2010年9月1日水曜日

永井荷風「断腸亭日乗」の大正十二年(2) 関東大震災の年

大正12年(1923)、関東大震災の年の永井荷風「断腸亭日乗」を続けます。
*
*
*
六月三日。・・・。夜静にして薫風嫋々たり。

六月四日。・・・。昨夜より今朝にかけ地震ふこと五六回なり

六月五日。快晴。庭の松に毛虫多くつきたり。五月中雨多く晴たる日稀なりしがためなるべし。此日庭樹に鵯(ヒヨドリ)四五羽来て啼く。鵯は冬来りて春去るものなるに、今頃来るは気候年々甚しく不順の故ならむか歟。一昨年は蜩の蝉に先立ちて鳴きしことあり。当時の頃鴬の鳴きし事もあり。

六月六日。晴。四谷のお房来る。

六月八日。北白川宮御葬儀の當日なりとて劇場休業す。・・・。

六月十日。・・・。夜雨あり。・・・。

六月十一日。曇りて風冷なり。清元秀梅来る。・・・。

六月十三日。雨ふる。

六月十五日。・・・。梅雨の空墨を流せしが如し。・・・。

六月十七日。雨ふる。・・・。黄昏雨晴れたれば谷町を歩み、西花園にて葡萄の盆栽を購ふ。四谷に往きお房を見る。

六月十八日。雨ふる。市兵衛町二丁目丹波谷といふ窪地に中村芳五郎といふ門札を出せし家あり。圍者素人の女を世話する由兼ねてより聞きゐたれば、或人の名刺を示して案内を請ひしに、四十半ばなる品好き主婦取次に出で二階に導き、女の寫真など見せ、其れより一時間ばかりにして一人の女を連れ来れり。年は二十四五。髪はハイカラにて顔立は女優音羽兼子によく似て身体は稍小づくりなり。秋田生れの由にて言語雅馴ならず。灯ともし頃まで遊びて祝儀は拾圓なり。この女のはなしに此の家の主婦はもと仙臺の或女學校の教師なりし由。今は定る夫なく娘は女子大學に通い、男の子は早稲田の中學生なりとの事なり。
(*註 こういう怪し(妖し)げなところにも通ってるんですよ。この後も。)

六月十九日。霖雨初めて霽る。・・・。

六月二十日。雨ふる。二葉亭四迷の小説平凡を讀む。秀梅来る。

六月廿一日。・・・。午後信託会社に酒井君を訪ふ。歸途雨。虎ノ門理髪店にて空の晴るるを待ち薄暮家に歸る。

六月廿二日。風雨一過。夜に入って雲散じ月出づ。丹波谷に遊ぶ。

六月廿三日。新聞紙諸河の出水を報ず。

六月廿六日。晴れて風涼し。・・・。

六月廿七日。・・・。夕方より雨。

六月廿八日。・・・。月佳し。

七月朔。淫雨。風邪にて臥牀に在り。・・・。

七月二日。晴。

七月三日。午後清元秀梅と青山墓地を歩む。雨に逢ひ四谷荒木町の茶亭に憩ふ。・・・

七月四日。積雨始めて霽る。四隣物洗ふ水の音終日絶えず。

七月五日。日暮風雨。丹波谷の女を見る。

七月六日。晝の中雨歇みしが夕刻よりまた降り出しぬ。

七月七日。曇りて風涼し。午後電車にて柳島に至り、京成電車に乗り換へ市川に遊ぶ。・・・。

七月八日。午前愛宕下谷氏の病院に往く。待合室にて偶然新聞紙を見るに、有嶋武郎波多野秋子と軽井澤の別荘にて自殺せし記事あり。一驚を喫す。・・・。
(*註 有島武郎と永井荷風は、年齢、家庭環境、外国体験など非常に酷似しているんですがね・・・。荷風散人にとっては、心中或いは自殺は全く異次元の出来ごとなんでしょう)

七月九日。風雨午後に歇む。森先生の小祥忌なり。墓参の歸途明星社の同人酒亭雲水に會して晩餐をなす。賀古小金井の両先生、千葉掬香氏も来會せられたり。
(*註 この人、師鷗外の墓参は欠かすことはなかったと思う)

七月十日。・・・。夜秀梅を訪ふ。

七月十三日。時々驟雨。・・・。

七月十五日。梅雨既にあけたれど淫雨猶晴れず。隣家の人傘さしかけ、雨ふる戸口に盂蘭盆の迎火を焚く。情趣却って晴夜にまさるものあり。

七月十六日。雨やまず。書窗冥々。洞窟の中に坐するが如し。紫陽花満開なり。

七月十七日。曇りて蒸暑し。・・・。

七月十九日。始めて快晴の天気となる。・・・。夜深驟雨。

七月二十日。・・・。雨歇み俄に暑し。

七月廿一日。いよいよ暑し。夜秀梅を訪ふ。

七月廿三日。風あり。暑気稍忍び易し。

七月廿六日。・・・。この夜炎蒸甚し。・・・。

七月廿八日。・・・。炎熱堪ふべからず。家に歸れば庭樹の梢に月あり。清風竹林より来り、虫聲秋の如し。

七月廿九日。午後遠雷殷々。驟雨来らむとして来らず。炎蒸最甚し。

八月朔。夜帝國劇場に往く。狂言は河合井伊一座の壮士芝居なり。暑気甚しければ廊下にて涼を納め狂言は見ず。・・・。

八月二日。芝浦の酒楼いけすにて木曜會酒宴の催ある由聞きしが、時節柄魚類を口にする事を欲せざれば行かず。此日終日涼風あり。・・・。

八月四日。風ありて涼し。・・・。

八月六日。午後遠雷の響きを聞き驟雨を待ちしが来らず。七月二十日頃より雨なく、庭の土乾きて瓦の如くになれり。窗前の百日紅夾竹桃いづれも花をつけず。 

八月七日。炎暑前日の如し。・・・。

八月九日。・・・。夜に入るも風なく炎蒸甚し。・・・。

八月十日。晩間風歇み電光物すごし。初更雨来る。

八月十一日。夜驟雨雷鳴。秀梅を訪ふ。

八月十四日。秋暑益甚し。・・・。

八月十六日。晩風俄に冷なり。

八月十七日。雑誌女性原稿執筆。夜秀梅を訪ふ。

八月十九日。曇りて涼し。・・・。

八月廿二日。午後驟雨雷鳴。・・・。

八月廿七日。夕刻驟雨。

八月廿八日。・・・。初更雷雨。秀梅を訪ふ。

八月三十一日。・・・。深更に至り大雨灑来る。二百十日近ければ風雨を虞れて夢亦安からず。

九月朔。昜爽雨歇みしが風猶烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。日将に午ならむとする時天地忽鳴動す。予書架の下に坐し瓔鳴館遺草を讀みゐたりしが架上の書帙頭上に落来るに驚き、立って窗を開く。門外塵烟濛々殆咫尺を瓣せず。児女雑犬の聲頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。予も亦徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻をを手にせしまゝ表の戸を排いて庭に出でたり。數分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に椅りておそるおそる吾家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の戸も落ちず。稍安堵の思をなす。晝餉をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二三の外客椅子に坐したり。食後家に歸りしが震動歇まざるを以て内に入ること能はず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に歸らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の隣地にて熄む。吾廬を去ること僅に一町ほどなり。

(*註 この頃、荷風は麻布市兵衛町(現、六本木)に住んでいたのですが、この辺りは瓦が落ちる程度で済んだようです。また、火災もこの辺りまでには及んでいないようです。
従って、阿鼻叫喚の惨状、或は朝鮮人虐殺などにも記述は及んでいません)

九月二日。昨夜は長十郎と庭上に月を眺め暁の来るを待ちたり。長十郎は老母を扶け赤阪一木なる権十郎の家に行きぬ。予は一睡の後氷川を過ぎ権十郎を訪ひ夕餉の馳走になり、九時頃家に歸り樹下に露宿す。地震ふこと幾回なるを知らず

九月三日。微雨。白晝處々に放火するものありとて人心恟々たり。各戸人を出し交代して警備をなす。梨尾君来りて安否を問はる。

九月四日。昜爽家を出で青山権田原を過ぎ西大久保に母上を訪ふ。近巷平安無事常日の如し。下谷鷲津氏の一家上野博覧會自治館跡の建物に避難すと聞き、徒歩して上野公園に赴き、處ゝ尋歩みしが見當らず、空しく大久保に戻りし時は夜も九時過ぎなり。疲労して一宿す。この日初めて威三郎の妻を見る。威三郎とは大正三年以後義絶の間柄なれば、其妻子と言語を交る事は予の甚快しとなさゞる所なれど、非常の際なれば已む事を得ざりしなり。
(*註 「威三郎」は義絶している荷風の末弟)

九月五日。午後鷲津牧師大久保に来る。谷中三崎に避難したりといふ。相見て無事を賀す。晩間大久保を辭し、四谷荒木町の妓窩を過ぎ、阿房の家に憩ひ甘酒を飲む。鹽郵便局裏木原といふ女の家を訪ひ、夕餉を食し、九時家に歸る。途中雨に値ふ。

九月六日。疲労して家を出る力なし。・・・。

九月七日。晝夜猶輕震あり。

九月九日。午前小山内吉井両君太陽堂番頭根本氏と相携え見舞に来る。小山内君西洋探検家の如き輕装をなし、片腕に東京日々新聞記者と書きたる白布を結びたり。午後平澤夫婦来訪。つゞいて浅利生来り、松筵子瀧野川の避難先より野方村に移りし由を告ぐ。此日地震數回。夜驟雨あり。

九月十日。昨夜中州の平澤夫婦三河臺内田信也の邸内に赴きたり。早朝往きて訪ふ。雨中相携へて東大久保に避難せる今村といふ婦人を訪ふ。平澤の知人にて美人なり。電車昨日より山の手の處々運転を開始す。不在中市川筵升河原崎長十郎来訪。

九月十一日。雨晴る。平澤今村の二家偏奇館に滞留することゝなる。
(*註 荷風散人、2家族に宿所を提供する事になる)
*
*
*

0 件のコメント: