2010年11月3日水曜日

天文24(1555)年1月~5月 播磨東2郡が三好長慶の勢力圏に入る。 松平竹千代(家康、14)、駿河府中の今川義元の館で元服 嘉靖の倭寇(倭寇、朝鮮全羅道を襲撃) 「(三好)長慶裁許状」発行 [信長22歳]

天文24(1555)年
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この年
・フランス、プロテスタント指導者・海軍提督コリニーの指示を受けたヴィルガニョン、リオ・デ・ジャネイロにユグノー教徒入植。植民地コリニー砦建設。翌年にも増援派遣。
1560年、ブラジル完全征服を目指すポルトガル艦隊の攻撃をうけ撤収。
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・フランス、パリ、最初の改革派教会創設。
初めてジュネーヴより牧師派遣(1557年、11人。1559年、32人)。
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・フランス、陶工パリシー、釉陶技法を完成。
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・トレド異端審問法廷、最大の活動期。審理総数1,100件。
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1月10日
・阿波勝瑞城より三好義賢が、芥川城より三好長慶が、太山寺(神戸市垂水区伊川谷)に着陣。
1万で明石城包囲。
13日、和睦開城。
播磨への進出拠点を確保し播州平野を北上、美嚢郡に入り三木の依藤城を包囲(東播磨の要衝、のち秀吉は「三木の干殺」と呼ぶ兵糧攻めを行う)。
猛攻1ヶ月余、三木次郎は和睦を申し入れ降参。播磨東2郡が長慶の勢力圏に入る
2月27日、長房・義賢の阿波・淡路軍は帰国、長慶も芥川城に戻る。
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1月14日
・長尾景虎(26)、安田城(柏崎市城の組)安田景元に柿崎景家や琵琶島城衆らと北条城(北條高広)を攻めるよう命令。
2月、長尾景虎自ら、善根(柏崎市善根)に出陣、陣頭指揮をとる。孤立無援の北条高広は降伏。
長尾景虎、刈羽城降伏させる。
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2月
・武田晴信長子義信(18)、佐久郡の反乱鎮圧。
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2月5日
・信長(22)、鳴海城将の山口左馬助に同心した星崎・根上の者の所領を没収。
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2月7日
・相良晴広、家法「相良氏法渡」20ヶ条を制定。
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2月10日
・石見に侵略の吉川元春、福屋隆兼・周布元兼を破り、津和野三本松城・吉見正頼と手を組み益田藤兼(27)挟撃に動く。
11日、益田藤兼、家臣・金山元連に命じ三隅高城の支城・針藻城を築城。  
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3月1日
・医師・占星術師ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、プロヴァンス地方のサロンで予言詩「諸世紀」出版。
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3月13日
・北条氏康、伊豆の船番匠弥五郎に、船舶建造についての条規を定めて通告。 
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3月14日
・本多忠勝、妙源寺・慶泉和尚より孫子の兵法を習い始める。
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3月19日
・伊達晴宗の子総次郎、将軍義輝の偏諱を賜り輝宗を名乗る。 
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3月22日
・吉川元春、永安城・永安兼政を攻撃、落城。
永安兼政は益田藤兼を頼って益田七尾城に逃げる。 
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3月23日
・教皇ユリウス3世(68)、没(位1550~1555)。
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4月
・長尾景虎5千、信濃入り。善光寺城山に本陣、旭山城と対峙。
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4月
・春、毛利元就、厳島島内東側の要害山(約23m)に宮尾城建設に着手。
大野水道をにらむ好位置に拠点を築く。
厳島神社の門前町と港を支配してきた陶晴賢は、のど元に剣先を突き付けられた格好に追い込まれる。
4月8日、陶方の神領衆、安芸小方・大竹から小船70~80艘に分乗し毛利方厳島を攻める。 
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4月8日、毛利軍、矢野城を攻略。野間隆実降服。
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4月13日
'・松平竹千代(家康、14)、駿河府中の今川義元の館で元服、松平次郎三郎元信と称す。
加冠は今川義元、理髪は関口義広。
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4月23日
・武田晴信、信濃に出陣。
謙信を牽制するため、善光寺の押さえの旭山城(長野市)へ前年に帰属した善光寺小御堂別当栗田鶴寿を入れ、援軍・鉄砲300丁ほかを送る。
謙信は、旭山城の向かいに葛山城を構築。長期戦の様相。
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5月
・ジュネーヴ、「リベルタン」派暴動、鎮圧。頭目ベトルリエ兄弟ら処刑。
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5月1日
・教皇マルケウス2世(54)、在位1ヶ月にも満たずに没。
23日、パウルス4世(79)、教皇に即位(位1555~1559)。ジョバンニ・ピエトロ・カラファ(カラッファ)、ナポリ貴族カラッファ家出身。
反ユダヤ主義の勅令発布。ユダヤ人は生まれながらの奴隷であると強調。ローマのユダヤ人4~5千人をゲットーに閉じ込める(1555~1870の315年間)。
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5月4日
・フランス、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、「予言集」。
「第一・詩百篇」第35番の詩にアンリ2世の死を予言するかのような詩句。
また、「第十・サンチュリ」第39番の詩で1560年12月5日のフランソワ2世の死を予言したと言われる。
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5月8日
・信長(22)、小幡殿(孫三郎信光(信長の叔父)の後室「おはた殿」)へ長慶寺法主分・寺領等を安堵(「初瀬川建治氏所蔵文書」)。
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5月11日
嘉靖の倭寇。乙卯の変(朝鮮)倭寇、朝鮮全羅道を襲撃。 
この頃の倭寇には明王朝の海禁により貿易を禁止された中国人の参加が多い(中国社会内部の矛盾の激化の反映、中国民衆の階級的反抗のあらわれ)。
中心人物王直は博多に根拠を置く。やがて、明は海禁を緩和し、朱印船貿易へと展開してゆく。
明国の中期(16世紀)以降、貨幣経済が発展し、客商(新安商人・山西商人ら)を生む。一方、中小商人は客商の圧迫に対抗するため、海禁にもかかわらず倭寇との密貿易で自立しようとする。
国際的にはスぺインが海上権を握り世界貿易の中心となり、中国にも来航し貿易を行う。
中国の海禁は世界の動向にも逆行しており、倭寇はその専制王朝の海禁に抵抗する行動でもある。
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5月13日
・陶晴賢、安芸厳島有の浦を焼き討ち。 
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5月14日
・毛利隆元、安芸草津に出陣。 
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5月26日
・三好長慶、物集女太郎左衛門尉と同久勝との年貢相論を裁許し、太郎左衛門尉に公用早急に納入させる(「天竜寺文書」)。
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この月天文24(1555)年5月~永禄2(1559)年5月、「長慶裁許状」発行
奉書ではなく、長慶が唯一の命令者として発行(長慶以外に上位命令者が存在せず、三好長慶の独裁時代)。この時期、幕府奉行人奉書も発給されていない。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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