2011年2月28日月曜日

昭和16年(1941)2月24日 「怨嗟の聲かくの如き・・・。軍人執政の世もいよいよ末近くなりぬ。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

昭和16年2月の永井荷風「断腸亭日録」より・・・
(適宜改行を施しています)
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昭和16年2月24日
・二月念四。晴れて暖なれば午後草稿を携へて中央公論社を訪ふ。社員中余の知るもの皆外出して在らず。
淺草に行き寺嶋町を歩む。時恰も五時になりしとおぼしく色町組合の男ちりんちりんと鐘を鳴して路地を歩み廻れり。昨年よりこの里も五時前には客を引く事禁止となりしなり。
馴染の家に立寄るに飯焚きの老婆茶をすゝめながら、昔はどこへ行かうがお米とおてんと様はついて廻はると言ひましたが、今はさうも行かなくなりました。お米は西洋へ売るから足りなくなりといふ話だが困つたものだと言へり。
怨嗟の聲かくの如き陋巷にまで聞かるゝやうになりしなり。軍人執政の世もいよいよ末近くなりぬ。
淺草公園に戻りて米作に飰してオペラ館に至り見るに、菅原永井智子在り。地下鐡を共にしてかへる。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。

京都 四条大橋から三十三間堂へ(7) 七条大橋から四条大橋まで鴨川べり歩き

さて、今回の散歩のシメは、七条大橋から四条大橋までの鴨川べり歩き。
後白河が意のままにならない三つの内の一つに数えた鴨川の流れ。
昔は海の如くと形容されるほどの大規模な氾濫があったようで、西は今の新町通りくらいまでは氾濫時は危険地帯になったそうです。
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この鴨川の河原・・・
かつては、阿国歌舞伎に代表される見せ物小屋の立ち並ぶ庶民の遊興の場、
さらにまた、
源平合戦や関ヶ原の戦いにおける敗戦者の刑場、晒し場。
これらは六条河原の刑場。
秀次の家族は三条河原で処刑だった(秀次の墓所についてはコチラ)。
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でも今は・・・
水辺の鳥の生活圏であり、市民ののどかな散歩道。
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▼七条大橋辺の鴨川
この辺りまで来ると鴨川の水量は多い(ように見える)
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▼鷺(さぎ)ですかね?
でも群れていない。
孤高の雰囲気を漂わせています。
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▼もう1羽いました

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▼水辺の鳥ではないですが・・・。
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▼琵琶湖から来るユリカモメ
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▼四条大橋の少し手前です

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▼四条大橋の下から北の三条大橋方向を見たところ。
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以上で今回の散歩は終りです。
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「★京都インデックス」をご参照下さい。
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2011年2月27日日曜日

東京 江戸城外濠を歩く 四ツ谷見附から赤坂見附(3) 清水谷公園 玉川上水遺構 大久保利通哀悼碑 グランドプリンスホテル 紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡の碑 赤坂見附跡  諏訪坂  

▼紀尾井坂を下りきったところを右折すると、清水谷
この辺りは、湧水が豊富で、江戸時代から清水谷と言われていたそうです。

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清水谷公園にある玉川上水遺構
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▼清水谷公園にある大久保利通哀悼碑
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▼3月末で閉鎖されるグランドプリンスホテル
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▼紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡の碑
プリンスホテルの前にあります。
これで、「紀」「尾」「井」の全てが揃いました。
この紀州藩の屋敷は元は竹橋近くにあったんですが、明暦の大火で焼失し、大火後の新しい都市計画に従って、この地に移転したそうです。
(元の屋敷跡、紀伊国坂はコチラ)
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▼弁慶濠
前に、この先にある喰違見附跡からこの弁慶濠を見おろしたことがあります(コチラ)。


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▼赤坂見附跡

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▼明治初期の頃の写真だそうです。
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▼諏訪坂
「新撰東京名所図会」には、
「北白川宮御門前より赤坂門の方へ下る坂を名く。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり。」
とあるそうです。
北白川宮邸は赤坂プリンス旧館のこと。


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「★東京インデックス」 をご参照下さい。
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わが猫額庭にも春来たる クロッカスとスイセン

▼庭にクロッカスが咲き始めました。
この花、夕方になると花を閉じるんですね。

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▼うちの水仙は2月末に咲くタイプです。
数日前までは、今年はどうしたか? と心配するほど徴候がなかったんですが、2~3日前にはしっかり咲き始めました。
いよいよ春来たるです。
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▼ついでに、近所の桜(カンザクラ)と梅を見てきました。
カンザクラはかなり散っていました。
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▼梅は、散ってしまった木と、これから咲き始める木がありました。
かなり個体差があります。

明治7年(1874)2月 佐賀の乱勃発  台湾蛮地処分要略 [一葉2歳]

明治7年(1874)2月1日
佐賀の乱
佐賀の憂国党、県の公金を扱う小野組支店襲撃、20万円余奪う。
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2月1日
・慶應義塾出版社から「民間雑誌」(主宰福澤諭吉)創刊。
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2月2日
・聖公会ウィリアムス主教、築地居留地に英語学校を設立。のちの立教大学。
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2月3日
・福岡県庁、参議内務卿大久保利通に佐賀県士族動静不穏電報打つ。
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2月4日
・内務卿大久保利通内示。
陸軍大輔西郷従道、熊本鎮台(司令官谷干城陸軍少将)に派兵命令。
谷は、まず佐賀県庁に使者を送る。
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2月4日
島義男(ヨシタケ)、太政大臣三条実美に面会し、三条の依頼により鎮撫のため佐賀に向う。
佐賀に赴任する岩村高俊と同船、不法分子を一網打尽にするとの岩村の傍若無人な広言に不快を感じ、岩村が鎮台兵出動打ち合わせのため下関で下船したのを知り、文官が兵を率いて赴任するとは何事だと怒る(岩村は意識的に島を挑発したか?)。
9日、長崎着。
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島義男(ヨシタケ):
大学少監ー侍従ー秋田権令、明治5年6月、開化政策に反対し辞職。憂国党党首に祭り上げられている)
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2月4日
・イギリス軍、ガーナのアシャンティ王国首都クマシ侵攻。5日、制圧。
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2月5日
・警視庁、羅卒を巡査の呼称に改める。
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2月5日
・佐賀県権令岩村高俊(1月28日、兄に通俊に代って佐賀県権令に任命され、赴任前で在東京)、兵力による鎮圧を大久保内務卿に建白。
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2月6日
・大久保・大隈連名、琉球民殺害事件に関して閣議に「台湾蛮地処分要略」全9ヶ条提出。
台湾遠征軍派遣、閣議決定。大久保・大隈・リゼンドル・柳原前光・鄭永寧ら協議。リゼンドル第3覚書をそのまま踏襲。
近代日本の最初の海外への武力行使方針決定
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「要略」:
「無主の地」として清国領土外とみなす台湾先住民地域(著地)に対し、琉球民遭難への「報復」の「役」(軍事行動)を発動することが基本方針。
「討蕃」と「撫民」を目的とするが、「生蕃」討伐と「土蕃・塾蕃」撫育とを区別して併用せよとする福島九成の見解が採用されている。
「撫民」の目的は、「土人を懐柔綏撫(スイブ)せしめ、他日生蕃を処分するの時の諸事に便ならしむ」(第八条)ためである(「討蕃」の為の手段とする)。何故なら、「熱蕃の地、琅嬌・社寮の港より兵を上陸せしむる」(第九条)計画だったから。
台湾「蕃地」への軍事力行使に対して清国から抗議された場合は、「ただ推託して時日遷延の間に即ち事を成し」(第四条)とし、交渉を引き延ばして「討蕃撫民」の既成事実を作るとした。
また、清が琉球の日清両属問題を提起してきた場合は、「さらに顧て関係せず、その議に応ぜざるをよしとす」(第三条)とし、交渉に応じないことにした。外交による解決をとらない、軍事力優先の路線を採用。
但し、柳原外務大丞と鄭外務少丞が起草した「要略」原案弟一条は、「琉球人民の殺害せられしを報復しその地を拠有すべきは・・・」となっていたが、成文では「その地を拠有」が削除された。
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6日閣議後、岩倉は、「台湾処分御決定、先ずもって安心候」と大久保に書き送り、大久保も同日の日記に、台湾一条が決定し「安心いたし候」と書く。
また、大久保宛て書簡で、岩倉は、「吾属地」とするかどうかは「再び御評議のはず」と領有論再開を期待。
岩倉は、「なにとぞ吾れに得べきの目的立てたきものと存じ候」と、「蕃地」領有を望み、大久保の同意を求めるような書きぶりからみて、大久保も領有論傾向であったと推測できる。
岩倉は、「要略」が決定したからには「問罪使命の人体お取り極めの義急務」(遠征軍最高指揮者の人選を急がねばならない)であるが、「鹿児島県の人にて誰かこれなくや」と大久保に推薦を促す。
しかし、大久保は、台湾遠征という国家的大事業を薩摩閥だけのものとみられるのを避けたかったらしく、土佐出身の熊本鎮台司令長官谷千城に白羽の矢をたてる。
但し、木戸孝允ら長州系は「要略」決議に抵抗。
6日付け木戸日記に、「今日岩倉(邸)にて会議あり、台湾-条なり、廻しの暮面に同意せり、よって今日出会を断れり」とある。
木戸は、事前に見せられた書面(「要略」案)に同意したので閣議は欠席した。「同意」したとはいえ閣議には出たくなかったというわけで、この一件にたいする木戸の消極的態度が表れている。しかも、木戸が同意した案と閣議にかけられた案では内容が異なっていた。
翌7日、伊藤博文が木戸に閣議の模様を報告する手紙を送り、「台湾一条会議ござ候ところ、かねてお目にかけおき候書面の趣意とも少々相違」していたと云い、「急に一大隊の兵を発し、・・・議かくのごとく火急・・・卒然に事を処する見込み」と、「要略」決定までが性急で慎重さに欠けることへの不安を伝える。
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2月6日
・越仏協定成立。フランス、ハノイなどから撤退を開始。
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2月8日
・ムソルグスキー、オペラ「ボリス・ゴドノフ」、サンクト・ペテルブルクのマリンスキー劇場で初演。
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2月9日
・フランス、歴史学者ミシュレ(75)、没。
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2月9日
・島義勇、長崎上陸。
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2月9日
・江藤新平、長崎にて土佐の林有造と会談。
林は西郷に民撰議院設立への同意を取り付ける為に鹿児島に行った帰途。肥前が決起しても薩摩は呼応しないとの観測を示す。
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2月10日
・参議兼内務卿大久保利通、太政大臣三条実美に佐賀鎮定、軍事・裁判、全権委任させる。
14日、三条、参議文部卿木戸孝允に内務卿を兼任させる。
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政府軍の出動が遅れれば熊本や鹿児島の士族も呼応し九州全体の騒乱となり、更に高知、岡山、鳥取、鶴岡などに飛び火する可能性もある。
警察機構は十分に整備されていないうえ、軍隊にも征韓論政変の余燼がくすぶっていたので、政府側の危機感は深刻。
大久保内務卿はただちに軍事と裁判の権限を随時に委任されて九州に向かう。
江藤らが鹿児島など他県の士族が加勢するのを待っている間に、政府側は電信線で情報を正確に把握し、蒸気船で鎮庄部隊を送り込む。
さらに佐賀の中立派士族を味方につけ、熊本など近隣への波及を抑える。
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2月10日
・熊本・広島・大阪鎮台兵、出兵。
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2月11日
・島義勇、長崎で憂国党幹部と会談。後、深堀に江藤新平と会談。岩村高俊の暴挙(鎮台兵を率いて佐賀県庁に赴任、鎮圧)阻止で意見一致。
12日、江藤新平、佐賀に戻り正式に征韓党党首となる
13日、征韓党幹部、旧藩校弘道館に集合。江藤の「決戦之議」配布。本部を佐賀城北方にある実相院に移す。  
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決戦之議:
「夫れ国権行はるれば、則ち、民権随(シタガツ)て全し
之を以て交戦講和の事を定め、通商航海の約を立つ、一日も権利を失へば、国、其の国に非ず。今茲に人あり。之を唾して而して憤らず、之を撻て而して怒らずんば、爾後、婦人小児とと雖も、之を軽侮するや必せり。是れ、人にして其権利を失ふものなり。嚮に朝鮮、我国書を擯け、我国使を辱むる、其の暴慢無礼、実に言ふに忍びず。上は聖上を初め、下は億兆に至るまで、無前の大恥を受く。因て客歳十月、廟議尽く征韓に決す。天下之を聞て、奮起せざるものなし。已にして而して二三の大臣、偸安の説を主張し、聖明を壅閉し奉り、遂に其議を沮息せり。鳴呼国権を失ふこと、実に此極に至る。是れ所謂、之を唾撻して、而して憤怒せざるものと相等し。苟くも国として斯の如く失体を極めば、是れよりして、海外各国の軽侮を招く、其の底止する所を知らず。必ず、交際、裁判、通商、凡そ百事、皆な彼が限制する所と為り、数年ならずして、全国の生霊、卑屈狡獪、遂に貧困流離の極に至る、鏡に掛けて見るが如し。是れ有志の士の以て切歯扼腕する所なり。是れを以て同志に謀り、上は聖上の為め、下は億兆の為め、敢て万死を顧みず、誓て此の大辱を雪(ソソ)がんと欲す。是れ蓋し人民の義務にして、国家の大義、而して人々自ら以て奮起する所なり。然るに、大臣、其の己れに便ならざるを以て、我に兵を加ふ。其の勢状、此に至る。依て止むを得ず、先年長州大義を挙ぐるの例に依り、其の処置を為すなり(*幕長戦争に依拠して自衛行動に立ちあがる、という意)。古人日く、精神一到何事か成らざらん。我輩の一念、遂に此の雲霧を披き、以て錦旗を奉じ、朝鮮の無礼を問んとす。是れ誠に区々の微衷、死を以て国に報ゆる所以なり」(「江藤南白」)。
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2月13日
・島津久光(内閣顧問、佐賀憂国党は盟主として担ぐ)、東京発。
20日、鹿児島到着。
元藩士に佐賀に呼応しないよう睨みをきかせる。また、西郷を呼出し自重を命じる。
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2月13日
・アメリカ、ハワイの国王継承問題を口実に、海兵隊がホノルルに上陸。
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2月14日
・島義勇、佐賀入り。
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2月14日
・熊本鎮台より1個大隊650、出動。県権令岩村高俊と共に有明海北上。
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2月14日
・大久保内務卿、天皇から「佐賀鎮定」を委任され、九州へ出発。途中、大阪で陸海軍首脳と軍議。
17日、大阪より黒田清隆に宛てて台湾「要略」について念押し。
17日付け大久保の黒田清隆宛て手紙。
「台湾のこと既に決定せり・・・いずくまでも御貫徹、実効お挙げこれなく候てほ天下の信義もあい立たず」と念押し。
「この事は廟議決定の事にて懸念はこれなくと信用つかまつり候えども、憂情のあまりに候」と、「要略」の閣議決定が引っくり返るかも知れないとの憂情(不安)を拭いきれない心情を語る。
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2月15日
・佐賀県権令岩村高俊と熊本鎮台兵半隊650、筑後川河口より佐賀城(県庁)入城。
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2月16日
・征韓党2千・憂国党4千連合軍、佐賀城の熊本鎮台兵と交戦。
18日早朝、県庁側、多数の犠牲を出して包囲を突破、岩村権令は県外へ避難。
佐賀県庁(佐賀城)攻略・占拠
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2月16日
・小島為政の断髪の強制を批判した投書「断髪苦情一家言」、「横浜毎日新聞」に載る。
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2月19日
・大久保内務卿乗船のアメリカ船、東京・大阪鎮台兵船団、博多上陸。ここに本営を置く。同日、政府、佐賀県下の暴徒征討の太政官布告。
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2月20日
・陸軍少将野津鎮雄、政府軍率い佐賀城下に進撃。
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2月20日
・イギリス、保守党ディズレーリ、景気対策に失敗した自由党グラッドストンを破って首相就任。
言葉としての「帝国主義」の始まり:
ディズレーリ(任1868、1874~80)は、この頃高まりつつある「小英国主義」(植民地は財政負担を増す重荷に過ぎないとして植民地放棄を唱える立場)を攻撃、植民地支配強化、帝国拡張・団結を主張。
ディズレーリは、1875年スエズ運河株式買収、1877年インド帝国の成立、1878年露土戦争に干渉してベルリン会議でロシアの南下を阻止し一方でキプロス島獲得、帝国主義政策を推進。  
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2月22日
・参謀局設置。局長山県有朋。
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2月22日
・佐賀軍、福岡県境朝日山で迎撃準備。
政府軍(野津少将)と本格的戦闘。
政府軍、佐賀軍の防衛線突破
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2月22日
・高浜虚子、愛媛に誕生。
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2月23日
・東伏見宮嘉彰親王を佐賀征討総督に、陸軍中将山県有朋を征討参軍に任命。
24日、海軍少将伊東祐麿を征討参軍に任命。
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2月23日
江藤新平、征韓党解散命令。船で鹿児島に向かう。しかし、実際には佐賀側の抗戦は続く。
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2月26日
・大前田英五郎(82)、没。
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2月26日
・スペイン、フランシスコ・セラーノ大統領就任。サバーラ立憲派内閣成立。
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2月28日
憂国党降伏。政府軍、佐賀城入城
戦死者は佐賀・政府側双方とも170~180。負傷者は双方とも200弱。佐賀軍捕虜6,327人。29ヶ村1,500戸余が戦火にかかる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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2011年2月26日土曜日

今日の富士山 2011-02-26

横浜市戸塚区からの富士山
季節が春めくにしたがって、横浜から見える富士山のシルエットの鮮明さが、しだいに遠のいてゆく。
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▼朝10時頃の富士山
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▼夕方5時過ぎ
晴天だけれど、西方だけは雲に覆われ、富士山見えず。
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陽が没した上空に飛行機雲

永禄2年(1559)5月~7月 三好長慶の河内侵攻  アンリ2世没   [信長26歳]

永禄2年(1559)5月
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この月
・毛利氏、備中平定を天皇に(将軍ではなく)に報告。
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・スコットランド、宗教改革戦争開始。
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5月5日
・山科言継、稲荷社「深草祭」を見物。
走物と称して駒競べがあり、「馬上五十一騎これあり。馬具足等見事なり」(「言継卿記」同日条)と記す。
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5月12日
・三好長慶、松永久秀を岸和田方面へ出兵させる。
前年11月、河内守護代安見直政が河内守護畠山高政を追放し、これを口実にする。
山城を義輝に奪われた長慶の失地回復戦争として河内出兵が始まる。
29日、松永久秀、岸和田城の十河一存救援に和泉入り。十河勢5千・久秀勢3千、根来征伐に向かう。鉄砲の反撃により退却。
「三好筑前守(長慶)今日芥河へ登城すと云々。泉州十河(一存)前悪(マエア)しきの間、各陣立と云々。」(「言継卿記」5月12日)
これより先、長慶は和泉を治めるため、讃岐の十河一存を岸和田城主とし、讃岐支配は勝瑞城主三好義賢に兼務させている。
長慶は、守護代直政の国主高政追放を怒り、松永久秀に命じ、十河一存と連合して根来寺衆徒に当らせる。
両軍は泉の南部で衝突、鬼十河と云われる一存の軍勢が大敗。
この頃の根来寺は、畿内近国で大和興福寺・近江延暦寺を凌ぎ、最も富裕な寺院と称され、その衆徒には優秀な鉄砲隊が編成されている。
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5月16日
・松平元康(18)、岡崎の家臣に七箇条の法度を下す。       
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5月26日
・三条西実澄、駿河に下向。
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5月28日
・パリ、カルヴァン派(改革派、ユグノー)の宗教会議である第1回全国改革派会議(「全国教会会議」)開催。
「フランス信仰告白」「教会規律」採択(カルヴァン型教会制度が採択)。
反ユグノー運動が盛んになる。
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6月2日
・フランス、アンリ2世、新教徒に対する苛酷な追及措置を命令。
9日、「エクアン王令」により新教徒に対する迫害強化。
10日、宗教改革派減刑に関する大法廷に出席。公会議の召集。改革派弾圧中止を求める議員逮捕。
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6月22日
三好長慶、松永長頼と共に三好全力2万6千で河内侵攻
26日、久秀も合流し、長慶・久秀・長頼、高屋城の守護代安見直政と交戦。双方被害甚大。
三好長慶、榎並城入り。
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久秀の建言により、長慶は兵力を分散せず、三好方一丸となって高屋城を攻撃する作戦に切り替える。
長慶は、畿内分国軍勢を総動員し、丹波八木城松永長頼、播磨別所氏、明石氏、摂津の有馬氏等にも兵役を課し、6月半ば、淀川を渡り河内十七箇所に入る。
この渡河作戦に、長頼は2千余騎にて山崎に駐り、長慶中軍の渡河を掩護。
22日、十七箇所で高屋城から打って出た安見軍と最初の戦闘、直政側の野尻・草部らに大将18人が討死する被害を出し、直政方が引揚げるが、三好軍も討死400人という犠牲を出す。
長慶は、深野池周辺湿地帯での大軍の展開は不利とみて、摂津欠郡へ全軍を移動させ、榎並城に本拠を置く。
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6月22日(28日?)
・フランス王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの長女エリザベート(16)とスペイン王フェリペ2世(36)の結婚。パリ、ノートル・ダム 寺院。フェリペ2世、欠席。ブリュッセルで待機。
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6月24日
・山科言継、あまりの暑さに堂舎で「終日平臥」(「言継卿記」同日条)。
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6月25日
・この頃、シャティヨン兄弟(コリニーとダンドロ、モンモランシー甥)、逮捕。
逮捕理由は、パリで新教徒の暴動を組織するためドイツのルター派君主と共同謀議を働いたこと。
以外にもユグノーを逮捕。
逮捕者にはパリ高等法院評定官アンヌ・デュ・ブールはじめ高等法院メンバーも何人か混じる。
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アンヌ・デュ・ブール:
行きすぎた法の濫用に異議、アンリ2世没後クレーヴ広場で火刑。「炎の中でもイエス・キリストの名を呼ぶ者達を断罪するのは、軽率な行為」と抗議。
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6月26日
・将軍義輝、信玄の越後侵入の報により信玄追討を景虎に命ず。
同時に関東管領就任内定(上杉憲政は越後に匿まわれている)。
「上杉憲政から関東管領の職を譲られるのを認める」御内書を受け取る。
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将軍義輝が長尾景虎に裏書省略・塗輿を許し、関東管領上杉憲政の補佐を命じる。
また、信濃出兵に名分を与える。
更に、宗麟が義輝に献上した鉄砲と火薬調合の秘伝を与える。
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永禄2~4年、義輝は諸大名に幕府権力回復への協力を働きかけ、この報奨として鉄砲を贈る。
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義輝の舞台廻し役、大友宗麟(立花説):
①天文中期:イエズス会と結託したポルトガル商人が宗麟を仲間に引き入れる。
②天文中期:宗麟は義輝に鉄砲他献上品を介し帰洛を実現。
豊後府内に滞在するポルトガル商人は堺の日本人商人と結び、宗麟の義輝支援を仲介。
これにより、宗麟は周辺の守護職を入手し領国拡大、ポルトガル商人の貿易活動に貢献する。
③京都周辺では、堺商人の協力により、イエズス会に共鳴する潜在キリシタン公家武士(清原枝賢・吉田兼右・結城忠正)が出現。
永禄元年頃、グループを形成し義輝を支援(永禄元年11月京都復帰)。
④義輝は、永禄2年6月~4年、長尾景虎ら大名に鉄砲を与え軍事を支援、彼等に忠誠を誓わせ幕府再興・強化を図る。
⑤永禄2年11月末ビレラ入京、3年夏頃、義輝から布教許可を得て、京都で活動開始。
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【仮説】立入宗継・磯谷久次を駆使して信長へ第1回決勝綸旨の発給・伝達を実現させた首謀者はイエズス会協力者グループの清原枝賢・吉田兼右。
背後にイエズス会・ポルトガル商人の示唆があるからこそ、この策謀が動かせた。
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6月26日
・大友義鎮、筑前・筑後・豊前の守護職に補任。  
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6月24日
・フランス、アンリ2世姉ヴァロア公女マルグリッととサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトの結婚調印  
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6月29日
・将軍義輝、上洛中の長尾景虎に大友義鎮の献上した秘伝書「鉄放薬方并調合次第」を贈る。
 景虎、帰国。
火薬の原料の硝石は、初めは輸入に頼らざるをえず、中国・インドなどから輸入されていたが、後に、国産の塩硝が産出されるようになり、各大名は、きそって火薬調合の秘法を探知しあう。
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6月30日
・フランス、スペインとの和議でイタリア戦争終結を祝う騎馬試合。会場、サン・タントワンヌ通り。
アンリ2世、スコットランド儀仗隊隊長ガブリエル・ド・モンゴメリーの折れた槍が目に突き刺さり瀕死の重傷。外科医アンブロワーズ・パレが呼ばれたが、お手上げ。
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6月末
・スコットランド、プロテスタント勢が首都エディンバラに入城、指導者ジョン・ノックスは首都の牧師に任命。各地のカトリック教会・修道院が破壊・略奪。
 しかし、皇太后マリー傘下カトリック勢とフランス軍とがエディンバラ外港リースを回復、ここからプロテスタントに反撃する姿勢を見せる。
11月、プロテスタント勢が反撃。前摂政シャーテルロー公を味方につけ、フランス軍拠点リースを攻撃、失敗。
12月、フランス軍がスターリング占領、ファイフ地方に進撃。
プロテスタント勢はイングランド王エリザベス1世に支援要請。
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7月
・毛利元就・隆景・元春、本城常光の石見山吹城を攻撃。
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・三好長慶、河内天野金剛寺へ全3ヶ条の禁制下す(「金剛寺文書」)。
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7月9日
・フランス、真夜中、サヴォイア公フィリベールとマルグリッド(36)、サン・ポール教会で結婚式。重体のアンリ2世の指示。
マルグリッドの事実上の婚資、サヴォイアとピエルモンテ(カトー・カンブレジ条約でサヴォイアに返還されることになったが、実際はフランスが占領したまま)。
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7月10日
アンリ2世(41)傷は脳に達し苦悶の末死亡。幼王フランソワ2世(16)が即位
(フランソア2世妃はスコットランド女王メアリー・スチュワート(16))
権力はギーズ公(ギーズ公フランソワは軍事、弟シャルル(ロレーヌの枢機卿)は財務・外務・内政)。
ギーズ家は熱心な旧教徒、対抗する貴族達は新教に接近。
ユグノー戦争への道が開かれる。
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カトリーヌ・ド・メディシス、永遠の喪に服す(以後「黒衣の女王」)。
夫アンリ2世が没したトゥールネル宮殿を徹底的に破壊(跡地 「ヴォージュ広場」)。
ヴィクトル・ユーゴ「ヴォージュ広場は、モンゴメリーの槍の一突きから生まれた」。
アンリ2世寵姫ディアンヌにはシュノンソーを召し上げショーモンを与えただけ(1566年アネ城で没)。
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カトリーヌ・ド・メディシスの臣下:
①ミシェル・ド・ロピタル(55、1504~1573)、サヴォイア公に嫁いだマルグリッド(アンリ2世妹)の助言者、マルグリッドがロピタルの重用をカトリーヌに依頼。新旧両教徒の対立緩和に努める。ロピタル妻と娘、後に新教徒(カルヴァン派)に転じる。
②フィレンツェ人ゴンディ一族。妻はフランス人(旧姓ド・ピエールヴィヴ)、カトリーヌの財産管理人、シャルル9世養育係。息子アルベール・ド・ゴンディ、後のレッス元帥。
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スコットランド儀仗隊隊長ガブリエル・ド・モンゴメリー、アンリ2世の不逮捕命令にも拘らず逮捕、まもなく釈放、イングランド逃亡。カルヴァン派首領となりフランスに舞い戻り、ノルマンディ地方を荒らす、逮捕。1574年「反逆罪」でパリのクレーヴ広場で斬首。
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フランソワ2世(1544~1560、位1559~1560):
ひ弱、醜くく、病的。呼吸器官に異常、常に口を開いて涎を垂らす。頭が悪く、いつもイライラ。妻メアリ・スチュアートを溺愛。
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・外戚ギーズ家、実権掌握
(フランソワ2世妻メアリ・スチュアート、ギーズ公フランソワ姪(妹マリーの娘))。
①ギーズ公フランソワ(40、1519~1563)、「国王総代理官」。本来はナヴァール公アントワーヌ・ド・ブルボンが就任するポスト、カトリーヌが嫌った。
②ロレーヌ枢機卿シャルル(ギーズ公フランソワ弟、35、1524~1574)。ディアンヌの元愛人、非凡な行政官・外交官・政治家、事実上の「首相」。
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モンモランシー父子、権力から遠ざけられる。父アンヌ(67、1493~1567)。息子フランソワ(29、1530~1579)。        
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新教派:
①シャティヨン3兄弟(モンモランシー甥(妹ルイーズ息子)。オデット(シャティヨン枢機卿、長男)。
②コリニー(次男)、ガスパール2世、フランス提督(40、1519~1572)、1557年サン・カンタン敗北後、捕虜生活中、新教(カルヴァン派)に改宗。アンリ・ダンドロ (3男)。
③ブルボン 一族。ナヴァール公アントワーヌ・ド・ブルボン、アンリ4世父。妻ジャンヌ・ダンブレ、ナヴァール王妃マルグリッド(フランソワ1世妹)の娘。ルイ・ド・コンデ(29、1530~1569)、アントワーヌ弟、初代コンデ公。新教徒の「首領」、エレオノール・ド・ロワと結婚(コリニー姪、モンモランシー妹ルイーズの孫、ロワ伯爵夫人娘)。モンパンシエ公、ブルボンの分家。
④テオドール・ド・ベーズ(カルヴァンが、ナヴァール王妃ジャンヌ・ダンブレの許に派遣)、(40、1519~1605)、ジュネーヴ大学学長、ジュネーヴ教会でのカルヴァンの後継者。フランスの改革派教会を指導、正統カルヴァン主義の確立に重要な役割を果たす。
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7月22日
・三好長慶、高屋城の安見勢(河内守護代)と再戦。安見勢、完敗、飯盛城へ逃亡。
24日、城4ヶ所陥落(「言継卿記」)。
29日、長慶2万、榎並城より喜連へ移動。安見、飯盛城より大和へ逃亡。久秀、伊丹親興と共に大和入り。    
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22日、安見直政は遊佐三郎左衛門尉を大将とする一軍を繰り出すが、これを長慶被官の池田出羽守が迎撃し、三郎左衛門尉は討死、河内将校の首級21を上げる。
安見側は足軽部隊出撃ができなくなり、また高屋城への帰路は紀伊から出動の畠山高政に塞がれ、安見直政主従は飯盛城へ奔る。
29日、長慶は2万を榎並より南下させ、喜連(東住吉区喜連町)・杭全(東住吉区平野宮町付近)に移陸させ、この掩護によって、畠山高政は高屋城に入ることができる。飯盛寵城中の安見・丹下らは大和に逃亡。
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鎌倉 東慶寺の梅 まんさく 福寿草

正月明けからの仕事が一段落しましたので、昨日(2月25日金曜日)、お休みをとりました。
懸案の歯医者さんを午前中に済ませて、お昼頃から鎌倉に出かけました。
この日、気温21℃、4月下旬なみ。
そして、強風。
今朝の新聞によると「春一番」だったとのこと。
日頃、花粉症には無縁だと思ってましたが、源氏山の山中を歩いていると、何だか目がかゆくなってきました。
風のせいならいいんだけど・・・。
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さて北鎌倉の東慶寺。
さすが、人気のあるお寺だけあって、ウィークデイというのに人出は多い。
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▼梅はまだまだこれからがピークだと思います。






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▼まんさく
手入れよく、形よく、咲いています。
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▼福寿草
大ぶりの福寿草がたくさん咲いています。
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この後、源氏山を越えて、銭洗い弁天、鶴岡八幡宮、大巧寺を拝観し、帰途につきました。
3時間超のコースでした。
夜、飲み会。
帰宅、午前2時。
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「★鎌倉インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 「★寺社巡りインデックス」
をご参照下さい。
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永井荷風年譜(1) 明治12年(1879)12月3日 荷風誕生 家族、生家のこと

先に「永井荷風略年譜(1)」を掲載しましたが、もう少し詳細版に改訂して再掲載します。
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永井荷風年譜
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明治12年(1879)12月3日
東京市小石川区金富(カナトミ)町32番地(のち45番地、現、文京区春日2丁目20番1号)に内務省衛生局事務取扱の永井久一郎(満26歳、号禾原・来青閣主人)、恒(つね)の長男として誕生。
名は壮吉。
久一郎は、この年2月5日、東京女子師範学校訓導から内務省衛生局事務取扱(准奏任御用掛)に任じられている。
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永井家の家系:
その祖は大江氏。
徳川家康に仕えた永井右近大夫直勝の庶子久右衛門正直に始まる。
正直は塩業に従事し、五代目正次の時代に塩の販売や米の延取引に従って家産を築く。
八代目の匡遄は星渚と号し徂徠派の学に優れ、「野の大儒」として郷党を導く。
十代目の匡儀は士前と号し俳許を能くする。男子がなく娘より(因)の婿として、丹羽郡小折田新田の土田弥十郎の長男君儀・熊次郎を迎え、これが十一代目の匡威となる。
匡威は、芝椿と号して俳句を好む。維新以後一時、三重、京都の地方税吏を勤め、妻のより(因)との間に六男二女を儲けている。
その長男が、荷風の父、匡温(まさはる)・久一郎。
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父久一郎:
嘉永5年8月2日、尾張国愛知郡牛毛荒井村に生まれる。
12、3歳から漢詩を賦し、知多郡大高村長寿寺住職の青木可笑や尾張一ノ宮の医家から出た森春濤に学ぶ。
維新の年、鷲津毅堂が名古屋へ来たとき、その塾生となり、毅堂に従って京都に行く。
明治2年、師と共に上京、箕作麟祥の塾に洋学を学び、後、慶応義塾に転じる。
また、この頃、大沼枕山にも漢詩の指導を乞うているが、毅堂の曾祖父(鷲津幽林)の長子で竹渓と号した漢詩人が大沼家に入って、枕山はその子息である
(久一郎と鷲津家との縁故には浅からぬものがある)。
明治3年(1870)、貢進生として大学南校に入る。
同4年(1872)7月、アメリカ留学を命じられて出発、プリンストン大学、ニュープランズウィツクのラットガス大学やボストンの大学など修学し、明治6年(1873)に帰国。
翌年より工部省、文部省に出仕、やがて東京女子師範学校教諭兼幹事に補せられる。
明治10年(1877)3月頃、鷲津毅堂の二女恒16歳と結婚(明治10年7月10日に入籍)、小石川区金富町32番地に新婦を迎える。
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内務省衛生事務官、帝国大学書記官、文部省会計局長を勤めた後、薩摩・長州出身者がハバをきかせている官界に限界を感じたか、明治30年、満44歳で日本郵船会社に移る。横浜支店長、上海支店長を歴任。
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久一郎の兄弟:
次弟は冬季三郎(家督継承、長男に松三=素川)、
三弟は釤之助(阪本家に入り、長子に詩人阪本越郎、落胤に高間芳雄=高見順)、
五弟は久満次(大嶋家に入り、長男に一雄=杵屋五叟)。
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母恒
文久元年(1861)9月4日、尾張国丹羽郡丹羽村に父毅堂鷲津宣光、母美代(川田氏)の二女。
毅堂には四男二女があったが、長男精一郎、三男俊三郎、二女恒の他は天折。
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鷲津毅堂:
尾張藩主徳川義宣の侍講。
維新以後は、太政官権弁事、登米(とよま)県権知事を経て、司法省に出仕し、司法少書記官から司法権大書記官となる。
東京学士会院会員。
下谷竹町23及24番地に邸があった。
夫人美代は継室であるが、晩年自由キリスト教を信じ、普及福音教会に属した。美代の感化を受け、恒も入信し、明治21年(1888)12月30日、普及福音新教伝道会で受洗。
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久一郎と恒の間に三男一女がある。
長女は明治11年(1878)6月3日に生まれるが天折。
長男壮吉、
二男貞二郎(明治16年生、牧師(下谷教会設立)、鷲津氏を継ぐ)、
三男威三郎(明治20年生、農学博士)。
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荷風の生家:
(生家跡はコチラ)
羽振りのよい官員、父久一郎が、没落階級である旧幕時代の御家人や旗本の空屋敷の三軒ほどひとまとめに買い取り、古びた庭園や木立はそのままに、広い邸宅を新築したもの。
そのため邸内には古井戸が二つもあって、一つは埋められたが、残る一つとその傍にあった柳の老木が幼い日の荷風には恐怖の対象となった。

「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処此処に売物となっていたのをば、その頃私の父は三軒ほどを一まとめに買い占め古びた庭園や木立をそのままに広い邸宅を新築した。
私の生れた時にはその新しい家の床柱にもつやぶきんの色のややさびて来た頃で、昔のままなる庭の石には苔いよいよ深く、樹木の蔭はいよいよ暗くなっていた。
その最も暗い木立の奥深いところに昔の屋敷跡の名残だという古井戸が二ツもあった。
その中の一ツは出入りの安吉という植木屋が毎年手入する松の枯葉、杉の折枝、桜の落葉、あらゆる庭の塵芥を投げ込み、私が生れぬ前から五、六年もかかって漸くに埋め得たという事で・・・

井戸の後は一帯に、祟りを恐れる神殿の周囲を見るよう、冬でも夏でも真黒に静に立っている杉の茂りが一層その辺を気味わるくしていた。
杉木立の後は忍返しをつけた黒板塀で、外なる一方は人道のない金剛寺坂上の往来、一方はその中取払いになってくれればと父が絶えず憎んでいる貧民窟になっていた。
もともと分れ分れの中屋敷を一つに買占めた事とて、今では同じ構内(カマエウチ)にはなっているが、古井戸のある一隅は住宅の築かれた地所からは一段坂地で低くなり家人からは全く忘れられた崖下の空地である。
母はなぜ用もないあんな地面を買ったのかと、よく父に話をしておられた事がある。すると父は崖下へ貸長屋でも建てられて、汚い瓦屋根だの、日に干す洗濯物なぞ見せつけられては困る。
買占めて空庭にして置けば閑静でよいといっておられた。
・・・ 年の碁が近づいて、崖下の貧民窟で提灯の骨けずりをしていた御維新前の御駕籠同心が首をくくった。
遠からぬ安藤坂上の質屋へ五人組の強盗が押入って十六になる娘を殺して行った。
伝通院境内の末寺へ放火をした者があった。
水戸様時分に繁昌した富坂上の辰巳屋という料理屋がいよいよ身代限りをした。
こんな事をば出入の按摩の久斎だの、魚屋の吉だの、鳶の清五郎だのが、台所へ来て、交る交る話をして行ったが、しかし私には殆ど何らの感想をも与えなかった。・・・」(「狐」明治41年11月稿)
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「十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。
その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる頃には更に一番町へ引移った。
今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。」(「伝通院」)
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「寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。
巴里にノオトル・ダアムがある。浅草に観音堂がある。それと同じように、私の生れた小石川をば(少くとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院である。
滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。
伝通院の古刺は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。
小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。
東の方は本郷と相対して富坂をひかえ、北は氷川の森を望んで極楽水へと下って行き、西は丘陵の延長が鐘の音で名高い目白台から、『忠臣蔵』で知らぬものはない高田の馬場へと続いている。

この地勢と同じように、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刺を中心として、常にその周囲を離れぬのである。

・・・ 「安藤坂は平かに地ならしされた。富坂の火避地(ヒヨケチ)には借家が建てられて当時の名残の樹木二、三本を残すに過ぎない。
水戸藩邸の最後の面影を止めた砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら取除けられ、古びた練塀(ネリベイ)は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門はもう影も形もない。

・・・ 「夕碁よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森蔭に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の囁き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階(キザハシ)に休めさせる。
その度に堂内に安置された昔のままなる賓頭盧尊者(ビンズルソンジャ)の像を撫ぜ、幼い頃この小石川の故里(フルサト)で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人たちは今頃どうしてしまったろうと、そぞろ当時の事を思い返さずにはいられない。・・・」(「伝通院」明治43年7月)
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母について:(後年の永井荷風をはぐくんだ素地が母によってつちかわれた)
「江戸の生れで大の芝居好き、長唄が上手で琴もよく弾きました。」
「私は忘れません、母に連れられ、乳母に抱かれ、久松座、新富座、千歳座なぞの桟敷で、鰻飯の重詰を物珍しく食べた事、冬の日の置炬燵で、母が買集めた彦三や田之助の錦絵を繰り広げ、過ぎ去った時代の芸術談を聞いた事。」
「私は母親といつまでもいつまでも、楽しく面白く華美(ハデ)一ばいに暮したいのです。私は母の為めならば、如何な寒い日にも、竹屋の渡しを渡って、江戸名物の桜餅を買って来ませう。」(「監獄署の裏」)
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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2011年2月25日金曜日

京都 四条大橋から三十三間堂へ(6) 京都国立博物館(明治28年) 養源院 法住寺 智積院

三十三間堂周辺について。
但し、この時は時間の制限があり寺院、施設には入らずに素通りしましたので、ご紹介は外観だけです。
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▼三十三間堂の前、七条通りから見る京都市街
この辺りは、東山にかけての坂の途上にあり、京都の街が見渡せます。
正面は愛宕山。
平家の六波羅や後白河の法住寺御所が、鴨川の氾濫の影響をうけない地帯に置かれたということがわかる。

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▼京都国立博物館(明治28年)
三十三間堂の向いにあります。
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▼養源院
文禄3年、淀君が父浅井長政の追善のため、秀吉に願って開山。
養源院とは、長政の法号。
元和5年(1620)、火災により焼失するが、2年後、徳川秀忠夫人崇源院(淀君の妹、長政の三女)により再建。
「崇源院」は、要するに「お江」さんのこと。
下の写真右側に「血天井」の看板があります。
関ヶ原の戦いの前、西軍が、伏見城を守る徳川方の鳥居元忠を攻めた際、元忠以下が奮戦の末に自害した板間を天井に使ったといわれるもの。
中学生の頃か、一度来たことがある。
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門を入ってしばらくは参拝料フリーです。
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▼法住寺
今は、後白河のお墓があります。
後白河は、平家の六波羅に近い、もともとこの地にあった法住寺を核にして、周辺の施設、民家を追い出し、白河院や鳥羽院を真似て、離宮をつくります。
要するに遊び場ですね。
それは、まだ自分の子の二条天皇の親政の時期です。
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下の地図は三十三間堂にあったものですが、この地図の西四足門とある辺りが下にあるお寺の門の辺りではないでしょうか。

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▼智積院(ちしゃくいん)
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「★京都インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年2月24日木曜日

東京 北の丸公園 アセビ(アシビ、馬酔木)咲く 梅 マンサク

今日(2月24日)は一日中、小雨が降ったり、止んだり、陽がさしたり、の繰り返しのヘンな天候。
しかし・・・、暖かい。
朝の通勤時、もうコートを着ていない人を何人か見かけた。
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▼アセビが満開
ツツジ科。
スズランみたいなかっこうです。
馬が葉を食べてフラフラになったことから、「足しびれ」 → 「アセビ」 と変化したらしい。
アシビともいいます。

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▼北の丸の梅は、他の木に囲まれた林の中にあり、陽があたらないせいか、貧弱(にみえる)。
また、少しでも陽のあたるところを求めてか、ずっと高い所に咲いている。
更に、手入れが悪い(ように見える)。
そんな劣悪な環境の下で、ようやく花の数も増えてきた。

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▼これまで気がつかなかった場所でマンサクを見付けた。
武道館の前の駐車場の脇、ロウバイのとなり。
花は以前にご紹介したものに比べて、かなり大ぶりです。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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2011年2月23日水曜日

東京 江戸城の桜 カンザクラ(寒桜) リュウキュウカンヒザクラ(琉球寒緋桜) ツバキカンザクラ(椿寒桜) カワヅザクラ(河津桜)

今日(2月23日)、春のような陽気の中で、江戸城の桜をざっと見てきました。
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▼カンザクラ
既にピークは越えています。
まだ蕾もありますが、散った花もかなり見られます。
本丸休憩所の前です。
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▼リュウキュウカンヒザクラ(琉球寒緋桜)
蕾ふくらむといったところ。
沖縄では1月中旬に満開になってます。
この桜は、琉球王朝が成立する頃、日本で言うと室町時代初期に、中国福建省から台湾経由で琉球王朝に渡来した桜が、野性化したものという。
江戸時代に、薩摩藩から幕府に献じられたといわれる。
松平定信が編んだ桜譜「はなのかがみ」に「薩摩緋桜」という名で登場する。
また、定信の下屋敷、築地の浴恩園ではこれを植栽していたそうだ。
桜の中では開花期間は最長といいます。
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▼ツバキカンザクラ(椿寒桜)
琉球の寒緋桜とヤマザクラなどの品種の桜が交配して生まれたもの。
こちらはもう開花してます。

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▼カワヅザクラ(河津桜)
こちらは、寒緋桜を親として人工交配で得た実生の桜から、自然交配で生まれた新種ということらしい。
満開です。
北の丸公園のものに比べると、花の数が少なく疎らです。

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▼こちらは、梅。
梅林坂だけでなく、諏訪の茶屋の脇にも立派な梅がさいています。
但し、これ以上近づけません。
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「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
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