀、全く朝官を甘じ、再生の御鴻思忘却仕り候場に立ち至り、御嫌忌を蒙り奉り侯仕合い、実に恐懼の次第」。
しかし、久光の怒りは解けない
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西郷は、12月1日付の開拓次官黒田清隆宛て手紙でその事情を述べている。
久光の西郷弾劾書簡を三条から見せられ、「実に驚き侯次第にて、早速帰省」を願い出て、久光に謝罪状を提出した。
久光から呼び出され出頭したが、「豈図らんや、私の罪状書御認(シタタメ)め相成り居り侯間、御詰問の次第何共言語に申し述べ難き事にて、むちゃの御論あきれ果て候事に御座候」、
と述べる。
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②大蔵省問題:
「大蔵会計の事に付ては、彼是困難の事も之れあり、井上大輔も引入り辞職相願い居り候」(明治6年度政府予算編成を巡り大蔵省と各省との間に紛争が発生)。
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大久保大蔵卿不在中の大蔵省事務監督は西郷参議であるが、天皇巡幸・陸軍省問題に忙殺され、前年5年11月には帰県を余儀なくされた為、大輔井上馨三等出仕(少輔相当)渋沢栄一が大蔵省務を主導。
井上は、各省の予算請求を大幅に削減。
「学制」に基づいて国民教育の体系化をめざす文部省の要求200万円は100万円に、司法権確立と全国裁判所網整備をめざす司法省の要求96万円は45万円に削減。
しかし、陸軍省に対しては、65万円の公金費消事件(山城屋和助事件)にもかかわらず殆ど全額の800万円を認可(陸軍大輔は同じ長州の山県)。
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大木文部卿・江藤司法卿は井上を不公平で専横と攻撃するが、井上は意見を変えず長期欠勤して執務を放棄(14日、再出勤)。大蔵省は機能停止状態となる。
三条は、「大隈参議にももっぱら周旋尽力」しているので「不日居合も相付き申すべし」と気休めを述べている。(見通しは明るいものではない)。
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③台湾問題:
「琉球人民台湾において暴殺に逢い侯に付ては、我政府に於て其罪を糺し、保護の道を謀り侯は、止むべからざるの務に之れあり候えども、清国政府に談判を遂げ申さざりては、内外に対し政府の職掌も相立たざる義につき、此度決議の上、外務卿使節として清国に派出、談判に及ぶべくの都合につき、一月下旬には相発し侯等」。
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発端は、明治4年11月、琉球八重山漁民が台湾に漂着し、54名が台湾原住民に殺害された事件。
翌5年6月、鹿児島県参事大山綱良は、事件を政府に報告し、責任追及の為の台湾出兵建議。
江戸時代初頭以来、琉球は薩摩藩の支配下に置かれ、廃藩置県後も鹿児島県が管轄していた(5年9月の琉球藩設置以後は鹿児島の手を離れる)。
陸海軍人には台湾出兵を主張する者も出てくる。
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副島外務卿は、アメリカ公使デ・ロングの推薦もあり、李仙得の中国名をもち南清や台湾の事情に詳しい前清国アモイ駐在アメリカ領事リゼンドルを大輔相当の破格の待遇で外務省に招いて顧問とする。
リゼソドルは、
(a)朝鮮・台湾は東アジアの戦略上の要衝であり、ここを押えた国は国際政治で優位に立てる、
(b)清国の台湾支配は有名無実である、
従って、
清国政府が台湾原住民による八重山島民殺害事件に対して適切な処置をとらないときは、日本は台湾を占領するがいい、と助言。
また、外交上の布石として、軍事行動に先だって清国に台湾原住民を処置するよう交渉し、清国の履行能力の欠如を立証しておくことも主張。
このリゼンドル意見に従い、副島外務卿を特命全権大使として清国に派遣することになる。
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三条は、「右談判は内密にて、表面は本条約調印の為、差し遣わし侯」とし、大使任命の公式理由は、4年に締結された日清修好条規の批准書交換及び清国同治帝親政開始の慶祝のためとする。
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しかし、副島は、渡清にあたり、
「外人の台湾を覬覦(キユ)するものとして敢て我が王事を妨げしめず、清人をして生蕃の地を甘譲せしめ、土地を開き、民心を得むこと、臣に非ずんは恐らくは成す所なかるべし」、
と天皇に上奏、
欧米諸列強に対抗して台湾を植民地に獲得したいとの野心を披瀝。
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また、副島は、同藩出身の大隈参議に手紙を送り、
「台湾の半分だけなら交渉で手に入れるのを受け合ってよろしい。いま台湾全島を手に入れようとすれば(清国との)戦争になるかもしれません。しかし、台湾の半分を入手しておけば、四、五年以内には全島も交渉で手に入れてみせましょう。このたびの機会を失ってはなりません」
と述べる。
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三条は、副島の広言に危惧を抱き、
台湾一件を清国が取り合わないか、もしくは台湾原住民の処置を承知しない場合には、日本政府の手で直接処置すると「内決」したが、
「右は頗る重大の事件に御座候えども、止むをえざるの務にして、機会を失い候えば不都合の事に侯間、右の通り評議相決し」た
と不安の念を表わす。
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2月27日、副島は遣清特命全権大使に任命され、3月13日、清国へ出発。
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④朝鮮問題:
「朝鮮の形勢も相変り候義承らず、先頃花房外務(大)丞出張、総て無事に取り計らい帰朝仕り侯」(三条は、朝鮮問題にはとくに重要な変化はないと見ている)。
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江戸時代には、日本と朝鮮は、徳川将軍と朝鮮国王との交際という形の外交関係(「通信」関係)を維持していた。
両者の関係を仲介した対馬藩は、対朝鮮貿易独占を許され巨利を得ていたが、明治以降も日朝関係における特権的地位を維持しようと政府に働かける。
政府には、朝鮮問題に対する方針はなく、対馬藩に従前どおり朝鮮外交を委任。
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明治元年12月、対馬藩の使者は釜山に渡り、「我皇上登極し、綱紀を更張し、万機を親裁す、大に隣好を修めんと欲す」と、修好継続を申し入れるが、朝鮮側役人は、文書の形式が旧例と違っているとして受理を拒否。
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朝鮮側の態度の背景には、
①国王の生父で実権者の大院君の攘夷鎖国主義、
②日本の朝鮮征服意図への疑惑、
③宗主同清国に対する遠慮(清国皇帝に事大の礼を尽くして服属している朝鮮国王は、清国皇帝にのみ使用が許される「皇」「勅」などの文字が記されている日本からの文書を受理して清国の怒りを買うのをおそれた。
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この時、日本国内では、朝鮮の無礼の責任を武力で問うべしとの「征韓論」が起り、また、政策的な征韓論として、国内矛盾を国外にそらし反政府エネルギーを放散させる狙いをも秘めて提起される。
明治元年末には、徴士木戸孝允が征韓論を主張。
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その後、対朝鮮外交は、対馬藩から外務省に移管され、外務省が種々試みるものの朝鮮側の固い壁に阻まれ、両国間の国交関係は途絶したまま膠着状態が続く。
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三条は、朝鮮問題を「形勢も相変り侯義承らず」と楽観的に見ているが、4ヶ月後に急変する。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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