2010年7月3日土曜日

明治6年(1873)2月~3月 高島炭坑暴動 星亨(22)横浜税関次官就任 植木枝盛(16)上京 与謝野鉄幹誕生 外務卿副島種臣清国派遣 新旧公債発行条例 陸軍少佐樺山資紀ら清国・台湾・朝鮮・満洲調査 [一葉1歳]

明治6年(1873)2月
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この月
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・長崎の高島炭坑で再度暴動。死者4人。
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星亨(22)、陸奥宗光の井上馨への推挙により横浜税関次官に任命される。
任官直前、畳棟梁の娘津奈子と結婚。
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税関では次官の勤務に精励し、税関からほど近い海岸通りの倉庫2階の自宅に帰宅後は野沢鶏一、神鞭友常ら弟子と共に洋書に読み耽る。
陸奥宅の食客の頃から始めている「英国法律全書」翻訳も継続し、分冊で出版。
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2月3日
・太政官布告第35号。禄高人員帳記録及び民籍編入に関する大蔵省への不服申立ては3月31日以降は不受理と宣言。
大蔵省による家禄の全体的把握が3月で決着、禄制廃止のための条件が整う
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2月5日
・太政官布告により、年齢計算を満年齢「○年○月」と数えることになる。
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2月7日
・太政官布告第37号。仇討ち禁止令。前年(明治5年)7月、江藤司法卿が左院に意見書提出。
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2月7日
・(露暦1/26)チャイコフスキー「交響曲第2番」初演。モスクワ。N・ルビンシテイン指揮。
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2月8日
・東京日日新聞、「ポリス」を初めて使う。
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2月15日
植木枝盛(16)、土佐発。東京山内家私邸内の海南私塾に入塾の為。
3月14日から授業(フランス語と兵学)。
9月1日、退学。以降は独学で思想形成。
11月15日、東京発、帰郷。12月12日高知着。8年1月再度の東京遊学まで在郷。
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旧藩主山内豊範が洋学教師をヨーロッパより招き、東京に洋学校を設け、土佐から給費学生20人を送りることになり、枝盛も選ばれる。
2月15日汽船「平安」号で浦戸より東京に向う。この日から枝盛の刻銘な「日記」が始る。
24日、校長祖父江某の諭示を聞くと、案に相違して、海南私学は陸軍士官の準備教育として、フランス学を授ける為の学校であると判明。軍人になるつもりのない枝盛は大いに失望。
3月14日より仏人教師からフランス学を学ぶが勉強に力もはいらず、8月、校長の抑止を押し切って退学。
外国語学習に手を焼き、口実を他に設けての退学敢行が真の理由ではないかというのが家永三郎説。
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最初の東京遊学は無駄に終ったように見えるが、その間、始めて鉄道・電信線を見たり、新聞雑誌をしきりに読み、「文明開化」の空気を十分に呼吸。
また井上馨の建言を写して中央政界の動きの一端にも触れるなど、現実認識深化に役立つ。
更に、退学後~帰郷、翻訳書を主とする書籍32部を読破。大多数が「立憲政体略」「泰西国法論」「和蘭政典」「合衆国憲法」「仏蘭西憲法」など、欧米の立憲政治を理解するに役立つ内容のもの。
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2月17日
・外務卿副島種臣、参議大隈に特命全権大使発令の閣議決定を急ぐよう催促。
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2月23日
・(清、同治12年正月26日) 清国、同治親政始まる。
同治帝(17)親政。実権は西太后が握る。


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2月23日
・河東碧梧桐、誕生。
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2月24日
・切支丹禁制高札が撤去される。キリスト教を黙認。
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2月24日
・司法卿江藤新平、「達第22号」発布。拷問使用制限。「命盗重犯に用い」る。方法は聴杖(笞で叩く)、算板(三角の材木に座らせる)だけを認める。
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2月25日
・司法卿江藤新平、「達第23号」発布。司法省裁判所(最高裁)へ上訴を可能とする
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2月25日
・佐野常民(ウィーン万国博副総裁)、ワグネル、諸工芸家を伴い横浜を出発。
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2月26日
与謝野鉄幹、山城国愛宕郡願成寺(第4区岡崎村本願寺掛所)に誕生。
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明治13年4月、父礼厳、次兄照幢・3兄巌を連れて鹿児島市西本願寺別院開に教師として赴任。
9月、母・弟修・妹シズと共に寛も鹿児島に移り、鹿児島市名山小学校に転校。
15年11月末 一家、鹿児島から京都に戻る(木屋町仏光寺橋下ル=鴨川西岸)。
12月20日頃、京都市西本願寺派発願寺の鈴木忍宏の養子となる。
16年2月、父母のもとに帰る。
6月、大阪府住吉郡遠里小野村安養寺の養子となる。安藤姓を名乗る。
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2月27日
・外務卿副島種臣、清国派遣特命全権大使に任命。外務大丞柳原前光・リゼンドル、随行。同日、太政官、副島渡航用に軍艦2隻差出し命令。
28日、柳原前光、先発(長崎からは樺山資紀が同行)。3月12日出発。清国皇帝との謁見時、立礼で通す。副島国権外交の名をあげる。
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2月28日
・司法少判事(六等官)北畠治房(40)、京都裁判所所長就任。裁判所の移転を本省へ上申。
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北畠治房:
元天誅組。戊辰戦争では北陸道総督副参謀楠田英世(佐賀)の部隊で転戦。後、外国官(外務省の前身)入り。司法大丞兼大判事楠田英世の推薦で、明治5年4月司法省七等出仕となる。山梨裁判所開設で活躍。明治6年1月、少判事。
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3月
・新旧公債発行条例。藩債・藩札の整理方針。
外国債は現金で償還したが、国内債は52%(3,926万円)が破棄され、発行された新旧公債も維新前の旧債は無利子50年償還、明治元年以降の新債は4分利付3年据置き25年償還(極めて悪条件)。最終的には藩債の8割が切捨てられる。
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明治政府は維新前の各藩の借入れ金は28%しか引継がず、特に旧幕臣の債務は私債とみなされ全て回収不能。
江戸の金融を支えてきた札差は借り手の御家人・旗本共々瓦解。
「朝敵藩」とされた地域の商人の打撃も大きい。
大名貸を行ってきた大阪の両替商も莫大な不良債権を抱え、維新前の大阪の旧家豪商34家のうち、天王寺家作兵衛・平野屋五兵衛など23家が破産・絶家となり、生き延びたのは住友吉左衛門・鴻池善右衛門など9家。
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・旧庄内藩士族体制の酒田県政に対し金井賀直ら士族30名、司法省に出訴
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・磐前県で風紀を正すためとして念仏踊りなどが禁止
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・第2回京都博覧会。~6月末。盛況。
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3月3日
・皇后、率先して眉墨・御歯黒を落す
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3月5日
・陸軍少佐樺山資紀、長崎発。上海・北京・福建調査経て、8月23日、台湾淡水上陸。3ヶ月滞在。
12月10日、香港へ。上海・寧波・舟山・厦門を調査。
明治7年3月2日、台湾海峡の澎湖諸島調査。9日台湾の打狗(高雄)上陸。
5月7日、先住民地域で工作中に台湾出兵の「日進」艦に出会い合流。
1年2ヶ月の大調査旅行。この頃、近隣諸国事情調査着手。
この年(明治6年)8月、陸軍中佐北村重頼・同少佐別府晋介を朝鮮に、外務中録彭城中平・池上四郎・武市正幹を清(満州)へ派遣。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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