2010年8月28日土曜日

天文22(1553)年1月~閏1月 甲相同盟成立 平手政秀(62)諌死 三好長慶、将軍足利義輝と和睦 [信長20歳]

天文22(1553)年
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この年
・北条氏康、石切の条規を定め、これに扶助を与える。
57年にも、新石切に扶持を与え、北条氏の築城技術の進歩を窺わせる。
58年には、伊豆国内の革作の条規を定め、武具製作技術者確保を図る。

大名権力による領内農民労働力の集中的使役、及び、扶持人・給人として大名に奉公する職人衆の農民からの分離が進む。

大名の軍事力構築の為に労働力と技術が確保され、また普請資材である竹木の大名権力による確保も伐採規制強化として進められる。
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・近江守護六角義賢、犬上郡の百姓がみだりに名字を称して侍となり、多賀社神事役を勤任しない永正8年以来の不法を停止するが、容易に徹底せず。

百姓が恣意的に侍となり百姓役を勤めぬ秩序解体情況は、とくに畿内において進行していたと推測される。
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・興福寺僧尭顕と朝倉氏家臣杉若吉藤との相論。
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尭顕は河口荘新郷の代官で、この郷の本役米分70貫文余は尭顕より杉若に納入されることになっている。
他方、杉若は坪江郷政所職代官で、興福寺年貢収納使でもある尭顕に100貫文余を納入することになっている。
ところが、尭顕が杉若に本役分を納入しないため、杉若は自分の収納分と納入分を差し引いて30貫余しか興福寺に渡さないでいた。

興福寺学侶衆徒は朝倉義景にこれを訴え尭顕・杉若相論となる。
興福寺は将軍義晴にも訴え、将軍より義景に紛争究明と裁決を加えるよう「下知」し、義景はこれに対し朝倉氏として審理し裁決すべきことを将軍に「御請」する。
義景の裁決は、杉若が70貫文余を興福寺に納入せよというもの。 
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・若狭の羽賀寺、地頭・領家の要請を受けて雨乞を行なう。
雨が降り始め、羽賀寺礼堂で寺家衆・百姓衆が酒を酌み交わし喜び合う。
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寺社と地域社会
費用負担の問題もあり雨乞祈は領主・守護の要請によって実施されるが、僧侶・百姓が「大酒」を飲んで喜び合う光景は、顕密寺社が地域民衆の切実な願いに応えていることを示る。

中世後期には、地方寺社と中央との関係は疎遠になり地域に密着した寺社としての性格を濃厚にしてくる。
若狭の明通寺・羽賀寺・妙楽寺・大飯郡飯盛寺には如法経信仰に基づき、逆修・追善・女人成仏を求める地域民衆の信仰を集める。
敦賀郡江良浦寺庵の僧侶は在所で「いろは字」を教え、武田氏有力家臣の粟屋家長は少年のとき稚児として羽賀寺に入寺しており、寺院は地域諸階層への教育的機能をも果たしている。
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在地領主・土豪層の寺社内部への進出も顕著で、明通寺では檀越の多伊良一族が寺僧となり、敦賀郡西福寺の正寿院坊主職を巡る寺家・檀那の相論の背景には、檀越一族の子院への進出がある。

在地領主・土豪層の寺社への進出が中世後期の顕密寺社の地域的発展を支え、寺社・仏教の在地性の深化が、一方ではその対立物としての一向一揆を生みだす原因となり、他方では近世幕藩権力の脱宗教化の要因ともなる。
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こうした状況したでも、中央との関係はなお意義をもって存続する。
①天皇は、中世を通じて勅願寺免許、僧位僧官や禅師・国師・上人号の授与、香衣・紫衣の勅許などの権限を保持。
②幕府は、将軍家祈願所の認定、や安国寺・利生塔の設営、五山・十刹・諸山の管理、僧位僧官などの実質的叙任権を掌握。
③本寺との関係。
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・[明の嘉靖33年]上海県に周囲9里の城壁が築かれる。
旧「城内」のかたちができる。
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1月
'・武田晴信、中信濃から進出し、村上義清を攻める。
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・大友義鎮(宗麟)、幕府要人に肥前守護職を請う書を送る。
翌天文23年1月、義輝に南蛮鉄砲を献上。同年8月、肥前守護職に補任。
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1月1日
・神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世、メッツ攻略断念、包囲解除。譲位決意。
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1月3日
・ミシェル・セルヴェ、ヴィエンヌで「キリスト教復位」上梓。
三位一体説、キリスト先在説、幼児洗礼を否定。新旧両派より憎悪される。
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1月6日
'・信濃の小笠原長時、武田晴信の誘いを退けて越後国の長尾景虎を頼る。
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1月17日
甲相同盟成立
信玄の娘と氏康嫡男氏政との婚約が成る。北条氏康使者、氏康の婚儀誓書入れる。
2月21日、武田晴信使者、晴信誓書入れる。
更に翌天文23年7月、氏康の娘が義元の嫡男氏真に嫁ぐ。
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1月22日
・毛利隆元長男幸鶴丸(輝元)、郡山城に誕生。
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閏1月
・安曇郡の仁科盛康、武田氏に帰属する。
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・府内の乱。
一万田鑑相、宗像鑑久、服部右京助ら、大友氏に謀反するが、大友義鎮に誅伐される。義鎮は服部の妻を妾とする。
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閏1月13日
'・織田信長の傅役平手政秀(62)、諌死
政秀は信長の素行(「大うつけ」)を憂い諌死したとされるが、「信長公記」には信長と政秀父子の確執の事件が記されており、それが諌死であったか真相は不明。
のち、信長は政秀の所領小木村に政秀を弔うため政秀寺を建立し、開山に沢彦宗恩を招く。
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閏1月15日
'・三好長慶、将軍足利義輝と和睦
前年12月、将軍義輝が、清水坂の合戦で荒された霊山城修築の為、京都の各社寺に竹木人夫を徴発するが、政所執事伊勢貞孝が反対。
これに怒った奉公衆上野・細川刑部・彦部ら近習が晴元に内通し、貞孝・長慶を除こうとし、長慶と義輝の関係が悪化。

幕府近臣らは、先に堅田を脱出して長慶に降りた貞孝を裏切り者と見倣すが、一方で、貞孝は長慶の信任厚く、洛中の裁判・課税など財政・司法を掌握しており、復活した幕府との関係はうまく行かない。
正月、長慶は入京するが義輝の勘気にあい、閏正月8日、淀城に退く。
この日、仲介する者があり表向き義輝と長慶は和睦するが、長慶の義輝側近に対する疑惑は解けていない。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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