2010年9月11日土曜日

明治17(1884)年11月5日 警察・憲兵隊、大宮郷に繰り込む。 島崎嘉四郎の別働隊、信州転戦組参加を決意。 菊池貫平の信州転戦隊の新しい幹部たち 

明治17(1884)年11月5日
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午前5時、警察・憲兵隊、大宮郷に繰り込む
隈元少尉小隊は矢那瀬村発し荒川左岸本道を、影山少尉隊は矢那瀬渡しを渡り荒川右岸を併走、皆野で落ち合い、隈元隊が尖兵となり大宮郷に進む。
官憲側は県令告諭を発し、「暴徒」の自首を促し、一斉検挙も行う(15日坂本村、20日城峯山)など)。
更に、
22~24日を探偵期間、
25~27日を一斉検挙期間と定め秩父全域で100余を逮捕。
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隈元少尉の憲兵隊と同行した巡査の記録に、
「藤谷淵ヲ通過ノ際、或ル民家ニ賊ノ潜伏スルヲ覚タリ、之ヲ憲兵ニ示シ砲撃セシムル事数回、然レドモ更ニ応答ナキヲ以テ該家ヲ捜索」とあり、緊張の様子を伝える。
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また、この隊が皆野の手前の栗谷瀬の渡し場を渡る際、船頭を暴徒と見誤り殺害する。
鎌田警部の警察本署宛の報告。
「本月五日皆野村へ進軍ノトキ、同村船頭金子惣太郎ナル者ヲ、暴徒卜見謬りタルヤ殺害セラレタリ、鎌田警部取調中遺族ノ者苦情ヲ唱へ居ルノ聞へアリ、右殺害シタルハ憲兵付属巡査粕谷清五郎ナラント云ヘルモ、本人出張中ナルヲ以テ等閑ニ付ス」。
この粕谷巡査はこの後も信州に転戦の菊池貴平らを追い、十石峠を越え千曲川沿いに進出、9日早朝の掃討戦に参加。
本人は右殺害の事実を、
「赤白ノ布ヲ以テ身体ヲ扮装シタル異様ノ男子、竹槍ヲ以テ小吏ニ抵抗セリ、止ヲ得ズ憲兵卒値賀好郎等卜協力シテ之ヲ斫殺セリ(「粕谷清五郎出張復命書」)と述べる。
粕谷巡査は、後で検事の事情聴取を受けるが、「事正義ニ出デタル」として不問。
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次いでこの隊は皆野村の外れで大宮郷自衛隊(百数十名)と遭遇、その「紛装異様ナル」ため暴徒と誤認し、武器を取りあげ大宮郷に連行するが、吉峰警部らの釈明ですぐに釈放(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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午前8時頃島崎嘉四郎の別働隊、下吉田村の椋神社に入る。菊池貫平らが前夜に山中谷に向ったと聞き、信州転戦組参加を決意
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前日(4日)、「千鹿谷ノ大将」島崎嘉四郎の別働隊150人は前川巡査を捕虜とし、この内100名ほどは風早峠を越え、更に50名ほどは捕虜巡査を連行して奈良尾峠を越え、夜10時頃、上日野沢村で落ちあう。
5日朝、ここの酒屋で朝食をとり、児玉郡八幡山町(児玉町)へ押し出そうとすると、前夜の金屋の戦いから逃げ帰ったという者から「昨夜八幡山ニ合戦始マリ、兵隊巡査ノタメ賊徒大イニ敗走セリ」と聞く。
その後、方向を転じ午前8時頃、下吉田村の椋神社に入り、菊池貫平らの山中谷への転戦を聞き、嘉四郎は信州転戦組への参加を決意。
嘉四郎は、一同に対し、「最早己レハ信州地ニ立越シ、多人数ヲ集メ再ビ当地へ立戻ルベシ、因テ命ノ惜キ者ハ勝手ニ帰レ、信州ヨリ人数ヲ集メ再度当地へ来ルベク、其際ハ直チニ駈付ヨ」(大河原鶴吉訊問調書)と言う。
多くの者が離脱し、嘉四郎は残った15名ほどを率い、捕虜の前川巡査を引き立て貫平らを追い、この夜遅く山中谷の神ケ原村に宿陣の貫平らと合流。
矢納村の大河原鶴吉は、嘉四郎からあたえられていた竹槍や鉢巻を戻して帰っていく。
嘉四郎は、帰ろうとする鶴吉たちに、「信州ヨリ人数ヲ集再度当地へ来ルヘク其際ハ直チニ駆付ヨ」(同)と、声をかける。
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嘉四郎は、以後一度も秩父へは戻らず、甲府で乗合馬車の駁者をして没す。
その間、千野多重という偽名で生家へ手紙を出している。
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菊池貫平の信州転戦隊140~150、群馬県南甘楽郡の屋久峠(埼玉・群馬県境、820m)に出現、正午頃、青梨村に侵入。
鳥尾村に至り居民を募る。
貫平は神ヶ原(カガハラ)の茶屋に泊。
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以降、神流川沿いに魚尾、尾附、乙父、乙母、新羽の村々を経て、白井ノ関から十石峠を越え、7日午後、佐久大日向村に抜ける。8日朝、大日向村を出発する時は、390名となる。
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新井繁太郎(石間村、兵糧方)は、「此分デハ迚(トテ)モ目的ハ貫ケヌ」と前途に望みを失い、魚尾村で戦列を離れ、自首する心算で万場分署へ向う途中、住民に捕えられる。
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□信州転戦隊の編成--新しい幹部たち
「菊池ガ総理トナリ、会津(*稲野文次郎)、惣作(*坂本宗作)が弐番手ニナリ、其次ガ私共親子(*新井寅吉・新井貞吉)ニ私同村ノ小沢弥五郎ニ三波川村ノ横円周作」(「新井寅吉訊問調書」)
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「会津の先生」稲野文次郎

福島県岩代国南会津郡古町村出身、
明治7年10月栃木県下総国今市へ出稼中に行方をくらまし、10月18日拐帯の罪で重禁錮2月、罰金4円、監視6月の刑に処せられる。
蜂起の時は児玉郡太駄村で人力車夫をしている。
3日、困民軍に参加するため家を出て、皆野村で菊池貫平に直接会って協力を申し入れ、兵糧方を命ぜられる。
人相着衣は、
「顔ハ極ク奇麗ニシテ、眼尻ガ少シク下り居レリ」(「千本松吉兵衛訊問調書」)
「色白ク、顔ハ四角張り、眼ハパッチリト太キ方ニコレアリ、着衣ハ黒色絹綿入ニ琥珀ノ三尺帯ヲ締メ、股引脚半ハ申スニ及バズ、外ニモ衣類二枚位ハ着シ居りタリ(「小林西蔵訊問調書」)
「丈ケ低ク、鼻ノ高キ人ナリ」(「中野兵三郎訊問調書」)
と言われる。
新聞には
「卅恰好の男にて、上下とも白綸子の衣服を着し、仙台平の袴を穿ち、両刀を佩び、威風凛々たる人物なり」(「朝野新聞」11月12日)
と書かれる。
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「玉川の子分」小林酉蔵
秩父郡伊古田村出身、職業馬喰、23歳。
明治15年まで秩父郡玉川村の博徒金三郎の子分、同年1月賭博犯で重禁錮2月・罰金5円、16年3月賭博犯で重禁錮3月。罰金7円に処せられている。
3日、困民党の狩りだしが自村を襲った際に加わり、4日大淵村から皆野村に押し出したあと信州転戦組に加わる。
5日魚尾村で菊池貫平から小旗を与えられて銃隊指揮者となり、6日朝の「川中の戦い」では弾薬運搬を差図する(「小林西蔵裁判言渡書」)。
山梨県若神子分署に捕えられた際、
「自分ハ浦和警察署警部山田氏ニ探偵ヲ頼マレ、小鹿野・吉田等諸所方々探偵中、二日夜大宮郷ニ於テ捕獲セラレ、脅迫セラレテ不得止暴徒ニ与シ」
と弁明するが、
埼玉県警に移されて「本県ニハ山田警部ナルモノ之レナシ」と追及され、
「暴徒ノ未ダ大宮郷へ進入セザル時、同所警察署ニ於テ、横瀬村浅見岩吉、大宮郷中敬助及ビ自分ノ三名へ探偵ノ証ヲ渡サレ、是レヲ証拠ニ賊状ヲ探知シテ時々報告可致旨御達相成候ニ付、本月一日ノ夜夫々探偵ヲ遂ゲ、皆野町警察出張所へ右三名ニテ出頭其由中上候処、奇特ナリトテ御手当等下賜セラレ、尚ホ精々探索可致旨御達ニ付、夫レヨリ小鹿野、吉田等へ赴キ探偵中、大宮郷妙見ノ宮ニテ暴徒ニ取押へラレシナリ」
と訂正(「小林西蔵訊問調書」)。
十石峠で前川巡査を殺害し、新井貞吉とともに死刑に処せられる。
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坂本宗作
信州転戦組では弾薬掛として殿軍をつとめる
(下吉田村から信州馬流まで自ら弾薬を担いで行ったという)。同行の農民は、「常ニデカ事許申居りタリ」(栗崎市太郎訊問調書」)。
人相、着衣は、「鍛冶屋ノ由ニテ、丈高キ紺ノ股引ヲ履キ居タル精悼風ノ男」(「新井庄蔵訊問調書」)。
信州転戦組で、秩父困民党の運動の初期段階から幹部としてたずさわってきたのは、この坂本宗作(伝令使)村竹茂市(上日野沢村・阿熊村小隊長)の2人だけ。
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「東京の先生」千本松吉兵衛
千葉県下総国海上郡足洗村出身、
農民であるが自称書家で、千松義雄の号を持つ。
16年1月、居村の筆生をしていた時、戸長不在中に給料・消耗品費23円を持ち逃げし、同年8月、市場支庁の欠席裁判で重禁錮1年6月の判決を受ける
(当人は16年2月より遊歴を始めている)。
17年9月下旬~10月29日まで、上州沼田辺で「縁紅」を名のり、屏風などに字を書く仕事をしている。
埼玉県秩父郡大宮郷に滞在中に、困民軍が侵攻して来て、3日、見物に出てその仲間に加わる。
皆野村で菊池貫平から、
「書家ナラバ帳簿ノ付方ヤ、又人足ノ人名ヲ控タリ、手紙ヲ書タリ、都(スベ)テ書記ヲナセ」
と命令され以後、貫平に随伴する(「千本松吉兵衛訊問調書」)。
「顔細長ク、色白キ方ニテ、髯モ少シアリ、人品ノ良キ男」という(「新井寅吉訊問調書」)。
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横田周作
群馬県緑野郡三波川村の生れ、秩父郡矢納村の島崎鷹五郎の養子となるが、事件の前月離縁し復籍(「横田周作訊問調書」)。
しかし、その後もこの養家にはたびたび立寄り、上州と秩父の中継拠点として利用。10月31日夜ももここに待機して、栄助の命令を受けた柏木太郎吉と共に、上州勢数人を率い、城峰神社に宿泊していた陸軍測量師を襲い、これを栄助のもとに拘引(「横田周作訊問調書」)。
「頬ノコケタル、鼻筋通リ、眼ハ並」で、着衣は「藍万筋ノ羽織ヲ着、藍縞模様ノ袴ヲ着シ、ソテツ(蘇鉄)ノ葉ニテ拵ラへタル玉子形ノ笠ヲ冠リ、其笠ハ始終取りタル事ナシ」という(「日野ウ夕訊問調書」)。
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新井寅吉・貞吉
小柏常次郎と同じ群馬県多胡郡上日野村出身の親子、寅吉43歳、貞吉23歳。
寅吉の職業は農間炭焼。
貞吉は自村の小板橋美門方に同居しており、小板橋貞吉とも呼ばれ、16年9月賭博の科で、高崎治安裁判所で重禁錮2カ月、罰金5円に処せられる(「新井貞吉訊問調書」)。
「ムックリシタル丸顔ノ丈ケモ可ナリ高ク」、「羽織ハ藍縞、袴ハ薄茶ノ様ナル色カト覚、衣類ハ黄八丈ニテ、何レモ絹ノ立派ナル風体」をしている(「堀川弥平訊問調書」)。
蜂起にあたって親の貞吉が先に秩父に出かけ、貞吉は体の調子が悪く参加を渋っていたが、新井蒔蔵らの勧めで秩父に出かける。
貞吉は十石峠での前川巡査殺害下手人として、小林酉蔵と共に死刑に処せられる。
警察の取調で「自由党ノ主義トスル処ハ如何ナル事ナリヤ」との問いに、
「高利貸及ビ銀行等ガアリテ利息ヲ貪ル故、金融ノ閉塞スルニ付、右等ヲ打毀シ貧民ヲ救フトノ主義ナリ」
と答える。
信州で高利貸を打毀したときは、「汝等是迄高利ヲ取リテ貧民ヲ泣カセタリ、因テ今回ハ汝等ヲ此方ヨリ泣カスナリ」と言ったという(「新井貞吉訊問調書」)。
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★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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