2010年10月9日土曜日

東京 銀座・築地散歩(2) 泰明小学校 島崎藤村・北村透谷記念碑 石川啄木歌碑 中華料理店「維新號」

中央区立泰明小学校。
関東大震災後に新築された所謂「復興小学校」のひとつ。
いまこの「復興小学校」がどんどん毀されてゆくので問題となっています。
(あとで行く築地にある明石小学校もその一つで、現在、解体中でした)
泰明小学校は、昭和4年(1929)の築。
東京都選定歴史的建造物。
この小学校についてはウィキペディアをご参照下さい。
*
下の写真の向こうに蔦の絡まる建物がありますが、これが泰明小学校です。




*
島崎藤村と北村透谷がこの小学校で学んだという碑
*
島崎藤村(春樹)は明治14年9月、10歳の時に、3歳上の兄・友弥と共に15歳年上の長兄に伴われ、木曾の馬籠から上京。
馬車が通る街道まででるのに3日~4日歩いたそうで、 「金米糖をくれなければ歩かない」と途中でダダをこねたという。
17歳年上の姉・園子の嫁ぎ先である大蔵省の官吏の高瀬薫の家(京橋鑓屋町)に落ち着き、そこから泰明小学校に通ったそうである。
「その家は銀座街特有の煉瓦の二階家で、二階には四間ほどの室があった。春樹はこの姉の家で、初めて刺身を食べた。しかし彼は郷里の山村で食べた塩からいサンマの方がうまい、と思った。」(伊藤整「日本文壇史」(1))
姉の夫の高瀬薫は、馬籠の旧家の子供で、国学者を父にもつ春樹を愛し、漢文を教えたり、散歩に連れ出したりしたそうである。
*
北村透谷の場合は、・・・
「この同じ年、その泰明小学校に、小田原から来た北村門太郎という十四歳の少年が入学した。しかし年が違い、門太郎の級が上だったので、春樹は門太郎を知らなかった。門太郎の父は北村快蔵と言い、母はユキと言った。快蔵は小田原藩の藩士であったが、早くから高瀬薫と同じく大蔵省につとめ、そのかたわら、鎗屋町の向側の弥左衛門町の角で妻に煙草屋を営ませていた。そしてこの年郷里の祖父のもとに養われていた門太郎を引きとって泰明小学校に通わせたのである。」(伊藤整「日本文壇史」(1))
*

*
なにやらウンチクのありそうな門扉ではあるが、蔦の絡まる校舎がなんともいい。
*

*
石川啄木歌碑
「京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」
*
啄木は、明治42年(1909)3月1日より、この地にあった朝日新聞社に入社し、校正係として働いている。24歳。
月給は深夜勤務手当を入れて25円。2年前に朝日新聞社に入社した漱石は200円。
また、啄木は才能をかわれ、新設の「朝日歌壇」選者をつとめ、「二葉亭四迷」全集の編集も手がけている。
啄木の最後の充実期である。
ないしろ、鷗外主催の「観潮楼歌会」では最高点を含め常に高位を占め、かの斎藤茂吉にも勝った実力者である。
*
以前にご紹介した湯島の切通坂にある啄木の歌碑(コチラ)は、同じく朝日新聞社に勤めている頃のものです。
*


*
中華料理店「維新號」
*
以前に周恩来が学んだ東亜高等予備校と漢陽樓をご紹介しました(コチラ)が、この維新號も周恩来の関連するお店です。
日本の21ヶ条要求が出たその日にも周恩来はこのお店に来たとのことです。
当然、何度も官憲の踏み込みも受けているとのこと。
魯迅とか弟の周作人なんかも来ていたお店だそうです。
詳しくは、森まゆみ「明治・大正を食べ歩く」(「PHP新書」)を。
*

*
*
「★東京インデックス」  「★歴史的建造物インデックス」をご参照下さい
*
*
明治・大正を食べ歩く PHP新書
明治・大正を食べ歩く PHP新書
 *

0 件のコメント: