2010年8月7日土曜日

天文21(1552)年6月~8月 祇園祭りで喧嘩 京の町衆の風流踊が賑う 信長の萱野の戦い [信長19歳]

天文21(1552)年6月  [信長19歳]
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この月
・祇園祭りで喧嘩。
雑色衆1人が町衆の手籠にあい、犯人は侍所に追捕され、成敗を受けるであろうと伝えられる(「言継卿記」6月7日条)。
このときの祭りには珍しく言継自身も山鉾巡行見物に通玄寺(三条の曇華院)へ出向き、「山ども見物す。・・・次いで祭礼見物す」(「同」14日条)と簡単に記す。
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6月5日
'・三好長慶、人質の細川聡明丸(昭元、晴元の嫡男)を京都から摂津越水城に移す。1月の和議は長続きしないという観測。
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6月11日
・島津貴久、従五位下修理大夫に任ぜられる。
嫡男の島津忠良は、義字を幕府に許可され義辰と改称。後、さらに義久と改称。
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6月16日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、兵数十万率いカザン侵攻のためモスクワ出陣。
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6月20日
・長尾景虎、平子(タイラク)孫太郎・庄田定賢らを沼田城(群馬県沼田市)に派遣。
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7月
・イタリア、シエナ住民、スペイン守備隊放逐。フランスに援助求める。仏アンリ2世、軍隊派遣。
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7月3日
'・山科言継、右衛門督高倉永家に誘われて河狩りを楽しむ(「言継卿記」同日条)。
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7月17日
・フランシスコ・ザビエル(46)、マラッカよりシンガポールへ向けて出帆。
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7月18日
'・京都の町衆の風流踊が賑いを見せる
この日、東山粟田口(東山区粟田口)衆の風流が幕府へ推参するというので、山科言継は見物に駆けつける(「言継卿記」同日条)。
翌日も上京一帯で風流踊が行わる。
7月24日には武者小路町の風流が言継邸付近を通過し、「具足見事なり」と評す(「同」24日条)。
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7月21日
・信長、尾張三輿山空音坊(津島神社社僧)へ師匠の譲状に任せ今式坊領・先達職を安堵(「津嶋神社旧記」「張州雑誌抄」)。
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7月22日
・北畠具政、従五位上に昇進。8月27日、左少将に任官。
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7月23日
・毛利勢、備後志川滝山城(福山市)を攻略。城主宮光寄、備中に逃走。
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7月26日
・シエナ、「フランス万歳、フランス万歳」と叫んで蜂起し、「独立」宣言。
フランス側ピエーロ・ストロッツィ(カトリーヌ・ド・メディシス従兄弟)、シエナを拠点にフィレンツェに侵攻、トスカナ大公コジモ・デ・メディチを追放する計画。
1555年4月フィレンツェ(皇帝軍)、シエナを占領。
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7月28日
・信長(19)、尾張熱田の豪族浅井充親へ、竹20本の提供を受けたことを謝す(「浅井文書」)。
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8月
・津和野三本松城吉見正頼、益田の先陣部隊が篭る虫追大嶽城(むそうおおたけじょう)領家恒定を攻める。領家恒定は益田氏へ援軍要請、援軍到着後、吉見軍は撤退。 
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・フランシスコ・ザビエル(46)、上川島(サンチャン)に着く。中国本土への渡航の方法を模索、病に倒れる。
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8月12日
・武田勢、信濃守護小笠原長時の最後の拠点の安曇郡の小岩岳城陥落。長時は村上義清の許に逃亡。この頃、村上・小笠原両氏は連携して武田氏の攻勢に対処。
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8月13日
・イヴァン4世(雷帝)、カザン近くスヴィヤージスク要塞到着。
カザン総督ヤディゲル・モハメッドに宛て降伏勧告。20日、拒否。23日、カザン攻撃。
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8月15日
・尾張下4郡守護代・清州城主織田彦五郎の宿老坂井大膳は、深田城主織田右衛門尉(信秀の異腹の兄弟、海部郡七宝町)・松葉城主織田伊賀守(信長の甥、海部郡大治町)を攻撃し、人質にとる。
清州城は守護の居城だが、守護斯波義統・守護代織田彦五郎は無力で、守護代家宰坂井大膳が実権掌握。
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8月16日
萱野の戦い
織田信長(19)、叔父守山城主信光(400)を味方に萱野(海部郡甚目寺(ジモクジ)町)に進出、総勢1,500で守護代織田彦五郎信友の家宰坂井甚介率いる清州勢2千と戦い。
前田利家・佐脇藤八郎兄弟、初陣。
午前8時頃から交戦開始、数時間の戦いで織田彦五郎は清州へ退却。
清洲勢坂井甚介ら50人が討死(坂井甚介は柴田勝家・中条家忠が討ち取る)。
信長は松葉・深田城を陥落・奪回し、清州城下を焼払う。
数日包囲し退却。
信長の力、尾張諸豪族に衝撃。清須との戦いは継続。
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鳴海城の山口父子の挙兵に刺激されて、次に守護代織田彦五郎(清洲城主)の家宰坂井大膳らが立ち上がる。
8月15日、坂井大膳・同甚介・河尻与一・織田三位らが共謀し、海部郡の松葉城主織田伊賀守と、深田城主織田右衛門尉から人質を取り両城を占拠。
信長は先んじての清洲攻撃のため、16日払暁、那古野城を出て、兵を西に進め庄内川の川岸稲葉地に至る。
ここで、守山城主の叔父織田孫三郎信光も加わり、松葉口・三本木ロ・清洲口の三方より攻撃、信長・信光は清洲まで30町の萱津まで進み、辰刻(午前8時頃)から激戦。
信長は、清洲衆の坂井甚介ら50騎余を討死させ、松葉・深田両城を奪回。
更に、兵を清洲に繰出し田畠を薙ぎ捨てさせる。田畑の耕作物を根こそぎ収奪させ、敵地の経済的な立地条件を破壊する作戦によって清洲城を孤立させたる(「信長公記」首巻)。
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8月20日
'・宣教師バルタザール・ガーゴ、インド副王の贈物として武器・進物を携えて豊後府内に来航、大友宗麟に領内での布教許可を願う。
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8月下旬
・若狭に亡命中の細川晴元、小浜~朽木・葛川~山城小野郷(北区小野郷)に出没との噂、京都に入る。
政勝・元成と同盟の字津某らの動きも活発化し、小細川から神吉(京都府南丹市八木町神吉)を通過して、八木城(城主内藤貞正は氏綱党)を狙い始める。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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