2010年10月31日日曜日

★永井荷風インデックス

永井荷風インデックス
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大逆事件への処し方 徳富蘆花 石川啄木 永井荷風 森鷗外 夏目漱石 
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「七月廿五日。くもりて蒸暑し。・・・日軍の為す所は欧州の戦乱に乗じたる火事場泥棒に異らず。・・・」(永井荷風「断腸亭日乗」昭和16年7月25日条)
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「九月十二日。晴。朝の中より華氏八十八九度のあつさなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」昭和11年9月12日条)
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永井荷風「断腸亭日乗」の大正十二年(1) 関東大震災の年
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永井荷風「断腸亭日乗」の大正十二年(2) 関東大震災の年
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永井荷風「断腸亭日乗」の大正十二年(3) 関東大震災の年
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昭和14年(1939)年9月14日永井荷風「断腸亭日乗」「戦争の禍害を示すものにあらず寧その利益を語るものなるべし。」
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昭和16年(1941)年7月13日~18日 第二次近衛内閣総辞職 松岡外相更迭 「初より計画したる八百長なるが如し」(「断腸亭日乗」)
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9月22日は中秋 「十五夜に雲なきは稀なり」(永井荷風「偏奇館漫録」)
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昭和16年(1941)7月19日~24日 関特演 「いづれも冬仕度なれば南洋に行くにはあらず蒙古か西伯利亜に送らるゝならん」(荷風「断腸亭日乗」) ルーズベルト、野村大使に石油禁輸の可能性を警告
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昭和15年9月27日 日独伊三国軍事同盟締結。「・・・自ら辞を低くし腰を屈して侵略不仁の国と盟約をなす国家の恥辱之より大なるは無し・・・」(荷風「断腸亭日乗」)
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昭和15年(1940)年10月18日 「門外の木の間に何やら赤ききれの閃くを見る。女の腰巻かと見るにさにあらず、これ鄰家の墺國人ナチスの旗と日の丸の旗とを其門に立てたるなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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永井荷風略年譜(「断腸亭日乗」起筆まで) (1)
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東京 三ノ輪 浄閑寺(投込寺) 永井荷風の詩碑 花又花酔の川柳の碑 新吉原総霊塔 遊女「若紫」の墓
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東京 安藤坂 牛天神 中島歌子歌碑 一葉が通った萩の舎跡 荷風が生まれ育った土地
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東京 伝通院(でんずういん) 永井荷風育生地 富坂 東京都戦没者霊苑 礫川公園 春日局の像
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昭和15年(1940)11月25日 「八紘一宇などいふ言葉はどこを押せばでるものならむ。お臍が茶をわかすはなしなり。」(永井荷風「断腸亭日乗)
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昭和15年(1940)12月31日 「花下一杯の酒に陶然として駄句の一ツも吟ずる餘裕あらば是人間の世の至楽なるべし。」(「断腸亭日乗」)
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東京 九段周辺の永井荷風旧居跡(1) 冬青木坂の旧居跡
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東京 九段周辺の永井荷風旧居跡(2) 九段南(旧麹町)の旧居跡
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東京 永井荷風の満11歳の頃の通学路 半蔵門~一ツ橋
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昭和16年(1941)1月1日 「人の命あるかぎり自由は滅びざるなり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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昭和16年(1941)1月25日 「政府はこの窮状にも係はらず獨逸の手先となり米國と砲火を交へむとす。笑ふべく亦憂ふべきなり」(永井荷風「断腸亭日乗」)。
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昭和16年(1941)1月28日 「支那は思ふように行かぬ故、今度は馬来人を征服せむとする心ならんか。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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昭和16年(1941)2月4日 「彼国(朝鮮)の王は東京に幽閉せられて再び其國にかへるの機会なく、其國民は祖先傳來の言語歌謡を禁止せらる。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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永井荷風年譜(1) 明治12年(1879)12月3日 荷風誕生 家族、生家のこと
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昭和16年(1941)2月24日 「怨嗟の聲かくの如き・・・。軍人執政の世もいよいよ末近くになりぬ。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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昭和16年(1941)3月3日 「新體制の腐敗早くも帝都の裏面にまで瀰漫せしなり。痛快なりと謂ふべし」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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永井荷風年譜(2) 明治13年(1880)1歳~明治25年(1892)満13歳
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永井荷風年譜(3) 明治26年(1893)14歳~明治27年(1894)15歳 寺内寿一らによるイジメにあう 初恋とペンネーム(創作の初め)
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永井荷風年譜(4) 明治28年(1895)満16歳~明治29年(1896)満17歳 中学校を病気留年 亡友井上唖々との出会い
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昭和16年(1941)3月24日 「本国は北賊排虎(ヒトラ)の為に滅され、印度洋上の領土は倭寇の襲ふところならんとす。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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永井荷風年譜(5) 明治30年(1897)満18歳 初めて吉原に遊ぶ 第一高等学校受験失敗 家族と上海で暮らす
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昭和16年(1941)4月4日 「新橋橋上のビラにもう一押だ我慢しろ南進だ南進だとあり。車夫の喧嘩の如し。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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昭和16年(1941)4月26日 「世情混沌五里霧中に在るが如し。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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永井荷風年譜(6) 明治31年(1898)満18歳~明治32年(1899)満20歳 広津柳浪の門に入門 落語家の弟子になる 懸賞小説入選
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永井荷風年譜(7) 明治33年(1900)満21歳~明治34年(1901)満22歳 小説修業の傍ら歌舞伎座立作者福地桜痴に入門 暁星学校夜学でフランス語を学び始める
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永井荷風年譜(8) 明治35年(1902)満23歳~明治36年(1903)満24歳 「地獄の花」「夢の女」出版 アメリカに渡る
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永井荷風年譜(9) 明治37年(1904)満25歳~明治38年(195)満26歳 「如何なる点からしても戦争と云ふ事に幾分の趣味も有する事ができない」 娼婦イデスとの耽溺生活
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昭和16年(1941)5月8日 「戦争此のかた若き女の他處へ移住することを禁ぜられたり。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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永井荷風年譜(10) 明治39年(1906)満27歳~明治40年(1907)満28歳 「余は娼家の奴僕となるも何の恥る處かあらん」 遂にフランスに渡る
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昭和16年(1941)5月31日 「慾纂怪といふ化物・・・その吠る聲コーアコーアと聞ゆることもありセイセンと響くこともあり・・・。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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明治16年(1941)6月1日 「わが思想とわが藝術も願くばこの佛蘭西あじさゐの如くなれかし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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昭和16年(1941)6月14日 「勧銀の営業振りは全く高利貸に異らざるものなし」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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昭和16年(1941)6月15日 「今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るゝ事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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昭和16年(1941)6月20日 「米国よ、速かに起つてこの狂暴なる民族に改悛の機会を與へしめよ。」(永井荷風「断腸亭日乗」)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(1) 「はじめに」ほか
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2010年10月30日土曜日

東京 北の丸公園 実りの秋 カクレミノの実 ウメモドキの実 クロガネモチの実 ムクロジの実 イイギリの実 ユッカ蘭 ナンテン 科学技術館で宙博(ソラハク)開催中

何度も書いてますが、本当に曇天続き。
晴れたのは10月27日くらいで、あとは曇りか雨。
昨日(10月29日)も曇天でしたが、北の丸公園へ行きました。
「実りの秋」です。
そこここに、色んな色の実を付けた植物があります。
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カクレミノの実 (ウコギ科)
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ウメモドキの実 (ニシキギ科)
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クロガネモチの実 (モチノキ科)
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ムクロジの実 (ムクロジ科)
羽根つきの羽根の重りになるものです。
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イイギリの実 (イイギリ科)
高い木の枝にぶら下がっています。
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???です
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ユッカ蘭
武道館前の駐車場の脇にあります。
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ナンテン
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以下は散歩道の風景。




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木の枝にカラスが何羽もとまっています。
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10月29日(金)から31日(日)まで、科学技術館で宙博(ソラハク)が開催中。
大勢の人が詰め掛けていました。
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下のスケジュール表の左側にある、
京大の柴田先生という方の「太陽と地球・生命」というお話を聴いてきました。
太陽は、常に巨大爆発をしているというお話でした。
明日、お天気良ければ、公園散歩と共に、ご入場おススメです。
台風一過、ギンナンもたくさん拾えるんじゃないでしょうか。
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天文23(1554)年9月~12月 北条氏康、関東の実権掌握 信長、「上総介信長」を名乗る  [信長21歳]

天文23(1554)年9月15日
・折敷畑(廿日市)の合戦。
陶隆房(後の晴賢)、山代十三郷の監軍宮川甲斐守房長に将兵3千を与え安芸攻略に先発させるも、大敗。宮川甲斐戦死。
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9月29日
・毛利元就、安芸能美島を占領、飯田氏の水軍が付近を警護。
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10月
・毛利両川(吉川元春・小早川隆景)、兵2万で大友方門司城(城督仁保就定)を攻略。
13日、大友義鎮、毛利氏に反撃するべく、戸次・田原・臼杵・斉藤・吉弘ら兵1万5千を派兵。大友軍と毛利軍の初対決。
15日、毛利軍総崩れ。門司城は再び大友氏のものとなる。
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10月4日
・北条氏康、松田憲秀に7千騎を与え、古河公方足利晴氏の下総古河城を攻めさせる。 
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10月5日
・北条氏康、真田幸隆(42)に吾妻郡在城を要請。
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10月12日
・三好長慶、堺より淡路に渡り炬ノロ城で弟3人(淡路の安宅冬康、讃岐の十河一存、阿波の三好義賢)と対面、播磨出兵など打合せ、夫々の本国での出兵準備にとりかからせる。
下旬、芥川城に戻り、28日に上洛、小泉城の今村慶満らから京洛の状勢を聴取。
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11月1日
・尼子晴久、叔父国久の率いる新宮党を全滅させる。
国久の長男誠久の四男孫四郎(2)は乳母の手で脱出。
のちの尼子勝久。山中鹿之介らが尼子家再興のために奉じる。
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11月2日
・阿波の三好義賢の家来篠原長房先手1千、播磨攻めのため撫養を出て船上(明石市)に上陸。
11日、三好長慶先手3千と合流し、明石氏の籠城する明石城包囲。持久策をとり越年。
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阿波の勝瑞城では、阿波軍先鋒に篠原長房を任命。
「昔阿波物語」によれば、長房の父祖は近江篠原(滋賀県野洲市小篠原)出身で、多賀社の神官の従者として阿波へ下り、土着したと云われる。
長房の祖父宗半は三好之長に仕え、訴訟事務に才能を現した。
長房は、この宗半の子大和守の2男。
長房が畿内で活動するのは、この天文23年冬の播磨出陣が初めてで、以後三好義賢・長治父子によく仕え、長慶没後は三好三人衆政権を1人で支え、阿波・讃岐を確保し続ける。
戦国家法「新加制式」の制定者(陪臣ながら分国法の制定者となるのは長房1人)。
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11月7日
・北条氏康、関東の実権掌握
叛した古河公方足利晴氏・藤氏を下総国古河城に攻め自領波多野(秦野市)に幽閉。
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藤氏の異母弟の義氏(母は北条氏綱の娘)を古河公方に据えてこれを傀儡とし、その権威をかりて自らの権力を補完する体制を整える。
関東管領上杉憲政の越後亡命とあいまって、北条の勢威は関東を制圧。
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11月11日
・赤松義祐、安宅冬康の加勢を得て細川晴元の属城明石城を攻める。 
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11月16日
・信長、祖父江五郎右衛門へ俵小船1艘の諸役免除を安堵。
20日、信長、安斎院(曹洞宗曹源山)へ居屋敷・寺領を先規の如く安堵。
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信長は、安斎院への安堵状に「上総介信長」と署名。この「上総守」や「上総介」は、正式に朝廷から任官したものではなく自称。
尾張の中心地である清洲城を奪取し、次いで自称とはいえ受領名を称したことは、この頃から領国支配に係わる文書が増加することとも関係して、戦国大名としての経営基盤が固まりつつあることを窺せる。
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11月28日
・信長の叔父孫三郎信光、那古野城で家臣の坂井孫八郎に殺害される。
宿老の林秀貞に那吉野城を守らせる(「定光寺年代記」「信長公記」)。
「甫庵太閤記」は、信光の近習坂井孫八郎が、信光の妻との密通が露見するのを恐れて弑逆したと伝える。
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12月
・武田晴信の娘(黄梅院)、北条新九郎氏政に嫁ぐ。
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12月5日
・北条城の戦い。
上杉謙信の重臣北条城(刈羽城、柏崎市北条)城主北条高広、武田氏に内応、挙兵。
謀反は上杉方の事前察知により失敗。
謙信の信濃出兵、第2次川中島の戦いの要因となる。
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12月12日
・千利休、今井宗久の会に始めて招かれる。
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12月17日
・フランス、アンブロワーズ・パレ、同業の外科医の懇望により外科学博士試験受験、合格。博士にするため周囲は様々な「準備」。
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12月20日
・武田晴信、知久平を下条氏に安堵する。
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「★信長インデックス」  をご参照下さい。
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2010年10月29日金曜日

東京 竹橋の清水濠側にユッカ蘭が咲き始めました

竹橋の清水濠側にユッカ蘭が咲き始めました。
写真は10月27日の状況。
これだけの数がかたまって咲いているのは珍しいと思います。
この花、春と秋の二回咲きます。
ただ、花の重量に耐えきれず、しだいに傾き、倒れてしまうという問題があります。





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「★東京インデックス」  「★四季のうつろいインデックス」をご参照下さい。
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2010年10月27日水曜日

東京 江戸城 本丸跡 サザンカ咲く カリンの実 ジュウガツザクラ ショウメイギク タイワンホトトギス センリョウ ヒメリンゴ

久しぶりの好天の今日(10月27日)、江戸城本丸跡へ。
この2週間程、曇天続きで雨も時々。
そして、明日は雨、またしばらく曇天が続くという。
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サザンカが咲き始めている。

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カリンの実
輪切りにして干したものを煎じたり、蜂蜜につけたりすると、咳止めの薬になるとか。
そう言えば、この名前を付けたのど飴があったような。
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ジュウガツザクラ
もう殆ど終りに近い
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ショウメイギク
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タイワンホトトギス
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センリョウ
赤くなるまでにはこれからまだ1ヶ月ほどかかる
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ヒメリンゴ
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天守閣跡を正面から
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「★東京インデックス」  「★四季のうつろいインデックス」  をご参照下さい。
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2010年10月26日火曜日

京都 高瀬川に沿って木屋町通そぞろ歩き(4) 瑞泉寺 坂本龍馬の寓居跡(酢屋) 五之舟入址 彦根藩邸跡 七之舟入址 土佐藩邸跡 旧京都市立立誠小学校(昭和3年築) 八之舟入址 本間精一郎遭難之地 九之舟入址 古高俊太郎邸跡 喫茶店フランソワ

今回は、木屋町三条から四条方面に下る。
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瑞泉寺
慶長16年豪商角倉了以が豊臣秀次らの菩提を弔うために創建。
寺名は秀次の法号。
秀次は、三好吉房と秀吉の姉との子で、秀吉の養子となり関白となる。
しかし、文禄2年、秀頼が誕生すると、秀吉に疎んじられ、高野山に幽閉後、切腹を命じられる。
この際、秀次の妻妾、子供ら30数人が、この寺の裏にあたる三条河原で惨殺される。
高瀬川開削中の角倉了以がその墓石を見付け、この寺を建立した。


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坂本龍馬の寓居跡
この酢屋(創業は享保6年)は、土佐藩邸に近く、土佐藩との繋がりの深い材木商。
寺田屋を襲撃された龍馬は、この寺田屋を京都の宿所とする。
多分、酢屋にとては厄介ものであったと思われるが、ここは海援隊の屯所ともなる。
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この界隈の桜の頃(2010年3月末)の風景
中央の橋を右に行けば酢屋
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五之舟入址
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彦根藩邸跡
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七之舟入址
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土佐藩邸跡
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旧京都市立立誠小学校(昭和3年築)
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八之舟入址
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本間精一郎遭難之地
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九之舟入址
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古高俊太郎邸跡
この付近は、昼間歩いていても、お声がかかる一帯です。
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喫茶店フランソワ
木屋町四条下る
昭和9年から営業しているお店だそうです。
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「★京都インデックス」  をご参照下さい。
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